05

 静かな広間に、砂地を小枝で掘る音が響いている。

 書き始めてから数分後。ようやく《ドラグマティッド》の術式を書き終えたレティは、椅子に座り一息ついた。

 バッグから、常備しているウェットティッシュを取り出すと丁寧に手を拭いていく。拭き終えると少女は、お菓子袋からチョコチップクッキーの小袋を一つ取り出した。開封してクッキーをつまむと口に運ぶ。全粒粉のザクザクとした食感がおもしろくておいしい。

 物欲しそうなファフニールの視線に気付いたレティは、何も言わずクッキーをその口元に持っていく。黒竜は黙って口を開け、放り込まれたクッキーを味わって食べる。

 互いに視線を交わし、にこりと微笑み合う二人。

 広間は温かな日差しに照らされ、水面は光を反射しキラキラと煌き、そよ風は葉を揺らして美しい音色を奏でる。二人の間にゆっくりとした時間が流れていく。

 クッキーを二人で完食し休憩を終えた少女は、椅子から地面に書いた術式を眺める。その眼差しは真剣そのものだ。

 だが、魔法の理論や概念など、少女はまるで理解などしていない。それでよくガーネットに怒られたりもする。しかし、レティは四元素全ての魔法が使え、しかも光の精霊までをもこの年齢で扱える。竜言語を理解し、禁術を紐解く程の潜在能力。これは単純に持って生まれた才能、まさしく天賦の才だと言えるだろう。


 ファフニールは、自分の為に一生懸命になってくれている目の前の少女を見つめながらも、一人違う風景を見ていた。

 七年前の大戦。その時出会った二人の人間。初めて人間と戦うのが楽しいと思えた、不思議な魅力を持った彼ら。ずっと二人と戦っていたかった。しかし所詮は竜と人。結局分かり合えることなどなかった。

 死闘の末に荒野と消えた二人。その最期、二人が残した言葉『――――』

 今にも消えそうな小さな声で発せられたその言葉が、今でもファフニールの耳に木霊する。


「う~ん」


 どれほどの時間が経ったのだろう。

 回想の間、レティは腕を組み、頭を悩ませ、術式を展開しては書き足したり書き直したり。そうして気付けば日は傾き出していた。


「難しいな~」

「おお、頑張ってるな嬢ちゃん」

「ファフニール、ちょっと時間かかるかも?」

「そうか。まあ、あまり無理だけはするなよ」


 どことなく面影のある横顔を、ファフニールは温かい眼差しで見つめている。

 しばらく術式を見て悩んでいたレティだったが、頭を振ってすっくと立ち上がった。


「やっぱり今日はここまでにする。わち、もう帰るね」


 そう言うと、少女は近くに生えていた植物の葉を千切った。一メートル程もある大きな葉をファフニールの目の前に置くと、レティは持ってきたお菓子袋の中からクッキー、ビスケット、チョコレートにキャンディを取り出す。そして包装をすべて外すと、葉っぱの上にお菓子を並べていく。


「俺にくれるのか?」

「うん。またババに買ってもらうからいいの」


 少女の言葉にファフニールは、口の端から涎を垂らし、瞳を輝かせてお菓子の山を見つめている。

 お菓子を乗せ終えたレティは、椅子に置いておいた魔導書を再びバッグへ納めると、それを肩にかけて黒竜のもとへ歩み寄る。


「また明日もくるから」

「ああ。気をつけてな」


 挨拶を済ませたレティは広間の出口へと歩いていく。ファフニールは起き上がり、それを少し寂しそうな顔をして見送っている。

 言うべきか言わないべきか……黒竜もまた、一人で悩んでいた。



     ◇◆◇◆◇



 ウィルと共に洞窟を出て、そして召喚を解除し、そのまま森を抜けた少女はふと立ち止まる。

 見上げると、綺麗なオレンジ色の空が広がっていた。この広い空を、ファフニールにも見せてあげたい。レティは空を眺めながらも、決意を新たに家路を急いだ。

 しばらく歩くと、やがてガーネットの家の屋根が見えてくる。少女はバッグを左から右へとかけ直し、家に向かって駆け出した。家に着くと玄関のドアを勢いよく開けて中に入る。


「ただいま~」


 しかし、今日は家の中の様子が違った。いつもなら椅子に腰掛けて、魔導書を読んでいるはずのガーネットの姿が見当たらない。少女は辺りを見渡すと、いつもなら置いてあるはずのある物がない事に気付いた。

 それは玄関脇に設けられた、飛行用の箒立ての箒。サイズの小さな箒があるだけで、大きい方の箒がなくなっている。どうやらガーネットは買い物にでも出かけているようだ。

 ちなみにこの小さい箒はレティの物。だが、レティはいまだに箒に乗って空を飛ぶことが出来ない。七歳にでもなれば、大抵のウィッチは箒に乗ることが出来る。しかし、少女はいくら練習しても乗れないため、本人はおろか、ガーネットですら半分諦めている。


 荷物を片付けるため、とりあえずレティは自分の部屋に戻ることにした。トートバッグを机に置き、帽子を脱いでポールハンガーにかける。そしてバッグから、一つにまとめておいたお菓子のゴミを取り出すと、少女はそれを持ってリビングへ戻る。

 キッチンにあるゴミ箱にゴミを捨てると、レティは洗面所へと行き手を洗う。リビングに戻ってきた少女は、食器棚から陶器のコップを手に取り、冷蔵庫の中からオレンジジュースの瓶を出すとコップに注いだ。ジュース瓶を冷蔵庫に戻し、レティは腰に手を当てジュースを一気に飲み干す。するとそこへ、丁度ガーネットが帰ってきた。

 自前の箒を箒立てに立てかけて、ガーネットは大きな紙袋を腕に抱えテーブルへとそれを運ぶ。少女はコップをシンクに置くと、テーブルへと走っていった。


「ババ、なに買ってきたの?」

「ん~? 鳥獣の肉、卵、牛乳、パン、コーヒー、紅茶、魔草に野菜もろもろ……」


 そう言って老婆は、買ってきたものを次々にテーブルへと並べていく。少女は少し不安そうな顔をしてガーネットを見上げる。


「ババ、わちのお菓子は?」

「そんなものあるわけないだろう?」


 ガーネットが冷たく言うと、少女は俯き口を尖らせて拗ねた。それを見た老婆は、にっと笑っておもむろに紙袋の中に手を入れる。

 レティが顔を上げた時、テーブルの上にはお菓子の詰め合わせ袋が置いてあった。


「――あっ……ババ、ありがとう!」


 期待していなかった分感激はひとしおなようで、瞳を輝かせてレティは老婆に抱きついた。やれやれといった様子で小さくため息をつき、ガーネットは少女の頭を撫でる。


「さあご飯だよ。レティ、手伝っとくれ」

「うん!」


 二人はテーブルの上を片付けると、さっそく夕食の準備に取り掛かった。

 ガーネットは野菜を切り、それをフライパンで肉と炒める。その間、別の鍋ではジャガイモを茹でる。レティは食器棚から取り皿を出し、ナイフとフォーク、スプーンと共にテーブルに並べていく。

 肉の野菜炒めが出来上がり、しばらくしてジャガイモが茹で上がると、ガーネットはジャガイモの皮を剥いてボウルにいれ、ポテトマッシャーと共にボウルをレティに差し出す。


「レティ、こいつを潰しとくれ」

「分かったの」


 少女はボウルを受け取ると、テーブルへ持っていき茹で上がったジャガイモを潰す。ガーネットは、輪切りにしたキュウリに塩をかけて水分を絞ったものと、刻んだハムを小皿に乗せテーブルへと持っていく。


「潰し終わったらそれを混ぜて、マヨネーズを入れるんだよ」

「うん」

「それから塩コショウだ」


 ガーネットに言われた通りの手順を踏み、やがておいしそうなポテトサラダが完成した。

 ボウルからそれぞれの小鉢へとポテトサラダを分け、ガーネットは魔草をそのまま、レティは魔草を粉末にしたものを彩りに添える。

 そしてあらかじめ作っておいた、かぼちゃのリゾットをテーブルに運び終えると、ようやく夕食の準備が整った。レティの手伝いもあり、今日は七時前に食べられそうだ。

 二人は揃って席に着き、手を合わせて食事の挨拶をすると、料理に手をつける。


「ああ、そう言えばレティ、いつになったらジャックの手伝いしてくれるんだい」


 サイドボードに置かれたかぼちゃ頭を一度見て、ガーネットは少女に訊ねた。レティはその問いに対し、うーんと唸り腕を組んで悩んでいる。


「やっぱりババがやって」

「なんだい、手伝わないのかい?」

「わち、これから忙しくなるから」

「……そうかい? なら仕方ないねえ」


 心なしか寂しそうな表情で自分の方を向くジャックをしばらく見つめると、レティは視線をテーブルへと戻し食事を続けた。

 老婆は、レティが何か悪いことでも企んでるんじゃないかと気が気でない様子だ。

 感付いてはいるものの、レティに問いただしたところで正直に言うとは到底思えない。少女はこう見えて意外と頑固者なのだ。

 ここはやはり、ルナからの報告を待つしかない。ガーネットはそう思い、少女との食事を続ける。

 やがて食事を終えた2人は、それぞれ別々の行動に移った。ガーネットは食器の後片付け、そしてレティはバスルームへと向かう。少女がリビングのドアを開けて出て行った瞬間、その影からルナが飛び出した。


「ご苦労さん」

「まったくよ、あ~疲れた」


 闇の精霊はそう言ってテーブルに腰掛けると、洗いものをしているガーネットの丸い背中に声をかける。


「でも、随分と円くなったわね」

「だから、なりたくてなったんじゃ――」

「そうじゃなくって、性格とか雰囲気のことよ」

「……そうかい? ところで、レティは今日一日何してたんだい?」


 洗い物を終えた老婆はタオルで手を拭きルナに訊ねると、本棚へと歩いていき古い魔導書を手に取ってテーブル椅子に腰掛ける。

 ルナは小さくため息を吐くと、魔導書を開き読み始める老婆に話をし始めた。


「円くなったのはガーネットだけじゃないみたい」

「ん? どういうことだい?」

「ファフニールよ、ファフニール」

「やっぱり! あの子はあいつの所に行ってるのかい。まったく」


 ガーネットはこめかみを手で押さえため息をついた。案の定、自分の予想していた通りの報告をルナから聞けて、複雑な表情をしている。


「それにしても円くなったって……?」

「おチビちゃんが相手だからか知らないけど、なんか時折切なげに見てたのよねー、あの子のこと」

「ふーん。よく分からないが……それで、レティは奴の所へいったい何しに行ったんだい?」

「それがね……聞いて驚かないでよ。あの子、ファフニールを人間にする為の魔法を作るんだって」

「――はあ?」


 衝撃、というよりは完全に呆れかえっているといった方が正しいだろう。ガーネットは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして固まっている。


「そんなこと出来るわけないだろう」

「でもあの子、竜言語魔法使えるみたいよ」

「……なに!? あれはだって、ドラグナーしか使えない魔法のはずだよ? あの子はウィッチだ。確かに才能があるのはあたしも認めてはいるけどねえ」

「そんなこと私に言われても知らないわよ。しかも火の禁術まで覚えたって」

「まさか……。このあたしですら、メルト・フレアを完成させるのに八年と三ヶ月もかかったっていうのに……レティはあの年でもう使えるのかい……って、また勝手に魔導書読んだのか」

「まあMP足りなくなって、帰りにウィル召喚できないからって断ってたけどねー」

「ん? ウィル? ちょいと待ちな……召喚できるのかい?」


 顔をしかめ眉間に皺を寄せてそう訊くと、ルナはうんと静かに頷いた。


「あの栗頭、あたしに一言もそんなこと言わなかったのに。今度一発、大きいのでも見舞ってやろうか……」


 不敵な笑みを浮かべながら手の平を上に向け、老婆は魔力を凝縮させると直径十センチ程の火球が出現した。小さいながらもその火の玉は、とてつもない熱量を蓄えている。

 これは火の最上位魔法で、メルト・フレアの次にランクされる高難度魔法だ。ガーネットほどの使い手となると、大きさ、効果範囲、熱量などのコントロールが自在に出来るようになる。

 威力としては比べるまでもなくこちらの方が劣るが、このくらいの小さな火の玉なら詠唱なしでも使えるのがこの魔法のメリットでもある。

 ルナは腕を組み、ウィルが一発見舞われる、その現場を想像して顔を引きつらせていた。


「しかし、奴が人間を前にして喰おうとしないのには驚いたね……」

「私もビックリしたんだから」

「……これは様子を見たほうがいいのかどうか……」

「まあ、おチビちゃんも頑張ってるしね」

「あいつを人間になど出来るわけはないと思うが……ふむ、分かった。お疲れさん。こいつは今日の礼だ、受け取っとくれ」


 そう言ってガーネットは、ローブのポケットから五センチくらいの黒い石を取り出した。部屋の照明に照らされているにもかかわらず、その石は光を反射することすらしない。むしろ光が石に取り込まれているかのようだ。

 ルナは瞳を輝かせ、その石をテーブルから前のめりになって見つめている。

 ガーネットが取り出した石こそが、今回のレティ監視の報酬。ルナの好物の魔石、『ダークマター』だ。こんな小さな石ころでも価値は相当高く、闇市などでも滅多にお目にかかることの出来ない稀少品。高価な闇属性の武具製造に欠かせない素材でもある。

 光の速さで暗黒石をひったくると、ルナは慎重に品定めをした。


「うん。けっこう上質な魔石ね」

「それはそうだろう。そこいらのウィッチと同じにしてもらっちゃこまる」

「それもそうね」


 二人が談笑をしていると、風呂からあがったパジャマ姿のレティがリビングへと入ってきた。普段あまり見かけない闇の精霊をテーブルに見つけた少女は、意外そうな顔をしてルナに声をかける。


「あれ、ルナがいる」

「こんばんは、おチビちゃん。久しぶりね」

「うん。それよりどうちたの?」

「どうもしないわよ? それじゃガーネット、そういうことだから」

「ああ、手間かけさせて悪かったね」

「本当よ。じゃあね、おチビちゃん」


 ルナはレティに手を振ると、そのまま闇を纏いながら消えていった。首を傾げてルナの消えた所をただ見つめる少女に、ガーネットは向き直り声をかける。


「レティ、明日も散歩かい?」

「え? うん、そうなの」

「そうかい」

「……? ババ、どうかちたの?」

「ん~? なんでもないさ」


 ガーネットは、再び魔導書を手に椅子に座ると、おもむろに開いて読み始める。

 ――やはりレティはファフニールのもとに行っていた。しかも奴を人間にするための魔法を作ろうとしている。そして人間を前にして襲わないファフニール。昔の奴なら、迷わず喰っていただろう。

 少女への行動予測が当たってはいたものの、ガーネットの心中は複雑そうだ。魔導書を読むふりをしながら、ただ一点だけを見つめてボーっとしている。

 レティはしばらくその様子を黙って見ていたが、明日も早いということもあり、まだ濡れたままの髪を乾かすべく洗面所へと向かった。


 小さな台に上り鏡を見るレティ。壁に吊ってあるドライヤーを手に取ると、スイッチを入れて温風を出す。そしてドライヤーのヘッドを自分に向け、風を髪に当てていく。しばらくして髪を乾かし終えた少女は、スイッチを切ってもとあった場所にそれを吊りかけ、再びリビングへと戻る。

 リビングへ来てみると、魔導書を開いたままガーネットが椅子に座って眠りに就いていた。少女はいったん部屋へ戻ると膝掛けを持ってきて、それを老婆の膝にそっとかける。


「ババ、おやすみ」


 ガーネットを起こさないように、少女は小声で挨拶すると二階への階段をあがっていく。

 部屋へ戻ったレティは、明日の準備を手早く済ませ、机の一番上の引き出しからメモ用紙を取り出した。ペン立てから鉛筆を手に取ると、今日試したドラグマティッドの術式の展開部分を箇条書きしていく。

 その作業を終えるとメモ用紙をバッグに入れ、鉛筆を片付けてベッドへ潜り込む。そうしてレティはくまのぬいぐるみを抱いて、今夜も眠りに就くのだった――。

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