第5話
ロンリー・ハート・ボーイ
チャチがボクの教会にやって来たのは、もう、チャチが山村さんのアパートに住み始めて数週間してからだ。山村さんに薦められ、土曜日の昼下がりに彼は教会を訪ねて来た。
彼は教会の横にあるボクが住む小さな家のドアをノックした。ニューヨーク出身のチャチの「心」がどうなってハワイに来たのか、少しの理由は知っていた。でも、今日はその全てをボクが聞く、いや、彼が話してくれる日だった。
ノックの音。ボクが部屋の扉を開けて挨拶に出た。
「あの、ノーマン牧師と約束なのですが・・・」
「あ、ようこそ。いらっしゃい」
「ノーマン牧師はいらっしゃいますか?三時の約束なんですが」
「だから、ボクがノーマンですよ。そこらのチンピラに見える?いや、みえるかなぁ」
「え、また、冗談を。神様が怒りますよ。あんた、こんな牧師がこの世にいるわけがない」
「ハワイじゃこれが正装さ」
ボクは履いていたビーチサンダルを指差した。ボクとチャチの出会いはこんなもんだった。チャチは今でもボクの正業をサーフィンと言い、副業を牧師だと言う。結構、保守的な奴なのだ。
★
一九九三年、冬。厳寒のニューヨーク。マンハッタンの街は、路地にはまだ雪が残り、道のあちこちでは暖房の勢い余った蒸気が舞い上がっていた。チャチは十三年務めた仕事を明け方に辞めた。一睡もしないで、ソーホーのアパートに寄って荷物をまとめ、アパートを引き払い、医者の開く時間を待った。そして、診察が終わるとチャチは途方に暮れながらグランド・セントラルステーションにやっとの思いでたどり着いた。足元には大きなサムソナイトが一つ転がっていた。
チャチは完全な神経障害で壊れていた。
このまま死ぬか、いや・・・さしあたって火葬場での時間を共有する警官の友人に別れの一本の電話をかけたのが精一杯だった。
チャチはブロンクスの火葬場に一九八〇年から勤めていた。
アメリカと言えば土葬のイメージがあるが、民族、宗教、最近では環境問題もあって全米では二十六パーセント、ハワイでは五十九パーセント、ワシントンでも五十七パーセント、ニューヨークでも三十五パーセントが火葬にふされている。八〇年代のニューヨークとは言えば最悪の治安で、その中でも一、二を争う極悪のエリアがマンハッタンの北に位置するブロンクスだった。
ブロンクスを斜めに走るウエストチェスター通りの中ほどにチャチの仕事場があった。そして、その仕事場に毎日のように送られてくる少年少女の死体・・・その中には幼い子供達もいた。その子供達を焼くのもチャチの仕事だった。無言の機械的な作業の日々が、職員の精神を傷つけ、チャチが知っているだけでも十二人の同僚が精神を病んで会社を離れ、その半分が命を落としていた。その悪夢を振り払うために、チャチも酒とドラッグに頼る日々が続いた。
チャチは何度も何度もこの仕事を辞めようと思った。初めはこの給料が良い仕事で少しの辛抱、大いに稼いで十年後には洒落たカフェでもと考えていたが。神は彼に試練を与えた。チャチは仮に自分がこの場所を去った後、理不尽に命を落として人生を終える弱者の最後の叫びを一体誰が聞いてあげればよいのだろうか、と考えれば、チャチが神から拝命されし弱者をあの世へ送る「使者」として宿命を感じ、その辛い仕事を辞めることができなかった。真面目すぎたのかもしれないし、長くこの場所に居過ぎたのかもしれなかった。
精神的にもう仕事を続けることができないと、退職というよりは現実からの逃避を決意したのは、一九九三年、その冬最低の気温を記録した二月十四日。世が聖バレンタインに浮かれる夜半過ぎに今日三人目の少女を焼いた時だった。一人はドラッグ。一人は凍死。最後の少女は五才だった。殺されていた。
セントラルステーションのベンチに座って半日が過ぎた。昼過ぎから雪が降ってきたようだった。足早に行き交う人々の肩が白い。
彼の選択肢は二つあった。一つは死ぬこと。もう一つは生まれ育ったこの地を離れもう一回、違う人生を歩むことだった。
チャチが深く息を吸い、目をつぶり、たっぷりのコカインを鼻に入れれば入れるほどに、
「チャチ、生きろ」「もっと生きろ」「生きのびろ」
今まで焼いた子供達の雄叫びが脳を突き裂く。
チャチはテキサス、ダラス経由オースチン行きの列車に乗った。ダラス周辺はは石油産業の基地で随分景気が良いと聞いていた。
列車が動き出してしばらく経ったその時、頭の後ろに激しい衝撃を感じた。目の前の世界は黒く消えていった。
★
意識が戻った時、彼がいたのは白い清潔な病室だった。しばらくして入ってきた看護婦に聞いた。どこで、どうしたかを。
「ここはオースチンの病院よ。あなたは列車で倒れてここに運ばれてきたの」
列車の乗って・・・ニューヨークの最後の記憶から、もう二週間が過ぎていた。
「別に命が惜しいってこともないんですが。僕の病気は治るんですか?」
看護婦は詳しく話してくれた。チャチはクモ膜下出血でここにいることを知った。
ニューヨークで列車に乗ってすぐに脳の血管がプツリといったらしかった。イビキをかいて、あたかも平穏に寝たままに見えるチャチを他の乗客も車掌もおこすことなく、ダラスを過ぎて終点のオースチンに到着、「終点ですよ、お客さん」「お客さん」と車掌に肩を押されて揺り起こされ、支点を失っているチャチの大きな体は、いとも簡単に無言で床にゴロンと転がったらしい。
チャチは三ヶ月間オースチンのテキサス大学付属の病院で過ごした。
クモ膜下の治療とリハビリ。気が付いたとき左手、左足に力めない異変を感じ、自由にならない左半身が重かった。もちろん精神、自立神経への加療も必要であった。
リハビリには集中できた。必死に何かに集中すること、「健常」へという「目的」を持って生きることが今、チャチにとっての救いだった。
テキサス、オレンジ・ベルトの陽光を浴びてリハビリの成果は十分に上がった。
三ヶ月後の後遺症は左手、左足の震えだった。これは時間をかけて治るか否か、本人の努力次第だった。
問題は精神の病だった。心の病の方はクモ膜下の回復に比べて全く良化しなかった。不眠、突然襲ってくる吐き気、妄想、寒気、不整脈。テキサス大学の精神科のベテラン医師はチャチになるべく都会を離れ、自然に触れる生活をして精神のリハビリをすることを薦めた。リハビリの場所は、大都会のオースチンでもなく、ダラスでもなく、もちろん後戻りしてニューヨークでもなく。経済環境が許せば、過去を過去として胸にしまい、自然の中で心を癒し、人生をリセットする努力が何よりの良薬であり、チャチの「心の病」にとって最も有効な加療であるというのが医師の結論だった。
荷物は一つにまとめた。ニューヨークからのコート類は捨てて、チャチは病院を出た。大きく深呼吸をしてバスで南を目指した。目的地はメキシコ国境の町、リオ・グランデ川に面したヌエヴォ・ラレード。
チャチはここに数日滞在したが余りに英語が通じぬスペイン語圏過ぎ、かえってストレスが溜まってしまうから笑えない。それからは西へ西へと心のオアシスを求める旅が始まった。
テキサスのニューメキシコ沿いの都市、エルパソを経由してサンタフェで落ち着く。ここで大型建設車両のオペレーターの免許を取った。
半年後、アリゾナのフェニックス。ここでは石炭鉱山に勤めた。
一年後、ネバタのエルコ。ネバタ第三の都市と言ってもギャンブルと金鉱山しかない街、ゴールド・ストライクという金鉱山で二百五十トンダンプのオペレーター、つまりは運転手をやった。足の不自由さが多少残っていたが左手の震えは止まった。これも自然相手のデッカイ仕事が功を奏したのかもしれなかった。
しかし、なかなか自立神経の方は芳しくなかった。「海の神様」が必要だ、と勝手に思ったのがエルコの金鉱山に勤めて二年後のことだった。この時、チャチは三十五才になっていた。
チャチは最後のチャンスとばかりに夢のカリフォルニアを目指した。
★
ロスではゴールド・ストライクの購買マネージャーに紹介された日系建機メーカー「コマツ」の契約セールスマンに就職した。レドンドビーチというLAの空港から南に二十分程のビーチシティに住んだ。海を毎日見たかった。心の病の完治には「海」が一番良いことをネバタの精神カウンセラーから聞いていた。しかし、海の見える部屋・・・その願いは家賃の高さから叶わなかった。が、海から数ブロック離れたワンベッドルームのアパートを見つけた。勤務先のホーソーン通りにも近かった。
数ヶ月後、自立神経とは別の心の病に襲われた。
それは「恋」だった。
夕食、休み日のブランチと毎日の様に通っていたレドンドビーチの隣の町、ハモサビーチに女神が現れた。ビーチウォークにあるハワイ風の小さなレストラン「アロハハット」のアルバイトのハワイアン娘と恋に落ちた。一年弱、二人は良い関係を築き上げていた。
しかし、女神は東へ。
彼女は大学でマーケティングを学ぶためにシカゴに旅立った。女神を追い幸せを求めてチャチが東へ行くことを考えれば考えるほどに、どうしても東へ逆戻りできない自分がいた。
彼女は東へ志を求め、チャチは西へ癒しを求める。
結果、恋に破れようとも、彼女から聞いた「楽園」でチャチはもう一回人生のリセットをしようと決めた。目指す太平洋の真ん中、ハワイ。ニューヨークで失った人間らしい精神を取り戻すことができなかったら、自分はもうこの世に居場所を見つけることができないと悟っていた。
「ハワイ」はチャチの人生復活を賭けた最後の挑戦、もうこれ以上は逃げられないという強い決意。そんな勇気はきっと女神が与えてくれたのだろう。
人生のリハビリの最終仕上げは三十七才の春。
キャプテン・クックの如くチャチは太平洋を渡った。
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