第9話

 意識が戻った直後、強烈な吐き気を覚えたが口元を強く抑えて何とか踏み止まる。


 両の足を立たせているだけでやっとの僕は、手摺りに掴まってフラッシュバックのように連続する凄惨な光景に耐えていた。


「……ちょっと、大丈夫?」


 流石の先輩も心配したのか、そんな言葉を掛けて来る。

 返事をするのも辛い状態だったので、それでも少しずつ引いて行く吐き気を確認してから何とか首だけ縦に振った。


「一時的とはいえ取り憑かれていた影響でしょうね。……私も迂闊だった」


 そう言って俯く先輩に、逆立っていた心が落ち着きを取り戻していくのが分かる。


「もう大丈夫です…………」

「いや、一旦降りましょう。今の状態で現場に行くのはマズいし。聞き込みなら手前の駅で十分だわ」


 未だ胸の中では暗い感情が渦巻いていたけれど、それが幽霊の影響と分かっただけ良かった。

 そうじゃなかったらどんな行動を取っていたのか自分でも想像できない。

 それだけあの光景は、僕の心のずっと奥深くに棘を残したのだった。



 ※※※※※※



 まだ体調が完全に回復しない僕を気遣ってか、聞き込みは先輩が一人でする事になった。

 聞き込みといっても住宅街を往来する人に声を掛けるという至ってシンプルな方法で、先輩は持ってきていた紙袋から腕章とクリップボードを取り出して装備した。


「ただ声を掛けるだけじゃ怪しいからね。今から私達は自治会長と、その副会長。近くで見ているだけでいいから適当に学んでなさい」


 最後に眼鏡を掛けて、髪を捲し上げる。

 ポニーテール姿になった先輩は、早速目の前を歩く青年に躊躇なく声を掛けた。


「すみません、少しお時間宜しいですか?」

「はい?」


 足を止めて怪訝そうにこちらを伺う青年だが、先輩は気にせず続ける。


「私達は近くの学校の校区自治会です。最近この辺りで動物を虐待している人を見かけたという情報が多く寄せられていて、その調査をしています。ここは通学路でもあり、他の生徒に危害が及ぶ可能性もあるので何か思い当たる事がありましたら情報提供にご協力頂けないでしょうか?」


 そう説明する先輩は普段の調子からは想像できない程真面目な生徒といった風で、対する青年もその気迫に押され気味だった。


「は、はぁ。悪いけど特に無いかな」

「そうですか、お時間を取らせてしまいすみませんでした」


 一礼だけして、すかさず別の通行人に声を掛けに行く先輩。

 その随分と手慣れた様子に少し疑問を覚えたが、先輩なら何でも有り得ると思い後に続く。


 そんな調子で聞き込みを続けて、数人目に当たったのは近所に住まうというおばさんだった。

 最初は怪訝そうにしていたおばさんだったが、息子が近隣の高校に通っているという事もあってか世間話を始めてしまう。

 退屈な話に眠気を覚えてしまった僕だが、先輩は意外にも真剣に話を聞き続けた。


 やがて、何かを思い出したといった様子でおばさんは話を切り替える。


「そういえば近所の家に住む息子さんから、庭先で飼っていたワンちゃんが虐待を受けている様子だったわ」


 最近あのワンちゃん、見なくなったわねぇ……と呟いたおばさんに、先輩はビンゴといった様子で僕を横目で見て口角を上げた。


「失礼ですが、どちらのお宅でしょうか?」


 おばさんは噂話を聞いてくれた事に気を良くしていたのか、素直に場所を教えてくれる。

 先輩はクリップボードに挟んだアンケート用紙の余白にそれを書き留めると、お礼をして荷物を片付け始めた。


「意外と早かったですね」

「何処にでも、ああいう噂好きのおばさんはいるものね」


 小さく千切った地図を手元に見ながら、先輩はその方向に歩き出す。


「それで、これからどうするんですか?」


 動物を虐待しているという少年の家に直接行った所でどうにかなるのだろうか。


「確かめにいく。もしその家の不良が犯人の一人なら、行けば分かるわ」


 不敵に笑った彼女の横顔はどこか不気味で、何かを企んでいる様子だったが訪ねる事は出来なかった。


 おばさんが教えてくれた家は本当にすぐ近くで、外見も至って普通の一軒家だった。

 しかしその家を取り巻く雰囲気は何処か重々しく、屋根の上で鳴くカラスにどこか不安な気持ちにさせられた。


「もしこの家の飼犬が虐待によって殺されていたとしたら、その魂の残滓が僅かにでも残っている筈なんだけど……何も感じないわね」

「……死んでいるとは限らないじゃないですか」


 決め付けるような先輩の物言いに、思わず非難するような口調でぶつけてしまう。

 先輩は何とも思わないのだろうか、心無いその理不尽な暴力を。

 それとも僕が考え過ぎなだけなのだろうか。


「……家に何か用?」


 その声に驚いて振り向くと、頭髪を金色に染め上げ、口にピアスを空けただらしの無い少年が立っていた。

 あからさまな出で立ちに僕は少しだけ臆してしまったが、先輩は淡々と少年に訪ねる。


「あなたのお宅でしょうか?玄関先でジロジロとすみません。こちらにいるワンちゃんを最近見かけないなと思って……。通学路でよく見かけていて可愛いなぁと思っていたんですが、どうしたんでしょうか?」


 そう言うと、少年は明らかに狼狽した様子で舌打ちをする。


「――ッチ、お前らには関係ぇねぇだろ。とっとと消えろッ!!」


「早くしねぇとブン殴るぞ」と更に脅しを畳み掛けてくる少年に、先輩は凍てつくような冷たい視線をぶつけた。


「――――近くの川に捨てたり、してないでしょうね」


 先程までの社交的な口調は鳴りを潜め、低い声で直球をぶつけると、少年はついに激昂した。


「人の所有物をどうしようと俺の勝手だろ?アレが言う事を聞かねぇのが悪ィんだよ。自業自得だ!」


 そう吐き捨てて家へ入ろうとする。

 その言葉に僕の胸の内を渦巻く黒い感情が、今にも喉を突き抜けて身体を動かす寸前だった。


 ――先輩は紙袋から何かを取り出すと『カシャッ』という小さな音を立ててそれを素早く仕舞う。


 未だ不機嫌そうな顔でこちらを振り向いた少年だが、何に気付く事もなくそのまま玄関を閉めてしまった。


「気持ちは分からないでもないけど、ちょっとは落ち着いたら?」


 先輩の言葉に、僕はハッとさせられる。

 気が付かなかったのだ。

 握っていた拳は爪で皮膚が剥がれ、解放した後もそれはジンジンと痛んだ。


「先輩……僕は」


 ――――僕は、許せない。


 そう言葉にしようとして、躊躇ってしまった。

 その発言は、余りにも責任のある言葉のような気がしたからだ。

 無関係な自分が虐待を受けている動物の問題に対して、一時的な感情によって何かを唱える事は出来ない。


 ――それでも、それでも


 報われない魂達は成仏する事すら叶わず、あの暗い川底から道行く人を眺めている。

 それがあまりにも悲しい光景に思えて、何も出来ない僕は只々悔しかった。


「まぁ、彼にはこれから沢山後悔してもらうから」


 踵を返す先輩の手元には、先程音を立てた小さな箱が乗っていた。

 ジー……という機会音の後、箱の隙間から一枚の写真が出てくる。

 小箱はポラロイドカメラだった。


「……あんな奴の写真なんて撮ってどうするつもりですか?」


 先輩は写真をヒラヒラとさせて、意地の悪そうな笑みを満面に浮かべる。


「ひみつ」


 それだけ言うと、沈みかけた夕日に向かって彼女は再び歩き始めた。



 ※※※※※※



 黄昏時、僕らはあの心霊写真が撮影された橋の上に居た。

 偶然か、それとも人の無意識がそうさせるのか、周囲には僕ら以外の人影が無かった。

 吹き付ける風は生暖かく、ねっとりと絡みつく様に頰を撫でる。


「来る」


 先輩が呟いたと同時に、首筋を何かが這う様な感覚がして思わず顔をしかめた。


 ――――――――!!


 直後、酷い耳鳴りが襲い掛かる。

 普段なら耳を抑えて蹲ってしまう僕だが、この時ばかりはそう出来なかった。


 ――何も出来ないなら、せめて見届けよう。

 それが唯一、僕に出来る彼らへの餞けだと思ったからだ。


 必死に構える僕の目の前で、風にたなびく制服の胸ポケットから先程の写真を取り出した先輩は叫んだ。


「あんたの飼い主は此処に居るッ!!」


 その声に呼応するかのように、橋の中央辺りの空間が歪んで見えた。


『ぉォ――――――』


 それはまるで地響きのように、身体の芯から震えさせる音だった。


 再び宙に現れた巨大な人間の顔は歪み、醜く、恐ろしいモノで、思わず目を背けたくなる。


「――――これが、人間の業よ。しっかり見ておきなさい。」


 先輩は暗い声で呟くと、写真を手にしたまま橋の隅へと駆け寄った。


 言われなくても、僕はこの光景を目に焼き付けて忘れるつもりなんてない。

 悪意に満ちた世の中の証拠を、その存在を。


 ――例え他の誰もが覚えていなくても。


 先輩はそのまま橋の外へと腕を伸ばし、ゆっくりとその手を離した。

 それはヒラヒラと風に舞って、川底に吸い込まれるように落下していく。


 その写真のすぐ隣には、夕日に照らされた水の飛沫と共に、薄らいで行く巨大な顔があった。


 ――――――――

 ――――――

 ――――



 ――たった二日だったが、とても長く感じた出来事だった。


 呆気にとられていた僕は緊張が抜け、その場へと座り込む。


「解決ね」


 何てことの無いように先輩は言って両手を叩き払う。

 早速帰り自宅を始めるその切り替えの早さには毎度驚かされてばかりだ。


「本当に解決したんでしょうか……。あの写真が水に溶けてしまったらどうなるんですか……?」


 そうなったら僕は再び取り憑かれてしまうのだろうかと心配して訪ねたが、「それは無いわ」と先輩は言う。


「あの写真が消えたら、今度は写真に映っていた彼の元へと行くでしょうね」


 ――なんて人だ。

 彼には沢山後悔してもらう、というのはそういう事だったのか。

 暴言や暴力で訴えかけるより尚タチが悪いじゃないか。


 先輩の言葉に呆れつつも、どこかスッキリとした表情で僕は力無く笑った。


 それにしても……


「自分達に酷い事をした人間の写真に、なんでついて行ったんですかね?」


 最後にそう訪ねると、彼女は写真が流されて行った方を一瞥し、そのまま僕を振り返る事なく呟くようにこう言った。




「一生一緒に居たかったんじゃないの?」




 第2章 心霊写真 完結

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