第7話

 ――6月の末


 僕らは帰り道とは真逆の電車に乗り込み、心霊写真が撮影された"聖地"へと向かっていた。

 楽しそうに談笑する他校の学生に混じり、野球バットの入ったケースを肩に掛けて車窓から外を眺める。


 都会の川は僕が住んでいた田舎の川と比べてとても汚い。

 透き通る綺麗な上流の川しか知らずに生きてきた為、初めて見た時に「これが川だ」と言われても俄かに信じられなかったのを覚えている。

 ゴミをゴミ箱に捨てるかのように多くの人が色々な物を川に投げ捨てはドブが澱んでいく。

 その見えない川底には動物の死骨なども沈んでいるのだろうか。

 ネズミや猫や鳥、あるいは――


 このドブ川は、そんな混沌とした都会を体現しているかのように思えた。


「もうすぐ到着ね」


 先輩が言うのとほぼ同時に、『――次は、蔵後、蔵後』というアナウンスが車内に響く。

 遠くに行くものだと思っていたが、学校からそう離れた場所でもなかった。


「それで、このバットは何に使うんですか?」


 校舎を出る前に何やら思い付いたような表情をした先輩が「バットを借りてきなさい」と言うものだから、野球部に所属している隣人に頼み込んで借りてきたのだった。


『貸すのはいいけど、何に使うんだ?』

『いやーまぁ……部活で』

『最近変な先輩と連んでいるそうじゃないか、大丈夫なのか?』


 と、訝しげな眼で隣人に心配されたのは言うまでもないだろう。僕だって何に使うのか未だ分かっていないのだから、それ以上答えようがなかった。


 先輩は「護身」とだけ言い捨てて電車を降りる。

 その自由奔放な背中にため息を吐いて僕も後を追いかけた。

 まさかと思うが、幽霊が出たらこれで退治するとでも言い出すんじゃないだろうか。


 ずんずんと先を行く先輩の足取りに迷いなど微塵も感じない。

 彼女は幽霊を少しでも怖いと思わないのだろうか。


 夕方だというのにまだ陽は高く、僕は暑さと少しの恐怖から浮かぶ汗をシャツで拭った。



 ※※※※※※



 駅から早足で5分ほど歩いた辺りで先輩が立ち止まった。

 茹だるような暑さに若干意識が朦朧としていた僕は、その小さな背中にぶつかりそうになる。


「到着」


 言うなり素早く鞄から例の写真を一枚だけ取り出して、同じ構図を探して歩き回る先輩。一方手持ち無沙汰の僕は橋の隅に座り込んで、蒼穹の広がる空を息を整えるのも兼ねて仰いでいた。


「心霊写真か……」


 そう呟くと、先程見た恐ろしい写真が脳裏に浮かぶ。


 この時季になると心霊特番のような番組がTVで放送される事が多くなる。

 毎年惰性で見ていたが、おばけ研究部に所属してからは真面目に視聴する事が多くなった。

 しかし其のどれもが合成や光の反射で偶々映ったと言うような物ばかりで、僅かにも心が動かされるものは無かった。

 昔に比べて規制が厳しくなったせいなのか、それとも心霊写真なんて元々存在しないのか。


 幽霊という、現代の科学を持ってしても確証できない存在に少しだけ触れるようになってから僕の考え方も変わった。

 それでも彼等の本質を捉えた訳じゃない。

 未だに何故、どういう仕組みでこの世に存在しているのかは全くの不明だ。


 ――彼女は知っているのだろうか。

 死して尚この世に留まり続ける、不可解で不気味なその孤独な存在の理由を。

 それでも尚、その存在と向き合い続けているのだろうか。


 ふと、背筋が凍るような感覚がして反射的に先輩の居る場所を見る。

 栗色の長い髪の毛を揺らして、変わらず忙しなく動き回っているだけで何かに気付く様子は無い。

 気の所為か、と心を落ち着けて立ち上がろうとしたその時だった。


 ――目の前に、眼の陥ち窪んだ青白い人間の頭が前触れも無く現れた。


「――――ひっ」


 あまりに突然な事に声も上がらず息を飲み込む。

 腰が抜けて立てない、まずい、マズい――


 先程まで明るかったのに、いつの間にか周囲は深夜のように真っ暗になっていた。

 先輩どころか往来していた人の気配も消え去り、こうしている間にも性別すら判断できないその巨大な人間の頭はゆっくりと僕に近付いてくる。


 輪郭はあやふやで、四角くなったり三角になったりと滅茶苦茶な変形を繰り返しながら迫って来る。

 目や口に当たる部分はマジックで塗り潰したように黒く、深く、長く覗いていれば精神を持っていかれそうだった。


 竦んだ脚から全身へ震えが広がり、意識を手放しそうになる。

 ダメだ、終わる――


 そう諦観して瞼を落とし掛けた僕の視界は、またも唐突に開かれた。


「――うぉりゃぁあ!!」


 ガキンッ!!


 と、金属とアスファルトが激しく衝突する音と同時に、世界が弾けたような錯覚がして眼が眩む。


 ――陽射しだ、周囲に色が戻っている。


「先輩……今のは」

「心霊スポットで眠りこけるなんて、バカじゃないの?」


 ブォン、という風切り音を鳴らして不機嫌そうにバットの先を僕に向ける。


「寝て……?そんな筈は……」


 そう言いながら周囲を伺うと、夕陽が沈みかけている。

 慌ててスマホを取り出し時間を確認すると、到着してから40分程が経過していた。

 おかしい、まだ10分だって経っていない筈だ。


「ッチ、やってくれたわね。アイツ。」


 舌打ちして親指の爪を噛み、心底忌々しそうな表情を浮かべる先輩。


「見たんですか……?」

「えぇ、あんたが取り込まれそうになる瞬間までバッチリね」


 青筋を浮かべて口角を引きつらせている。

 仕事をサボっていた上に、幽霊に取り込まれそうになるなんて失態もいい所だろう。


「人は眠っている間が最も魂とのリンクが薄れるの、肉体が仮死状態になるから。夢を見る要因の一つにもそれが挙げられるわね。兎に角、こういう幽霊が現れる場所で眠るなんて自殺行為もいい所なの。わかる?」


 難しい事を捲したてた先輩だが、それでも僕を心配して叱ってくれているのが分かったので素直に謝る。


「すみませんでした……」

「もういいわ、今日は引き上げましょう」


 どうせ今日はもう現れないし、と最後に呟いた先輩は持っていたバットをケースに仕舞って僕に投げた。

 取り落としそうになるそれをなんとか受け止めて、先を行く先輩の後を追う。

 この背中に僕は助けられてばかりだ、益々頭が上がらなくなる…。


 どこかで蝉の鳴く声を耳にしながら、僕らは帰路へついた。

 道中、どうやってバットを振っただけで奴を退いたのか訪ねてみたが「側からいきなり大声と共にバットを振りかざされたら怖いでしょ?奴だって一緒」と、なんともそのままの答えをされて首を傾げる事しかできなかった。


 揺れる電車内で今後の作戦を軽く立てて、その日はそのまま解散となった。



 ※※※※※※



 家に到着すると僕は疲れからかすぐに眠ってしまった。

 深い眠りの中、先輩の言葉が脳裏で反響する。



『心霊スポットで眠りこけるなんて、バカじゃないの?』


『人は眠っている間が最も魂とのリンクが薄れるの』



 ――――何かを忘れているような気がした。

 ―――とても、大切な何かを…。


 ――そうだ、思い出した。




 〝この部屋はダメだ〟




 次の瞬間、強制的に微睡みから解放された僕は目を見開いた。



 ――――――――――!!



 激しい耳鳴りと視線の先、窓の外に浮かぶ巨大な顔。

 そいつの口端が少しずつ、少しずつ上がっていき、



 最後に確かに笑ったのを見て、僕は意識を手放した。

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