第9話

当たって砕けろ!


十二月に入った。いよいよホノルル・マラソンが再来週の日曜日、十二月十四日に迫ってきた。啓一はまさか自分がマラソンに出て走ろうなどとは夢にも思っていなかったが、これは亡き父のDNAか導きかと考えれば何だか嬉しく納得するのであった。

ボクはマラソン挑戦前の啓一の様子を見にアパートにやって来た。先週、啓一のお婆ちゃんから、啓一を気遣う手紙を貰っていたし。

「ケイイチ、無理して怪我でもしたらしょうがいないから、今回は五時間切らなくたって・・・」

啓一はボクの言葉を遮って言う、

「いや、約束を破るわけにはいかないよ」

男らしいことを言う。ケイトのお父さんとの男の約束だ。五時間以内で完走。

キャシーが二階から中庭に降りて来た。手にはテレビ局の封筒を持っている。


「ケイイチもノーマンも、ねぇ聞いて」

キャシーが封筒から何やら資料を出して言った。資料はホノルル・マラソンの参加者記録。ボクは七歳からこのマラソンに参加できることをこの時に知った。

「去年は七才から十四才が百人以上も参加、最も早いタイムが三時間五十一分、遅いタイムが十一時間四十八分、平均は七時間。だから、ま、ケイイチの五時間完走も決して無理な話ではないわね。けっこう、練習してるしねぇ。もしかすると大丈夫かもよ」

キャシーは感心したように啓一を励ます。

「噂じゃコーチもついたっていうじゃないか」

最近、ヨシダの爺様がマラソンのコーチを啓一に紹介した、といからボクは驚いた。

「そのコーチって?」

ボクの疑問にはキャシーが答えた。

「凄いのよ。ジイチャンがさ、ほら入っている沖縄県人会館あるでしょ、県人会が募集した出場チームのメンバーにケイイチも入れてくれたの。そこのコーチ」

「中学生でよく入れたね」

「そ、本当は高校生以上だったんだけど、ジイチャンが無理やり!でも、その方が我流でやるより安心だって。プロに付いた方がスポーツは絶対早く進歩するってね」

「そして、無駄なく怪我なくか。さすが、永遠のスポーツマン、ヨシダの爺様だな」

ボクは、そんなヨシダの爺様の気遣いに感心した。

「ノーマン、僕は、もう、本番コースも十月の終わりと先週と二回走ったんだよ」

「凄いじゃん。それでタイムは?」

「初めての時はゆっくり歩いたりして十時間。二回目の時はちょっと早めに歩くかんじで七時間ちょうど。そして、本番は五時間さ」

十二月に入っては軽い練習が続いているらしい。レースが近くなってきて過度な練習は疲労が残ってしまうので、もう、啓一は本番までは長い距離は走らないとのことだった。朝も四時に起きる日が続いているらしい、で、夜は九時には寝る生活。

「マラソンのスタートが朝の五時だからね、前もって本番の時間に体調を整えておく必要があるのよね」

どうやら早朝スタートの体調作りは、早朝のニュース番組を持つキャシーが教えたらしい。

ボクは啓一の頑張りももちろんだが、アパートあげての啓一への応援が楽しみになった。なんせ、今まで、ここの住人達なんぞ、ホノルル・マラソンなんかには全く興味も縁も無かったわけで。

「あ、そうだ。ノーマンに見せたいものがあるんだ」

啓一があわてて部屋に上がって、一通の手紙をボクに持ってきた。



拝啓  啓一 様

貴方のハワイでのご活躍ぶりとても嬉しく思います。

マラソン出場の知らせ、最初は信じていませんでしたが今では応援しています。きっとお父さんも天国でさぞかし喜んでることでしょう。でも、あんまり無理はしないように。今年だめでも来年、来年だめでも再来年です。無理をすれば体には良くありませんし、怪我でもしたら周りの皆さんに今以上のたくさんの迷惑をかけてしまいます。「時に、勇気を持ってやめる」という決断も貴方の人生にとってとても重要なことですから決して忘れないように。

それにしてもサーフィンだ、マラソンだと賑やかで結構ですが、もちろん学校の勉強の方もちゃんとしているでしょうね。私は貴方が昔から一つこれと決めると周囲が目に入らずに突進してしまう性格がとても心配です。

お父さんがよく言っていました「人生はマラソンと一緒だ」と。今回のホノルル・マラソンを五時間で完走しても十二時間かかっても、途中でリタイヤしたとしても、貴方には何回もチャレンジできる将来があります。今回の結果がどうあれ、貴方はマラソンから素晴らしい色々なことを学ぶと思います。また、私はマラソンに出ると決めた貴方をとっても誇らしく思います。頑張って走ってください。くれぐれもアパートの皆さんに宜しく。ご迷惑を余り掛けないように。                        敬具

                   十二月一日 祖母より



十二月十二日、ホノルル・マラソン二日前。啓一激励会、いつもならバーベキューで決まりのところだが、今日は大事なレース前、沖縄県人会マラソン・チームのヤマグチトレーナーの指導で炭水化物中心の食事と、たくさん果物がアパートの中庭に並べられたテーブルにのせられていた。

つい二週間前までは、

「啓一、絶対頑張れ!」「気合で完走!」「目指せ五時間」

との皆の声がアパート中に響いていたが、最近ではそれが、

「ま、適当に」「そこそこ」「あんまり頑張り過ぎるな」「来年もあるよ」

の弱気の声に変化と遂げ、カパラとケイトに至っては、最初こそ、

「僕らの未来は、ケイイチの走りにかかってんだからな、頼んだぞケイイチ!」

そこまで言い切っていたが、ここ一週間は滅法弱気に、

「色々準備もあるから、直ぐ結婚ってわけにもいかないからなぁ」

「パパと約束の五時間完走は、うん、来年でも全然オーケーだからね、あんまり気にしないでね」

などと二人して言い出す始末で、啓一は周りのあまりの意気消沈ぶりに不安を覚えた。

まじでレースが近づけば、そのマラソンの辛く厳しい「実態」を初めてマスコミや知人友人から見聞きすると、次第にアパートの連中は全員の頭の中は不安でいっぱい、まるで結婚を前にした花嫁のごとくブルーな気分になってきた。

しかし、その中にヨシダの爺様だけは一貫して、

「啓一、ゴー・フォー・ブロークじゃ。当って砕けろじゃ」

ハワイに似合わぬ体育会姿勢に賢太郎も同調、盛んに、

「エイエイ、オー」

と毎日朝晩の応援練習で気勢をあげて啓一を元気づけた。


激励会の終わり間際、吉田の爺様が急に真面目な顔で立ち上がった。

「みんなにちょっと言いたいことがあるの」

ほろ酔い気分の中庭の空気がグっと締まり、皆の視線が吉田の爺様に集まった。

「ハワイのマラソンとて正式なスポーツ競技であることを忘れんようにな、皆の衆。啓一をしっかり応援するのはよろしいが、走るのが十四才の少年であろうと、我らの大事な仲間であろうとスポーツのルールは厳格に守らんといかんぞ」

それぞれのグラスを持つ手がピタッと止まった。

「マラソンの基本ルールは、なん人たりともランナーへの助力は禁止しとるからの。ただし、飲み物と食べ物の受け渡しはオーケーの」

「へー」

皆が合わせたように同じ反応を示した。

「ワシが心配しとるのはだ、頑張って走る啓一に興奮したここの誰かがじゃ、啓一に駆け寄って肩を抱くとか、マッサージをするとかは絶対にダメじゃぞ」

「助けるとどうなんの?」

もう、かなりのビールを飲んで赤い目をしたカパラが吉田の爺様に聞いた。

「失格じゃ。そりゃハワイのマラソンだから審判も甘かろうが、ワシはそれでは啓一の人生のためにはならんと考えたんじゃ。ルールは守りゃなスポーツの意味がないの」

なるほど、と一同が頷いた。

「しかし、ま、ルールで許された裏技もあるけんの。そ、『放り投げる』のはよろしいぞ」

「え、何、放り投げるって?」

さすがに啓一が気になって口を挟んだ。

「そうじゃな、たとえば、啓一が転んだとしよう。その時、ワシらが啓一の治療をしたらダメの。消毒液と包帯を手渡してもアウトじゃ。わかるか?」

一同、再び大きく頷くが、賢太郎だけは腑に落ちない顔をしていた。

「でも、ここがポイントじゃ、ワシらが地面に投げた消毒液と包帯を啓一が自分で拾い上げて、自分で治療するのはオーケーじゃ。わかったかの?」

吉田の爺様からルールに則った裏技サポートの手法の伝授にみんなは口々に感嘆の声をあげた。

「さすが伝説の一流アスリートだね、ジイチャンは」

とキャシーが言えば、吉田の爺様が首を振る。

「キャシー、そりゃ間違いの。ワシは、現役の一流アスリートよ」

と胸を張った。



十二月十四日、早朝四時。

アラモアナ公園からアラモアナ・ショッピング・センターには既に三万人ものランナーが集り、歓声と熱気と覚醒を天空に放出している。

マラソン競技は人生の喜怒哀楽、地獄から天国への苦悩と快楽のすべてのエッセンスをその数時間に詰め込む、はずなのだが、ここハワイのランナー達はみんなポジティブにブチ切れて、完全に「ハイ」になっている。

ちまたのマラソン大会で見られる修行僧のような暗い顔をしたランナーは誰一人いない。人はただ、ただ、「ゴール」の悦楽を求めて、この日を待っていたのだ。皆の瞳孔は完全に開ききっているようにも見える。

次第に雰囲気に飲まれ出した啓一も、何だか、いけそうな気分になってくる。一方でダメだ、ダメだ抑えなきゃ、と言い聞かせるもう一人の自分もいた。


海に向かって打ち上げ花火が派手に上がる。

ランナー達の嬌声は無限に、怒涛の興奮が一帯を包み込む。

啓一は、心がフワフワと踊りだす感覚に襲われた。啓一は突然しゃがんで頭を抱えて気を落ち着かせようと試みた。

昨日、トレーナーのヤマグチさんに、

「ケイイチ、絶対、忘れるなよ」

と徹底的に教え込まれたことを必死に思い出す。

「ケイイチ、とにかくスタート地点についた時点で、オマエは間違いなく舞い上がる。オマエだけじゃなくてほとんどのランナーが自己を見失う。冷静に!と言っても無理な話だ。とにかく一つだけ、一つだけ守ってくれ」

「はい」

「ケイイチ。それは、ゆっくり、ゆっくり走ること、絶対に押さえて押さえて、これでもかっというくらいに押さえて走ること」

「はい」

「歩いたって、ぜんぜん、かまやしない」

「はい」

「ケイイチ、マラソンで皆が失敗するのはランナーが周りのハイな雰囲気に圧倒されて自分が実力以上にできる気、走れる気になってしまうことだ。いつもよりもハイペースになった結果、そのランナーは途中で間違いなく力尽きる。これがホノルル・マラソンの魔力。これには注意だ」

「はい」

「で一番大切なこと、絶対忘れるなよ、ゴールは笑顔で!最後の最後は笑顔、スマイルだ。これですべてが救われる」

「はい。笑顔。解りました」

最後は笑顔で・・・啓一はどこかで聞いたような気がした。

「明日のスタート地点、凄い人だからな。もし、ラッキーだったらスタート地点で会おう」

昨日、ヤマグチさんは啓一とがっちり握手して別れた。

実際、スタート地点は啓一がこれまで見たことのないくらい凄い人だったので、啓一はヤマグチさんと今日ここで会うのは無理かも知れないと思った。


突然、海兵隊の戦闘機が三機上空を舞う。ランナー達の戦闘力をさらに奮い立たすが如く、天空を切り裂き、凄まじい爆音が啓一の脳髄を刺激する。

思い出した!

最後は笑顔で。

それは父親の最後の言葉だった。

啓一は天を仰いで大きく深呼吸、自らの健闘を誓った。


さっきまで一緒にいてくれたケイトの親父さんは、前方の四時間以内完走グループに移動した。啓一は六時間完走グループと書かれた看板の集団の中にいるが、沖縄県人会のチームもだいたいこの辺でというアバウトな待ち合わせなので、未だその姿を見つけられなかった。衆人の中の孤独、まさに啓一のマラソンは人生の哲学のごとくあって、間もなくその哲学の体感レースが始まろうとしていた。

体を冷やさないようにと頭からすっぽりかぶっていた大きなビニール袋を啓一は脱いだ。

ゼッケン「一二五三二」は涼しい風に揺れた。ゼッケンは昨日アンがシャツに縫ってくれた。ヤマグチさんの言いつけ通りに、他のランナーの邪魔にならないよう小走りにゴミ箱を探してビニール袋を捨てに行った。

シューズの紐に取り付けられた記録計測装置内蔵のチャンピオンチップを確認した。この固定位置が高過ぎると計測地点で機械に反応しないケースもあり、啓一はヤマグチさんに教えられた通り慎重に最後のチェックを果たした。

周りはまだ真っ暗だった。ライトにはランナーだけが照らし出される。肉体から放出された湯気があたりいっぱいに立ち昇る。

アメリカ国歌の演奏に今までの喧騒が嘘のように静まりかえった。

午前四時五五分、国家が終わると車椅子のランナー達が喝采の中をスタートした。


午前五時ちょうど、大砲の号砲が周辺に響き渡った。

それを合図に一般の部が待ち切れんばかりにスタートした。

大量の花火が海の方で炸裂した。

歓声と覚醒が沸き起こる。興奮が最高潮に達した巨大な集団がゆっくり動き始め、真っ暗な中をダウンタウンの方へ吸い込まれていく。

啓一は首から下げたお婆ちゃんがくれた真っ赤なお守りをしっかり握り締め、記念すべきマラソンの第一歩を踏み出した。


スタート、同時刻。

アパートのみんなの目も覚醒させ闇夜にギラギラ光っていた。もうすでにアパートを出て持ち場につく者、落ち着きなくドリンクの準備をする者。氷をクラッシュする者。まさにアパートあげての一大イベントだ。

十ヶ月前に日本から独りぼっちでハワイに渡ってきた少年の初マラソン挑戦、応援するすべての仲間は啓一の無事完走を神に祈った。


スタートのアラモアナ公園。カパラとケイトが必死の形相で、人、人を掻き分けスタート・ラインにたどり着いた。二人は啓一を探す。身長が百五十センチそこそこの啓一の姿は、その巨大な走る集団に飲み込まれ、どこにいるのか全く解らなかった。

「走れ!ケイイチ、走れー!ケイイチ」

カパラとケイトは巨大な動く暗闘に向かって、啓一に聞こえるように懸命に叫んだ。



啓一がスタート地点を通過するのに五分以上かかった。

啓一はスタート付近で、カパラとケイトの声が聞こえた気がした。しかし、二人を探すゆとりはなかった。凄い地響きを立て、人の川が流れていく。小さい啓一は揉みくちゃにされ、この渋滞を抜けてちゃんと周りのランナーと間合いをとって走れるようになるまで二十分以上かかった。

先に行きたいが、行けないもどかしさが暫く続いた後の解放は、ランナー達のペースを著しく乱すが、啓一の入った集団は六時間ペースで完走を目指す集団だ。それほど前掛かる選手も存在せず和気あいあいとアナモアナ通りからアロハタワーを左に見てダウンタウンに入った。まだ周りは真っ暗だ。この辺りはオフィス街なので応援する人も少ない。しかし、啓一は五時間完走のことを考えれば終始この集団のペースについて行くわけにはいかない。


ダウンタウンを北上してキング通りに入る。啓一の目に突然、十メートル以上のトナカイとサンタクロースが飛び込んだ。数百メートルにわたって続く市庁舎のクリスマス・イルミネーション。一瞬、闇夜に忽然と現れた光の美しさに目を奪われた。が、それを楽しむ程のゆとりがあるわけではない。ただ一歩一歩一定のリズムで前に進み、カピオラニ通りに入る。看板はスタートから五キロ地点と表示してあった。


再びアラモアナ地区、ちょうどアラモアナ・ショッピング・センターの裏側を通過して、ワイキキへ向かい、カピオラニ通りからカラカウア通りへ走る。

角にあるコンベンション・センターの前に見慣れた二人の姿を啓一は発見した。それは闇の中、遠目からでも直ぐに解った。

大きな日の丸が左右に大きく振られドン、ドン、ドンと沖縄太鼓の音が響く。ヨシダの爺様と賢太郎だ。啓一はふと腕の時計見た、六時十分。きっと二人は今や遅しとこの場所で啓一を待っていたのだ、と思うと足取りも軽快に全身からエネルギーが湧き上がった。

賢太郎は「神風」と染め抜かれた鉢巻を締め上げ、沖縄県人会館から拝借してきたであろう太鼓をドン、ドン、ドンと、周りをはばからず大きく、大きく叩く。

ヨシダの爺様は必勝の鉢巻、袴姿にタスキをかけて賢太郎の叩くリズムに合わせて日の丸を振る。二人が啓一の姿を確認した時から、

「啓一、ゴー・フォー・ブロークじゃぁー」

ドン、ドン、ドン。

「啓一、当たって砕けろじゃ」

ドン、ドン、ドン。

「啓一、走るんじゃ、負けるでないぞ」

ドン、ドン、ドン。

コンベンション・センターからアラワイ運河まで約百メートル、二人は啓一と併走しながら応援を続けた。啓一は二人に向かってニッコリ笑って両手を何回も、何回も挙げて二人の声援に応えた。

運河に掛かる橋の途中で二人はついに力尽きた。それでもヨシダの爺様と賢太郎は、啓一の後ろ姿が見えなくなるまで日の丸を振り、太鼓を叩いて精一杯の応援をし続けた。

「啓一、頑張れ」

ドン、ドン、ドン。

「啓一、頑張れ」

ドン、ドン、ドン。

「啓一、頑張れ」

ドン、ドン、ドン。

この時ばかりは周りにいる観客は選手にではなく、日の丸を振る老人と障害を持つ少年の二人に大きな声援を送っていた。橋の欄干で倒れこんだヨシダの爺様と賢太郎の二人にボランティアからミネラルウォーター、オレンジ、冷えたスポンジが次々手渡された。その都度、肩で息をしながら二人は律儀に頭を下げた。



ワイキキに入ると沿道の観客が急激に増えて、さかんにランナーに声援を送る。送られる側の啓一はこの初めての経験にスポーツ選手としての快感を覚え、ワイキキのメインストリートを走り抜ける。夜が明けぬ闇夜に規則正しく並んだオレンジ色の街頭の光、ホテルのイルミネーション、沿道を埋める観客の熱気、走るランナー達の輝く汗と舞い上がる蒸気、このコントラストはまるでセピア映画のワンシーンのような不可思議なエネルギーを発する。

ワイキキを抜けてカピオラニ公園に入れば十キロ地点通過だ。ここカピオラニ公園はゴール地点でもあり、すでに完走者Tシャツ配布用から協賛スポンサー、救護、マッサージ、食べ物飲み物、トイレまでのいくつものテントが建ち並び、あと一時間後から続々と来るであろう数万の完走者を優しく迎える準備をしている。

レースはここからハナウマベイの手前、ハワイカイまでの行って来い。スタートしてから一時間二十分経過、啓一にとってはまずまず予定通りのレース運びだった。足の張りも練習に比べてそれ程でもなく、ひょとしたら五時間完走もできるかも、と淡い自信が啓一の脳裏をかすめた時、先の方から啓一、啓一と叫ぶ声が聞こえた。

ホノルル動物園の横で山村さん、陽子さん、アンがそれぞれに「ケイイチ、ファイト」「頑張れ、日本男児」「大和魂」などと書かれたプラカードを頭の上に掲げて啓一を応援する。アンが慌てて大きなアイスボックスの中から冷えた水とスポンジを取って、啓一に投げた。啓一はゆとりの笑顔でナイスチャッチ、頭にギュッと力一杯絞って顔を拭った。

山村さんはカメラ片手に、

「啓一、カッコ良いぞー、俺は感動したぞー」

歩道を啓一と並走しながら大声で叫んで応援する。

でっかいアイスボックスの中にたくさんのスポンジを用意したアンは、後続のランナー達に、

「あの子をよろしく、あの子をよろしく!」

大きな体を揺らしてと啓一を指差す。

それをアメリカ人のランナーも日本人のランナーもみんな、

「オッケー」

「ありがとう。任せて!」

とニッコリ笑ってアンの抱えるアイスボックスからスポンジを器用に取った。

奥さんの陽子さんはなんだか理由はわからなかったが、感動で胸が躍った。


カピオラニ公園にはハワイのテレビ、ラジオ局の放送テントも並んでいる。行きは山側を通り、ゴールは海側に入る。

アーチェリー場の横を啓一が通過しようとすると、HNBCのワンボックスの中からマイクを持ったキャシーが走り出して来た。啓一にマイクを向ける、

「皆さん、今、私の前を十ヶ月前にたった一人で、日本からハワイにやって来た十四才のサムライボーイ、ケイイチが走っています、一生懸命頑張ってます!」

キャシーは洒落たバナリパのスーツにランニングシューズだ。

「ハイ、ケイイチ。頑張ってる?」

「思ったより、好調だよ。メチャ、楽しいよ」

キャシーも走る。

「ケイイチが五時間で完走すると、なんと私達の仲間の結婚が親御さんから許される約束になっています。ケイイチ、五時間で走れる?」

「頑張ってみる」

「オーケー、でもあんまり頑張り過ぎないようにね。まだ先は長いし、来年も再来年もあるからね」

「うん」

「ケイイチのお婆ちゃんが言っていた、やめる勇気、忘れちゃダメよ」

「オッケー」

「ケイイチ、辛くても下見ちゃだめ、胸張ってね!」

啓一はキャシーに大きく手を振ってカピオラニア公園を抜けた。

空の向こう側が濃紺から紫色に変わってきた。

キャシーはマイクを握り直して、

「今、ゼッケン一二五三二、ケイイチがダイヤモンドヘッド・ロードに消えて行きました。これから高低差三十メートルの辛い二キロあまりが続きます。皆さん、彼を見たら熱い声援をよろしく!以上、カピオラニ公園第四中継地点からケイイチと同じアパートのキャシー・チンがお送りしました」

HNBCの画面はトップを走るランナー、ケニアの選手の映像に変った。



啓一はダイヤモンドヘッドをひたすら登っていく。一時間四十五分が経過した。空の色が急激に変化する。濃紺は深い紫に変わり、そして輝く紫に変化する。やがてコバルトブルーから朝のオレンジ色に変わって、太陽が顔出す。海が大きく光り、空はハワイアンブルーへと刻々と変化する。

荘厳なハワイの朝は、太平洋の大海原をキャンパスがわりに壮大な芸術作品を写し出し、見る者すべてに感動を分け与える。これがホノルル・マラソン、闇夜から輝く朝日への時空の変化を超体感する醍醐味だ。


海から吹き上げる風が急に強くなってきた。啓一は今日初めて「走りにくい」と感じた。歩幅をやや小さくして登り坂を走る、顎を引いて背筋を伸ばして前へ前へと歩みを進めるが、次第に息が切れてくる。

コースの反対をいち早くスタートした車椅子選手のトップ集団がすれ違った。凄い早さに自分の疲労感を一瞬忘れ、大きな爽快感が啓一の体を刺激する。

まもなく十五キロ地点。

「あ、チャチだ」

啓一はチャチの姿を発見した。チャチも啓一を確認したようだった。太ったチャチが汗ビッショリになりながら、大きく手を振って駆け寄ってきた。

「ケイイチ、どうだ?」

「うん」

啓一は笑顔で答えた。チャチは並んで走りながら啓一の頭からスポンジに湿らせた冷たい水をかけた。啓一の疲れが飛んでいく。

「ほら、これ、エナジー補給」

今度は、デイパックの中からバナナと水を出した。啓一はバナナを手に取り、あっという間に一本食べた。次に水を取って飲み、残った半分を頭からかけた。

すると突然、快調に見えた啓一が止まった。そして思い直したように再び走り出す。それを三回繰り返した時、さすがにチャチが啓一に慌てて駆け寄った。

「ケイイチ、どうした、え、大丈夫か、ちょっと止まろう。ストレッチした方がいいんじゃ・・・」

「いや・・・チャチ、違うんだ」

「どうした?」

「ト、トイレ・・・」

「え、トイレって、大きい方か小さい方か?小さい方だったらそこの木の・・・」

啓一がチャチの言葉を遮って、

「いや、大きい方」

チャチはこの周辺の公園、マック、ジッピーズ、ピザハット、仮設トイレまでのあらゆるトイレの探索に脳細胞を一気に集中させた。

答えはゼロ。ここから先はハワイを代表する高級住宅地、公園もファーストフード店もなかった。

「おい、ケイイチ。悪いが、ないぞ、トイレ」

「悪いってチャチは悪くないけど・・・」

「そこのお屋敷にでも頼むか?」

「い、いや、それはちょっと・・・」

「なんだ恥ずかしいのか?外でやっちまうよりましだろ」

「そうは言っても・・・」

「じゃ、我慢できるのか」

「な、な、なんとか今は。ひと山去った・・・」

「じゃ、ふた山まで我慢できるか?」

「たぶん・・」

「たしか・・・」

チャチは携帯電話で二十キロ地点に待機しているチェルシーに電話し、トイレの手配を頼んだ。

啓一は再び歩き出した。

「ここから一マイル頑張れ、ケイイチ。この先、ダイヤモンドヘッドを下ったところにチェルシーが待ってるから、そこまで何とか堪えろ」

「ありがとう、チャチ」

「チェルシーがトイレを探しておいてくれる。それと、マラソン中にトイレに行って用を済ますのはルール違反じゃないかも確認しておいてくれる」

「わかった」

啓一は多少収まった便意と戦いながら、ダイヤモンドヘッドを下る姿勢をとって走りだした。

「ケイイチ、ちょっとの間だ、我慢しろ!」

チャチは啓一の姿が見えなくなるまで啓一の背中に叫んだ。

啓一はそのたびに片手を挙げてチャチの声援に応えた。しかし、我慢!我慢!との声援に啓一は恥ずかしさ、便意、それに疲労感が合い交わって振り返る余裕はなかった。


チェルシーは電話を切って急いで自転車でカハラに設置された救護テントに向かった。

トイレの場所を聞くまでもなく、テントの裏に青い仮設トイレが十戸以上並んでいた。

さっそくルールを確認してもらった。

問題無し。ただし、コースアウトしてトイレに行った場合、コースアウトした場所から再びレースに復帰すれば問題無しとのこと、チェルシーはホッと胸を撫で下ろした。


啓一がカハラに向かって坂を下ると、チェルシーが大きく手を振って飛んで来た。

「大丈夫?」

「何とか」

「ほら、あそこ。エイドステーションの裏、トイレよ」

「あー良かった・・けど、失格になるのかなぁ。ウンコで失格なんて恥ずかし過ぎる」

「ははは、そりゃそうだけど、大丈夫。コースアウトした場所からコースインすればね」

「五時間を切るのは無理かなぁ・・・」

「ケイイチ、当たって砕けろでしょ。今から諦めてどうするの」

数人のランナーがトイレの前に並んでいた。しかし、この時ばはチェルシーは強引に啓一を割り込みさせることは遠慮し、一方、啓一は修行僧のような表情でその時を待った。


数分後、すっきり爽やかな表情に打って変わった啓一がレースに復帰した「さぁ、ケイイチ、リスタートよ。頑張って!」

チェルシーに背中を押されるように啓一はカハラ地区の高級住宅街を抜けてカラニアナオレ・ハイウェイ、四車線の自動車専用道路に出て、折り返しのハワイカイを目指した。

二十キロ通過。向かい側からトップ集団の選手達が早くもすれ違う。マラソンの一流選手の筋肉は刃物のように鋭く輝く。その力強さと美しさは尊敬に値すると啓一は目を見張った。



前方にポッコリかわいいクレーター、ココヘッドを臨む平坦な海沿いの道は、やがて昇っていく太陽の照り返しもあって、その熱さがランナーを苦しめる、この辺りから足が動かなくなったランナーが点々と姿を見せる。側道に座り込むランナーも多い。陽は完全に昇り、灼熱の地獄が始まる。ランナーの苦悩とは裏腹にボランティアと周辺の住人達の応援はますます脳天気になっていく。

向こう側をゴールに向かってケイトの父親、プロフェッサーが走ってきた。

啓一を見つけ、逆走しながら啓一の横に来て注意を与えた。

「ケイイチ、最高だ。でも無理するな。水をどんどん飲むのを絶対忘れるな。水だぞ、水」

ポンと啓一の肩を叩いてゴールへ向かう復路コースに戻った。しばらく、啓一はまた黙々と走る、しかし、だんだん啓一の足が上がらなくなってきた。ホースで水をかけてくれる人、手作りのクッキーを配る人、バナナを配る人。歌う人、踊る人。ビールを勧める人たち。喧騒の中、必死に走る啓一はついに半分をクリア、二十一キロ、十三・一マイルの看板を見た。


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