第25話 『声。言葉』
フラフラする。ふらり、ふらり、ゆらり。
重たい頭が心地いい。熱に浮かされているみたいだった。
掠れた呼吸の音がする。荒い呼吸の音がする。混じって、楽しそうな笑い声が聞こえて来た。
はは、ははは、ははは。
声はとても楽しそう。同時に少し苦しそう。もがくたびに腕に何かがぶち当たり、何かが割れる音がした。
手の甲が暖かい。びしゃり、と気持ちが悪い音がした。
小首を傾げながらそれに舌を這わせる。ケチャップが少し苦くなったような味がした。
不思議と不快ではない。むしろ、美味しいって思うくらい。
舐めたそれからは微量だけど魔力が漂っていて。身体に入れた途端、ほんの少し火照りだす。
体が熱い。体が疼く。もっと、もっと欲しくて。目の前で震えだす何かにかぶりついた。
歯ざわりは次第点。舐めた感じもそこそこいい。ただ鼓膜を甲高い声が揺らすのが不満で、腕を横薙ぎに一閃。嫌な音は聞こえなくなって、ただそれを夢中で貪る。
「────────」
背中に激痛が走った。痛い。痛いなぁ、もう。
くらり、くらくら。揺れる視界を擦りながら、地面に八つ当たり。
くらくら、くらり。揺れているのは私の頭じゃなかった。なんだ、この地面の方か。そりゃあ、揺れが収まらなくて当然だ。
この揺れは嫌い。内蔵が掻き回されて気持ち悪くなる。余計に何か腹が立って、強く地面を踏み抜いた。
「────────」
何かが身体にしがみついて来た。邪魔。
腰にしがみついたそれに指を突き刺し、持ち上げ、強く降る。
また奇妙な声が聞こえて、破裂音がした。だから、この声は嫌だって言ってるのに。
怒りに任せて腕を振る。それだけで視界が悪くなって、地響きがした。
ああ、ああ。こんなに気分がいいのに、なんでこんなにモヤモヤするんだろう。
◇◆◇
部屋に満ちるのは沈黙だった。白雪の表情は見事に固まり、口元が歪んでいる。
「……ごめんなさい、そんな顔するのも仕方ないですよね」
「ああいや、アタシがその……ボキャブラリー貧相なだけで」
俯く天音の呟きに、白雪は手を左右に必死に振る。
また沈黙が流れて、耐えきれずに流れをうち切ろうと話し始めたのは澄人だった。
「まぁなんやかんやあって、それでどうなったかってのが────」
語り手は、天音に変わり澄人へ。
時は、再び一年前に遡る────
◇◆◇
揺れる地面。鳴り響く轟音。甲高い笑い声。
騒ぎを聞きつけ澄人が第一学生寮に着いた時には、そこは地獄絵図と化していた。
「……ひでえな、こりゃ」
思わず苦笑まじりに呟く。なおも目の前の状況は変わり続け、瓦礫の下から笑い声の正体が飛び出した。
────それは、鬼。
額から一本のツノを生やし、口元を真っ赤に染めながら笑う少女。名前は天野天音だったと澄人は記憶している。
少女の身体からはかなりの量の妖力と狂気が漂い、野次馬たちをも震わせる。
天を仰ぎ、叫びを上げ、血肉がこびりついた両手を掲げながら笑う天音。否、アレはもう天野天音ではない。ただの妖魔だ。
つり上がった口元をそのままに、天音が視線を野次馬へ向ける。その殺意と狂気と恐ろしさに、思わず野次馬たちは逃げ出した。
「脱兎のごとく……いやまぁ、これじゃ仕方ねーだろうけど。どーすんだこれ」
澄人の言葉に応えるものは居ない。その場では、澄人と天音のみが息をしている人間、その全てだった。
「俺もさっさと逃げたいところなんだけど……」
澄人しかいない。その事実が澄人の足を地面に縫い付けて、離さない。
「逃げたい、ところなんだけど────」
言葉を放つ澄人の表情は苦しげで。歩き出そうとする足は未だ天音の方を向いている。
「────ああ、もう! そうね、ここにいんのは俺だけね!!」
叫ぶ。ここで逃げられたならどれだけ楽だっただろうか、と。思いはするが後悔はしない。
「あんなに苦しそうな表情されて、放っておける方が恥ずかしいってもんだろ!!」
楽しそうな笑いの合間に、天音から苦しそうな声が聞こえてくる。
笑顔を浮かべているのに、度々顔をしかめ、泣きそうな顔をするのだ。
だからここで見捨てるわけにはいかない、と。ため息と共に吐き捨てる澄人だが、そんなのは言い訳に近かった。
『私は人間と妖怪の間に本物の平和を作るため────』
オリエンテーションの彼女の自己紹介。それが脳裏から離れてくれない。
人妖の平和。そんなものを本気で願う彼女がこんなことになるなんて、悔しくて悔しくて仕方がなかったから、
「なんでいっつもこう、頑張ってるヤツが無駄な苦労をしなくちゃならねぇんだっての!!」
息を長く吐き、その力を解き放つ。
鳴りを潜めていた妖怪の血が沸騰し、喝采をあげ、喜んで澄人の体に力を流し込む。
変化が生じたのは右腕だ。右腕が獣のようなソレ、大きさは二倍三倍はくだらない程に豹変し、その拳を構える。
同時に、天音の視線が跳ねるように澄人へと向いた。
否、体は事実跳ね上がっていた。
妖魔の領域に一歩足を踏み入れている天音は、本能で理解したのである。
澄人が自分には到底かなわない相手だと。
しかし無情にも澄人は駆け出す。まずは天音の戦意と意識を刈り取るために、一撃。
「ら、ぁ!!」
気合いの声が辺りに響く。暴風にハリボテと化した第一学生寮は悲鳴をあげ、かろうじて立っていたソレは崩れていく。
視界を埋めるのは砂埃だ。しかしそれはすぐさま飛び散り、二人────人外二体の姿が現れた。
拳を振り抜いた澄人。澄人の拳は確実に天音をとらえ、殴り飛ばした。
拳を前に突き出し、構えている澄人の先には膝を突く天音の姿。四歩ほど下がったその先で、天音は肩で息をしながら澄人を睨みつけていた。
天音の両腕は骨が砕け、へしゃげている。流石に澄人も加減が足らなかったか、と口元を歪めるが、そんな思いはすぐに頭を引っ込める。
一瞬。一瞬だ。たった一瞬でだらん、とぶら下がっていた腕が音を立てて再生し、悔しげに拳が握られたのだ。
「おいおい、そこまで堕ちてんの……? 戻ってきてくれるよな、これ!!」
掴みかかってきた天音を、紙一重で躱す。これ以上回復の妖術を使わせても状況は悪化するだけだ、と。奥歯を噛み締め思考を回す。
「何かないか、何か……何か、何か!!」
次々と襲いかかる天音の腕。澄人の首を狩るような右腕、動きを止めようと足に襲いかかる爪、意識を刈り取ろうと腹に襲いかかる拳。全部を躱し、時に受け止めながらも思考は回り続ける。
「何か────」
長く伸びた爪が頰を掠める。同時に澄人の視線が、天音のある一部分に吸い寄せられた。
額から伸びている、一本のツノ。そこからは異様なまでもの妖力が溢れ出ていて、ソレをどうにかすればなんとかなるんじゃないか、と。澄人は天音から距離を取り、拳を構える。
「少し我慢しろよ天野天音!! 今それ叩き折ってやるからな!!」
叫び、再び拳を振り抜く。
剛風を纏った風は妖力を放つツノめがけて吸い寄せられ、
「……やば、マズった!?」
叩き折ることなく、そのツノを額へと押し戻してしまった。
衝撃にやられ地面を転がり、呻き声を漏らす天音。焦ったように澄人は駆け寄って、その身体を起こした。
「おい天野、天野!!」
「ぅ、ぁ、あ────!!」
声を上げ、澄人の腕の中から天音が転がり出る。勢いを殺さず地面に四肢をついて睨みつける天音────そのツノがあったはずの額からは妖力が溢れ出ていて、身体に支障もなく澄人はひとり胸をなで下ろす。
「わたし、は────」
溢れ出る妖力。ほんの少し血が滲む額を抑え、呻きに言葉が混じっていく。
「私は、私は……、ただ認められたかっただけなのに。居場所が欲しかった、だけなのに」
それは心からの天音の吐露。心の奥底からの叫び。
言葉にはさらに嗚咽が混ざり、奥歯を噛み締めながら涙を流す。
「私は平和が欲しかった。平穏を求めてた。だからそのために足掻いて、必死で走ってた、だけなのに……」
澄人はその言葉に応えない。ただただじっと見つめ、その言葉を聞いている。
相槌を打つこともなく、静かに。
「なんで、なんでこんなに世界は
溢れ出る妖力の流れは強さを増す。体内の血液は妖怪のソレが蝕んで行き、人である天野天音が死んでいく。
これ以上蝕まれれば戻れない。それがわかっていても、澄人は何も応えない。
「仲間にも利用されてるだけだった。それがわかっていても、私は依存するしかなかった……妖怪側にも、人間側にも私の居場所はない。私が生まれたのが間違いだって言われてるみたいで……みたい、で。つらくて、それで……私は……!!」
涙を流し、膝を付き、地面に額を擦り付ける。
拳を強く握りしめ、奥歯を強く噛みしめる。その天音の言葉に澄人は、
「……頑張ったな」
短く、たった一言。
そう応えた澄人の言葉に、天音の視線が上がった。
「……へ?」
「だから、頑張ったなって。誰にも認められない頑張りも、誰にも認められることがない〝自分〟も。しんどくてしんどくて、たまらなかったろ」
言いながら一歩、唖然とした天音に歩み寄った。
天音と澄人の距離は、残り三歩。
「認めてもらえなかったのが辛かった……何もできねぇのが辛かった。世界ってのは半妖に厳しすぎるんだよな……わかる、すげーわかる。俺もそれに苦しめられたタチだ」
そして、もう一歩。
「大人ってのはずりーよな。ついでに妖怪もズルいんだ。大人も妖怪も、アイツら無駄に声だけはデカいんだ。だから俺たちみたいなちっさな声は、すぐにかき消されちまう」
でも、と。短く呟かれた言葉と共に、一歩。
「だから、なんだ。俺たち、二人の声なら────」
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