走れ!ホノルル

高橋パイン

第1話

~日系人の爺様達は世界平和の秘訣はハワイのローカルフードの弁当(ミックスプレート)にあると胸を張る~


サムライボーイ


サーフィンのメッカといえばノースショアだが、ワイキキ周辺の手軽に行けるポイントも悪くない。

前の晩の天気予報で大きな低気圧が迫ってくると知れば、朝一番で海に入ってから仕事場に行く。あるいは天気図を見て午後に良い波が来ると思えば、神のご加護に免じて仕事を早めに切り上げて夕日に染まる海に出る。

ボクは、ワイキキの北、マッカーリー通りの教会で仕事をしているので、仕事場から便利に行けるアラモアナ沖のボウルズからダイヤモンドヘッド下のライトハウスにかけてのサーフポイントが自然と自分のホームグラウンドになる。

しかし、いくら良い波が来ても週末の朝だけは、ボクは海には行かずに訳あって早朝からベースボールに興ずる時が多い。それもかなり真剣にやらないと仲間から文句を言われる。


ボクの名前はノーマン・クルム。ハワイ、オアフ生まれでドイツ人とハワイアンの混血、ここホノルルで牧師をしている。牧師といっても黒い服をまとった堅苦しい人間を想像してもらっては困る。周りからはキリスト業界一のサーファー、「ビーチサンダルの牧師」と呼ばれている。


日本人的には「日本人はハワイが好き」ということは一般的であるらしいが、アメリカ人だってハワイが大好きだ。多くのアメリカ人、特に中部から西の人間は「楽園ハワイで老後は暮らしたい」と思っている。つまりは、日本人からハワイを見れば、ここは西洋の入口であり、アメリカ人から見ればここは東洋の入口であって、世界で一番、大陸から孤立した魅力溢れる場所なのである。


三年前に日本から山村ファミリーがワイキキの北東にあるカイムキという街にアパート一棟を思い切って買い、移住してきた。彼らをボクに紹介したのは日本から来てこっちのベーカリーの娘と結婚した山本健三、通称ケン、奴は十年近くここでテレビコマーシャルとか映画、テレビの撮影コーディネーターをしているサーファー仲間だ。

「ハワイにアパートでも買って、ここに移住する計画を立てている東京の友人がいてさ、大きな広告代理店の幹部、すごく世話にたんだ。ね、ちょっと相談にのってあげてよ。そうそう、息子をノーマンスクールに是非って話もあるからさ、ね、頼むね」

ケンからのこんな相談から、山村ファミリーとボクの関係が始まった。

ケンにもよく手伝ってもらっていたが、ボクはここ数年、ダウン症の子供達を集めたスポーツと芸術の小さな学校をやっている。

山村さんのハワイ移住の大きな決断は、子供さんの教育問題にあった。子供と言っても、もう二十歳を過ぎた大人だが。



カイムキという街は、古くからある典型的なハワイの町で、高層ホテルが乱立するワイキキ、ゴージャスな邸宅とマンションが居並ぶカハラ、ハワイカイとは全く雰囲気を異にする場所であり、山村さんは、昭和の街並みを思い出すと言ってとっても気に入ってくれた。少々寂れた感もあるが、本当のハワイらしい味を出して時間がゆっくり回る街である。

ワイキキを見下ろすカイムキの丘を登る途中、一本の大きなプルメリアが目印の山村さんが買った二階建てのアパートがある。名前は「ミックスプレート」。路地に面した入口の緑にはいつも小鳥が遊び、奥に抜ける中庭にはいつも綺麗な花が咲いていた。


山村さんは東京にある元大手広告代理店の制作局長を早期退職、奥さんは陽子さん。山村夫婦にはダウン症の一人息子、賢太郎がいた。

緑で溢れる中庭を囲む二階建ての清潔なアパート、中庭には朝晩、コーラウ山脈からビーチへ吹き抜けるトレードウィンドが気持ち良い風のトンネルを作っていた。


そこに住むのはアパートの名前に相応しい住人達の多彩さは、ここハワイそのものだった。

中国系アメリカ人で、ハワイ島のヒロからオアフ島に来てハワイ大学に通う女の子キャシーとその祖母アン。優秀な成績のキャシーは、東海岸の大学院から誘われている。アンはモデル会社の経理と空港警備の二つの仕事をして、キャシーの学費を援助し、彼女の成功を夢見る。

ブロードウェイを夢見るダンサーのチェルシーは日系五世。東京の六本木に出稼ぎに行った経験がある。勤めた先はトップレスバーと、かなり苦味の効いた体験だったらしいが、後悔なんかしてなわよ!と明るく話す。

気のいいハワイアンのバーテンダーのカパラ。カパラのウクレレとサーフィンはプロ級だ。その彼女のケイトは小学校の先生をしている韓国系の二世。二人は結婚しそうで、しない。というか二人の民族的血脈で揉めているらしく、アパートのみんなが気を揉んでいる。

ニューヨークから来たアイルランド系の白人チャチはカピオラニ通りにあるフォードの中古車ディーラーに勤めている。ハワイに来た当初は精神の病に侵されていた。その理由は当時随分荒れていたニューヨークのブロンクス、勤めていた火葬場で幼い少年少女達をあの世に見送り過ぎた刹那とボクに涙を流しながら語った。

そして、一人の日系の老人がいた。

大リーグにスカウトされた経験を持ち、今でも野球、いやベースボールをやっているヨシダの爺様だ。たしか、八十歳はとうに過ぎている。

そんな色々な民族、世代が集うの山村さんのアパート「ミックスプレート・ハウス」だ。

ミックスプレートとは、昔、プランテーションのランチの時間、各国からの集まった貧しい移民労働者がそれぞれのオカズを分け合い、それぞれのご飯の上に乗せて食べたという移民労働者の至極の弁当が現代に伝わり、今やハワイを代表するファーストフードになった「ミックスプレート」、まさに多民族調和の輪。白いご飯の上に天麩羅からキムチからハンバーグ、フライドチキン、ソーセージ、塩鮭まで色々なモノが乗っている「ミックス丼」、まさに山村さんのアパート「ミックスプレート」が白いご飯なら、集まったみんなは各国を代表するオカズか。

そして来週、日本からの少年が仲間入りすることになっていた。

少年が叔母や姪っ子と小さい時に通っていた駒沢にあるキリスト教会、そこの牧師であるボクの友人、マイク・ヨハンソンの紹介だった。



少年の名前は、志野啓一。一九九八年十月二十八日に東京で生まれた。

啓一が生まれた三日後、母親の良子は三十八才、その短い生涯を閉じる。妊娠中毒症。

父親・啓太は大手レコード会社に勤めていた。学生時代は野球一色、大学三年、四年の時には六大学リーグ主戦級の投手でならした。

その豪腕は長年、会社の野球チームのエースとして君臨していたが、妻を亡くすと同時に引退した。妻は少年のように力一杯に投げる彼の姿を楽しみ応援に来ていたが・・・妻を亡くしたショックは野球どころでなくなり、さらに息子啓一との二人家族になると育児に取られる時間、そして仕事、バランスをいろいろ考え、半年後に大手レコードチェーン店が経営する小さなレコード会社に移った。

野球は止めたが、彼の最大の楽しみは物心ついた小さな啓一とのキャッチボール、毎朝欠かしたことはなかった。


しかし、そんな健康男にも「不幸」というものはいとも簡単にやってくる。

三月にヨーロッパに音源の買付け出張、そして、啓一が幼稚園に上がる桜満開の四月の頭、父親、啓太は胃に不快感、同級生の勤める大学病院に出向いた。

精密検査の結果は、手遅れの癌だった。

持って半年、友人の医師の宣告。

何とか、あと一年間、医師の宣告の倍生きて啓一が小学校に上がるまではせめて生きていたいというのが、親としては最低の小さな希望だった。

これが執念となり、医師も驚く生命力で、父親・啓太は啓一とともに、もう一回、満開の桜を見ることができた。が、啓一が小学校の入学式を済ませた翌日、父親は享年四九才で伴侶の待つ天国へ旅立った。


亡くなる二日前、父親と啓一は病室で二人きりで話をしたという。

きっと彼、啓太は自分があと数日でこの世を去ることを理解していたのだろう。

「啓一、ごめんな」

「・・・」

「お母さんのとこ、行く」

「えっ」

「途中降板。完投ならずだ」

「・・・」

「もっと、お前とチャッチボール、したかった」

「・・・」

「啓一、頑張るんだぞ。俺の分まで、な」

「・・・うん」

「頑張ったらさ、絶対に、夢は叶うから、な」

「・・・うん」

「でっかい、夢もってな。いつも、笑顔で・・・な」

最後に父親は笑った。

その二日後、啓一、六才の春に親が二人ともこの世からいなくなった。



小学校に上がった啓一は祖母の春絵の元で人生を過ごす。

亡き父親の妹にあたる叔母には当時十二才、今は青山の大学に通う一人娘、真弓も啓一を本当の弟のように接した。そして六年間、素直に成長をとげ、ボーイスカウトにも入って「男の世界」も積極的に経験した。しかし、名門中学に入って半年が過ぎた頃、啓一は人生に対する「疑問」を抱き始めた。

中学一年の秋を過ぎるとその「疑問」がはっきりし、学校に向く足が自然と遠のくようになってしまった。それを世間は登校拒否と呼んだ。

今ある境遇を啓一は自身の宿命として受け止め、負い目も引け目も何も感じないのに世間は違った。啓一の周りから「親」の話題をオブラードで包み隠す。周りの大人が不必要に「親」の話題を避けて通る啓一に対する「優しい心遣い」は、啓一にとっては辛い仕打ちとなり、そんな学校に居心地の悪さを痛感し、また、そんな事を気にする自分自身にも嫌になった。

また、名門中学ゆえの生活環境だったか・・・中学一年生、たかが十三才になったばかりだというのに友達の父兄、先生達は進むべき大学、就職までの話題に花を咲かせ、親達は一生懸命になって子供達の未来へのレールを必死に引く。啓一はそんな大人達の姿を見て、初めて社会通念への反抗が心の隅に生まれ、自分の力では突き破れない厚い人生の壁に衝突してしまった。

残念ながらこの時、そんなネガティブな思いをかき消す熱いエネルギーのぶつけどころも、啓一はまだ持ち合わせていなかった。


そんな彼、啓一の姿を見て祖母、叔母、死んだ父親の仲間達は、啓一のこれからの人生を憂い「日本脱出促進」という父親の「遺志」に合わせた選択で「強い人間への脱皮」を画策した。

一同の結論は留学。

飛躍の場所はハワイを選んだ。

「どうせ一人でこの世を生きていくのならば、狭い日本を飛び出し国際舞台でいち早く強く自己を確立してほしい」「どうせ親がいなくて悩み、差別され、苦労するのであれば狭い日本で考え込むより、もっと大きな世界を見て欲しい」、そんな願いを込めた決断を啓一に求めた。

啓一は自分を深く憂いながら東京に残る祖母の「寂しさ」が気になったが、啓一は太平洋に広がる未来を想い、留学話を快諾した。

なんでハワイか?理由は簡単だった。ハワイは日本から近くて便利であり、皆、啓一を理由にちょくちょくハワイに行くことができるからだった。


そして、中学一年を終えた春、十三才、啓一はハワイに来た。



ボクは啓一をホノルル空港の国際線の出国ロビーで待っていた。

クーラーの効いた税関を抜けると、皆が待つロビーに出るためには個人用と団体用の二つの出口がある。ボクは今までに日本を電話二回、啓一には個人用の出口に向かうように伝えてあった。

九時半、啓一が目を輝かせて出てきた。

事前に駒沢の牧師、マイクから啓一の写真を送ってもらっていたので、ボクには啓一がすぐに解った。ボクは啓一に声かけた。そして握手を求めた。

「アローハ!ようこそハワイへ、ケイイチ」

啓一はキョトンとしている。

牧師といえば、黒い服を着て真面目そうな風体を想像し、異国で黒装束に迎えられる事を想像すれば、それは多少なりとも気が重くなっていたはずだ。

啓一に声をかけたボクを見て彼は大いに驚いたのだろう。この変な外人は、まったく牧師には見えず真っ黒に日焼けし、短パンにビーチサンダル、洗いざらしのTシャツ姿なわけで。

「ノ、ノ、ノーマンさん、で、で?」

「イエス!ケイイチ。よく来た、サムライボーイ」

ボクらはガッチリと握手を交わした。

「牧師さんって話は嘘なんですか・・・あなた、ノーマンさんですよね」

「そういう固定観念はいかんな。こう見えてもボクは正真正銘の神の使者ね。ま、ハワイの住人でさえもボクの職業を間違えるから、キミがそう言うのも無理ないか」

警官、ライフガード、スタントマン、レスラーと間違えられる職業はすべて肉体派だ。

「どうだい、ハワイの第一印象は?」

「花の香りみたいな、なんか、そうだ、サンオイルみたいな甘い香りがします」

ハワイはココナッツとプルメリア、ハイビスカスとかの花の香りが交じり合った良い匂いがただよっている。

啓一の荷物が乗ったカートを押しながらボクはチャチに電話した。

ボクは啓一の出迎えにこの日仕事がオフだったチャチを誘っていた。駐車代を節約してちょっと離れた所にチャチの運転する車を待たせておいた。最近、出迎えで混んでいる場所に車をちょっと止めただけで警官がうるさく飛んで来る。


ボクの日本語はたいしたことない。たぶん、小学生の低学年レベルだろう。でも、初めて一人で異国の地を踏んだ少年とボクとの緊張関係を緩めるためにはコミュニケーションだけが頼りだと、ボクは啓一に休む間なく話しかけることにした。それで、多少の啓一の緊張と不安が取り除ければ嬉しかった。

「ケイイチ、一匹狼も悪くないよ。かっこいい」

ボクは正直そう思う。ボクも若い時に両親を亡くしていた。父親はベトナムで戦死。父の死から十年後、母親はあっさり癌で逝ってしまった。

チャチが運転するフォードのピックアップトラックがこっちに向かってきた。


ボクは仕事があるので、いったんチャチの車を教会で降りて二人を別れる。

チャチと啓一はカイムキのアパートへ車を走らせ、ボジュは今日の夕食、アパートの中庭で開かれる歓迎バーベキューパーティで合流する予定だった。



チャチの運転するピックアップが大きなプルメリアの白い花をつけた木の前で止まった。

大き玄関には今か今と日本からの客人を仁王立ちで待っている、真っ黒に日焼けした老人がいた。擦り切れているもFGのエンブレムも眩しい野球帽をかぶり、首に日本手拭い、手には使い古されたバット。日焼けした肌と眩しいほどのコントラストの真っ白なTシャツには大きな文字でFUJIYAMAと書かれている。

老人の後ろに、降り注ぐ太陽に光る白い二階建てのアパート「ミックスプレート・ハウス」の看板。手入れが行き届いた庭が広がっていた。

「ヘイ、チャチ。待っとたぞ、ちゃんとボーイと会えたか心配しとった」

「なーに心配無用ね、ジイチャン。お、今日はシャドウピッチングではなく、素振り?」

「うちのスラッガーの四郎が来れんで、次の土曜日はワシが四番打たねばならんでの」

「投げて、打って、大変だな」

「ま、エースっちゃ、そんなもんよ。おっとっと、そのボーイが・・・」

「紹介はあとあと、まずは荷物を部屋に運んでから」

チャチは車を駐車場の奥に滑り込ませ、一階、一番隅の部屋に啓一を案内した。

部屋は広めのワンルーム。啓一は大きいスーツケース二つを運ぶ、勉強道具の入ったダンボールはチャチが軽々と運んだ。

「ケイイチ、シャワーまだとってないね」

「はい」

「じゃ、すっきりねシャワーね、気持いいね」

チャチから言われて、すぐに啓一はシャワールームへ行ったが、啓一は初めて使うアメリカ式シャワーに戸惑った。温度の調節が日本のそれとは全く様子が違うようだった。使い方をわざわざチャチに聞くのも躊躇して水だけのシャワーを浴びた。


水シャワーですっきりすると、啓一は中庭に出た。

中庭にいたチャチは部屋から出てきた啓一の姿を見ると、大きなココナッツの木からぶら下がっている大きな鐘をカンカンと鳴らし、

「ヘイ、新しい仲間の到着だぞ!みんな」

大きな声で周りの中庭を囲むドアに向かって叫んだ。

部屋は一階と二階に七部屋ある。

「ヘイ、ジイチャン、改めて、彼がケイイチだ」

チャチが声をかけると、さっき玄関で会った老人が、カランとバットを入口のベンチに立て掛け、ニコニコしながら中庭に入って来た。

「よう来た、サムライボーイ。長旅ご苦労だったの。ワシはカズオ・ヨシダじゃ、よろしゅう」

啓一にとっては耳慣れぬ?日本語でヨシダの爺様は啓一に声をかけ、年不相応なガッチリした右手を差し出した。

啓一はペッコリ頭を下げて握手に応えた。

「ワシのお父さん、お母さんがの、大正時代に沖縄からカリフォーニアに移民しての、その後、ハワイに移ったんじゃ。だからの、ワシの血は純粋、日本人だ。しかしながら、アメリカ人でもある」

啓一は、アメリカ人の吉田さん?ピンと来なかったのでキョトンしていれば、

「啓一は日本とアメリカが戦った太平洋戦争はもちろん知ってるの?」

啓一は何か聞いたことがある気がしたが、何がどうしたかはよく知らなかった。

「戦争のことはよく解りません・・・」

アメリカが原爆を広島と長崎に落とした史実も何となく知っていただけで、詳しいことはまだ日本の学校では教わっていなかった。それをヨシダの爺様に告げると、

「オー・マイ・ゴット」

随分大げさにヨシダの爺様は頭を抱えて言う、

「じゃ、ゴー・フォー・ブロークに大和魂も知らんかの?」

啓一はさっぱり理解できないので首を横に振った。

「オー・マイ・ゴット、こりゃボーイに色々教えなきゃいかんぞ。ケイイチ、英語も一生懸命の、勉強するのもヨロシイがの、もっと大切な日本人の魂ちゅうものを、勉強せにゃ」

そんなヨシダの爺様の言葉を強引に遮る声がした。

「そんな話、真剣に聞かなくてオーケーよ。ジイチャンも、日本から着いたばかりのボーイ相手にお説教じゃないでしょ」

デニムの短パンに、白のビキニのトップ。小麦色の美しい女性が二階から中庭に降りて来た。

「何言うてる、チェルシー。日本の血が流れているモンが大和魂を知らんのと、日本人の恥の」

ヨシダの爺様も負けていない。

「大和魂も素晴らしいけどね、ハワイに着くなり、爺様に大和魂の話されたくないわよ」

彼女も負けていない。

「アロハ、ケイイチ。私はチェルシー、日本名はフサコ・シズル、日系の五世ね。シズルは多分、シミズの間違い。昔、誰かがミス・スペルして登録したみたい」

チェルシーはすっとスタイリッシュに握手を啓一に求めた。

「よよ、よろしくお願いします」

こんなに近くでキラキラ輝く「大人」の「いい匂い」そして「ビキニ姿」女性と接近遭遇するのは初めての経験だった。緊張感以上に啓一は、大いなる幸せを感じた。

「私ね、三年半東京で働いていたね、一人ぽっちでさ。あ、六本木、知ってるかな?」

啓一は、まだ六本木を知らなかった。

「私もキミの心細い気持ち、わかるよ、この年寄りとは違ってね」

チェルシーがヨシダの爺様を指差せば、

「この小娘が人、指刺しよってからに、これを食らえ〜」

ヨシダの爺様は持っていたホースのレバーをオンにして、勢い良く出た水でチェルシーを狙った。が、ホースの水は二人の騒動をニヤニヤ我関せず見ていたチャチに命中する。

「ワオー、何すんだ、ジイチャン」

チャチが叫んでヨシダの爺様のホースを奪い取って、その矛先を何とチェルシーに向け、次に啓一に向けて、もう大騒ぎだ。チェルシーもヨシダの爺様もみんなキャッ、キャッキャッと何だかもう大喜びで逃げまわる。

庭にはこの騒ぎで綺麗な虹ができていた。

まさに、レインボー・ミックスの名にふさわしい歓迎セレモニーだった。みんなビッショリ、肩で息をしてニコニコしながら太陽を浴びている。

「今日も、これでシャワーは要らんの、チャチ」

とヨシダの爺様が言えば、チェルシーが声をかける。

「濡れたまんまダメよ。ちゃんとタオルして着替えなきゃ。この前みたいに風邪引くよ」

「わかっとるって、うるさいのう、この娘、小姑の」

ヨシダの爺様が肩をつぼめた。

「ほらっタオル」

上からの声に見上げると、真っ白なアメリカンサイズのバスタオルが降ってきて啓一をすっぽり包み込んだ。

「全くアンタ達ときたら、いつまでたっても、子供なんだから。さ、チェルシー、彼を紹介して」

「ハイ、アン。彼が噂のサムライボーイ、ケイイチ」

「ケイイチ、ここで一番の体格、ビッグママのアン・ジャイド・チンね」

アンは中庭を見下ろす二階の手スリから啓一に手を振った。

「アロハ。よろしくね、ケイイチ」

アンはハワイ島出身の中国系で、ハワイ大学に通う一人娘、キャシーがいることをチェルシーが啓一に教えてくれた。

「キャシーは?」

「研究室に行ったわ。パーティまでには帰って来るって」

「チェルシー、仕事は?」

「今日はフラの方は休み、でも、夜遅くベビーシッターに出かけるわ。ホテルもなかなか毎日踊れるローテーション組んでくれないのよね。あ、カパラは?」

「まだ、寝てるでしょ」

会話に置いてきぼりになっている啓一をチェルシーが気遣ったのか、アパートの仲間を、それぞれの部屋を指差しながら一通り紹介してくれた。

「私は、ワイキキのホテルで観光客向けフラダンスショーのダンサー」

「でも、チェルシーはの、ブロードウェイ目指しているんだ」

ヨシダの爺様が言うと、

「ま、その話はだんだんね。で、チャチの仕事は聞いた?」

そういえば啓一はまだチャチの仕事まで聞いていなかった。というか聞くゆとりもなかった。

「ごめん、自己紹介がまだだったか。俺は車屋、フォードの中古車センターで働いているよ」

「チャチはここの出身ではなくて、はるか彼方のニューヨークの出身ね。ニューヨークでは・・・」

「だから啓一、俺はここの誰よりも真正銘のシティボーイってこった」

「元ニューヨーカーも今では立派なハワイアンでしょ」

「ま、その通り」

チェルシーがアンとヨシダの爺様の紹介を続ける。

「アンは空港入管の警備とモデルエージェンシーの経理の仕事を掛け持ち。このジイチャンは朝早く沖縄県人会館に出かけて、それからチームを組んで寝たきり老人の介護ボランティア、午後は庭いじりか仲間とゴルフね、でしょ」

「そうじゃ」

「ただし週末の朝だけはね、きちっとアイロンのかかったユニフォーム着て、必ず、私たちの誰かを誘ってアラワイ運河のグランドにベースボール」

「野球・・・ですか」

啓一が関心を示すも、ヨシダの爺様はきっぱり、

「ノッ。ベースボールの」

と笑った。


しばらくすると一台のライトブルーのアコードワゴンがアパートの前に停まった。

車の中からは日本人夫婦と子供が出てきて、啓一に向かって大きく手を振って微笑んだ。父親が子供の歩みに手を貸している。母親は車の中からたくさんの買物袋を取り出そうとしていた。

「今晩の歓迎バーベキューの材料。さ、ケイイチも手伝って」

チェルシーに促されて、チャチ、そして啓一はハワイの陽光に光るアコードに駆け寄った。

「ハイ、ヤマムラさん。ケンタも、ほら、彼が日本からの新しいお友達のケイイチだよ」

チェルシーは山村夫婦と息子の賢太郎に声をかけた。

「お、啓一君!迎えに行けなくてゴメン、ゴメン。でっかい白人さんに囲まれて随分心細かっただろう。この子の病院検査がどうしてもあってね、僕が山村です、始めまして。こっちは妻の陽子」

「よろしく。ここでは貴方の怖いお母さん代わりかな」

「初っ端から、あんまり、怖がらせるなよ、陽子」

「うそうそ。安心して。そう、ウチには、啓一君のお母さん代わりからお姉さんお兄さんお爺ちゃん代わりまでたくさんいるからね」

「ま、気楽に行こう、ハワイはとっても良い所だから、啓一君もすぐに好きになるよ」

山村さんと啓一は改めて握手を交わした。

「こっちが息子の賢太郎。ほら、賢太郎もちゃんと挨拶しなさい」

妻の陽子さんが山村さんに後ろに隠れていた賢太郎を紹介した。

「太り過ぎでね、先週、前の道で転んじゃったんだよな賢太郎。今、ビーチでリハビリ中さ」

山村さんが賢太郎と肩を組む。

チェルシーがケンタと呼んでいた子供、いや大きな子供は賢太郎という名前、そして、啓一は賢太郎があまり上手く喋れないということを知った。

「ア、ア、ロ、ーハ」

賢太郎はゆっくり啓一に歩み寄り右手をピンと張って差し出した。

「啓一君、ウチの賢太郎はもう二十才だけど、ダウン症ってね、な、賢太郎」

山村さんが声をかけると賢太郎は啓一にペコリと頭を下げ、空いているもう一方の手で啓一の肩をポンポンと叩いた。これは賢太郎が示す親愛の情であることを啓一は後で知る。

成田を出発していったいいくつの初体験が啓一の身に降り注いだことだろう、間違いなく彼の今までの人生で最も長い一日だった。


皆で中庭に設えられたバーベキュー台へ荷物を運び終わると、突然ウクレレが聞こえてきた。賢太郎はいたくこの音色がお気に入りらしく、頭の上でパンパンと拍手をして喜んでいる。

「ハーイ、グッドモーニング!ケンタ、気分はどーだ?」

「カパラ、あんたは飲み物係りなんだから、ちゃんと冷やしといてよ。生ぬるいビールを飲むのはまっぴらよ」

とチェルシー。

「ちゃんとビール、ワイン、ケンタのお好みのルートビァまで手配済だぜ。俺の部屋の冷蔵庫でもう冷え冷えだよ」

カパラはポロンと弾けるようにウクレレを奏でた。

「アローハ!僕はカパラ。よろしく!」

啓一はまた、初めて会う人間のタイプに目を丸くしながらペコリと、

「志野、啓一です。いや、名前は、ケイイチ・シノです。よろしくお願いします」

「あんまり、カパラに啓一を近づけんほうがいいの」

ヨシダの爺様が言うと、

「俺とチャチでボーイに男道ってもんをたっぷり教えてあげるぜ。な、チャチ」

チャチもまんざらでもなく胸を張る。

カパラは映画関係の仕事に就いていたが不況に負けて、今はカイムキのボーリング場にあるバーで毎朝四時まで働いている。

「ケイトは?」

山村さんの奥さんが聞くと、

「生徒のソフトボールの試合でルーズベルト中学で審判だって。五時に帰るってメモがあったよ」

カパラと一緒に住んでいるケイトは韓国系アメリカ人の二世、小学校の先生をしている。

カパラは何やら手にして、中庭に降りて来る。

「ジイチャン、ほら」

「お、さすがカパラじゃ。用意がよいの。啓一の分もあるかいの」

「もちろんさ」

そらっと、カパラは啓一に古びた野球のグローブを投げた。

「さ、啓一、むろん、ユーはジャパンの少年だからの、ベースボールできるのっ」

「べ、ベースボールって、野球なら昔・・・」

「時差ぼけ解消には、キャッチボールで汗流すのが一番の」

まずは、カパラがヨシダの爺様に投げた。

ヨシダの爺様からカパラへ返球。

ビュッ!

啓一はその風を切る快音に驚いた。

「さぁ、啓一も仲間入りの。カパラ、ボーイに」

「オッケー、ヘイ、ケイイチ!」

カパラは優しいボールを啓一に投げた。

啓一が素早くヨシダの爺様にボールを回す。

「おっと、ナイスボール。こりゃ、心強い助っ人が登場の」

すると山村さんが大声で、

「おっと若い助っ人登場で、こりゃ、爺様、案外、ノーヒットノーランも近いぞ」

キャッチボールを眺めていた賢太郎がヤッホーっと声を上げ、さかんに手を叩く。

小気味良くボールが三人の間を回る。

キャッチボール。啓一はいい汗をかいてきた。

啓一は久々のキャッチボールだった。でも、自然に体が動いた。

ボールの感触。クラブの皮の匂い。なんだか随分懐かしく。

ヨシダの爺様が言うとおりに、啓一の眠気が飛んでいく。

太陽は斜めに傾き始め海の方の空はパイナップル色に変化してきた。啓一の飛び散る汗がビーズのごとくキラキラと。


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