第7話

夢は捨てずに、いつも心に太陽を


結婚式もなく、葬式もなく、スクールもなく、訪問者も、そして、波もない土曜の昼下がりにボクはよくアパートに顔を出した。ここ数週間、賢太郎がワイキキにパトロールに行こう、行こうとボクと啓一をさかんに誘う。

夏休みに入り日本人観光客が大挙してワイキキを賑わしていた。それが賢太郎には、どうにもおかしく見えるらしい。

「なんで日本人、ハワイ、怖い顔してあんな買い物ばかりしてる?」

賢太郎の疑問は、せっかくハワイに来たんだから買物なんか止めて、きれいな海で遊べばいいのにと言う。啓一も賢太郎のその意見には賛成だった。たまのワイキキパトロールは、そんな人間ウォッチングが目的だった。

ボクら三人はロイヤルハワイアン・ショッピングセンターのベンチに座ってサーティーワンのアイスを頬張りながら、街行く買物中毒の白くて赤い日本人旅行者を観察していた。


ボクらがワイキキパトロールからアパートに帰ると、キャシーがのんびりコロナにたっぷりのライムを入れて飲んでいた。それも、驚くことにここ二週続けてだ。

ここ数ヶ月、図書館通いと自室で論文執筆、パソコンで目も肩もやられストレス火の玉と皆に言い放っていたキャシーだったが、かなりのんびりしている。

「あれー、キャシー、今日も昼からビール!やっと学問に飽きてくれたか」

「ははは、勉強は脳のスポーツなの、凄く体力使うから休ませないと。そうだ、ノーマン、たまにはジョンドミノスとかロイズとか、高級レストランにでもデートに誘ってよ」

どうやら論文は無事に終わったらしい。今日のワイキキの状況を賢太郎と啓一が一生懸命にキャシーに説明しだした。

キャシーだってワイキキ通りを賑わすプラダだグッチだシャネルだのブランド品は欲しくない、と言えば嘘になる。もちろん、大いに興味はある。でも、今の自分にはヨーロッパの高級ブランドは似合わないと思っていた。第一そんな物を買うお金が無かったし、アン・テーラー、アバクロ、ビクトリア・シークレット、ちょっと気取った場所にはバナナ・リパブリックあたりで充分だった。



キャシーは三つの奨学金制度を利用して大学に通っていた。一つは成績優秀者に認められる地元の篤志家が拠出する「デリングハム財団奨学金制度」。これは基本的には返済不要であったが、ただし、高校三年間の平均成績が五点満点で四・五以上。大学に入ってからもAが七割以下になると給付が停止する。もう一つはホノルル市の制度で、これは所得レベル条件と高校の三年間の平均点が四点以上の成績で貰える奨学金、こっちの方は三十才から十年間利息無しで政府に返済していく契約。三つめは、州政府とハワイ大学の共同奨学金、これは高校と市の推薦が必要だが、これもキャシーは州の教育委員会満場一致で推薦されて獲得した。


大学は日本とはかなり違う面白いシステムで、各大学は完全ネットワークされ、それまでの取得単位を持っての大学間の移動が可能であったし、短大から四年生大学への編入も、もちろん、同じ大学内の学部間の移動なんぞはごく当たり前のことだった。

キャシーが最初に入ったのは国際貿易キャリア・ウーマンを目指しての「経済学部」であったが、二年の時に取った授業「戦争心理学」に大いなる興味をそそられ人生の進むべき道を百二十度ばかり変換した。何故人間は戦争をするのか?マクロ的には「民族・宗教戦争」、ミクロ的には「日々の争い、夫婦ケンカ」に対峙する民族意識、心理状態の分析、また、その逆に争い事を回避しながら平和を求める=まさにハワイ人の持つアロハ・スピリッツの「平和主義」の本質を分析していく学問。簡単に言えば、つまりどうしたら地球上から戦争が無くなるか、を解析する学問であり、「争い事を好まないハワイ人的視点」としてキャシーが目覚めた研究の課題であった。

しかしながら、三年に進級し心理学部への転籍の手続きに入る前にキャシーは一つだけ絶対にやっておかなくてはいけないことがあった。それは祖母のアンだけに任せていた生活費の負担の軽減だった。キャシーは多くのアメリカ人学生が当たり前にするように学校に二年間の休学届を提出し、奨学金のスポンサー団体にも二年間の学業休止の事情を記した書類を提出し、なんとハワイアン航空の契約スチュワーデスに就職した。

そして、二年半後にまた大学に戻った。キャシーは予定より半年長く二年半をハワイアン航空に勤めて、翌年の一月に大学の三年生に復学した。アメリカの大学授業は三期生なので入学は九月とは限らず、一月、四月と年三回出入り自由であった。それが普通に許されるのもアメリカの大学であり、アメリカ社会なのだ。



アンは中国系二世七十五才。キャシーは四世、今年で二十五才になる。アンはキャシーの母方の祖母にあたる。アンのルーツは台湾からの移民であった。キャシーの実家はハワイ島のヒロにある、今は「あった」と過去形の表現の方が正しいかもしれない。両親は数年前にアメリカでは良く見られるパターンの当たり前に離婚。キャシーはヒロで高校を終えた夏、ハワイ大学モアナ校への進学を決め、オアフ島に出て来た。それから孫と祖母の二人三脚の生活が始まった。一人いる兄のジョーイは空軍のパイロットで去年まで沖縄にいたが今はグアムの基地に勤務していて、イラクだかアフガン対策でこれからインド洋に浮かぶ予定とメールが来ていた。

母親は五年前に空軍のパイロットと再婚して今は沖縄の嘉手納に住んでいる。この旦那が兄ジョーイの元教官だったから笑える。キャシーは一緒に沖縄に住まないか、という母と継父からの誘いはいつも断った。

父親はヒロでタクシー会社を経営している。新しい奥さんを貰ったのは離婚して確か三年目の春だった。今は二人の子供に囲まれて、つまりキャシーの異母兄弟達に囲まれて暖かい家庭を持っている。年に一度、父親ファミリーは、大都会のホノルルに遊びに来ていたが可愛い異母兄弟と継母ともキャシーも、それに血のつながりの全くないアンまでさえも仲良く楽しい時を過ごしていた。これもアメリカである。数年前、父親と継母がキャシーに同居の誘いもあったが、この時も断った。


日系人同様に中国系のアメリカ人も移民初期には酷い迫害、差別に悩んだ。結果として子供たちへの白人同等それ以上の教育の施しに力を入れた。二世の祖母アンが四世のキャシーには徹底的に勉学にいそしませて「末は博士か大臣」に育てることに己の人生と一族の名誉を賭けての夢であり、祖母の生きがいであることは間違いなかった。

この熱き祖母の思いはキャシーにとって励みにこそなり、過度な期待は決して負担になることはなかった。それだけキャシーは自分自身に自信があったし、勉強はスポーツやファッション、恋愛などと同一線上の楽しいゲームの一つだった。だからこそ自然に無理せず成績は上がる。しかし、厳しい学問の世界に身を投じれば減るのがバイトの時間、まさに二律背反。いつも経済的負担をかけるのはアンになってしまう。その辺を気にしてキャシーはアンに相談するのだが、

「何の問題も無しよ、私は働くのが好きだし、別に貴方の為に働いているわけでもないしね。貴方は貴方でやるべきことがいっぱいあるんですから、そっちをちゃんと頑張って。そんなに気にするんだったら、貴方が大先生になった時にまとめて返してちょうだい。しっかり利息もつけてね」

いつも具体的解決策を見出せずにキャシーは煙に巻かれてしまう。キャシーが強行に大学をまた休学とか、辞めるなんて言おうものなら、アンはいつも泣き出して抗議する。


飛び抜けた成績でキャシーの将来は、教授陣からも大いに期待されていた。

一ヶ月程前、担当教授と副学長に呼ばれた。話は東海岸の著名なボストン大学の大学院へ是非にとの誘いであった。今までのいくつかのキャシーの論文をボストン側が目にしたラブコールだった。潤沢というわけでもないが奨学金もでる。キャシーにとってこの誘いはハワイを飛び出し、アメリカ本土、いや世界舞台で活躍できるビッグ・チャンスに間違いなかった。

アンにこのことを相談した。もちろん大賛成だった。自分のことなんか気にしないでこの人生のチャンスを活かすべきであると主張し、

「チャンスを逃せば必ず後で後悔してしまうでしょ、私は貴方が後悔する姿なんか絶対見たくないからね」

と言い切った。この報に接した山村夫妻もチェルシーもチャチもカパラもケイトもヨシダの爺様も、アパートの面々は我がことのように喜び、我が一族のことのように誇りを抱いた。しかし、キャシーはとっても行きたくも、何かが胸の奥にひっかかる。

自分だって十二月の誕生日がくれば二十五才。もう社会に出てバリバリに働いている時期であり、結婚して母親になっていても全然おかしくない年頃である。甘えてばかりではしょうがない。とはいえ、アンのキャシーに対する大きな期待、希望は痛いほどわかっていたし、それに応えるように今まで生きてきた。高校卒業と同時にこの居候を受け入れてくれた大きな恩もある。大学院、アン、自分。お金、将来、東海岸、ボストン・・・思いは巡るも結論は出ないまま時間が過ぎる。遅くとも八月の終わりまでの返事は必要だった。



ホノルル・インターナショナル空港は二十四時間開いている。太平洋の真ん中に浮かぶ島にはロンドン、パリ、ハンブルク、シンガポール、香港、日本、韓国等々世界中の国々から多くの夢と期待を乗せてやってくる。時差の関係か、ニューヨーク、ワシントン等の東海岸からの飛行機は夜中の到着が多い。朝でも昼でも夜中でも変わらないのはハワイ独特の香りの出迎えだ。飛行機を一歩出ればココナッツと花々の甘い香りが風に乗って鼻先をかすめ、まず人々は楽園気分をここで実感することになる。

そんな楽園夢物語の協奏曲が流れる入国管理事務所の通用口に一台の救急車が横付けされた。今日は特に暑い一日だった。しかしながら空港内の空調は凍えるほどに冷えていた。

深夜三時半。突然、胸の痛みを訴えその場に倒れこんだ入管警備を担当していた女性は、二人の救急救命士の手によって丁寧にタンカに乗せられ、ベンツの救急車でホノルル・セントラル病院に搬送された。

二十四時間開港しているホノルル空港の管理は一日三交代の勤務体制で回されていた。救急車の中では女性の胸に下げられていた入港証も兼ねた身分証明書を救急救命士が見ながらその名前をカルテに書き取った。名前はアン・ジェイド・チンと記された。血圧が百九十と二百七十を指し、誰の目にも異常であることがわかった。

十五分で病院に到着した。酸素マスクと点滴が施されたアンを乗せたストレッチャーは集中治療室に消えた。


キャシーの住む二〇三号室のリビングの電話がなった。

ベルが二十回鳴ったところでキャシーが隣室のベットルームをやっと這い出し、受話器を取った。入国管理事務所からだった。眠気が吹っ飛び「こんな時間の電話は悪い知らせ」の予感が脳裏をよぎった。そして、数秒後、嫌な予感が的中した。

まずはキッチンに行って、頭をシンクに差し入れて思いっきり水道の蛇口を開けた。まさに頭を冷やすことからキャシーは始めた。次に冷蔵庫を開けて冷えたジャスミン茶のボトルを一気に飲んだ。

つぎにキャシーは「冷静」を自分自身に言い聞かせながらパジャマからTシャツとジーンズに着替えた。髪の毛を乾かす気はのっけから無かった。病院に行く準備は完了した。

ここはママに連絡すべきかと考えた。しかし、沖縄にいる母親に知らせたところで物事の解決には至らない。兄は今、インド洋上にいる、とメールで一昨日知らせてきた。

さぁっと時計を見た、もう四時を回っていた。まだ、夜は明けてなかった。ドアを開けて廊下に出た、ちょうどバイト帰りのカパラの車がエンジンを切ったところだった。ブルルン、ブルルンと残り余韻が消えていく。

隣の二〇二、ヨシダの爺様のドアが突然開いた。賢太郎も一緒だった。

「どうした、キャシー」

「どうしたって、どうしたの、ケンタもジイチャンも。二人でこんな朝から」

「釣りに行くの。今から賢太郎とケアロ湾に行くところさ」

賢太郎もうなずいた。

「キャシーこそどうした、こんな朝早く」

キャシーは我慢していた涙が一筋不覚にも流れてしまった。賢太郎は心配になってキャシーの手を取って、泣かないでくれ、と頼んだ。

「どうした、キャシー。アンになんかあったとか?」

キャシーは泣きながら答えた。

「アンが倒れたの、空港で。心筋梗塞だって」

「そりゃいかんの。釣りどころじゃないの。病院は?」

「救急車で運ばれて今、セントラル病院」

「じゃ、一緒に行こう、さ。タクシーが一番かの、この時間はの」

カパラが驚いた顔でこっちを見ながら階段を上がって来た。

「どうしたの。こんな朝早く、三人揃ってよ」

カパラの問いに賢太郎が必死に状況説明を試みる。キャシーの涙からもアンにトラブルが発生して病院ということがカパラにもわかった。

「さぁ、俺の車で出発だ、急ごう」

とカパラが先陣を切った。

キャシーは夜中のバイトで疲れ切ったカパラに遠慮して、

「タクシーで行くから、カパラいいよ。大丈夫だよ。ありがと」

「何してんの、早く」

カパラは取り合わず、人差し指を立てて左右にノーノーと振った。賢太郎もカパラと先頭に立ち、キャシーに早くおいでと指図した。ヨシダの爺様が、

「ノー、賢太郎は留守番の。夜が明けたらの、皆にこの状況をちゃんと説明してくれの。賢太郎はここに残っての」

賢太郎を残して三人で病院に行くことにした。しかし、賢太郎は「自分も行くのだ!」とハッキリ意思を表示した。キャシーも、

「ケンタ、ありがと。ケンタはここに残ってね、パパママ心配するからね」

と賢太郎に強く言った。しかし、珍しく賢太郎は大きな声を出して言い返した。

「ダメ、ダメー」

賢太郎はキャシーとヨシダの爺様の制止を聞かずにカパラの車に乗り込んだ。


タイヤが激しく軋む音を残してカパラの車、もうハワイでしか見ることがないような黄色のボロボロのカルマン・ギアはバタバタと独特のエンジン音を轟かせ、カピオラニ通りを西に向けて疾走した。助手席で乗り込んだ賢太郎はどこで覚えたのか、両手を組んで何かをブツブツ言いながら祈っていた。

開けっ放しの窓から夜と朝の間を吹く涼しい風が生乾きのキャシーの黒髪を躍らせた。彼女は腕にはめてきた太目のゴムで髪をしっかり、きつめに束ねた。



五時過ぎに夜が明けた。

集中治療室の前のベンチに四人は並んで座っていた。五時半頃だろうか、治療室の中から三十代の白人の医者が出てきた。

「アンの様態は?」

皆がいっせいに聞いた。賢太郎は上手く喋れないので、その思いを医者の腕を取って表した。医者はこの急患に付き添っていたグループの関係性の理解に時間がかかったのか、各人に視線を投げかけ口ごもる。

「この子は、空港から運び込まれた患者の孫娘のキャシーじゃ。で、わしら三人はアンとキャシーの友達グループってところでの」

賢太郎とカパラが納得したようにウンウンとうなずいた。医者は安心したようにキャシーに向かった。キャシーは祈るような気持で医者にすがったが、怖くて唇の震えが止まらない。目も真赤に充血していた。

覚悟を決めてキャシーは念を押すように医者に聞いた。

「祖母の具合は・・・命は・・・」

「心配ないですよ。命に別状はないです。軽い心筋梗塞ですが、多分、かなりの高血圧症でしょう。それが主因になって過労やクーラーで体調を崩していたところにストレスとか、ま、いろいろな原因で心臓に負担がきてしまったんです。運ばれた時は血圧が異常に高くて心配しましたが、電気的な刺激と血圧を低下させる点滴を投与して今は薬で眠っています。二、三時間ここで様子を見ますが、大きな変化がなければ一般病棟に移します」

と医者は一気に現状の報告を喋った。一同は胸を撫で下ろした。

「よかったぁ・・・」

キャシーはソファーに思いっきり腰を下ろした。賢太郎がキャシーの頭を優しく撫でてあげた。医者はジョン・ハッキンソンと自己紹介して、

「詳しいことは入院手続きの後にでも」

青い医者の制服をひるがえして医局に去って、替わって看護婦がやって来た。

彼は心臓外科の専門医で、ちょうど今日が夜勤だったのは軽い心筋梗塞とはいえ凄くラッキーだったわね、と看護婦がキャシーに小声で言った。

しばらくすると、四人はアンとの面会を許された。


病室に入ると静かに吐息をあげてアンが寝ていた。四人は黙ってアンを見入った。酸素吸入器と左腕に点滴が付けられている。枕の上にはあるモニターには脈拍と血圧の一刻一刻の数値が映し出されていた。

キャシーはアンの手をそっと握った。

次の瞬間、キャシーの心に小さな衝撃が走った。

ひどくゴツゴツした感触。アンの手が想像以上に荒れていた。

キャシーはこのショックはここに一緒にいる三人にさえも伝えられなかった。目の前が真っ白にクラクラしてきた。貧血、今度はキャシーが倒れてしまう。カパラが瞬時に上手く抱き止めてベンチに寝かせた。すると、ヨシダの爺様が、

「そりゃ、疲れたのだろう、ショックでの。キャシーも少し休んだ方が良いの」

「あ、大丈夫、大丈夫よ。ジイチャン、ほんとに」

キャシーはすぐに気丈に起き上がる。しかし、今度はカパラが、

「一回アパートに帰って、シャワーでも浴びてちょっと休んで出直そう、キャシー。アンの着替えとかも持って来なければいけないしさ」

一度アパートに戻ることを提案した。キャシーは自分の卒倒が決して疲れや入院のショックのせいでではないのを知っている。原因はあのアンの手の感触。

「みんなは帰って、休んで。もう、私一人でも大丈夫だし、ね」

そんなキャシーの提案にも、誰も首を縦に振らなかった

ヨシダの爺様、カパラ、賢太郎の三人は取りあえずアンが目を覚ますまでここに居て、起きたらアンと少し喋って安心させてから、入院手続きなどをしてから家に帰ることにした。


ちょうど午前九時にアンが目を覚ました。それまで四人はベンチに座っていた。キャシーは気を利かせて二回コーヒーを買ってきた。賢太郎にはアイスミルクティを買った。ちょっと安心すると小腹が減ってきた。帰り道にチャイナタウンでお粥でも食べて帰ろう、と話すほどにキャシーにゆとりが生まれていた。

キャシーには、今、ある揺るぎない決断が浮かんでいた。



アンは二週間の予定で入院することになった。

高血圧症の治療、これはもう一生の付き合いが必要であり、すぐに完治する病気では決してない。生活習慣病であり、治療には食事療法と運動が重要で何よりも肥満は大敵である。入院中は点滴で血圧を下げて、退院後は病院内で行われるダイエットを兼ねたリハビリに一日おきに通うこと、こんな治療計画を清潔な六人部屋の病室、窓側に寝ているアンと付き添うキャシーの二人に主治医になったハッキンソン医師が説明し、

「汗かきの人をどう治療しようが、汗かきは治らない。暑くて汗のかきそうな場所に行かないことが汗かかない一番の良薬。高血圧症も一緒。血圧が上がることはしない、上がるものは食べない。薬はそういう努力をただバックアップするものね。頑張って、アン」

親指と小指を立てた手を振るハワイの挨拶をしながら彼は笑顔で病室を出て行った。


数日後、キャシーは教授にボストン大学の大学院への道を断る電話を入れた。

残念がる教授は、電話では何だからと翌日大学に顔を出すようにと言った。

翌日、教授は研究室に来たキャシーの最終的な決意の固さに納得し、キャシーの意を汲んで進学辞退を快く受け入れた。

「ボストンへの道は繋いでおくから、いつでも大学に戻ってきても構わないからな。ま、ゆっくり社会勉強を積んできなさい。これも心理学には必要さ」

とキャシーを励ました。そうと決まると次に解決しなければいけないのが、ここハワイでの就職の問題だ。キャシーは、ビジネス社会に遅めのデビューをしなければならなかった。前に一時勤めたハワインアン航空は今、リストラの真っ盛りにあった。さっそく教授には就職口の斡旋を宜しくと頭を下げて頼んでおいた。

「さすが、キャシーだ、この機転の速さには感服させられるね」

教授は苦笑しながら就職斡旋の約束をしてくれた。

沖縄の母親への報告は電話で済ませた。キャシーの母親は直ぐにでも軍用の定期便を使って飛んで来ると言ったがそんな大げさじゃないから、今度のクリスマスに長い休みを取ってちゃんと来るように頼んでおいた、たぶん私もハワイにいるから、と。

「え?ボストンでしょ」

母親の問いに、

「ノー」

ボストンに行くのはやめたことを伝えた。母親は笑って言った、

「アンは怒るんじゃないの。ま、でも、貴方が自分で決めたことだからね、頑張ってね。でも、そう、キャシー、いい女はね、絶対、夢を捨てちゃだめだからね」

「オーケー、ママ。ありがと」

離れて暮らしていても親子は親子、信頼の絆にこれ以上の会話は必要なかった。

自分の夢、ボストン、お金、大学院、エリート、いろいろな悩みの末の結論は、今の生きる道は「恩返し」、自分の愛する祖母、世話になりっぱなしのアンの手を昔のようなスベスベの手にしてあげることだった。だから、キャシーはアンのそばに居ることを選んだ。


三日後、大学から二、三の就職口の話があるから履歴書を持って来るようにと電話がかかってきた。

キャシーは大学の推薦状を持ち、難しい心理学の本の代わりにファッション誌を小脇に抱え、アラモアナの裏手にあるHNBCというテレビ局に契約キャスターの面接に行った。

数日後、合格の通知が届いた。給料はそんなに良くないが、三年の契約制だった。新人にとっては悪い話ではない。人生もまんざら捨てたものではないかと納得し、変わり身の早さは女の特権かも、と感じながら、我ながらの強運に自分を称えた。



退院の日、アンがキャシーに聞いた。

「キャシー、ずいぶんと時間とらせちゃって悪かったわね。で、貴方はいつボストンへ発つの?もう、そろそろ行かなくっちゃいけないんだろ」

「・・・」

今まで何回か聞かれていたが、適当にごまかしていた。しかし、今日は家に帰ってくる。部屋の本が心理学の本からジャーナリズム関係の本とファッションの雑誌に変っているし、アパートの連中はもう承知済だからアンを騙し通すのは不可能だ。

キャシーはアンの荷物を両手に持って廊下を歩いた。先生、看護婦達に挨拶を済ませて入院費用をとりあえず自分のアメックスで払った。玄関を出て、借りてきた山村さんのワゴンが停めてあるパーキングに向って歩きながらキャシーは遠くを見て答えた。

「ボストン行くのやめたわ」

「?」

「断ったもん」

「冗談でしょ」

「ホント」

ボストン行きはひとまず中止で、ハワイに残ってテレビの仕事をすると告げた。アンは、

「オー」

立ち止まって、天を見上げて両手で顔を押さえた。怒ったかどうか、今、キャシーには解らなかった。しかし、間違いなくアンの血圧は急激に上昇したことだろう。

アパートに帰る車の中、会話はなかった。なんだか気まずい空気が流れ始めた。


その晩、退院祝いのパーティが中庭で開催された。カパラの友達の船長ブラッディがマヒマヒにアヒ、それに大きなロブスターをたくさん持ってきた。当分、アンは肉類はダメなので今宵はちょっぴり薄味の豪華な海鮮バーベキューになった。

大事に至らなくて良かった、良かったとみんな口々にアンのウーロン茶の入ったグラスに自分達のグラスや缶をカチンと当てた。キャシーは極力会話の輪には加わらず、今日は焼き手に集中した。

九時過ぎ、パーティは終わった。皆がそれぞれの部屋に帰っていく。キャシーが先に部屋に戻ろうとした時、珍しくアンが、

「ね、キャシー、夜の海に行かないかい、今日は満月だよ」

キャシーを誘った。

「オーケー。何年ぶりだろーね」

キャシーは山村さんの部屋を訪ねて車のキー借りた。

「ほー、アンと海!そりゃ珍しいね、ナイスだ」

山村さんが小さくウィンク。賢太郎も一緒に来るとは言わなかった。


キャシーはカピオラニ公園をぐるりと回り、カイマナビーチの入口に車を停めた。

真ん丸の月が二人の行く手を照らし出し、海面は月に向かってキラキラ光る。二人はビーチの手前のベンチに腰を下ろした。

横にあるカイマナビーチ・ホテルのラナイバーからボズ・スキャッグスの「ウイ・アー・オール・アローン」が聞こえてきた。心地良い波音と音楽が二人を包んだ。

太っちょお婆ちゃんと、キリっとしまった体の孫娘、月光が二人の妙にアンバランスなシルエットを映し出す。

アンがキャシーに言った。

「ね、キャシー、おまえ、本当はボストンに行きたかったんじゃ、いや、行くべきだったんじゃないのかい」

「全然」

「私はなんだか心が苦しくて」

「ちゃんと自分で決めた結論。アンが気にすることないよ。ましてお婆ちゃんのためにここに残ったわけじゃないから安心して。そうだ、そんなに心が苦しいのはちょっと前まで心筋梗塞だったんだからしょうがないじゃん」

「何、言ってるの・・・もったいない話をね」

「何、言ってるのって、もう甘い物パクパク食べちゃだめよ。それにコーラもね。あ、塩もダメね。大好きなフライドポテトも絶対ダメよ。これからは私がアンの食事の管理と運動のインストラクターやるから、わかった?」

「あなたこそ何言ってるの、自分勝手ばかりで、もう。私に黙って大学院は辞めるわ、テレビ局なんかに就職するは・・・」

「ははは、ママと一緒か」

「ママだってそう。あの子、突然、同級生の子供ができたから結婚するって。私は白人の銀行マンと結婚させようといろいろ計画してたって言うのに。挙句の果てに離婚。離婚したかと思えば再婚して今はグアムだって」

「グアムは兄貴だよ」

「もう、みんな勝手なんだから」

「オキナワ。ママはオキナワだよ、アン」

「キャシーだって、田舎から突然出て来て、一緒に住まわせてって、一流大学入っちゃってビックリすれば末は経済学者か大会社の社長かって期待すれば、黙って休学して長い間スチュワーデスなんかして、気がついたら大学にまた戻って今度は哲学科に移って」

「心理学、戦争心理学」

「どっちでも同じ」

「同じじゃないよ」

「今度の大チャンス、ボストン大の大学院って、東海岸よ、雪が積もるのよ。私はこの年まで雪を見たことないんだから、あー、楽しみにしてたのに。で、今度はテレビのキャスターだって」

「ま、それも人生」

「生意気言って。もう、これから私はいったい何を夢見て生きれば良いんだか」

「私の人気キャスターぶり見ててよ。目指せCNNのアンカーウーマンよ」

「はぁ。そりゃ、あなた、私はずいぶんと長生きしなくっちゃダメってことだね」

しばしの沈黙。大きなストロークで寄せては返す波間。ホテルのバーからのBGMはクラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」に変っていた。

二人は何だかおかしくなってきて、クスクス笑い出した。

「キャシー、ありがとね」

アンはキャシーの手をとって月に輝く海に向かって囁いた。

年輪を刻んだアンの手の感触、キャシーは感謝でいっぱいだった。


真ん丸の月の光の真ん中をホノルル空港から飛び立った飛行機が気持良さそうにシルエットを残して南へ飛んでいく。もう一機が満月に吸い込まれるように西の方へ消えていった。

キャシーはアンと二人揃って、あと何回、この満月を見ることができるのだろうかと思えば、何だかとても切なく。人はあっと生まれて今を生き、気が付いたら人生の終わりは直ぐに来てしまうような気がした。だから、死ぬまで夢を持ち続けること、夢を与え続けること。結論、今日も明日も頑張って生きようとキャシーは思う夜だった。


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