第17話

 ——風が音を鳴らす。


 電線に止まっていたカラスが、一枚の黒い羽根を落として飛び立った。


 その姿は、夕焼けに染まったビル群が落とす影に飲み込まれて消える。



「……どういう事ですか、おばさん。雪菜は……、雪菜は体調が悪いんじゃ無かったんですか?」


 額に汗を浮かべた隣人が、春咲さんのお母さんに恐る恐る尋ねる。

 風邪程度で心配し過ぎだと思われるかもしれないが、今回に至ってはそれだけが原因ではない。


 西村さんは顔面を蒼白とさせ、今にも崩れ落ちそうになる。

 慌ててその身体を支えていると、春咲さんのお母さんは困惑とした表情で続けた。


「そうなんだけどねぇ……。何も言わずに出掛けるなんてこと、今まで無かったのに」


 その言葉を聞いて、西村さんの身体がビクッと反応した。


「西村さん……?」


 唇を震わせ、両の手を顔に当てながら、誰に言い聞かせる訳でも無く彼女は呟く。


「——きっとあの場所に行ったんだ。ゆっきーは、あの廃屋に……っ!!」


 それだけ言って西村さんは弾かれたように走り出した。思わず呆気に取られたが、隣人がすかさずその後を追いかける。

 ——マズい、僕も追わなきゃ。


「すみません、春咲さんのお母さん!春咲さんは僕らが捜してきます!!」

「ちょ、ちょっと!」


 それだけ言い残し、慌てて僕も走る。

 閑静な住宅街を駆けると、すぐに二人の背中を見つけた。

 隣人が西村さんを抑え込んで何やら言い争っている。


「離してっ!離してよっ!!」

「落ち着け西村!!気持ちはわかるが、一度話を聞け!」


 二人に追い付いた僕はすぐに、どうどうと仲裁に掛かった。喧嘩をしている場合ではない。


 興奮状態の西村さんを窘めて、一先ず落ち着いた僕らは路地の真ん中で重苦しい空気を晒していた。

 こうしている間にも時は刻一刻と過ぎて行く。焦りを感じながらも、どうすれば良いかを沈黙の中で必死に考えていた。


「……わかった。俺が雪菜を連れ戻す」


 隣人が決心した表情を浮かべ、握り拳を作る。

 これから一人で例の廃屋へ行くというのだろうか。それはあまりにも無茶だ。


「それならあたしも——」

「いや……、僕が一緒に行こう」


 西村さんの言葉を制して、おずおずと手を挙げる。

 仕方ない。おばけ絡みだとしたら、見えない隣人一人での救出は困難だろう。


 先輩も居ない、僕一人でどうにかできるか分からないが、少なからず戦力になり得るハズだ。


 僕は隣人がバットを担いでいるのを再確認し、互いに顔を合わせて頷く。

 バットは先輩のお墨付きの護身道具だ。何かあればこれで対処しよう。


「二人とも……」


 西村さんは今にも泣き出しそうだった。

 彼女の気持ちは分からなくも無いが、怖いモノが苦手なら今回は危険な目に合うかもしれない。


 道案内が必要だった為それだけはお願いし、後は廃屋の近くで何かあった時の為に待機して貰う事にした。


「……いいよ、あたしに出来る事だったら何でも協力する。ゆっきーの為だもん」


 彼女は涙の浮かぶ瞼を擦り、駅へと急ぐ。

 普段学校で目にしている元気な姿とは大違いで、それはとても真剣な眼差しだった。



 ※※※※※※



 電車の中での空気も酷く重々しかった。


 それはそうだ。本当に春咲さんが何かしらの理由で廃屋に行ったとするなら、こうしている間にも危険が迫っているかもしれない。

 もちろんそうでなければ一番良い。コンビニに買い物に行ったのかもしれないし、元気になって散歩でもしているのかもしれない。


 そう思うのは、僕と彼女の接点が薄いからなのだろう。親友の西村さんや幼馴染の隣人から見ると、只ならぬ事情があったと考えるようだ。


「なぁ、透」

「ん?なに?」


 落ち着かない様子で、電車の手摺りを指の腹で叩いていた隣人が話しかけてくる。車窓から差し込む西日が彼の顔に影を落とし、一層深刻そうな表情に見えた。


「幽霊って、本当に居るのか」

「はぁ……、まぁ僕は何回か見てるしね」


 僕のさり気ない一言に、西村さんは息を呑んで青褪める。

 対して隣人は眉一つ動かさず、そのまま僕の眼を真っ直ぐに見据えて続ける。


「俺は、そんなもの信じていない」

「え、それなら今回の件は何だと思ってるの?」


 まぁ、信じてない人は珍しくない。

 僕だって直に見るまでは、なんとなく疑っていたのだし。


「そうだな……。その廃屋に住んで居る誰かに弱みを握られているとか……"誘拐"、とか」

「——っ!物騒な事言わないでよっ!!」


 西村さんがすかさず反論し、その裂帛の声に周囲の乗客が訝しげな視線を無遠慮に向けてくる。


「そうだよ、今そんな事を言っちゃ駄目だ」

「す、すまん……」


 隣人は右手で頭を掻くと、視線を逸らしてしまった。

 こんなに動揺している隣人は初めて見た。

 人は誰かの為に、ここまで我を失う事が出来るのか。



 その後僕らは無言で次の駅に到着するのを待ち、ホームに降りてからは再び駆け出した。

 一番後ろで走っていた僕は、前を行く二人の背中を何処か俯瞰的に捉えていたのだった。



 ——————

 ————

 ——



 くだんの廃屋は15分程駅から走った場所にあった。

 途中休憩する間も無く走り続けた為、運動部でもない僕の息は絶え絶えだった。


「ここか?」

「……そうだよ」


 膝に手をついていた僕の頭上から二人の会話が聞こえてくる。その声に何とか首だけを持ち上げて、思わず呼吸を忘れる。


「——な、なんだ。この家」


 酸素の供給が唐突に断絶された心臓が、張り裂けそうな程脈を打つ。

 その衝撃に足元が覚束なくなり、思わず蹌踉めいてしまった。


「大丈夫か?」


 そんな声と共に、力強く腕を引き上げられた。

 隣人が咄嗟に支えてくれなかったら、廃屋に進入する前にリタイアしていたかもしれない。

 我ながら情けないな……。


 未だチカチカする視界に再び呼吸を整えると、僕は今度こそ廃屋を見据えた。


 どれだけ手入れされていないのか。それはまるで侵入者を拒むかのように、膝あたりまで生い茂る雑草。

 所々割れたガラスに歪んだ木の柱。


 何より僕の背筋を震わせたのは、不自然に木の板が打ち付けられた二階の窓だった。


「……よく、こんな所に入ろうと思ったね」

「あたしは反対したんだよっ!」


 そりゃそうだ。霊感がある無しに関わらず、この家はヤバいと直感でわかる筈。

 見えてしまう僕の本能が、入る事に対して全力で警笛を鳴らしているのが何よりの証拠だ。


 先輩に連れられて何度か心霊スポットに行ったが、此処まで踵を返したくなったのは初めてだ。


「行くぞ」

「あ、やっぱり行かないとダメ?」


 今更何言ってんだと本気で怒り出しそうな隣人の表情に、僕は急に引けた腰に叱咤を打つ。

 いけない、いけない。想像していたよりずっと恐ろしかった外観に、思わず本音が溢れてしまった。


「そ、それじゃあ西村さん。僕らに何かあったらお願いね。いやほんとお願いします」

「急に頼り無くならないでよっ!」


 背中に突き刺さるツッコミが更に自分を弱気にさせるが、先を行く隣人に内心ビクビクしながらも着いていく。


 開いていた玄関に入った瞬間、隣人は急にその場に立ち止まった。


「どうしたの?」

「……これは」


 屈んで拾い上げたそれは、髪留めのようだった。


「もしかして……春咲さんの?」

「あぁ、間違いない」



 ————何て事だ、ビンゴだ。



 これは最悪の想定だった。

 春咲さんの痕跡が無ければ直ぐに引き返す予定だった。


 空間が歪むような感覚。


 得体の知れない何かが、不気味に蠢きながら這い寄ってくる感覚。


 急速に色を失う景色に比例して、現実味がどんどん薄らいで行く。


 イヤホンのジャックが接触不良を起こしている様な、低いノイズ音が響き渡っているのを幻聴する。


 僕は思わず、耳を塞ぎたくなった。




「————雪菜ぁぁあああッ!!」




 唐突に隣から大声がして、僕は思わず飛び上がりそうになる。

 あろうことか隣人はそのままズカズカと玄関の先へ進入し、春咲さんの名前を呼び叫んだ。


 こ、これが体育会系パワー……。


 その迫力に、芯まで侵食されつつあった恐怖も吹っ飛ばされた。


 ふいに、先輩の言葉が脳裏を過る。



『おばけだって、地獄だって、信じていない人には無いのも同じ』



 ——そうか、隣人はおばけを信じていない。

 電車でのやり取りが本当なら、彼は未だ人間が犯人だと思っている。


 幽霊を有り得ないモノと本気で思っているのなら、逆に好都合なのかもしれない。


 ——大丈夫だ、大丈夫。


 独り言のようにそれを口の中で反芻し、ゆっくり胸に手を当てる。

 先輩が居なくとも、僕だってやれる。


 そう心に訴えかけて、ついに僕らは一階の捜索を開始した。

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