第10話

ゴールという覚醒は、すべて辛苦が報われる。


風に乗った聞きなれたウクレレの音色を啓一は感じた。

アイナハイナ・ショッピング・センター通過。多くのランナーがマクドナルドで休んでいる。啓一もその欲望に負けてフラフラ左右に体がぶれると、ナイスなタイミングでカパラとケイトが待っていた。

カパラはヨシダの爺様に教えてもらった沖縄の「がんばれ節」を景気よくやっている。周りの観客も一緒に手拍子だ。コーラの缶をフォークで叩いてリズムを取る人、曲に合わせて口笛を吹く人、踊る人・・・カパラが叫んだ、

「ケイイチ、ここまで二時間四十九分だよ。立派だ、最高だ」

そう言ってペットボトルに入っている半分凍った水を啓一の頭からかけた。啓一の火照った体がキンとなった。気持が良かった。

「ヘイ、ケイイチ!ガンバレ!」

という声が方々から聞こえる。カパラやケイトの声援に周りが呼応したのか、TVのキャシーの力かそれはわからない。


「まだ、頑張るか?」

カパラが冷静に聞いた。

「もちろん、当たって砕けろだよ、カパラ」

啓一の瞳は、ギラギラに輝いていた。

その瞳に、カパラは立派なアスリートの覚醒を見た。サーフィンだって同じだった。サーファーがとてつもない大きな波に対峙し、恐怖で体が硬直していても、精神は覚醒して大きな波に吸い込まれるように飛び込んでいく心理。サーファーは、その恐怖の扉を開ければ一線を越えた「何か」が掴めた。マラソンにも、サーフィンにも、多分あらゆるスポーツには一歩先を行くために恐怖、疲労、緊張、死をも超えられる「覚醒の哲学」が間違いなく存在する。今、啓一はその覚醒の哲学の扉を開けている、とカパラは思った。

カパラとケイトの結婚のため。ジェーンに良いところを見せるため。父の背中を追うため。自分のため。動機は何であれ、覚醒を知ったランナーは簡単には止まらない。この先に存在する、もう一歩先の魅惑に突き進む。だから人は走り、無茶もする。人には理不尽を超えるガッツがあるのだ。


ケイトもバナナとウィダー・イン・ゼリーを両手に持って伴走する。

「ケイイチ、ここまで走ったらみんな褒めてくれるよ。もう、そんな頑張らなくてもいいからね。もう、十分よ」

啓一はニッコリ笑って首を左右に振って、ゼリーを受け取った。

ゼリーがとても嬉しかった。啓一は、肉体がこうも追い詰まれた状態になってくると固形物は全く喉を通らなくなることを知った。バナナやクッキーを食べたいと思い、ボランティアが差し出す食べ物を手に取るが、さっきからどうしても胃が受けつけなかった。

まもなく時計は八時半を指す。スタートから三時間半、後半突入、あと半分、いや、まだ半分と思うか。



ハワイカイの住宅地の中を走る周遊道路、ハワイカイドライブを一周し、再びカラニアナオレハイウェイを今度はココヘッドを背にしてダイヤモンドヘッドの向こう側のカピオラニ公園を目指す。ますます太陽は高く、憎らしいほど熱く。啓一は二十五キロ以上を走破した。時計は九時五分、スタートしてから四時間近くが経過した。

残りは十七キロ。ケイトの父親との約束、五時間完走は可能か、ダメか・・・啓一の体力は確実に疲弊しているにもかかわらず、二五キロを過ぎた辺りで、脳にはキンキンに尖った聡明感が溢れ出した。啓一は、再び第二の覚醒の扉を開けたようだった。

頭の中には限りなく透明感が漂う。しかし、足は全く上がらなくなってきた。今まで味わったことのない感覚と痛み。左足のふくらはぎ、右足の膝の外側が特に痛む。啓一は走るのに両足のバランスが上手くとれなくなってきた。

啓一は独り言を言いながら走った、

「去年の今ごろ、自分がマラソンを走るなんて想像できなかったなぁ。もう二十キロ以上走ったんだから、お婆ちゃんに言ったら褒めてくれるかなぁ。苦しいなぁ、なんで、こんな苦しいこと、お父さんは好きだったのかぁ」

笑顔で声援を送る沿道の観客達。傍観しながら走っていた啓一がふと正気に戻った瞬間、その声援のすべてが自分のためにあることに気がついた。

「あれ、もしかすると、これって凄い楽しいかも。みんな僕に頑張れって言ってくれてる!スポーツっていいなぁ。初マラソンで五時間切れたらカッコ良いんだけど。ケイトもカパラも喜んでくれるだろうなぁ。ジェーンは約束通り付き合ってくれるかなぁ。でも足が痛い。でも頑張ろう」

啓一はほとんど歩きに近い速度から再びピッチを上げて、五時間完走に再び照準を定めた。

その途端、マメが潰れた。

啓一の脳が無謀な指令を出して、気合もろとも速度を上げた数分後、両足の先にできていたマメが潰れてしまった。無謀な気合が啓一の最良のペースを乱したのか、足に突然の過剰なプレッシャーをかけてしまったのか、啓一は三十キロを目の前にその歩みがピタッと止まってしまった。

「ケイイチ、誰でも初マラソンでは三十キロ位過ぎに、必ず経験する試練があるから楽しみな。凄く大きな壁だぞ。初めてのレースは、肉体的にも精神的にも未知の世界への挑戦だ、自分の体を造る細胞が悲鳴を上げてくる。そこで人間は考える、止めるも勇気、続けるも勇気だ」

昨日、トレーナーのヤマグチさんが言っていたことを思い出した。

皮膚が剥がれた足の肉と靴下がこすれ、啓一は足を引きずりゆっくり歩くのがやっとだった。


三十キロ地点。

山村夫妻、アン、それにチェルシーが合流して啓一を待っていた。コース半分、十三・一マイル通過の連絡はケイトからの電話をチェルシーが受けていた。ケイトとカパラは名門ゴルフクラブの横、ワイアラエ・ビーチ・パークに自転車で先回りした。ケイトから電話のあった中間地点から五キロの距離、順調に来れば九時半までには通過する。しかし、啓一は九時四十分を回っても来なかった。

不安になったチェルシーはコースを逆向きに歩いて行った。十分後、遠くから肩を落として必死の形相で歩く啓一を発見した。チェルシーは慌てて走り寄って、

「ケイイチ、どうしたの」

「チェルシー、足のマメが破裂しちゃったみたいなんだ。どうしても痛くて走れなくなっちゃたんだ、どうしよう」

チェルシーは啓一を側道に座らせて靴と靴下を脱がせた。

両親指の根元の裏側部分がズルリと皮が剥け、真っ赤な肉が露出していた。

血で真っ赤に染まった啓一の靴下を見たチェルシーは、

「ケイイチ、これ、無理だよ、走るの」

「そんな・・・」

「初マラソンでここまで来たんだから、続きは来年でもいいでしょ、ね」

「いやだよ・・・」

「良く頑張ったよ、ケイイチ。みんな感心しるよ、褒めてくれるよ」

啓一は全く首を縦には振らなかった。理由はともかく。

お婆ちゃんの忠告である「やめる勇気」などとうの昔に飛んでいた。

牛の仮装をした若い白人ランナーが、モーと啓一を唸って通り過ぎた。

進む速度はとてつもなく遅くとも、軽快な足取りの日系の老婆が笑顔で走っていく。

コース横の公園にはたくさんのランナーが倒れている。

真っ直ぐに伸びる高速道路を照りつけるハワイの太陽。楽園を演出する太陽も、この日は意地悪にランナー達を失楽な現実に誘い込む。

チェルシーと啓一の間にしばしの沈黙。空虚に風は止まっていた。


「足、痛くて、痛くて。でも、悔しいよ、チェルシー」

「マメなんか、できる予定じゃなかったからね」

「いや、肺とか心臓とかは全然元気でさ、まだまだ走れる感じなのに・・・」

「こんなに皮がむけちゃったら痛くて走れないでしょ」

「う・・・でも、大和魂」

「そんなの今、関係ないわよ」

このまま続けさせるか、止めさせるか。止めさせるのは大人の役目だった。

チェルシーは啓一の必死に頑張る姿を見て、啓一と最初に会った日を思い出した。

あの時の少年の目には不安がいっぱいだった。でも今の目は違う。チェルシーは今、人生にも似た初マラソン挑戦で「何か」を掴みかけている少年に、自分の責任でもう少し走らせてみようとアイデアを探った。

「あ!誰か、コンピートかディクトン持ってないかな」

チェルシーはケイト、チャチ、山村さんへと次々電話をかけて何事か頼んだ。

一分後、ケイトから電話があった。

「ビンゴ!」

とチェルシーは叫んで電話を切り、素早く自転車にまたがった。

「?」

啓一は呆然と一連の流れを眺めている。

「よくダンスの練習でマメを潰してたのよ、私も。特効薬を思い出した」

「特効薬って?」

「コンピート」

「?」

「マメに貼るの。ジェルみたいな、皮膚みたいなシール」

「あるの?」

「この先のエイドステーションの医者が持ってるって、ケイトが見つけてくれたわ!ケイイチ、ここでちょっと待ってなさい」

そう言うと、チェルシーは颯爽と三十五キロ地点のエイドステーションに自転車で走り去った。

 

十分後、チェルシーがバンドエイドに似た、そのコンピートと伸び縮みするキオシネテープを持ってすっ飛んで帰って来た。

吉田の爺様の忠告に従って、チェルシーがコンピートを路面に置く。

啓一は「よいしょっ」っと辛そうにコンピートを取り、さっそく患部に貼り付ける。時間が経ったせいか患部はだいぶ乾いたので、啓一は飛び上がるような痛さは感じなくてすんだ。そして、その上にチェルシーが持ってきたテープを器用に巻いて、コンピートと足先を固定する。一応の自らの応急処置は終わった。

「どう?」

「魔法みたい。かなりいい感じだよ、チェルシー。大丈夫」

啓一は立ち上がってトントンと軽くステップを踏んだ。

大丈夫、とはいえ潰れたマメは再び出血をするだろうし、酷い両足の痛みから啓一がこのまま無事にゴールまで走りきれるとはチェルシーは到底思えなかった。

「ケイイチ、この先にヤマムラさんやアンがいるから、そこまでは頑張ってみよう」

「うん」

「もし、そこまで行けたら、次に二マイル先にチャチがいるから、チャチの所まで頑張れるかどうかまた考える、ね」

「ありがとう」

啓一はニッコリ微笑み、極力、マメ部分をシューズに接触させないように、足の指に力を入れて縮みこませて「グー」の形を作って歩き出した。



チェルシーは先に三十キロ地点に自転車で戻り、三人に状況を伝えた。

アンが顔を手で覆った。

「マラソンでヤバイのは脱水症状と熱射病だから、それだけは注意して走らせよう」

山村さんは自分に言い聞かせるように呟いた。

アンは氷と水の入ったバケツを持った。それにスポンジが浸けてある。冷えたスポーツドリンクは陽子さん。山村さんは相変わらずカメラを持って期待と不安の入り混じった表情で啓一を待った。

三分後、フラフラと啓一が向かってきた。

臨戦態勢の三人は絶叫した。

「ケイイチ、ガンバレー」

「こっちだ、こっちだ」

アンは普段では考えられないほどの大きく野太い声で叫んだ。

「ブラボー、ブラボー、ケイイチ。ブラボー、ケイイチ。ブラボー」

そして、アンは右手を何回もハワイの青空に向けて突き出した。


啓一は、路肩の座り、スポンジで体を冷やして一息ついて言った。

「まだ、走ってていいでしょう?」

それが質問なのか、お願いなのか誰にもわからなかったが、誰も啓一が走ることを止められなかった。その時、チェルシーがさっきまで啓一が被っていた帽子が無いことに気が付いた。

「ケイイチ、帽子どうしたの?」

啓一はハタと手を頭にあてて、

「あ、無い」

「あ、無いじゃないでしょう。帽子かぶらなかったら走れないよ。こんな太陽の下」

きっと頭が熱くて無意識のうちに自分で投げ捨てたか、あるいは風で飛ばされたか。四人は帽子、帽子と周りを探したがない。その時、啓一と同じ年頃のハワイアンの少年が、被っていた帽子を脱ぎながら啓一のところに寄ってきた。

「これ、使って」

かなり使い込んであるが今、啓一のために十二分に仕事ができる帽子を差し出した。

変色しかかったウォーリアーズの帽子。ウォーリアーズはハワイ大学のフットボールチームだ。彼にとってはきっと自慢で、大切なモノだったのだろう。

山村さんがタダでは悪いからと言って二十ドル札を差し出すと少年はハニカミながら、

「ノー」

とニッコリ笑って啓一と握手してすぐに立ち去った。目で啓一に頑張れと言っていた。チェルシーは彼の後を追って、

「ありがとう、恩にきるわ」

少年の頬っぺたに優しくキスをした。また一つ、啓一はエネルギーを貰った。

リスタートのストレッチを忘れずに、最後に少年のウォーリアーズの帽子を被った。


スタートして五時間、時計は既に十時二十分を指していた。

五時間完走の夢はいとも簡単に崩れた。約束を守れなかった啓一は、なんだかとても悔しかった。いったい何に対して悔しいのかはよく解らなかったが・・・そして、地を這うようにチャチのポイント三十五キロ地点へ向けて歩みを進めた。ゴールまで、残り十二キロ余り。



三十キロから三十五キロは前半走ったカラニアナオレ・ハイウェイをダイヤモンドヘッドに向かって逆走する。直線に近い平坦なコース。この時間で、この場所までくると軽快に走っているランナーは誰もいない。それでもランナー同士、沿道の観客、ボランティアが一つになってランナー全員をゴールに近づかせよう、完走させようと念じる力を一つにする。一本のバナナを四人のランナーで分けたり、冷たい水が手渡しで回ってきたり、残り少ないコールドスプレーを分け合ったり。

リタイアしたランナーを回収サービスする車両が、黄色の回転灯を付けながらさかんにコース脇を通り過ぎる。この黄色いバンに乗れば中はきっとエアコンも効いているだろう、どんなにか楽になれるか啓一は夢想した。

もし、自分がここでレースを諦めてこのバンに乗る。楽になる。が、その一時間後、二十四時間後、一週間後はどうだろう、後悔するだろうか。しかし、デビュー戦で半分以上走ったのだから上等だろう。いや違う。もう少し苦しんで、頑張れば二十四時間後に、胸を張っている自分がいるかもしれない、様々な欲得が脳裏を駆け巡る。

今、このレースをリタイヤすることは啓一にとっては簡単なことだった。立ち止まって歩道に座り込めば、もう二度と走り出すことはできないだろうと啓一は思った。あぁ楽になりたい、という甘い誘惑。しかし、沿道のオジサンに家から引いているホースから出る水を勢いよく全身にかけてもらい、その誘惑を啓一は必死な思いで頭の中から追い出した。少なくとも、チャチのところまでは行こう、と。



チャチはしきりに時計を見ながら啓一の到着を待っていた。

もう十一時を回っていた。チャチは、ひょっとするとリタイヤして回収車両に乗せられてカピオラニ公園に行ってしまったのではないかと思い、一足早くカピオラニ公園に向かっていたチェルシーに電話した。

チェルシーは自転車に乗っているのか電話に出なかった。山村さんに電話した、山村さんは車で移動中だった。啓一をカピオラニ公園で探してみると言って電話を切った。すると、チェルシーが自転車でチャチのところへ飛んできた。

「ハイ、チャチ、もうすぐケイイチが到着よ」

「凄い時間かかったなぁ、奴は大丈夫かよ?チェルシーはずっと一緒?」

「それもあまりに甘やかし過ぎなんで、そっと遠くから見てたわ」

「どう?」

「もう、凄いフラフラ。面白いくらい。あっちで水浴びて、こっちでスプレーかけて。給水ポイントの近くでは三回も転んだわ」

「壮絶だな」

「その時はさすがに声かけたわよ。でも『大丈夫』って笑ってた、ある意味、完全にハイ」

「マジかよ。そこまでして走るんだ、ケイイチは」

「人間って不思議ねー。何かに取り憑かれたように走ってるのよね、あの子。死んでもチャチのところまでは行くって」

「・・・あっ来た、ケイイチだ」

話の途中でチャチが向こうから来る啓一を発見した。啓一は倒れこむようにチャチの足元に転がり込んだ。

「やっと着いたよ、全く、この足が言うこと聞かないんだ。こんなこと初めてだよ」

痙攣し始めている啓一の脚を、チャチは今にもマッサージしてやりたい衝動を必死に抑え、

「ケイイチ、ケイイチ、これだ、これ吸え!」

チャチは準備していた携帯酸素を啓一に渡した。啓一は酸素を手に取ると、目を瞑って大きく深呼吸、肺に酸素を入れた。そして、冷えたミネラルウォーターをゴクンと飲んだ。

「フー。マラソンは辛いわ。少し、僕は、マラソンをなめていたね」

と、溜息をついた。

「どうする?リタイヤするか、来年もあるぞ」

「こんな辛いこと、来年なんて考えたくないよ。だから、もう少し・・・」

「よし、二マイル行ったところにカパラとケイトが待ってるから、そこまで行って考えろ、な」

「そ、ケイイチ、行けるとこまで行ってごらん。後悔しないように最後までやってごらん」

チェルシーが熱い思いを込めた。

「うん、そうする」

啓一は氷水に浸かっていた大きなスポンジを貰って全身に絞りまくり、立ち上がった。

残り七キロ弱。スタートから六時間半経過。時刻十一時三十分。



三十五キロから四十キロ。前半はハイウェイから緑に囲まれた高級住宅地を海に向かって走り抜ける。ここを過ぎるとダイヤモンドヘッド中腹への緩やかな登り坂がはじまる。まさに心臓破り、終盤最後で最大の難所だ。カハラからダイヤモンドヘッドの坂を登り切れば、もうゴールは目の前だ。一気に下ってゴールのカピオラニ公園に突入する。


住宅街を下っていく。三十七キロ地点。

「こっちだぞ、ケイイチ」

大きく傘を広げたようなバニアンの樹の下から、大きな声を出しながら啓一に走り寄る二人組。啓一は、汗が目に入ってよくその二人が見えなかった。

「ケイイチ、ケイイチ」

カパラとケイトが叫ぶ。

啓一はほとんど足を引きずって歩いている。

啓一の当初描いたイメージは、これを五時間で完走する。ゴールではカパラとケイトとガッチリ握手。後ろからジェーンが駆け寄って祝福してくれる・・・現実は厳しい。こんなにボロボロになってしまった、と啓一は思った。カパラとケイトに何と言うか考えたが、すぐに答えはみつからなかった。

「ケイイチ、凄いぞ」

カパラが冷たい水をかけてくれた。

「よく、まぁ、ここまで来れたね、ケイイチ、頑張った、頑張った」

ケイトが冷たいタオルを投げてくれた。

啓一はその場で立ち止まり両手で膝を持って前屈みになった。涙が出てきてしまった。

「ごめんね、ケイト、カパラ。ダメだった・・・ごめんなさい」

「何言ってるんだ、ここまで来ればもう十分だよ。泣くな、ケイイチ」

カパラが語気を強めた。

「そうよ、ケイイチ。ハワイのマラソンに涙はダメよ」

ケイトは啓一の汗と涙、足の痛さでグシャグシャになった顔をキレイに拭いてあげたかった。

「ね、このまま、最後まで、完走したら、ケイトのパパ、ワンチャンスくれるかな」

「もちろんよ、今ここでリタイヤしたって、チャンスはくれるわよ」

「もう、ここで止めたって、みんなさ、ケイイチに大きな拍手してくれるって」

「ねぇ、でもさ、最後まで走れたら、きっと楽しいだろうね、これ」

ケイトもカパラも困った顔になった。

「ヨシダの爺様とケンタはこの先にいるのかな」

「おう、待ってるぜ。しかし、あの二人、最高だな、ケイイチ」

カパラが言った。ケイトが、

「あの二人、マラソンは気合だって、朝晩毎日、あんなに応援練習してたんだからね」

三人は、アパートの中庭で二週間前から始めた二人の応援練習を思い出して笑った。そして、啓一は力を振り絞って重い腰を上げた。

「二人、待ってるんだったら、行かなきゃな、そこまで、ね、行かなきゃね」

「そうね」

とケイトが微笑んだ。

「僕、ケンタと爺様のところまで行くよ。そこで、止めるか、最後まで走るか決めるよ」

「でも、ケイイチ、無理するなって、もう遅いか」

カパラが笑った。

「朝の一回しか応援してないでしょあの二人。あんなに応援の練習してたのに・・・」

啓一は両足をパンパンと強く叩き、

「・・・ここで止めたらさ、応援が一回だけじゃ話が違うって、凄く文句言われちゃうよ」

右足、左足、右足と確認するように一歩ずつゴールへ向けて進み出した。

「オッケーだ、ケイイチ。最高だ」

カパラが歩き出した啓一の背中に向って思いっきり叫んだ。

ケイトとカパラは啓一の姿が見えなくなるまで見送った。

すぐに陽炎の中に啓一は入っていく。

二人は感動で震えた。カパラは涙を我慢できなかった。

ケイトに感づかれないようにバケツの水を思いっきり頭から浴びた。細かいビーズのような水滴がまわりに飛び散った。



一マイル、千六百メートル先に賢太郎とヨシダの爺様は待機していた。もう何時間も。チェルシーが三回、チャチが一回、山村さんが一回、冷えた水と氷とお握りの補給、それに状況報告に来た。ちょうど、ダイヤモンドヘッドの坂、中段あたりの山側の車寄せに二人の陣地があった。賢太郎のオデコと鼻の頭は日焼けで赤黒くなっている。

カピオラニ公園側から自転車でチェルシーが坂を上って来た。息を切らせて言った。

「爺ちゃん、携帯電話買えってあれほど言ってるのに、もう」

「何を言うとるか、チェルシー。何も今は困っとらん」

「ったく。困ってるのはこっちよ、もうこの坂を四往復目よ」

「ケンタと言っておったんだが、こりゃチェルシーのためのナイス・ダイエットっての」

賢太郎がパンパンとその通りの拍手。チェルシーは呆れ、軽くいなして、

「ケイイチがついにカパラとケイトの三十七キロ地点通過したって。さぁ、来るわよ」

「おう、いよいよかの。この坂登って峠を越えれば啓一も男の」

ヨシダの爺様は、チェルシーが持って来た氷水で喉を鳴らして、外していたタスキをまた掛け直し、オッシと気合を入れた。賢太郎は沖縄太鼓をかつぎ直し、首に掛けていた神風鉢巻を頭の周りにグッグッと力を込めて締め上げた。

「準備、まだ早いよ。啓一が来るには時間はかかるし、この坂を越えられるかどうか」

「大和魂の」

「ケイイチの姿見たら、大和魂なんて言葉は出な・・・」

チェルシーが喉まで出掛かった言葉をグっと我慢し、ケイイチの様子を見にカハラ側に自転車で走っていった。



二人は今にも坂の下から現れるであろう啓一を仁王立ちで待っていた。

三十分後、時刻十二時五十分。チェルシーが自転車を引いて戻ってきた。オデコには玉の汗が光っている。

「五分後くらい。なんとか、ここまでは絶対来るって」

「そんな、ボロボロなんか?」

「うん、ここまで来れたのが奇跡」

ここからゴールまでは二キロあまり。目の前のゴール、最後の最後の力を振り絞って完走する、できるというのが大抵の考え方だが、ランナーにとっては壁にも感じるこの坂で、力尽きてリタイアして涙するランナーも毎年大勢いる。現に三人の目の前に二人のランナーが倒れている。

「さぁ始めるかの、賢太郎!」

と這い上がってくる啓一に聞こえるようにと応援を始めた。

ドン、ドン、ドン。

ドン、ドン、ドン。

ドン、ドン、ドン。


さっきから啓一は禅問答のように自問自答を繰り返していた。

今までの人生で「精根尽き果てる」まで物事に取り組んだことがあるだろうか?

それにしても人はなぜに走るのだろうか?

なんで死んだ父さんはこんな苦しいマラソンなんて好きだったんだろうか?

結局、だからマラソンは人生さ、という簡単な結論が啓一の脳裏を駆け巡っていく。勉強でも、遊びでも、頃合とリスクばかりを啓一はいつも考えていた。一緒に暮らすお婆ちゃんや周りの大人に心配かけまいと。そうだ、今が始めての「精根尽き果てる」時だと、啓一は考えた。ということは、「ここで止める」行為は十分に正当化される評価なのか、しかし、マラソンという競技の性格上、「ここで止める」行為はやっぱり中途半端な評価であるのか。

とにかく啓一は、今、唯一正常に機能している脳の一部の細胞で、自分のリタイヤの理由を探していた。啓一はリタイアの正当な理由を探しながら「もうダメだ、もうダメだ」と「いや、爺様の所まで、賢太郎の所までは」と必死の思いの交差で二人のいる場所までの距離を縮める。一歩、一歩、また一歩。


遠くに太鼓の音を、啓一は感じた。

ドン、ドン、ドン。

・・・ケイイチ。

ドン、ドン、ドン。

・・・ケイイチ。

吹き上がる風に乗ってくる勇気。ここで止めるわけにはいかない、と啓一は必死の思いでダイヤモンドヘッドの坂を登った。眼下には真っ青な海原が、真上からの太陽を受けて眩しいほどにキラキラ光る。いよいよ賢太郎の太鼓の音が近くなってきた。

ヨシダの爺様の声もハッキリわかるようになってくる。顔を上げると目線の先に爺様の振る日の丸が左右に太平洋の強風にケンカして棚引いている。青い空、白地に赤のコントラスト、随分と日の丸が啓一には誇らしげに見えた。

ドン、ドン、ドン。

「頑張れー、頑張れー、啓一」

ドン、ドン、ドン。

「走れー、走れー、啓一」

ドン、ドン、ドン。

「当たってー砕けろ、啓一」

ドン、ドン、ドン。

啓一から坂の上に陣取る二人の応援団の姿が見えた。チェルシーもいる。

爺様達からも啓一が確認できた。ヨシダの爺様と賢太郎の気合が乗った。しかし、二人は啓一の姿を見て驚いた。想像以上に疲弊した啓一の姿に。

「賢太郎、啓一はカパラとケイトにワシらの所までは行く、と約束したからの」

「は、い・・・」

賢太郎が大きく頷く。

「精根尽き果てても、這ってでも気合でやって来た、うん、それが男の、賢太郎」

「は、い」

賢太郎は、再び太鼓を強く叩きだした。

ヨシダの爺様は、持っていた日の丸をさらに高く、空に突き揚げた。

ドン、ドン、ドン。

「啓一、頑張れ」

ドン、ドン、ドン。

「啓一、男じゃ男じゃ」

ドン、ドン、ドン。

「男は当たって砕けろじゃ。最高じゃ。最高じゃ」

賢太郎も必死に太鼓を叩く。それは賢太郎にとっても生命の活力を刺激する魂の雄叫びだった。

ドン、ドン、ドン。ドン、ドン、ドン。

応援団の二人は更に強く太鼓を叩き、日の丸を振った。


啓一は三人のところまでやっとの思いで這い登り、ふらふらとヨシダの爺様と賢太郎の目の前で大の字になって倒れこんだ。賢太郎は心配そうに啓一の見る。

「啓一、男じゃ、男じゃ、ようやった、ようやった」

両手を後ろで組んだヨシダの爺様が啓一に声をかけた。チェルシーが冷たいミネラルウォーターを全身にかけると啓一は口を大きく開け、

「み、み、水、水」

チェルシーがゴボゴボと啓一の顔の上から口に向けて水を注いだ。

ボトルが空になるとデイパックから新しいボトルを取り出してキャップを捻った。

荒い息をしながら、それでも少しは落ち着いた啓一は起き上がって口を開いた。

「フー、やっとここまで来れた。爺ちゃんとケンタにあとでブーブー怒られても嫌だし、フー。何とかここまでは、来なくちゃって」

「啓一、ここまで来れば十分じゃ。残りは来年でええ、来年で」

もう無理はさせられないと思ったのか、ヨシダの爺様がこう言えば、チェルシーも、

「そうよ、あと二キロは来年でいいよ。そしたら、ね、この死にぞこないの爺ちゃんにもさ、また楽しみができて長生き、ね」

「そうの、人生も戦争も、撤退する勇気、スポーツは止める勇気、とっても大切の」

二人の大人が、啓一にリタイヤを薦めた。

「でも・・・」

啓一は亡き父親もきっと二人と同じことを言っているような気がした。

長い人生、明日があるさと。

あと二キロ、されど二キロ。啓一はもう最後の気力を振り絞ることができなかった。まるで凧の糸が切れたようにその場にうなだれた。

「ジェーンのことだったら、あれよ、嘘。ケイイチを頑張らせるための、嘘」

「またぁ」

「ホント。五時間で完走したら付き合うって話は私達が作った嘘よ。ゴメン、ゴメン」

「げ、まじ」

「初めから、彼女、ちゃんとデートしてくれるって。でも、もう少しサーフィン上手くなってね、とは言っていたけどね」

やられた!と啓一は思った。

「なんだよ、大人の女が寄ってたかって、こんな少年を騙すなんて」

「のう、啓一、女は怖いぞ、こりゃ、ええ勉強したの、ははは」

「そうよ、ケイイチ、女の賢さがわかったでしょ。だから、ここまで頑張って走れたんでしょ。デートはオーケーなんだから、全然悪い話じゃないでしょ」

チェルシーはニッコリ微笑んだ。啓一は、ケイトとカパラの結婚の約束もあるよ、と言おうと思ったが反発する体力がなかった。

「あーちくしょう。こんな悔しい気持は生まれて始めてだ!」

と再び大の字になってアスファルトに横になった。

ゴールと反対のカハラ側から黄色のランプを回したリタイヤ選手回収車両がやって来た。ヨシダの爺様が日の丸を振ってドライバーに合図した。

突然、賢太郎が大きく太鼓を叩き始めた。

「なんだ、ケンタ。最後の雄叫びかの、急にどうした・・・」

ドン。

ドン、ドン。

ドン、ドン、ドン。

「もっと、もっと、ケイチ」

ドン、ドン、ドン。

「ゴール、ゴール、ケイチ」

ドン、ドン、ドン。

「もっと、もっと、ケイチ」

ドン、ドン、ドン。

「ゴール、ゴール、ケイチ」

黄色のランプを回したリタイヤ選手回収車両が啓一の横で止まった。

後ろのドアがスライドして開いた。中には五人のランナーがいる。日本人らしき三人と白人二人。クーラーの効いた車内には、きっと楽園があるのだろう、啓一は吸い込まれる誘惑を抑え切れなかった。それに、乗っているリタイヤ・ランナー達は、満足気で楽しそうなニコニコ顔をしている。

車の中から啓一に「ウエルカーム」の声が掛かった。


啓一の左右の肩をそれぞれ、吉田の爺様とチェルシーが抱え上げようとした。その時、

「そ、れ、ダメー」

賢太郎が肩で息をしながら、吉田の爺様とチェルシーを突き飛ばした。

目を丸くして驚く二人。啓一は何事かと逆光で影になった賢太郎の顔に目を凝らした。

賢太郎は啓一をかばうがごとく、吉田の爺様、チェルシー二人と啓一の間に両手を広げて割って入った。そして必死に左右に顔を振る。

驚いた吉田の爺様が心配そうに、

「どうした、賢太郎。そんな、突然・・・」

すると賢太郎は、今度は両手を合わせて二人に拝むように頭を下げる。

二回、三回、四回、五回・・頭を下げて、何かをお願いしている。

「・・・ダメー」

賢太郎が今度は両手を広げてドアの前に立った。

突然、賢太郎は車のドアを無理やり閉めた。そして叫んだ。

「ダメー」

賢太郎は必死に腕を下から上に動かして啓一に、

「たっ、て」

と。啓一に向かって両手を合わせてお願いするように、

「たっ、たっ、て」

と必死に頼んでいた。

賢太郎はなんとか啓一に再び立ち上がって走って欲しかった。

賢太郎の思いを乗せて啓一にゴールを目指して欲しかった。

その思いを伝えるべく賢太郎は再び叫び、

「もっ、と、ゴール」

そして、太鼓を叩く。

「もっと、もっと、もっと」

ドン、ドン、ドン。

「もっと、もっと、ケイチ」

ドン、ドン、ドン。

「ゴール、ゴール、ケイチ」

ドン、ドン、ドン。

「もっと、もっと、ケイチ」

ヨシダの爺様もチェルシーも賢太郎の応援を止められなかった。

啓一が再び立ち上がった。

「僕、やっぱり、最後まで行くよ」

意を決したのごとく、ヨシダの爺様の応援が付いてきた。

「ようし、啓一、頑張れ、頑張れ、ゴールまで!」

ドン、ドン、ドン。

「啓一、男じゃ、男じゃ、男じゃ」

ドン、ドン、ドン。

「最高じゃ。最高じゃ、目指せゴールじゃ」

ドン、ドン、ドン。

チェルシーは残りの水を啓一に飲ませた。リタイヤ選手回収車両のスタッフは、

「ケイイチ、グッド・ラック」

と声をかけてゴールのカピオラニ公園に向けて走り去った。


賢太郎の思いは見事に啓一に託された。

啓一は残り二キロを這いつくばってでもゴールを目指すことに決めた。

一、二、一、二、啓一は自分で声をかけて右、左、右、左と確実に足に言うことを聞かせながら歩き出した。周りにいる観客からパラパラと拍手が起きた。

賢太郎が啓一の後を付いて行く。

ドン、ドン、ドン。

「もっと、もっと、ケイチ」

ドン、ドン、ドン。

「ゴール、ゴール、ケイチ」

ドン、ドン、ドン。

「もっと、もっと、ケイチ」

ドン、ドン、ドン。

「ゴール、ゴール、ケイチ」

啓一の後をヨシダの爺様が日の丸を振って続いた。

チェルシーはみんなの待つゴール、カピオラニ公園に向かって必死にペダルを踏んだ。

時刻、午後一時十五分。スタートしてから八時間十五分が経った。



ダイヤモンドヘッド・ロードには観光スポットの見晴台がある。視界が二百七十度位に広がる。目の前に広がる太平洋、波間には豆粒みたいにサーファーが浮かぶ。啓一はこの見晴台を過ぎれば、後は夢のような下り坂であることを必死に思い出した。坂の向こうは、目に眩しい緑のカピオラニ公園、そしてゴール。

しかし数分後、啓一は「下り坂」が楽勝であるなどとは単なる妄想であったことをすぐに知る。下り坂に突入し、とにかく太腿も前部が痛くてしょうがない。啓一は、この二本の足はもう自分の物ではないと観念し、根性という精神機能で足を動かし残り一キロ少々をゴールに向かって行くしかなかった。


「ゴールまではあと一キロ位かな」

孤独から解放された啓一はヨシダの爺様に聞いた。

「そーだの、もう少しじゃ、ケイイチ。しかし、こうしとると応援も良いが、来年はなんだかワシらも、このマラソンに参加してみたい気がするの、賢太郎」

賢太郎は一生懸命太鼓を叩きながら頷いた。啓一は来年のことは考えたくないと思いながら、感覚のなくなった足を引きずり精神的には幸福で、肉体的には苦痛である下り坂を歩いた。

道の両サイドに木々が覆いかぶさるように茂っているため日陰が多く、啓一もヨシダの爺様も随分と助かった。耳を澄ませばカピオラニ公園の喧騒が聞こえてくる距離、だんだんと坂の傾斜がゼロに近づいてきた。

沿道の声援が一段と多くなる。啓一と日の丸を振って太鼓を叩く二人の応援団にカメラを向ける人がたくさんいた。ボランティアからスポーツドリンクのボトルを受け取った。啓一は三分の二残して賢太郎に渡した。賢太郎はもう三分の一飲んで残りをヨシダの爺様に渡した。

ゴールが近づいてきたせいか、二人の応援のおかげか、啓一は少し前より段然、元気になってきた。今、間違いなく啓一の頭の中には、苦痛や疲労を木っ端微塵に破壊してゴールを目指す新しい網内モルヒネが放出されているのだろう。

ドン、ドン、ドン。

「もっと、もっと」

ドン、ドン、ドン。

「ゴール、ゴール」

ドン、ドン、ドン。

「ファイト、ファイト」

ドン、ドン、ドン。

「頑張れ、頑張れ」

ドン、ドン、ドン。

啓一は二人の応援に合わせて少し早歩きにした。



山村さんが時計を見た。時刻、午後二時三十分。

「そろそろかな」

みんながうなずいた。

「ゴールが近くなってきたら、ケイイチ、案外、元気になってるかもね」

とチェルシーが言った。カパラは風に乗って聞こえる賢太郎の叩く太鼓の音を感じた。

「帰って来た」

カパラが叫んだ。


啓一の眼には、カピオラニ公園がはっきり映った。

バンドの演奏に混じって完走選手のアナウンスが聞こえる。ホノルル・マラソンでは選手がゴールラインを切るとその都度、アナウンサーがその選手の名前を放送する。

「爺ちゃん、ケンタ、疲れた?」

啓一がヨシダの爺様に聞いた。

「なんの。啓一、おまえに聞かれたくないわ」

もっともな話だ。賢太郎もお前に聞かれたくないわ、という顔をして首を左右に振った。

「ねぇ、みんなゴールにいるのかなぁ」

「そのはずだ」

ヨシダの爺様が日の丸を大きく振りながら答える。

「フラフラとゴールするのカッコ悪いからさ、最後は走ろうかと思うんだけど・・・」

ヨシダの爺様が驚いた顔をして、

「最後に格好つけるのも男気じゃ、男は格好つけてナンボの生き物だからの」

「オ、オッケー」

賢太郎が雄叫びを上げた。

「じゃったら、啓一の後ろを、このままゴールまで応援しながらワシらも走るか、な、賢太郎?」

賢太郎は急に不安そうな顔をした。

「なーに言うとるか、大丈夫だって賢太郎。ほら、みんな、ワシらの応援によーけ喜んでおるって、あっちもこっちもカメラ向けおっての」

賢太郎は威勢良く太鼓をドン、ドン、ドン、ドンと叩き「ルール破り」の不安を解消した。

公園の入口が見えてきた。啓一は最後の力を振り絞り、両腕を前後に振って気持を前へ前へと押し出した。


ケイトが最初にコロニーサーフ・ホテルの噴水の向こう側に、左右に揺れる大きな日の丸を発見した。賢太郎の太鼓も聞こえてきた。

ドン、ドン、ドン。

「もっと、もっと」

ドン、ドン、ドン。

「ゴール、ゴール」

ドン、ドン、ドン。

「ファイト、ファイト」

ドン、ドン、ドン。

「頑張れ、頑張れ」

ドン、ドン、ドン。

みんな立ち上がってその方向を見た。段々その声が大きくなってきた。

啓一も見えた。

両腕を一生懸命前後に振っている。山村さんはカメラを抱えて噴水方面に走り出した。



人はなぜに、こんなにもの苦労をして四十二・一九五キロを走るのか?

亡き父親はなぜに、こんなに辛いスポーツを愛していたのか?

啓一が数時間前から抱いていた大きな疑問が今、解けた。

人はゴールのために走るのだと。ゴールの感動はすべての苦労辛苦を水に流すのだと。


懸命に腕を振って啓一は、体を前に出そうとするが、なかなか足が前に運べない。それでも、気持は最高のスピードで前へ前へと進んでいる。

フィニッシュ、と書かれ道の左右に拡げられた横断幕もはっきり見えてきた。スポンサー看板の続く最後の沿道でカメラをのぞく山村さんが叫んだ、

「啓一、いい顔!」

啓一はニッコリ笑おうとした。が、ゆとりはとうの昔に消えていた。

ゴールにある大きな電光掲示板、時間を一秒ずつ確実に刻む。九時間四十分一二秒、十三秒、十四秒、ゴールはもうすぐだったが、まだまだ啓一にはやけに遠くに感じられる。


啓一はゴールの向こう側にみんなの姿を見つけた。

九時間四十四分二十三秒、二十四秒、二十五秒。啓一は、歯を食いしばってスピードを上げた。それに合わせて賢太郎の太鼓の音も大きく、一層のパワーを啓一に与える。

陽子さん、アン、ケイト、チェルシー、キャシー、カパラ、チャチ。ケイトのパパとママもいた。みんな、手を取り合って上に下へと振っている。みんな、笑顔で何かそれぞれ叫んでいる。

その列にカメラを首から下げた山村さんも加わって、啓一万歳の掛け声に変った。

ケイイチ、バンザーイ!

ケイイチ、バンザーイ!

ケンタもバンザーイ!

ジイサンもバンザーイ!

みんなバンザーイ!

九時間四十五分五十三秒、五十四秒、五十五秒・・・。

啓一の顔は汗と涙でグシャグシャだった。

「当たって砕けた後には、え、え、えらく幸せな気持がやってくるんだ」

十時間近い苦悩からの解放は快感につながる。

最後は笑顔、笑顔、笑顔でと、啓一は笑顔笑顔と唱えながらゴールへ向かった。

今までの人生で始めて物事を最後までやり遂げた達成感。アパートのみんなの熱いハート。お婆ちゃんの愛。自分の「命」と引換にこの世を去った母、最期まで「生」に未練を残して逝った父。啓一はみんなに感謝した。

そして、亡き父のおぼろげを実像に変えてくれたマラソンを啓一は今、好きになり始めていた。

首から下げた真っ赤なお守りをギュっと握った。

万感の思いが錯綜して胸が熱く躍る、涙が止まらない。しかし、啓一は涙をぬぐうのも忘れて必死の「笑顔」でみんなの待つゴールを目指した。


あと五十メートル、四十メートル、三十メートル、二十メートル、十メートル、五メートル・・・電光掲示板は九時間四十九分十秒を差した。



楽園ハワイの青い空はいつも素敵な夢を見せてくれる。

啓一は青い空いっぱいに大きく両手をかざして胸を張り、そしてクシャクシャの笑顔いっぱいにフィニッシュラインを切った。その瞬間、

「完走おめでとう!ケイイチ・シノ、ジャパン」

ゴールする選手一人一人を称えるアナウンスが、いつもより広大な緑のカピオラニ公園中に響き渡った。



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