第2話

フジヤマベースボール


ボクは悩みや問題を抱えていない人間は、この世に存在しないと思っている。

ボクの教会にも、仕事、人間関係、病気、家族、借金、恋、罪、たくさんの悩める人々がやってくる。ボクは、いつも彼らに対して、明日があるさ、ケセラセラと、

「今日を何とか生き抜けば、必ず今日より、ましな明日が絶対やって来ますよ」

「明日を信じて頑張りましょうよ。ここはハワイなんですから、何とかなりますよ」

そう言って彼らを送り出す。

ハワイらしい牧師の言葉と言われれば、その通り。今日を一生懸命頑張れば、間違いなく今日よりもっと素敵な明日がやってくるはず、とアパートの連中を見ていて、ボクはそれを確信する。


啓一がハワイに来てから、あっという間に四ヶ月、来月からいよいよ中学校に通う。

彼は頑張って異国の生活に自分を慣らした。

脳の柔軟性、羨ましいほどの若さのおかげだろう。

でも、やっぱりというか、土日は必ずベースボール。

ヨシダの爺様と啓一は本当に仲が良い。すっかり、啓一は大和魂を理解したようだった。


雨上がりの日曜日。

ハワイでは珍しい朝からの雨で今日の野球の試合は中止だった。

雨は昼過ぎにはすっかり上がって、ホノルル全体をハワイ名物の大きな虹がアーチを描く。きっとワイキキあたりでは観光客が感動の声をあげているだろう。

しそびれたべースボールに未練たっぷりのヨシダの爺様と啓一の二人が教会に顔を出した。

「ノーマン、ちょっと見てよ!ジイチャンが凄い球を投げるんだ」

「凄いって?」

「ほれ、さっ、これ」

ヨシダの爺様がにっこり笑って、ボクに持ってきたキャッチャーミットを放った。

ヨシダの爺様は得意げに肩を回す。

「ノーマン、最近、ワシはシンカーを覚えたんよ。受けてくれんかの」

彼らの教会訪問の目的、それはボクに新球を受けさせることらしかった。

さぁさぁ、と啓一はボクをキャッチャーに仕立て、座らせる。

ヨシダの爺様がマウンドと思しき距離感の場所に立つ。

啓一はバッターのポーズ。ボクの前に構える。

「ええか、ノーマン」

「はい、どうぞ」

サイドスローから、一球目。

パシン。

ボクのミットにストレート。

「ナイスボール。低めいっぱいのストライク」

啓一が球筋を見極めて叫んだ。

「普通のストレートでしょ」

とボク。

「まぁ、待てって」

ヨシダの爺様、大きくサイドからの二球目。

カーブだった。

パスン。

「外角、ボール」

「啓一も厳しいの」

 吉田の爺様が苦笑い。

「ノーマン、次、シンカーいくで」

ゆっくり肩を回し、深呼吸。

「八十歳過ぎてシンカー覚える人間なんか、この世に貴方だけですよ」

「ま、ワシには目標があるけんの」

「そうか、ノーヒットノーラン」

「そ!」

「そろそろ・・・ですか?」

「啓一のベースボールも様になってきよったからの。うん、そろそろの」

「奥さん、喜びますよ」

「うん。この魔球のがあるからの、ほらっ」

三球目、ヨシダの爺様が投げたのはシンカーだったのか、その落差にボクはうっかり取り損ね、ボールは後ろの椰子の木々の合間に吸い込まれていった。

啓一のストライク!のコール。



ヨシダの爺様は今年で八七か八八になる。今でも野球を、いや、ベースボールを愛している。

ハワイの日系人オンボロ老人野球チーム「フジヤマ巨人軍」のエースだ。

ボクの教会にもちょくちょくヨシダの爺様は顔を出す。だいたいは野球の話で、メジャーリーグの日本人選手の活躍には胸を張って喜ぶ。

ボクの出したアイスティーを飲みながら、最後に必ず、

「ノーマン、来週のヘルプは頼むでの」

これがヨシダの爺様の決まり文句だ。

ヨシダの爺様は、啓一も賢太郎もチェルシーもケイトもキャシーも、アパートの住人の誰かしらを週末、半ば強引に試合に連れ出した。チームはメンバーの高齢化で一人去り、二人去り、最近では九人揃わぬことが多く、スケジュールの空いている住人は早朝から叩き起こされ、グランドに連れていかれた。

試合が終ると、必ずヨシダの爺様はアパートから持ってきた冷えた麦茶を自分の小さなアイスボックスから取り出し、紙コップに入れて皆に配る。それが賢太郎だろうが啓一だろうが、女の子が三振の山を築こうが、チャチがトンネルをしようが、

「どうも、いつもスマンの。メンバー揃わんとの、ベースボールができないからの、ホント、ありがとう、サンキューっの」

少年のような目でニコニコしながら頭を下げて、助っ人のみんなと握手をする。それが負け試合だろうが勝ち試合だろうが。



その朝、

「もしもし、たたた、たいへんよ!ノーマン。吉田の爺様が新聞に出てる!」

ボクが電話を取ると、電話口で山村さんの奥さんが叫んでいた。


話の内容はこうだ。

八月一日付ハワイ邦字新聞「イーストウエストジャーナル」の一面。

陽子さんは、そのトップ記事に目を止めたそうだ。

「日系野球チーム、六十一年後の野球殿堂入り。戦前、戦中、差別と闘い地元と交流」

当時のチームの集合写真が載っていた。

何気なくその記事を読んでいた陽子さんは眼を疑った・・・。

その中の一人に見慣れた名前を発見、カズオ・マイク・ヨシダの名前があった、と。

写真のメンバーを指でたどって、後列三人目、その人の名前と顔を、何回も何回も確認したが・・・やっぱり、どうみても、そこにいるのは若き日の、まさにヨシダの爺様だと。

ボクも「ちょっと待って」と言って、イーストウエストジャーナルをキッチンに取りに行った。


新聞のタイトルは「ルーツ・オブ・イチロー」だった。

「差別や収容所生活に耐え、野球を通じて地元との交流を深めた、戦前、ロサンゼルス郊外で結成された日系人野球チームが辛酸をなめてなお、アメリカ野球に寄与したとして解散から六十三年後の今年、殿堂入り決定。大男相手に小技を重ね、ブレーン(頭脳)ボールと異名を取ったアメリカ大陸の日本野球の伝説が今、蘇る」

驚いた陽子は中庭にいた山村さんを大声で呼び、そしてボクに電話したという。

それからボクを交えて三人で手分けをして各方面、皆に「大事件だ!」と電話しまくった。



ヨシダの爺様ことカズオ・マイク・ヨシダは一九二三年、九月十九日に南カリフォルニアのガーディナで生まれた。このあたりには日本人も多く住み、そんな同胞を相手にした洗濯屋をカズオの両親は営んでいた。

両親のヨシダ・ミキオ、マサコの二人は一九〇九年に沖縄からアメリカ本土に渡った。

人口増加、沖縄経済の疲弊。さらなる日本政府の軍備増強政策による重点的な沖縄人徴兵制は、反日気風の強い沖縄人にとっては、夢の新天地を求める海外移民のきっかけとなったらしい。

両親は、親戚のつてを頼ってロスアンジェルスのダウンタウンの沖縄人一世家族が経営するクリーニング会社に就職し、ここで技術を学んだ。

一九二三年にカズオが生まれた後、一九二五年に弟ジロー、二八年に妹、リョウコ、三二年にリョウタ、末妹ケイコが一九三四年に生まれた。

まだまだ東洋人差別もあり、日系社会の中にも沖縄移民差別があった時代、決して幸福とは言えない世の中、六人家族で夢を抱いて力強く自由大陸アメリカを生き抜いていった。長兄カズオが小学校を出ると「ガーディナー」、つまりアメリカの植木屋の修行に出ることになった。この時代、ここカリフォルニアで日本人が独り立ちできる仕事は、洗濯屋に植木屋、まとまった資金があればイチゴ畑と相場が決まっていた。それは日本人の生まれ持っての忍耐力と手先の器用さに起因していたのだろう。


当時の昼休み、大きな空き地で日系人、メキシコ人などが嬌声を飛ばしながらて一心不乱に遊んでいたのが野球だった。

そこでカズオは始めてベースボールという野球に出会った。

当時の日系人社会では俳句、生け花、野球が三大娯楽であり、この野球こそが、日系人が白人、白人社会と交流、時に対抗もできる唯一の手段であった。実際、野球を通しての地元との付き合いは自分達の生活向上に上手くつながった。野球が白人社会に溶け込む手段とは別に、白人チームを負かし、見返す大きなチャンスでもあり、打倒白人を胸に秘め心一つに団結し、この頃、各地に日系人野球チームができあがった。


十三才そこそこのカズオは、大人達に混じって野球の腕をメキメキ上げていく。

一九三八年、十五才の春には地元の社会人チーム「カリフォルニア・フジヤマ球団」にスカウトされた。もちろん、日系チームは「プロ」ではないわけで週二日にサンタバーバラのグランドでの練習、週一回の試合を組み、目指すはカリフォルニア社会人リーグ優勝。そして、全国大会を勝ち抜き、夢は大きく全米制覇。そんな「夢」はチームメンバーだけではなく、全米に散らばる、決して夢見などできない生活を営む日系人同胞に大きな希望と勇気を与えた。


カズオが十六歳になると、本格的に野球に打ち込む体制ができあがる。

カズオの実力を見初めたサンタバーバラのイチゴ畑のオーナーが、カズオを住み込みで雇い、練習環境が著しく整うことになった。

寄宿していたイチゴ農場で早朝の水やりが終わると、午前中は野球の練習、午後からは再び酷暑の畑で草取りなどの作業する生活に入った。

この炎天下の忍耐と辛抱の農作業のおかげもあって、カズオの心と下半身が実に粘り強く成長し、投手として最適な心体に成長していった。


練習では、コーチから打者に日本語で指示が飛ぶ。

「次の次の球を落とせ(バント)」

白人選手には、決して打力ではかなわないゆえ、重盗やバントを多用し、二塁走者がバントでも本塁を駆け抜けることも多々あった。

白人社会の共感を得たのは、小兵の組織野球だけではない。

球団が立てた絶対方針「白人の相手チームと事を荒立てない」は、時に不利な判定が下る逆境に耐えて、フェアプレーに徹する姿を見せつけた。逆境に暮らす中での身に付けた必然の忍耐力と言えばそれまでだが、しかしながら、その実力は多くの白人チームを撃破して、一九三五年から五年連続で太平洋西地区優勝するまで上がった。



一九四〇年。

弱冠十九歳、サイドスローからくり出す変革自在の投球で白人大男を翻弄したカズオ・マイク・ヨシダを擁するカリフォルニア・フジヤマ球団は、全米アマチュア・ベスト四まで進むセンセーションを巻き起こした。


翌年、日系社会にセンセーショナルなニュースが流れた。

カズオが大リーグからスカウトされたのだった。

一九四一年の春、サンタバーバラがホームタウンの大リーグ、サンフランシコ・シールズの球団職員がカズオをスカウトにやってきた。

日系人として史上初の快挙、まさに日系社会の「星」になる可能性が降って沸いてきた。

が、束の間に咲いた夢は散る。

カズオと彼の家族の人生、いや、すべての同胞日系人の夢を奪ったのは「戦争」だった。


一九四一年一二月七日、日米開戦。太平洋戦争勃発。

一九四二年二月十九日、ルーズベルト大統領が日系人総移動令に署名。

国籍の有無を問わず、日本の血が流れている在米日本人、日系アメリカ人は「敵性外国人」ということで内陸部へ強制移住させる「大統領令第九〇六六号」が発令され、アメリカ西海岸に居住していた約十二万人の日系人がアメリカ国内十ヵ所に点在した強制収容所に収容された。

決して心荒立てないカズオを始めとする日系人達も、さすがにこのアメリカ政府の施策に怒りを感じた・・・なぜに日系人だけがすべての財産を奪われ、収容所へ連れていかれるのか。同じ敵国であったドイツ系やイタリア系の人々は「敵性」とは見なされず、収容所送りにはならなかったのか、と。

後年、大きな政治問題となった「民族差別」が民主国家を標榜するアメリカには存在した。

収容所送りにされる日系人に許された荷物は鞄一つだけ。

カズオはバットとグラブ、ボロボロのボール、そしてフジヤマと胸に大きく書かれたユニフォームを麻袋に大事に詰めた。猫の額ほどの小さな玄関に威風堂々と飾られていた額入りの富士山の写真を最後に手で抱えた。

カズオは荘厳なるこの山の写真に遠く、もちろん見たことのない故郷、そして自分に流れる日本人の血のチカラを感じていた。それは当時の日系人、誰もが持つ感情だったのだろう。日系人宅には必ずといっていいほど当時、富士山や桜、そして宮島厳島神社の写真なり小さな絵が誇らしげに飾られていた。

日系人の預金、土地などの財産はすべて凍結、封鎖、没収された。

ヨシダ一家は、アイダホのミネドカ収容所に連行された。


掘っ建て小屋の収容所は冬、釘が打てないほど凍りついた。

それでもカズオは意地でも霊峰富士の写真を入り口の扉とは呼べない板塀に飾りつけ、生きる勇気をもらった。

「逃亡者は背中の日の丸が的だ。日本人の大好きな日の丸の真ん中を狙って射殺せよ」

家族皆が着る服の背中に日の丸を縫いつけられ、指揮官が看守に笑いながら命じた。

しかし、それでもカズオをはじめとした若い日系人達はそんな状況の中、悲しみと辛い気持ちを噛殺し、野球を交流の糧にした。違う見方をすれば、すべてを忘れるためには一球に入魂できる野球にしか儚い希望を見出せなかったのだった。

かばんに詰め込んできたユニフォームとグラブ、ボール。収容所でチームを結成、看守と試合をし、栄養失調に負けずにカズオは日系人の誇りを一球に込めた。


入所して一年が経過した。

悲惨な収容所生活だった。

夏になれば風が吹かぬとも砂埃は舞い上がって目に入り、息をするたびに鼻、口に入り込む。

ぎらぎらの太陽は体中の水分を奪い取り、肺が干からびていく感覚にカズオが陥る。そんな夏が過ぎれば、すぐに厳寒の冬がくる。

不幸にも、収容所には医者がいなかった。


その冬、幼い妹ケイコと弟リョウタを相次いで肺炎でなくした。

享年十才、十二才。尽きぬ涙に人生の刹那をカズオは知った。

家族は思った・・・この怒りをアメリカ政府に持っていくか、はたして時代に向けるのか。

両親はアメリカを恨もうと思っても、カズオら子供達はアメリカ人という事実。そんな折、カズオは白人社会に日系人の誇りを誇示する為にもヨーロッパ戦線への出征を決意する。

きっかけは集会所の掲示板に張り出された一枚のチラシは志願兵の募集だった。

「日系アメリカ人部隊、第四四二連隊への志願兵募集。アメリカへの忠誠を今!」

家族は多くの若き日系人達の軍隊への志願することが、この地獄の収容所から自分達が開放されるであろう淡い期待もあったが、親達は死する覚悟で日系人社会の名誉回復を図る子供達の気持ちを憂い、また向かえるであろう子供達の戦死の恐怖に苦しんだ。

春、カズオは収容所を出て志願した多くの若者と軍用バスに揺られてダラス、フォートワース基地に向かった。


ハワイの一万人の日系人によるアメリカ陸軍第一〇〇部隊(二世部隊)が組織され、この部隊を中心にカズオらのカリフォルニア在住の日系人が加わって、第四四二連隊戦闘部隊が編成された。

この四四二連隊は非常に多くの死傷者を出しながら、ゴーフォーブローク(当たって砕けろ!)を合言葉にイタリア戦線で見せた勇敢な戦いぶりは、日系人に対するアメリ社会の認識を変革させ、アメリカ社会における日系人の存在意義と価値を大いに向上させた。まさに志願兵となったすべての日系人若者の思いが叶った証だった。

日系人の若者は死してその存在感を「アメリカ」に認めさせたのだった。

その先頭を切って闘った一人がカズオであり、日系二世部隊第四四二連隊は史上最高の叙勲部隊としてその名を馳せ、戦争で自らの命を賭けて国家への忠誠を証明した。

しかし、多過ぎる同胞日系人の若者が犠牲となって、名誉だけを残してこの世を去った。



一九四五年、八月終戦。

家族が全員再会できたのはロスの秋風が涼しい、もう十月の後半であった。

戦争が終わって家族が減った。

地元に帰ると家業のクリーニング屋は見も知らぬ白人に取って代わられていた。

警察、裁判所に訴えようが法的にも何も認められず、力づくで追い出そうとした時に警察が呼ばれ、逮捕されたのはカズオの父親の方だった。

戦中戦後アメリカに同化したはずの日系人に対する差別は今なお続いていた。

カズオは二十二才になっていた。


翌年、家族が生きるためにカズオは中古のトラックを借りて日系農場を顧客にした運送会社、ヨシダ・トランスポテーションを始めた。

下の兄弟二人は学校に行かせた。その分、カズオは学校に行くことは諦め一生懸命に働いた。

野球に対する情熱も再び沸きあがり仲間に声をかけ「カリフォルニア・フジヤマ球団」を結成したが、以前、最強を誇ったチームメートの半分以上が欧州戦線で戦死。戦前のような目覚しい活動はできなかった。


この頃になると日系人の野球スタイルも「ベースボールらしく」高度に変革していく。

戦前に一度カズオをスカウトに来たサンフランシスコ・シールズに、ハワイ出身の日系人ウィリー・カナメ・ヨナミネが入団したニュースが新聞を飾る。

カズオはもちろん、大リーグでのプレーに憧れもしたが、今は親兄弟と家業を守っていくことで精一杯だった。

そして、野球一途に夢を追い求められないもう一つの理由、それは「恋」だった。


第四四二連隊の半分はハワイから志願した日系人であった。当然、生死を分け同じ釜の飯を食った仲間で生涯の友も数多くできた。そんな友人の一人、ビリー・トキタがカズオの「恋」を取り持った。

一九四六年の夏。

リトル・トーキョーで行われた日系人が楽しみにしている「ボン・ダンス・パーティ」、いわゆる納涼盆踊り大会でビリーの妹、カヨコ・トキタ、通称サンディに一目惚れしてしまった。ビリー・トキタは戦争終了後もそのまま軍隊に残り、ロス郊外の海軍基地に勤務していた。彼女はその夏、たまたまハワイから兄を訪ねてロスへ遊びに来ていた。


運命の出会いから一年後、カヨコ二十三才とカズオ二十五才は、ロス南部トーランスの海の見える教会で結婚式を挙げた。差別、収容所、弟妹の死、出征、砲弾、戦死・・・カズオの人生に野球以外で初めて心に光明が差し込んだ時だった。

しかし、未練も・・・もう一度、日系人の誇りを胸にベースボールを続けたかった。

が、そんな夢よりも現実を生き抜くことが重要だった。

結婚後、カズオはきっぱりと野球を引退した。早く家業を安定させ、弟、妹を一本立ちさせなくてはいけなかった。

頑張り過ぎた両親には、もう苦労はかけられなかった。厳寒の収容所、父親の足の指は凍傷で、もう一本も残っていなかった。


一方、カヨコは自分との結婚が「ベースボール」という彼の夢を奪ってしまったような気がして心を痛めた。それを言っても、いつもカズオは、

「俺は愛するベースボールは引退。これからユーだけ愛す」

きっぱりと、恥ずかしがることなく言い放った。

そして、まるで自分自身に言い聞かせるように、

「ワシはの、ベースボールで十分いい夢は見たけん、これからは二人でいい夢の」

そう言うと、いつもカズオはカヨコの肩を抱いた。


カヨコは芝生の青い新鮮な緑の匂いが鼻先をかすめると思い出した。

結婚前、よく応援に行ったパサディナの野球場をキビキビ踊るようにプレーするカズオの姿、キラキラ輝く彼の瞳、それらは終生忘れることのない心にしまったステキな宝物だった。


やがて新しい家族もできた。息子一人、娘二人。事業も順調、弟のジローも高校を出て一人前になってきた。もう一軒支店を出しビジネスの拡大を検討していた矢先、悲報が届いた。

義兄ビリーが朝鮮戦争で戦死した知らせだった。


ビリーにはハワイに年老いた両親がいた。

これをきっかけにカズオ家族はハワイに渡った。

妻のカヨコのことを考え、子供達のことを考えた。事業拡張を考えていた時期でもあり、ヨシダ・トランスポテーションの支店はホノルルに開くことにし、カリフォルニアの本店は弟のジローに任せることにした。父親、母親、弟と妹もこぞって賛成した。それはカズオ自身の幸せを考えて、と言うよりは皆、ハワイにできる素敵な別荘を期待して。



一九八〇年の三月。サヨナラ、スイートハート。

雨季の最後か、ハワイでは珍しく三日間も降り続いた雨があけた朝、素晴らしく大きな虹がダイヤモンドヘッドからワイキキにコーラウ山脈にかかっていた。

この日、カヨコ・ヨシダは夫、カズオの運転するダットサンに揺られてホノルルにあるクイーンズ病院の中にあるクイーンズ・ホスピスに入った。

カヨコは、余命幾ばくも期待できない肺癌、末期だった。


この病院は、精神的ケアの専門家であるハワイ大学の心理学教授から牧師、神父、仏僧など様々な宗教家を雇って患者、家族、医療スタッフの精神的ケアを行っていた。

基本的にはキリスト教徒であるヨシダ夫妻であったが、一般的日本人同様それほど信心が深いわけではなく、坊さん、宮司さん、神父さんと交流を持った。たくさんの神の使いと会ってたくさんの世間話からハリウッドあたりのゴシップにまつわる馬鹿話を楽しく話す時間を持った。その中でカヨコの一番の自慢話はカズオの野球選手時代の思い出だった。

「あぁ見えてね、うちのお父さんは、大リーグに入るくらいの選手だったのよ。今じゃただのお爺ちゃんだけど、あの時は日系社会の星だって・・・」

ここで夫婦は楽しく、大切な時間を有意義に共有することができた。


病室は心地良い風が山から海に抜けていく。

夫婦の残り少ない至高の時間はゆっくりと過ぎていく・・・出会いのボン・ダンス・パーティ、亡き兄、ビリーの誇らしい活躍。キラキラ輝いていたベースボール、立派に育った子供達。家族旅行、初めて行った祖国ニッポン。浅草、銀座、京都、宮島、別府、人生は走馬灯のごとく。


時は罪にも誰にでも平等に経過し、人は皆、年をとる。

カズオは初めて神を恨んだ。

「カヨコが、なんで、どうして・・・」

いつもいつも病室を出て、一人隠れて涙を流した。

カヨコは最後の最後まで子供達に、

「パパのベースボール姿はカッコ良かった。本当に。ママはそこに惚れたの」

何回も何回も枕もとで語った。

「戦争さえ無ければ、日本人初の大リーガーだったんだから。貴方達にも見せたかった。私とパパの思い出はほとんど、ベースボール・・・」

語る笑顔は少女のように輝いていた。


八月の終わり。入院から五ヶ月が経った。

享年五十五才の若さでカヨコの人生の幕は下りた。

最期に、しっかりとした口調で夫、カズオに妻カヨコは言った。

「どうもありがとう、カズオさん、良い人生だった。ありがと。でも、最後に、ひとつ、約束して欲しいのね。どうしても」

「・・・おう、なんでも、どーんなことだって約束する、うん」

「私が死んだらね、絶対に、またベースボール、やって下さいね」

「・・・」

「天国から貴方のプレーを必ず、応援しているからね。約束よ」

しっかりと妻の手を握るカズオは必死で頷いた。

「ほら、カズオさん、あの約束、覚えてる?」

「・・・うん」

「結婚前にリトル・トーキョーのカフェで。あなたは『今度、ノーヒットノーランしたら結婚して下さい』って私にプロポーズしたでしょ」

「・・・うん」

カズオの涙は止まらない。

「でもね、みんな、カズオさんったらあれから一回もノーヒットノーランしてないのに」

「だって・・・ワシはママと結婚、すぐにしたかったの」

「ね、またベースボールして、私のために投げてちょうだい。楽しみにしてる、ね、約束のノーヒットノーランを目指して、また頑張って」

「・・・うん。約束する」

「良かった」

「・・・絶対」

カズオは優しく妻を抱きしめた。

「私、天国から一生懸命、応援してるね」

カヨコは静かに目を閉じた。

家族みんなが静かに見取った。

カズオは泣いた。それから、ずっと泣いていた。


最愛の妻を亡くして半年後、納戸の一番奥にしまってあった「野球」と書かれた段ボール箱を数十年ぶりに出し、開けた。

驚くことにユニフォームにはきちんとアイロンがかけられ、胸のFUJIYAMAの文字が眩しかった。そして、もちろんグラブとシューズはピカピカに磨かれていた。

その一週間後、今に続く「フジヤマ巨人軍」が誕生した。



ヨシダの爺様の運送会社は長女のミサコと高校時代からのボーイフレンドだった夫のマークが継いだ。長男のヨシロウはハワイ大学を出て軍属の弁護士。次女のエイコはカリフォルニア大学の大学院で法医学を学び、その後結婚、今はシカゴにいる。

カズオは会社を娘夫婦に任せたと同時に家を出て悠悠自適な生活、ミックスプレート・ハウスのアパート暮らしを選んだ。

長女ミサコは、

「もういい加減、年なんだから、一緒に住みましょ、パパ。あんまり心配かけないでよ」

などと言うが、ヨシダの爺様は、娘家族に気を使うのも面倒なので断り続けている。

「ワシはベースボールで忙しいのだ」

と平然と言い放した。

実のところ、全く寂しさとは無縁の生活で、アパートに孫達もよく遊びに来るし、ここの住人達とバーベキューだ、海だと遊んでいた方が気楽で楽しく、若いエネルギーをたくさん吸収できるとカズオは毎日胸を躍らせていたのだった。



陽子さんが読んだ新聞記事には再来週の日曜日にロスアンゼルスで殿堂入りの記念式典が開かれる由を伝えていた。

連絡を受けたアパートの住人達は、まさに晴天の霹靂、一大事とばかりに驚き、感動してヨシダの爺様を称えた。


その晩、緊急の叙勲ならぬ殿堂入り祝賀パーティが中庭で開かれた。カパラが聞いた。

「ジイチャン、久しぶりのロスだろ、懐かしい面々に会えるのかい」

「ノー、ほとんど全員もう死んでしもうとるわ。戦争で半分、年取って半分」

全く関心が無さそうに、熱燗を口にする。

「何着て行くの?タキシードとか持ってるの?オスカー並みのイベントなんだから」

チェルシーが聞けば、

「いや、ワシは行かんよ、その授賞式とやらはの」

一同が驚いた。

「なに言ってんの、冗談でしょー」

チェルシーは口をポッカリあけた。

「ダメの。ワシは行かんよ。再来週のその日は、試合があるけんの、ロスへは行かん」

一同がさらに驚いた。

「なんで、行けば良いじゃないか、こんな名誉、二度とないぜ」

「そうだ。不安だったら俺らがついていってやる」

チャチもカパラも真剣に言う。

「ノーノー、ボーイ達。ワシは今まで殿堂入りがしたくてベースボールしているわけじゃないの。ワシは、仲間とやるベースボールが大好きだからの、一生懸命やっとるのね、今でも」

チェルシーが呆れたように、

「そりゃそーでしょうけど。それと、これとは話が違うでしょ」

「それに、女房との約束あるけんの。ノーヒットノーラン。な、啓一」

「そうだ!ジイチャンは凄い魔球をマスターしたんだよ。僕はなんかノーヒットノーランの予感がするな」

「そうじゃろ、そうじゃろ、な、啓一」

随分と自慢げなヨシダの爺様だ。

二人のやり取りを聞いている一堂は唖然、缶ビールを飲む手もTボーンステーキをつまむ箸も完全に止まってしまった。

「そんな名誉より、カヨコとの約束が大事の。再来週位、ついにできそうな気がするのよ。だから、ワシはべースボールの試合は絶対休まんの」

ヨシダの爺様は好調さを誇示するように、グルグルと盛んに肩を回した。

「もう、かれこれ六十年以上もカヨコを待たしたけんの」

一同そのヨシダの爺様の頑固さにあきれるも、微笑ましく。

「じゃ、俺とカパラが助っ人で出てやろう」

チャチが言った。

「ほ、それは嬉しいの。パールシティのケンジが痛風とかで欠場での、ワシはメンバー編成に悩んでおったのよ。啓一も頼めるかの?」

「もちろん!」

賢太郎もどうやら行きたそうな顔をしている。

「ね、みんなで応援に行かない?」

チェルシーがみんなを誘った。

みんな賛成だった。再来週の試合はみんなでお弁当を作ってフジヤマ巨人軍を応援に行くことに

決まった。

相手はライバル、キムチ・エンジェルス。


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