第6話

ラブとアイデンティティの狭間


啓一の英語力はかなり進歩した。ボクと啓一の会話の半分以上は英語になった。さすがの若さ、脳の柔軟性が違うのだろう。

七月までで語学学校のカリキュラムが終了した。八月は夏休みで九月からカイムキの中学校に進む。啓一はもちろん不安もいっぱいだが、不安よりも期待が上回っている様子だった。

野球のない土曜日の朝は、カパラとケイトに連れられて、よくサンディビーチにボディボードの練習に通った。ケイトがボディボード、カパラがサーフィンを啓一に薦める。啓一は両方を上手くなるように二人から手ほどきを受けていた。

もう、啓一は現地の子と見分けがつかないくらいに真っ黒に日焼けしていた。


朝の波乗り練習を終えた三人はビーチ沿いの公園でホットドックを食べていた。駐車場の端っこに赤いバスが止まっている。このバスでホットドッグや冷たい飲み物を売っていた。日本に居るときはケチャップだけでマスタードの存在は知らなかった啓一だが、こっちへ来て、今ではタップリのマスタードを入れるようになった。ハワイで食べるホットドッグ、とりわけビーチで食べるホットドッグは極めて美味しく感じられた。



ケイトは韓国系アメリカ人の二世、今はルーズベルト小学校の先生をしている。カパラはポルトガル系の血が混じったハワイアン。カイムキのボーリング場にあるバーでバーテンしながら、昼間はたまに入るCMとか映画の撮影助手、アメリカ的に言うと「グリップ」の仕事をしている。もちろん「グリップ」だけで飯を食いたいところだったが、ハワイに来る撮影隊の減少がそれを許してくれなかった。 


この二人は高校の同級生で、付き合ってもう十年が経過している恋人同士だった。

少年の好奇心。啓一はどうしてもこの二人に聞いてみたいことがあった。ずいぶんと気になっていたが、誰かに聞くのも気が引けた。啓一の考え方の中に「仲良い二人は結婚する」という保守的な図式が描かれていたのだ。

どうしても今日はと勇気を振り絞り、二本目のホットドッグを半分食べ終わった時に特大のコーラで喉を潤して聞いてみた。

「ね、ね。なんで二人は結婚しないの?」

ケイトが目を丸くした。

「だって、二人は恋人同士で、一緒に住んでるし。なんで?」

啓一ならではの直球勝負に思わずカパラは、

「ウップス」

と声をあげ、飲んでいたダイエットペプシを噴き出し、ケイトはハンバーガーを喉に詰まらせた。

落ち着きを取り戻した二人に啓一は、さらに直球の質問を投げかける。

「ケイトもカパラもお互い好き合っていて仲が良いのになぁ。結婚したくないわけじゃないないんでしょ?ね、ボクには理解できないなぁ。そういう大人の関係って」

二人は顔を見合わせ、今度は頭を抱えて笑い出した。

「いい質問ね、ケイイチ。この問題は、男性から答えるべきね。ね、カパラ」

ケイトは答えをカパラに振った。困った顔になったカパラが、

「ケイイチ、こりゃ、ハワイ、いやアメリカ。いや、大人の世界を知る上で実にいい質問だ。ひとつ、はっきり言えることは、キミがもしかすると想像するような、うん、つまり、二人の立場の違い、バーテンのアルバイトの俺と、学校の先生のケイトという不釣合いな職業を気にしての問題では全くない」

ケイトも相槌を打ちながら、

「その通り。職業とか収入とかの問題では決してないわよ」

「オーケー!じゃ、なぜ?」

そこまではケイイチは納得した。

「国とか、親とか、なんていうか、アイデンティティっていうか、実に難しい」

そう唸って答え、優しくケイトの肩を抱いてキスをした。

「うーん、難しくてよくわからないなぁ、大人の世界は・・・」

最近良く耳にするアイデンティティって何だろう?と十四才の好奇心旺盛な少年の心には沸々と興味が湧いてきた。

ケイトの長い黒髪が海からのオン・ショアの風に揺れ、カパラがそっと直してあげる。ホットドッグバスから軽快なハワイアン。コハラの曲。ハワイの海辺に日本人の中学生、ハワイアンとコリアン系のカップルの三人組。啓一の両親が天国からこれを見ていたらきっと不思議に思うかもしれない。でも、なんだかとっても心が和む光景であった。



ボクは、啓一が日本からホノルルに到着したての時差ぼけで涙目の中、この国の初歩的な「生き方」について啓一に訓示した。

「日本人の多くはさ、日本からハワイに来るとね、ここがアメリカだということ忘れている人が多いね。この国は今だって戦争してるね、一日に何人もの兵士が死んでいる国ね。日本のつもりで暮らしたら、絶対ダメ。郷に入ったら郷に従えね。ハワイはアメリカの最前線ね。アメリカは日本に比べたら競争、差別、みんな十倍厳しいことをよく覚えておくこと。でも、そのかわり、楽しいことは百倍あるからさ、頑張って」

啓一は、アメリカと日本が根本的にいろいろ違うことは何となく解った。

「この国で暮らす人達は、それぞれの祖先の血を守ろうとする、強い民族意識持って生きている。でも、ハワイでは自分の民族と違う人たちをね、差別ではなくて尊重するんだ。お互い信頼関係ね」

「信頼って・・・」

「信頼しあえば多民族でも一つの色、価値観で混じり合えるね。アメリカだって同じことさ、アメリカ人なんて所詮、色々な民族の寄り集まりだからね」

「そうか、アメリカ人はバラバラってことなのか・・・」

「そう、アメリカでは自分自身の民族意識持つ、大切ね、自分のアイデンティが無いと他人から変に思われるね。難しいけどね」

「民族意識っていったい・・・」

この時、啓一はこの、ボクが言う「アイデンティティ」の話はさすがに全く理解できなかった。しかし、カパラとケイトの話を聞くにつれ、何だか「アイデンティティ」や「民族」というモノ、いや、問題意識を少しずつ啓一は解ってきたような気がした。とっても愛し合っていて十年も付き合っているに二人が、結婚できないそのわけを知るにつれ。



韓国、高麗大学理学部の助教授をしていたケイトの父親は、一九七〇年代前半に妻とともに移民、ハワイ大学で職を得た。医者、学者から寿司職人に至る「技能者」は以前から比較的楽に永住権を得ることができた。その後、ロスの大学を経てボストンの研究機関に転勤、八十年代後半に元のハワイ大学の教授に落ち着いた。ケイトこと、ユンジュ・ケイト・パクは一九七五年にロスで生まれた。


カパラは三世代前にポルトガルの血が入っているとはいえ、ほとんど生粋のハワイアンに近い。母方の祖母はハワイでも有名なレイ作りの名人として知られている。八十才を越えた今でもダウンタウンのベルタニア通り沿いのショップで、早朝からレイを編んでいる。

海軍に勤めていた父親はカパラが小学生の時に事故で死んだ。以後、カパラと二人の妹は母親とワイメアという街で生活をしたが、その暮らしは楽ではなかった。高校ではフットボール選手、ランニングバックとして名を売ったが奨学金を貰うことができず大学には行けなかった。高校時代、その果敢にアタックするフットボール選手を好きになったのが、そこでチアガールを勤めていたケイトだった。

高校卒業後、ケイトは進学、カパラは生きていくためのお金を稼がなくてはならなかった。幸いハリウッドから来ていたユニバーサル映画のテレビドラマシリーズの制作助手が不足しており、その制作現場の仕事を先輩から紹介され、以後五年勤めて優秀なグリップとして手に「職」を得た。しかし、ドラマは好評を博すも終わりはくる。五年のロングランを経てそのテレビシリーズが終了し、カパラは定職を失った。

親の仕事の関係でもあり古今東西、世界を回った大学出の女の子と、ハワイしか知らない男の子。全く家庭環境も経済環境も民族意識も全く違う。しかし、十年経っても二人の愛と、お互いを認めあう信頼関係は変らなかった。



「なんで、カパラとケイトは結婚できないんだろう」

と啓一は不思議で不思議で、ヨシダの爺様やアン、山村夫婦に質問を浴びせた。

「自分もそうだったわ」

とアンが言う。ヨシダの爺様は、

「そりゃ、無理なもんは無理だ」

と答え、

「家系、いや民族の血は永遠で、決して絶やしたりの、混ぜたらいかんって、教えられて育ったからの。特に一世、二世の移民者達はの、それぞれの民族の血を必死に守ろうとして、一生懸命生きてきたの」

ヨシダの爺様が天を見上げた。

山村さんが、ゆっくり啓一に説明を始めた。

「ケイトの両親は韓国からの一世なんだよね、アメリカに移民を決意したのは昔の韓国の軍事政権下でケイトのお父さん達が酷い政治的迫害を受けたからでさ」

「国から逃げ出したの?」

「いや、逃げたわけじゃないんだけど・・・アメリカに移民した時に、彼は生まれ育った祖国韓国を捨てた罪の意識をさ、たくさん感じているとは言っていたな」

「国を捨てた、でも捨てた国は好きってことなのか・・・」

「そうだな。ま、韓国はね歴史的に大陸からの侵略も多かったし、日本との戦争や統治もあって韓国人は血の結束を強くしてるんだろうな、きっと」

話を半分理解したつもりの啓一が知恵を絞って山村さんに質問した。

「げ。ケイトとカパラが結婚できない理由は韓国と戦争した日本にも責任があるのかな?」

「ううう、そう言えないこともないけどなぁ・・・」

「仮に昔の日本が悪かったとすれば、今の僕らも、ちょっと悪いってことですよね?」

「・・・確かに」

中庭に咲く熱帯の花、プルメリア、トゥバローズ、ピカケ、ジンジャー、ハワイの甘い香りは、カパラが奏でるウクレレの音色に乗ってとても切なく皆の心に漂った。


最近では日系人世界でもかなり話は変わってきていた。四世、五世と世代が進む最近では、日系人と白人との結婚率も半分近くなってきたという。ケイトの一族の場合は両親が最近ここに移民してきた移民一世だからこそ「純血問題」が潜んでいるのだろう。ヨシダの爺様もアンも、山村夫妻世代以上の人達はケイトの両親の気持が解るような気がした。しかし、ここに住む若い世代は「ナンセンス」と言い切った。啓一も含め。

当事者のカパラは、

「民族的な問題は時間が解決するだろうし、第一、結婚だけが男女関係の帰結点ではなく。幸せな形態はいくらでもあるからな」

一見論理的でもあるが実は弱気な発言をする。一方ケイトは逆に、

「愛する両親だろうと、何だろうと、自分の幸せのための結婚なんだから、断固、闘うわ」

とケイトは言うが。この議論、やっぱり、啓一にはよくわからなかった。

この日の晩、啓一はお婆ちゃんに久しぶりに電話をかけた。夏休みに来ると言っていた親戚一同のハワイ参観旅行を旅費の安い九月に変更するとの話があった後、

「ねね、もし、お母さんやお父さんが生きていたとして、僕が三十才位になって韓国人、いやアメリカ人、それも黒人の女の子と結婚したいって彼女を連れて来たら、お父さんとお母さんは、何て言ったかなぁ?反対したと思う?」

と啓一は聞いた。

「貴方の両親だったら驚かないで喜んだんじゃない、きっと、『外人さんに親戚ができる』ってね。生まれる子供だって、きっとハーフで可愛いだろうしね」

「じゃ、お婆ちゃんは?僕がそう言ったら賛成する?」

「もちろん賛成するよ、私は。でも、その時は早めにね、どこの国の人と結婚するかは言っておくれ。だってお嫁さんの国の言葉勉強しなくちゃ、せっかく外人さんと親戚になるのに」

さすがお婆ちゃんだと啓一は思った。そして、啓一は思いがけないアイデアをお婆ちゃんに披露した。

「僕さ、カパラもケイトも大好きだからさ、今度、僕がケイトのお父さん、ほら、プロフェッサーに会った時に頼んでみようと思うんだよ。なんか、好き同士の二人はやっぱり結婚した方が良いと思うんだ」

それを聞いたお婆ちゃんは、ずいぶんと社交的になり、逞しくなった啓一の成長がとても嬉しかった。



次の日曜日、ケイトの両親が主催するガーデンパーティに招待されたアパートの若手チーム、啓一、チャチ、キャシー、チェルシー、賢太郎、そしてカパラの六名はホノルルの西側に位置する住宅地、パール・リッジの高台にあるケイトの実家に出陣した。ケイトは昨日の朝から実家に帰ってこのパーティの準備をしていた。

啓一達が約束の十二時の五分前にケイトの家に着くと、緑が眩しい手入れの行き届いた庭には、既に父親の研究室の学生や仕事仲間の先生らしき人達が集まっていた。大きなバーベキュー・グリルの横にはたくさんのサラダとキムチ、そして、美味しそうに輝くコリアンスタイルのいろいろな種類の肉が並べられ、みんなの食欲を大いに刺激した。


ケイトの両親は流暢な英語はもちろん、日本語も上手い。父親のジョーイ・パクは、釣りとマラソンが大好きで健康的に真っ黒に日焼けし、皆からプロフェッサーと呼ばれている。啓一の韓国焼肉好きを知って、啓一自身何回か食事にも招待されている仲だ。会えばいつも挨拶代わりに最近の生活態度に、勉強の進み具合をテキパキと聞かれた。啓一にとっては、なかなか厳しい近所のご隠居さんみたいな存在でもあった。

啓一が秘密の作戦を敢行すべく、プロフェッサーを観察する。

プロフェッサーとカパラ、二人はどう見ても仲は良い。今だって庭の数本あるパパイヤの木の下、笑顔でビール片手に何やら楽しそうに話している。啓一は、ますます大人、いやアメリカの結婚事情が解らなくなってくる。どうやら、カパラとプロフェッサーの人間的付き合いと、娘の結婚問題は次元の違うところに存在している問題らしいことを何となく啓一は悟った。

今までラジオから流れていたハワイアンからボサノバにBGMが変わった。周りにケイトとカパラがいないことを確認して啓一は、プロフェッサーに擦り寄った。そして、啓一は思い切って聞いた。

「プロフェッサー、ちょっと聞きたいこと、いや、お願いがあるんだけど」

「なんだ、ケイイチ、恋の相談か。ウエルカムだ」

「ケイトとカパラの結婚を許してあげて欲しいのです。お願いできないでしょうか」

「ほー、なんで?」

「二人はとっても愛し合ってるし・・・それに、僕も困るんです」

「ほー、これまた、なんで?」

「だって、仮に僕に好きな子ができて、その子が中国人とか韓国人、あるいは白人だったりしたら、結婚できないってことでしょ。それは、ちょっと困ります。だから、カパラとケイトには是非とも結婚してもらって僕も安心したいですし」

実は啓一はこの時、カイムキ中学校主催のサマースクールで一緒だった同級生のジェーンに淡い好意を持っていたのだ。

「決して自分は二人に利用されているわけでも、頼まれたわけでもなく、自発的に二人の結婚のお願いしてるんです」

啓一は、全くの邪推不要とプロフェッサー相手に一気にまくし立て、手に持っていたグアバジュースを一気に乾いた喉に放り込んだ。

ケイトの父親、プロフェッサーは啓一の必死の、思いがけない哀願にさすがに少し困った。しばしニコニコしながら青い空を見上げ、ハワイの太陽に目を細め考えた。

啓一がその答えを待ちきれない頃合の時間、やっとプロフェッサーは口を開いた。

「そんなにケイイチが心配してくれるのだったら少し考えてみよう、二人のことを。それに、カパラとケイトの二人を応援してくれる素敵な仲間もたくさんいることだしな」

「ホントですか?」

「でも、それを許すにはひとつ条件がある」

「?」

「ケイイチ、マラソンに出よう」

「え、マラソン?」

「ホノルル・マラソンさ。知ってるか?」

「はい、何となく。死んだ父親が・・・」

啓一は、プロフェッサーのマラソンという意外な誘いに少し驚いた。同時にマラソンという言葉に何だか少し懐かしい思いがした。啓一は、そうだ!お父さんだ、と父親が毎年出場していた青梅マラソン、そこを笑顔で走る大きな背中を思い出した。

「お父さんが亡くなられたのは確か・・・」

「僕が六才の時です」

「ケイイチは今、十三才か?」

「はい。十月で十四才です」

「ケイイチ、男ならホノルル・マラソンだ」

「え?は、はい」

何で男ならマラソンなのかの疑問もあったが、啓一は降って沸いた亡き父の思い出も嬉しく。プロフェッサーとしても、そろそろ啓一に亡き父親の「男心」を教え始める時期だろう、との考えがあった。

「決まりだ。ケイイチが十二月のホノルル・マラソンに出る」

「はい」

「ケイイチが、五時間を切って完走できたら二人の結婚を許そう」

啓一はこの条件を快諾した。

徐々に明瞭になってくる「走る父親」の姿と自分がマラソンを疾走する勝手なイメージが合致し、啓一はホノルル・マラソンを五時間以内の完走なんぞは至極簡単な約束であるような気がしてきた。

二人はガッチリ握手し、契約が成立した。


BGMはジェニファー・ロペスのラテンファンクに変わった。

日曜日の昼下がり、パールハーバーから吹き上がる爽快な風と熱い太陽の隙間を軽快なラテンのリズムが走り抜けていく。高台から見下ろす通り沿いのジョギングコースを走る小麦色に日焼けしたランナー達の汗がキラキラ光ってきれいだった。

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