第3話
胸を張って歩こう
「えっ、もう三年ですか。早いね~、山村さんも、もう、すっかりローカルハワイアンね。ケンタもすっかり島に溶け込んだしね、そうそう、先週、教会のスポーツ教室でサーフィンやったよ。聞いてるでしょ?」
「え、ホント?あいつ、全然そんなこと言ってないよ、ウチでは」
「きっと、サーフィンをやったぁ、なんて家で言ったら、ママに怒られると思ったな」
「そうかもなぁ、で、どうだった?ケンタは」
「最後、見事に立ったよ、万歳よ。みんなで万歳して喜びましたよ」
「そうか、いやー嬉しいなぁ。やっぱりハワイに来て良かったなぁ、うん。ノーマンありがとう」
山村さんの目が潤んだ。
「いやいや、そんな、ボクなんか何もしてないよ、みんな、ケンタの努力と仲間のおかげだよ」
ボクは教会のサービスの一環でダウン症とか自閉症とかの子供達のコミュニケーションスクールを主宰している。サーフィン、サッカー、バスケットなどのスポーツから陶芸、絵画、ビーズ編み、野菜畑、山登り、彼らが興味を持つものは何でも取り入れ、体験させる。それが、少々の危険が伴おうとも、ボクのリスクで挑戦させる。
この日、珍しく山村さんから夕飯に行こうと誘われた。ユニバーシティ通りにある「キリン」という中華レストランに山村ファミリーとボクの四人。主旨を聞けば、山村ファミリーがハワイに移住して今日がちょうど三周年記念日だった。
食事を終えて、奥さんと賢太郎を帰し、ボクら二人はアラワイヨットバーバーにあるチャートハウスのバーに飲みに来た。ハワイアンバンドがライブをやっている、曲はハワイアンスタイルのイーグルスメロディ。
賢太郎がサーフィンをした、そんなボクの話を聞いて、山村さんは本当に嬉しそうにジントニックを飲んでいた。
★
山村夫妻が賢太郎を連れてハワイに移り住んで三年が経った。
家族はアラモアナ・ビーチでよく遊んだ。父親と息子がのんびり遊ぶその姿は当初、妻には全く信じられず、ハワイに来てしばらくは自分の目を疑った。東京では決して味わえなかった海遊び。ブルーに輝く海、珊瑚から出来上がっているであろうサラサラの砂、濡れてもすぐ乾く気候。妻の陽子さんが賢太郎と父親が、波間で戯れる光景をいちいち感動せずに見ることができるまでに、ハワイに来てから半年以上の時間がかかった。「父親の責任」に気が付くのが遅すぎる、とも陽子さんは思ったが、気が付いただけでもまだマシかと思って納得するのも、長年務めた広告屋の妻の証だった。
多忙な総合広告代理店の制作局長、仕事柄、山村さんは全く家庭を顧みないサラリーマン人生だった、仕事、接待、出張、スタジオからスタジオ、徹夜の撮影・・・高度成長の波に乗って就職した広告会社はあれよあれという間に世界一になっていた。
仕事で家庭を顧みないこと、これこそが団塊世代の広告屋の誇りであり、それこそがクリエイティブな仕事の源泉であった・・・優秀なクリエィター、つまりは何時も青年の視点、少年の切り口で物事に取り組む姿勢、悪く言えばいつまでも子供であったのだ。毎月の給料だけが「主人」の存在する意味であった三十年の夫婦生活であった。ちなみに山村家では月々の給料は妻の財布へ、年二回のボーナスは旦那の財布へ、というシステムになっていた。
息子の賢太郎の世話、つまりは役所、病院まわり、学校、施設の送り迎え何から何までを全く妻任せの日々。しかし、ある日、変革は突然やって来た。山村さんが、名古屋出張から「赤福」を下げて帰った日のことだった。
山村さんが妻、陽子さんに向かって唐突に言い放った。
「これからは賢太郎は自分が世話をするよ」
「また冗談。酔ってんでしょ」
「いや、酔っていない。な、ハワイに行こう。で、三人で暮らそう」
「会社はどうすんのよ、まったく。夢としては、ま、八十点ね」
「俺は会社を今日で辞めた」
さすがの広告屋の妻もビックリした。今日の名古屋出張は得意先への最後の挨拶回りだったことを風呂から出た旦那に妻は聞いた。
翌日、三十年間起き慣れたいつもの時間に山村はもう起きる必要がなかった。十時過ぎ、賢太郎とバスに乗って学校に向かった。賢太郎を送ったその足で、溜池のアメリカ大使館に行ってみるつもりだった。
賢太郎の学校の手前、山村さんは空を見上げて賢太郎に言った。
「こんなに、空が高くて青く見えたのは久しぶりだなぁ。な、賢太郎」
事情はともかく、遮二無二に毎日通っていた会社という学校のようなものを昨日限りで辞めてしまって、心底、楽しそうにしている父親の姿に賢太郎は拍手を贈った。
★
波打ち際で遊ぶ賢太郎越しに大きな太陽が日本方面に落ちていく。
ある時、陽子さんは賢太郎に、海に落ちる太陽はすぐに落ちて沈んでしまうのに夜空に上がった月はなんでなかなか落ちないのか、と聞かれて、
「夜空にお月様が長くいるのはね、すぐに落ちて消えてなくなると、みんなが暗くて困ってしまうからよ」
そう答えておいた。
ハワイに来てから、夫婦で賢太郎が生まれてきた時を語る。そんな時、二人は決まってある詩を思い出した。それは「天国の特別な子ども」という詩で、エデナ・マッシミラという人が作り、大江祐子さんという方が日本語に翻訳したものだった。
会議が開かれました。地球からはるか遠くで。
「また、次の赤ちゃんの誕生の時間ですよ」
天においでになる神様に向って天使たちは言いました。
「この子は特別の赤ちゃんでたくさんの愛情が必要でしょう。
この子の成長は とてもゆっくりに見えるかもしれません。
もしかして 一人前になれないかもしれません。
だから、この子は下界で出会う人々に特に気をつけてもらわなければならないのです。
もしかしてこの子の思うことは中々わかってもらえないかもしれません。
何をやっても、うまくいかないかもしれません。
ですから私たちは、この子がどこに生れるか注意深く選ばなければならないのです。
この子の生涯が幸せなものとなるように、どうぞ神様、この子のためにすばらしい両親を探してあげて下さい。神様のために特別な任務をひきうけてくれるような両親を。
その二人はすぐには気がつかないかもしれません。彼ら二人が自分たちに求められている特別な役割を。
けれども、天から授けられたこの子によって、ますます強い信仰と豊かな愛を抱くようになることでしょう。
やがて二人は自分たちに与えられた特別の神の思召しを悟るようになるでしょう。神から贈られたこの子を育てることによって。
柔和でおだやかなこの尊い授かりものこそ、天から授かった特別な子どもなのです」
★
山村さんは撮影だロケハンだ会議だ、なんだかんだと二十回以上はハワイに来ていたが、妻は学生時代とOL時代に計三回、賢太郎が生まれてからはそれどころではなくなった。
家族がハワイに来た理由・・・それは家族という人生のため。つまりは自分のため、妻のため、そして一番は賢太郎のため。自分達は先にあの世に行き、一人この世に取り残されてしまう最愛の息子のことを考えてのことだった。
退社する一年前、山村さんが会社の健康診断で肝臓の数値γGTPが五百を超え、
「このまま今のペースで仕事を続けて、そうね、毎晩酒を飲み続ければ、貴方、確実に肝硬変から肝臓癌、数年以内に死にますよ」
と医者から宣告された。酒を辞めよう、断とうと努めるが商売柄の習慣と弱い意志でそうは問屋が卸してはくれないのが広告屋稼業である。
半年後、γGTPは八百を超えていた。突然、死というモノが漠然としたイメージから現実になった。友人も既に何人かは、もう逝ってしまっている。医者からは黄疸の兆候があるので入院を勧められた。診断結果を握り締めたその日の夜、新規で獲得した流通関係の得意先の重役接待が入っていた。
一軒目が銀座、鈴蘭通りの寿司屋。二軒目に並木通りのクラブに入った。衆人の中のふとした孤独感はγGTPの数字と死の誘いを感じ取り、トイレに立てば鏡に写った自分の顔が妙に黄色っぽいと思ってしまう。溜息を振り切り、席に戻って喧騒にまぎれれば、今度は見馴れた虚飾の中に賢太郎の笑顔が浮かんでしまう。
「このまま賢太郎を残しては死に切れない」
二回目のトイレで、
「こりゃ、こんなことをしている暇はないかも」
三回目のトイレで、
「俺は誰のために生きている?会社の為・・いや、女房と賢太郎だ」
山村さんは決意した。
それから半年後、周到な準備を経て山村さんは妻に退職宣言、それに合わせて声高らかに「山村家ハワイ移住作戦」を宣言したのだった。
最初、山村さん一人が三週間ほどハワイに滞在してベースキャンプを作った。
一九九九年の四月に家族全員がそろって移住する三カ月前、山村さんが前々から仕事で付き合っていたハワイ在住のCMコーディネーター、ケン・ヤマモトが、ボクを山村さんに紹介した。ボクはもうその頃から、ハワイではダウンシンドロームと呼ぶ、いわゆる日本でいうダウン症児童を対象としたスポーツや美術のスクールを主宰していた。
いつもながらのことだが、ボクと山村さんが始めて会った時つまり、ビーチサンダルに短パンTシャツ姿のボクのサーファー風体には驚いていた。そして、数日後にボクは、ボクの教会に通うバンク・オブ・ハワイの頭取を山村さんに紹介、頭取が今のアパート「ミックスプレート」の購入を勧め、山村さんが決めた。
アパートから程近い場所にYMCAがあり、ここでもダウン症児童のスペシャルカリキュラムが開催されていた。コンピューターから手話までのいろいろな講座が組まれていたので賢太郎を通わせるには最高のロケーションでもあった。
清水の舞台よりずっと高い所から飛び降りた、と周りの仲間、親戚から揶揄されたが、山村さん的にはかなりの部分でリスクはヘッジしていたつもりであった。とは言っても五十四才になる男の勇気のある決断であったことには違いなかったが。
定住できるビザ、あるいは永住権を得るためにはこの手の物件のオーナーになることは必須の条件であった。寿司の職人でも植木屋でも芸術家でもなく、齢のいった広告屋OBが「家族でアメリカに移住させて下さい!」と移民局に頼んでも「はい、どうぞ!」と言われる程、アメリカ政府も寛容であるはずもない。アメリカ社会にとって利益になりうる人間つまり相応のアメリカに対する投資、金を落す個人あるいは会社に対してのみ、アメリカ政府は定住を許可するビザを発給した。
「ミックスプレート」の値段は、八十万ドル、日本円で約一億円。日本的な感覚で言えば土地三百坪、部屋数七つの中庭付きのアパートは安い。半分は東京の家を売った金四千万円と退職金の一部を当てて残金三千五百万円。これはバンク・オブ・ハワイで十五年のローンを組んだ。この投資のおかげで取りあえずの五年間の滞在が可能な投資家ビザ=Eビザが家族で取得できた。
一部屋は自分達が住むとして、残りの六部屋は賃貸に回す算段だが、すでにその時は現在のメンバーとは多少異なる前オーナーからの店子で埋まっていた。故に家賃収入が合計約五千ドル。日本円で約六十万円=年間七百二十万円也で、その投資利回り七・二%。つまりは日本の銀行預金、不動産投資では考えられない高効率での運用である。
借金が十五年で計画通り終了すれば、十五年後からは全額が収入となるゆえ、これで賢太郎を残し、両親が共に倒れても賢太郎一人でも大丈夫だと山村さんは踏んだ。無論、その時には生命保険も入るだろうと勘定に入れた。それに夫婦がハワイに住んでようが、アフリカだろうが日本の年金も六十五歳から入る。今の計算だと二十五万円ちょっと。約三千ドル、これだけあったらここハワイでは親子三人は十二分に生活できる。ま、この年金話は日本の社会保険行政が破綻しなければの話だが。
ハワイはアメリカの中では物価は高い方ではあるが、日本、とりわけ東京とハワイを比べたら、断然、ハワイは住みやすい。美味しい水道の代金、電話代は定額で使い放題。ドライな気候はクーラー不要。深い緑に綺麗な海、十ドルでプレーできるゴルフ場。何といっても全州の二十五%を占める日系人が築き深く根を張る日本文化も日本人として、やっぱり住みやすい。それに医療施設、ハワイ大学医学部は全米一、二の高水準。そして、余命幾ばくもない人々のためのホスピスも充実、福祉全般もオープンで活き活きしている。
しかし、山村家にとって一番重要なことは、賢太郎の生きやすさ。賢太郎のような障害を持つ子供も日本には住みにくい・・・いや、生きにくい、と、山村夫妻は結論付けていた。こっちの福祉のスタイルは老人でも障害者でも一人でできることは誰も助けず一人でやる。それが愛。いたずらに社会同化を求めずに、その人間の一芸を見つけてとことん伸ばしてあげるという姿勢、まわりの目線も「かわいそう」とか「あわれみ」で目隠しをする差別の対象では決してなく、一人の人間として普通に接する文化か習慣か、そんな気軽な社会感が親の肩の力を抜かせてくれた。
それに驚くほどの人がボランティア活動に従事して障害者の生きる世界を支え、健常者との垣根を取り除いている。バディウォークといった障害者と健常者が組になって行進をするイベントから、障害者が主役の縁日やバザー、大きなスポーツ大会までと充実している。それも、これも障害者にとって生きやすい社会環境の原点は「美しい海」と「青い空」があるおかげかもしれないが。
広告代理店で毎夜の宴にいい加減疲れた夫も、夜中の子供のカンシャクに幾度となく不眠症に陥った妻も、何が一番辛いと言えば自分達が死んだ後の「賢太郎の人生」、考えれば考えるほどに胸が締め付けられた。しかし、現実。焦っても苦しんでもしょうがなく、二人はゆっくり、ゆっくり問題、悩みを解決していくことに努めた。このハワイ移住計画の実現で、山村夫妻は少なくとも賢太郎一人の人生の「経済的」側面の安心は得ることができた。しかし、滞在半年足らずで世代、民族を越えた賢太郎生涯の友をここハワイで得ることになろうとは二人は全く考えつかなかった。
★
ダウン症は、一八六六年にイギリスのラングドン・ダウンという人が発見したので、この名前が付いた。染色体の異常が原因で発症する。染色体というと、遺伝に関係がありそうだが、大部分の「ダウン症」は、突然変異による。「ダウン症」の子どもは、だいたい七百〜八百回のお産に一人の確率で生まれてくる、つまり日本では毎年千五百人位、アメリカではその倍の三千人近いダウン症の子供が生まれていることになる。この割合は、全世界のどの地域においても、また時代が移り変わっても余り変化がない。
二十年前、山村夫妻に待ちに待った一子が誕生した。医者は、
「染色体異常です。発達が遅れます」
と二人に告げた。
「染色体異常って? 」
まさかの論理が二人の脳裏を駆け巡った。今まで考えたこともないような不安や疑問が頭の中を走り抜けていくが、一方で絶望感や深い悲しみを簡単に乗り越えられる生命の息吹も感じ得たのであった。産院からの帰り道、
「一生懸命、頑張ろうな」
「・・・うん」
「そして・・・もっと幸せになろう」
これが夫婦が交わした最初の言葉だった。どうであれ、血を分けた尊い命の誕生に喜び、賢太郎を囲む暖かい家族が出来上がった。その暖かさは世界で一番、賢太郎を愛す深さは限りなかった。
一人息子がダウン症児であっても山村さんは、当然のことだが世間に対して恥ずかしいとか、後ろめたいとかの気持ちは全くなかった。しかし、胸を張っては言い切れない、そう簡単に割り切れない複雑で混沌とした思いがあり、それはかつ日本の社会環境、行政が進める障害児童の一般社会化施策に対して多少の疑念に起因していたのかもしれなかった。
「天国から贈られた特別な子ども」という深い賢太郎の存在価値に気がつき、山村夫婦が神様によって選ばれた「特別な親」であるという救いを得た時に、その疑念は確信に変った。官僚によって定められた日本の社会システムは大衆同化施策、横並びの一般化を良しとし、出る杭は打たれ、他人との大きな差別化は悪とされる。それが、若手ベンチャーであろうが障害者であろうと健常者であろうと関係なく個性は潰される・・・結果、個性や才能を小さな殻に閉じ込めてしまう。彼ら障害児童が持つそれぞれの才能の素晴らしさ、ある子は音楽に、ある子は美術にと特筆すべき健常者を大きく超えた才能を自由奔放に伸ばすべき、社会同化策は不要と山村さんは考えた。たとえ親バカと呼ばれようが、父親として賢太郎の「陶芸」の才能を信じて疑わなかった。
山村家にとってのハワイ移住の具体化は、実は日本という国に見切りをつけたのかもしれない。賢太郎に対する「賢太郎らしく、人間として立派に育てる責任」を全うしようと考えた上の結論として、賢太郎の卓越した才能をこれ以上日本では伸ばせないことを山村さんは悟っていたのだった。
悟りを開けば、賢太郎の周りにはたくさんの仲間がいることも気がついた。頑張っている多くの賢太郎の先輩後輩達、そして彼らの先生、親、家族。
「近々、賢太郎を連れてハワイに移住しようと思ってるんだ。なんか、賢太郎の将来の道がさ、大きく開けるような気がしてさ。まぁ日本を捨てるっちゅうわけじゃないんだがな」
父母会の仲間で行った下北沢のお好み焼屋、同じダウン症の子供を持つサークル「下北ワンパククラブ」の仲間に相談すれば、酒場の議論は大いに盛り上がった。
皆の総意は、
「是非、先陣を切って頑張ってきて欲しい!」
「決して賢太郎クンだけの問題でもなく、全国にいる数万人のダウン症児童の挑戦だ!」
「俺達は山村夫妻と賢太郎の無謀であれ、豪快な決意を最高に応援する!」
「障害児だって海外で一旗揚げれることを世間に見せようじゃないかぁ!」
賢太郎と夫妻に贈る応援歌を口々に夜更けの下北沢、北口商店街を闊歩した。
山村さんは涙が止まらなかった。
広告屋の単なる思い付きの親のエゴで賢太郎の人生を振り回すのでは・・・今の今まで心の隅にあった不安がキッパリ晴れた晩だった。
何かをしなければ何も始まらない、サラリーマン生活しか知らない山村夫妻の辞書に、挑戦、勝負などという酸っぱい青春の言葉は書かれていなかった。が、人生で一世一代、初めての挑戦、賢太郎の明るい未来を賭けた山村夫妻の闘いの火蓋は切って落とされた。
★
移住三周年。ハワイの抜けるような青空の下。山村さんがアパートの中庭を見つめれば・・・ほのぼの。ハワイ人、中国系、白人、兵隊帰りの日系爺さん。ストリッパーをしていた女の子に啓一。そして賢太郎。夏休みには日本から三年ぶりに会う下北ワンパククラブの賢太郎の友達がやって来る。ハワイのダウン・シンドローム・サークルとも交流が深まる。彼らには国境はないのだ。
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