第8話

 窓から差した日差しに眩しさを覚えて寝返りを打つ。


 ――朝だ。


 何て事のない、当たり前のように毎日訪れる朝を僕は今日も迎える事が出来た。

 結局昨日僕が気を失ってからどうなったのか。

 誰もいないこの部屋で、僕以外にそれを知る術は無い。


 幸いな事に身体に異常をきたしているとか、気が違ってしまった訳でも無さそうだ。

 安堵しつつも、またいつあの恐ろしい巨大な顔が僕の目の前に現れるのか不安で一杯だった。


 それでも学校へ行かなければならない。

 学校へ行き、先日の事を先輩に話さなくてはならない。


 その日差しが何モノかに遮られる前に、僕は急いで身支度を済ませて家を出た。



 ※※※※※※



 道中、僕は常に誰かに監視されているような錯覚をしつつ駆け足で学校へ辿り着いた。

 逸る気持ちを抑えて一番最初の授業を終えた後、僕は真っ先に先輩の教室へと向かう。


「先輩!!」


 教室の外から大声で呼び掛けた僕に多くの上級生の視線が突き刺さるが、形振りなど構っていられる状態じゃなかった。

 一番後ろの窓際に座る先輩はこちらを一瞥し、まるで僕が来るのを分かっていたといった様子で立ち上がるとこちらへと歩いて来た。


「なに?」

「話があります、ちょっと来てください」


 それだけ告げて、先輩の返事も待たずにその小さな手を引く。

 後ろから黄色い声が上がった気がするが、それすらも今の僕には気にしている余裕が無かった。

 そのまま階段の踊り場まで行き、呼吸を整える。


「それで、どうしたの?」

「昨日あの後、僕の家に奴が現れました」


 やけに冷静な先輩に先日の状況を詳しく説明するも、一瞬の出来事だったので話は短く終わった。

 すると、彼女の口から信じられない言葉が飛び出す。


「知っているけど」

「――は?」


 頭が真っ白になる。

 知っているとは?何故??

 疑問を浮かべている僕に、先輩は意地の悪そうな笑みを浮かべて答えた。


「昨日あれだけ接近されて、マークされていない筈がないでしょ?お憑かれ様でした」


 僕は今度こそ愕然とした。

 知っていたにも関わらず、それを僕に伝える事もせずに放置していたのだろうか。


「か、勘弁して下さいよ!どうして教えてくれなかったんですか?!」

「少しくらい慣れた方がいいと思って。それに、アレはあんたの部屋に入る事は出来ない」

「なんで言い切れるんですか!」


 そう言うと、先輩は何が面白いのかそのままの表情で告げる。


「その術を持たないから」

「はぁ?」


 相変わらず意味がわからない……。

 そこでタイミング悪く始業のチャイムが鳴り響く。

 狼狽している僕に向かって、先輩は懐から乱暴に一枚の紙を取り出すとそれを差し出してきた。


「取り敢えずこれを持っている間、アレがあんたに近付く事は出来ないから適当に仕舞っておきなさい。詳しい事は放課後」


 最後にそれだけ言って、先輩は階段を勢いよく飛び降りた。

 柔らかそうな栗色の長い髪を宙に浮かせ、しなやかな足を曲げて衝撃を吸収する。

 今の行動には何の意味もないのだろう、まるで猫か何かのようだ。


 先輩から渡された紙は、どうやらお札のようだった。

 これをどこで手に入れたのか、僕は咄嗟に聞く事ができなかった。

 鼻をかんだ後のティッシュのようなぞんざいな保存状態のそれを受け取った瞬間、手がビリッと痛む感覚がしたからだ。


 ――――――――

 ――――――

 ――――


 ――放課後。


 先輩の言った通り、あれから僕の目の前に巨大な顔が現れる事は無かった。

 それどころか、朝から感じていた背筋が凍るような視線も今や完全に途切れている。

 胸ポケットに仕舞ってあるお札がどれだけ強力な物なのか知らないが、確実に効果があるようだった。


 いつものように自販機で二本の飲み物を購入し部室へ向かう。

 今朝聞きそびれた分も話を伺わなくては。


 そう考えながら部室の戸を開くと何やらごちゃごちゃに入っている紙袋を提げて、出掛ける準備を済ませている先輩と鉢合わせた。


「遅い、もう行くわよ」

「はい?行くって、何処にですか」


 抱えていた缶のうち苺ミルクを先輩に手渡しながら訪ねると、彼女はプルタブを雑に開けて口をつける。

 豪快に一気飲みして満足そうな表情を浮かべた後、きょとんとしている僕に淡々と告げた。


「聞き込み」

「はぁ」


 思わずそんな声が出る。

 一体何を、何処で聞き込むつもりなんだろう。


「そういえば、今朝渡したお札はちゃんと持ってる?」


 もちろんだ、言われなくても手放すつもりなんてない。

 それは今の僕にとって命綱で、これを無くしてはこうして冷静にいられないだろう。


「ちょっとかして」

「わかりました」


 僕は懐から例のお札を取り出すと、先輩に手渡す。

 すると、彼女は信じられない事に僕の目の前でそれをビリビリに破り捨てた。


「何するんですか!」

「まぁまぁ」


 いや、何もまぁまぁじゃない!

 癇癪を起こしかけている僕の肩を叩いた先輩は、まるで子供をあやすような口調で言った。


「もうすぐただの紙屑になるんだから、大丈夫よ」


 知ってはいたが、本当に意地悪な人だ。

 どういう風に生きてきたら、こんな天邪鬼な人に育つのだろう。


 兎に角、そうなれば僕も腹を割るしかなかった。

 何としてでも今日中に問題を解決せざるを得ない状況になったのだから。



 ※※※※※※



 いつも通り詳しい説明を受ける事なく、先輩の背中を追いかけて僕らは前回と同じ橋へと向かう電車に乗り込んだ。

 流石に今回は身の危険もあるので問い詰めると、難しい顔をした先輩はついに口を開いた。


「あれは、人間の幽霊なんかじゃない」

「どういう事ですか?」


 それはおかしい、二度も見たあの悍ましい顔を簡単に忘れられる訳がない。輪郭が歪み、出鱈目な大きさだが、あれは確かに人間の顔をしていた。


「私も最近まで確証に至らなかったんだけど、昨日あんたの目の前に現れたのを実際に見て確信したわ」


 先輩は珍しく緊張した面持ちで、深く息を吸って、吐き出す。


 ――やがて少しの間があった。


 彼女ですら、その答えを出すが難しい相手だったのだろうか。

 固唾を飲んで言葉の続きを待つ僕に、顔を上げた先輩の表情は呆れる程輝いていた。


「あれは、動物の集合霊よ」


 ドヤ顔でそう言い放ち、鼻で息を吐く。

 お宝でも発見したかのように言われても、僕は全然理解出来ないままだ。


「それじゃあ、何で人間の顔をしているんですか?」


 当たり前の疑問を投げつけるも、そんな事もわからないの?といった様子でジト眼を向けてくる。

 今の答えで理解できたなら、僕は将来幽霊を供養するような何かしらの職業に就いている事だろう。

 もちろん、そんな気は毛頭無い。


 先輩は呆れたままの表情で、唐突に問題を出してきた。


「第1問。もしもあんたが猫やら犬を飼っていて、やがて育てるのが面倒になりあのドブ川へ投げ捨てるとしたら、どんな顔をしてその手を離す?」


 胸糞の悪くなるような質問に、僕は思わず腹を立てて語気を荒げる。


「そんな事する筈ないじゃないですか!」

「例えの話よ」


 例え話だとしても、酷すぎる。

 しかし、あの巨大な顔が本当にそういう状況で捨てられた動物達の怨念だとすればどうだろう。


「それじゃあ第二問。もしもあんたがその捨てられる動物側だとしたら、その最期に見るモノは何?」



 ――続いた問いに、僕は言葉を失った。



 騒がしかった周囲の雑音が消え、世界から音が無くなる。

 電車に揺られる感覚すら消え去り、足元が覚束なくなった。


 気が付けば降り頻る雨の中、僕は橋の手すりの外側から大切な人と向き合っていた。

 その表情は、笑っているような、泣いているような、酷くあやふやなモノだった。

 動物の僕にはわからない、人間の表情なんて、難しくてよくわからない。



 ――やがて、僕の身体は自由落下を始める。



 落ちた先はゴミだらけのドブ川で、汚臭と冷たさに踠き苦しむ。

 止まる事なく口から進入してくるゴミと汚水で、僕の喉はすぐに詰まり呼吸が出来なくなった。



 ――――痛い、寒い、苦しい、怖い、暗い


 様々な感情が頭を駆け巡る。

 どうしてこうなったんだろう、どうしてこんな酷い事をするんだろう。


 ――助けて、助けて


 もう言葉すら発する事も出来ず、徐々に薄れ行く意識の中で僕は最期に思い浮かべる。


 ――大切だった、怖かった、憎かった、そんな




 人間の顔を





「そういうこと」


 底冷えするような先輩のその言葉が、僕の耳にいつまでも反響した。

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