擬人化ちゃんの深淵
「意外と
強いて理由をあげるなら、少々オタクっぽい話題を振ってみて、ノってくれるかどうかを見極めたかったのだ。
せっかくの休みだからと思いつきで外出してみたら、ばったり同じゼミの女の子と出くわした。気づいたら喫茶店にいて、彼女いない歴=年齢の俺の前に座っている。
休日の彼女は眼鏡をかけているらしい。
そんなことすら今日はじめて知った。
もちろん話題などあるわけなく、視線は虚空を彷徨う。壁にポスターが貼られている。地元愛の強そうな店らしい、美少女アニメなポスターだ。
こういうとデザインした人に悪いかもしれないが、身の毛もよだつようなありふれた美少女が描かれている。名前は
正面に座っていたゼミの子は、俺の視線に気づいて、振り向いた。
あれがどうかした? とばかりに首も傾げる。
だから、言った。
「意外と擬人化って身近にあるよね」
何の気なしに、場をつなぐつもりで、会話になればいいなと思って。
「もしかして、気づいちゃいました?」
予想外の反応があった。
気づいたって、何に。
そんなの決まっている。『意外と擬人化は身近にある』ということだ。
わからないのは彼女の意図の方。
キャンパスで見る彼女は少し派手めな格好をしていて、いつも歩きにくそうにヒールの音を立てていた。それが休日には地味な格好で眼鏡をかけている。
裏も表もある女子大生の手本のような彼女が、擬人化にくわしいとは思いがたい。
ありうるとすれば、
反応を窺おうとした俺の反応を窺おうとしている。
……考え過ぎか。
俺はごまかすつもりで柳葉ちゃんのポスターを指さした。
「やー、ほら、あのポスターとかさ、擬人化――」
「ポスターちゃん」
「……ポスターちゃん?」
仰角六十度くらいの回答に、俺は思わずオウム返ししていた。
からかっている? にしては様子がおかしい。
彼女は不思議そうに首を傾げると、何か思いついたように手を叩いた。
「ああ! ラミネート加工ちゃんの方ですか?」
「は?」
「あれ? ラミネートフィルムちゃんの方ですか?」
「いや、え?」
「なんですか?」
聞きたいのはこっちだよ。
よくわからないから適当に話を合わせているのだろうか。いや、それでも普通なら柳葉ちゃんの名前を出すのでは。
『ポスターちゃん』は、まだ分からないでもない。冗談でも通じる。
ラミネート加工ちゃんって、すんなり出てくる単語なのか。というか加工とフィルムを区別する意味はなんだ。
もしかして、いわゆる、『不思議ちゃん』なのだろうか。
俺は気付かれないように深呼吸して、マグカップを手に取った。少し温くなったコーヒーの香りを鼻から吸い込んで――。
「うわ、セクハラくんですねー」
言って彼女は少し背を仰け反らせる。
は?
俺は手を止め、マグカップを置いた。
彼女はパチパチと目を瞬いて、慌てて両手を振った。
「あぁっ! すいません! 冗談ちゃんブラックのつもりちゃんだったんですが、ちゃん」
ちゃん。
冗談ちゃん、ブラック。
の、つもりちゃん。
ちゃん。
きっと、俺の顔は歪みきっていただろう。
冗談ちゃんブラックとやらは、おそらくブラックジョークのつもりだろう。ちゃん。つもりちゃんって、なんだ。あと最後のちゃんは、なんだと言うのだ。
慎重に正面を盗み見ると、彼女はじつに楽しげに躰を左右に揺すっていた。
「どうぞどうぞ、束の間ちゃんのハーレムちゃんをお楽しみちゃんしてください、ちゃん」
ちゃん。
束の間ちゃんの、ハーレムちゃん。お楽しみちゃん。ちゃん。
因数分解を試みれば(束の間のハーレムお楽しみ足す一)ちゃん、か。
だからと言うわけでもないが、何かの構文を聞かされているような気分だった。
「困惑くんですねー。いつもおどおどしている感じのアレ、ちゃん」
ちゃん。
いや、『くん』も出た。性別があるらしい。しかもキャラが決まっているらしい。
困惑くんはいつもおどおどしている男の子的なアレ、ちゃん。
最後のちゃんの意味がわからない。
順番に、確かめていくしかない。まずは興味の湧いたところから。
「さっき言った、束の間のハーレムって……?」
「ああ、ですから、ほら」
彼女は俺の手元のマグカップを指さした。
「カップちゃんを構成するマグカップちゃんの取っ手ちゃんを鷲掴みくんして、カップの縁ちゃんに口づけくんをした上で、中に入っている空気ちゃんと空気ちゃんを構成する酸素――(中略)――と一緒にグアテマラ産コーヒー豆ちゃんをすり潰しくんして液体ちゃんにして(中略)を飲み干っさんするなんて、ハーレムちゃんそのものちゃんじゃないですか、ちゃん」
ほとんど息継ぎもなしに三分は捲し立て、彼女はニッコリ笑った。ちゃん。
コーヒーを飲む気なんぞ、すっかり失せてしまっていた。
得体の知れない感情。
無理矢理にでも名前をつけるなら恐怖が近い。
目の前にいる、どこにでもいそうな女子大生が、化物か何かに見えた。
――どこにでも、いそうな?
俺な口の中で繰り返した。そもそも擬人化の話をしていたはずだ。異常に思える彼女の発言だって、擬人化という一点に照準を合わせた結果かもしれない。
つまりはキャラ付け。そういう冗談。ちゃん。
ひとつ深呼吸をした俺は、冗談めかして言った。
「ははは……じゃあ、さしずめ、女子大生ちゃん、とか?」
「は?」
「え?」
あまりにも冷たい彼女の声音に、俺は慌てて顔を上げた。
つい数秒前まで楽しげにしていた彼女の顔から表情が消え失せている。
大きく無感情な瞳が、じっっっっと、こちらを見つめている。
やられる。
俺がそう思った瞬間、彼女は大慌てで両手を左右に振った。
「す、すいません! 私、また勘違いしちゃって……!」
言いつつ彼女はペコペコと頭を下げる。
「いっつもこうなんですよぅ。私、そそっかしくて……」
「あ、いや、ははは」
内心、冷や汗をかいていたが、俺は愛想笑いを浮かべた。
驚かせるなよ。ちょっと、というには激しいかもしれないが、不思議ちゃんなだけじゃないか。どこにでもいそうな女子大生で、そそっかしくて――。
「……そそっかしい?」
「え? はい! そうなんですよぅ。私、てっきり気づいているものだとばっかり思って……」
「気づいてるって、何に?」
「はい? ですから、世の中には擬人化が溢れてるって……」
そういう彼女の続く言葉を聞き流しつつ、俺は手元のカップに視線を落とした。
彼女は、俺が気づいているものだと、思いこんでいた。
言い換えれば、身近に擬人化は溢れているという事実があると、前提に置いているのだ。
事実って、なんだ?
まさか本当に、擬人化したものが世の中に溢れているとでも?
さっき、彼女自身が口にしたような形で?
俺は彼女を盗み見た。
つもりだった。
視線に気づいた彼女は不思議そうに首を傾げる。どこにでもいるような女子大生だ。発言内容は不思議に過ぎるかもしれないが、極めてありふれた、まるで……
そういう女子大生を、象徴するかのような。
尋ねてはいけない。分かっていた。
けれど、俺は口を開いていた。
「も、もしかして……だけど」
知らず知らずの内に、唇が震えていた。思ったように声がでない。
彼女は、もう一度不思議そうに首を傾げて、何かを思いついたように手を叩いた。
「ご覧になります?」
「な、に、を……?」
「擬人化ちゃんの、世界ちゃん」
そう言って彼女は薄く笑った。
「この、メガネちゃんで」
「メガネ、ちゃん」
俺は差し出された眼鏡を受け取った。
彼女は、かけろ、とばかりに眼鏡をつける仕草をしていた。
かけてはいけない。
そう、頭の中で何かが叫んでいた。
彼女はテーブルに両肘をついて身を乗り出した。
「本能ちゃんに負けないでください、ちゃん」
ちゃん。
本能ちゃん。頭の中でかけるなと叫んでいる何かの名前だろうか。
もしそうだとすれば、感情にも名前がついている。キャラクターがキャラクターを構成し、それらの構成物がまた新たなキャラクターを構成している。
見てはいけない。
何を?
そんな世界のあり方を見てはいけないというのだろうか。
一瞬だけ、一瞬だけなら見てみたい。止められれば止められるほど、見てみたくなる。
俺の脳内では、本能ちゃんが、俺を必死に引き止めていた。
しかし、その手を掴む誰かが別にいる。
「好奇心ちゃんですね、ちゃん」
ちゃん。
好奇心ちゃん。きっと、ありとあらゆるものに興味津々な、小さな女の子だろう。必死に止めようとする本能ちゃんの手に、好奇心ちゃんが噛みついた。
俺は眼鏡をかけていた。
男は狂ったように大声で叫んだ。両手を振り回し、かけていた眼鏡を大慌てで投げ捨てた。脱兎のごとく走り出す。他の客の気遣うような声も、店員の制止する声も振り切り、店の外へと逃げていく。
そして――。
鈍い打音が響いた。一拍遅れて不快なスキール音が鳴った。ほとんど同時に通行人が悲鳴をあげる。車に体当たりされる直前まで『彼女がいない歴=年齢の冴えない男子大学生くん』だった男くんが、道路の真ん中に転がった。
喫茶店の窓越しにそれを眺めていた女は、投げ出された眼鏡を拾いあげると不思議そうに首を傾げた。
「なんで逃げたんだろー?」
女――擬人化ちゃんは、眼鏡をかけた。瞬間、見える世界が姿を変える。前が見えなくなるほど無数に群れる小人たちは、大気ちゃんの構成要素である酸素ちゃんの構成要素である……、
「可愛いのに」
言って擬人化ちゃんは眼鏡のつるを撫でる。途端、蠢く小人の群れが見えなくなった。
ありとあらゆる物が無数の粒の集合体だということを、知らなかったのだろうか。
店を出た擬人化ちゃんは、通行人ちゃんや通行人くん改め、野次馬ちゃんと野次馬くんの群れに分け入った。
輪の中心には、『彼女がいない歴=年齢の冴えない男子大学生くん』だった男くんだった『飛び出し轢死体くん』がいた。動けないし喋れもしないし、躰はひん曲がっている。
躰からわらわらと滑り出る血液ちゃんとそれを構成する……を見て、擬人化ちゃんは細いため息をついた。
「自分だけは人間だとか思ってたのかなぁ?」
つまり、単細胞的な?
人間の形をしているから、擬人化というのに。
擬人化ちゃんは呟くように言った。
「ところで、まだ自分のことを人間だと信じていますか?」
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