特定オタク禁止法
本日もオタク以外は平穏なり。
『本日未明、東京都台東区上野恩賜公園で特定オタクの取り締まりがありました』
大真面目な顔をした男性キャスターが、機械的にニュースを読み上げていた。
『特定オタクと認定されたのは東京都に住む一六歳の少年たち七名で、アイドル趣味に傾倒していたものと、みられています』
黒い布の上に並べられた色とりどりのサイリウムの映像が流れる中、声が続く。
『――少年たちは、昨晩深夜から上野恩賜公園に集まり、『オタ芸』に興じており、付近の住民から通報があったとのことです。取り調べに対し指導者的立場の少年は、『今週末のライブに参加する予定だった。練習のために学校を休むにしても、一日くらいなら特定オタクと認定されないと思っていた』と、供述しているとのことです』
画面がスタジオに戻った。
空いた間をつなぐためか、女性アナウンサーが口を開いた。
「オタク趣味を楽しむのであれば、日々の生活に支障をきたさない範囲で楽しむよう、気をつけないといけませんね」
「本当にそうですね。特に学生の内は、日々の生活が大事ですからね」
そのやり取りを眺めつつ、霞は鼻を鳴らした。手元のスマホに指を滑らせる。
『朝ニュー。メインキャスター:
「自分だって邦画オタクじゃん。目の下クマあるし、特定オタクなんじゃないの?」
言いつつ口元を歪め、テレビの電源を消そうとリモコンを向ける。
そのとき。
霞は画面右上に並ぶ数字に気付き、叫んだ。
「やばっ。特定オタクに認定されるっ」
特定オタク禁止法が施行されて早十年。
日本国内のオタクは、日々流れる特定オタク逮捕のニュースを眺め
特定オタク禁止法では、生活に支障をきたす程のオタクを特定オタクと定め、処罰の対象としている。強制連行された特定オタクは趣味矯正施設へと送られ、趣味矯正訓練を受けて健全な趣味をもたなくてはならない。
「っぶな、間に合った……って電車遅延かいっ」
思わず口に出してしまい、霞は口を隠した。向けられる視線は少ない。けれどないわけでもない。頬が熱くなった。と同時に、苛立たしくもなった。
これもそれも、残業で帰るのが遅くなったのがいけない。
にへら、と笑った霞の機嫌は、すでに息を吹き返していた。
改札を抜けてホームに降りると、すでに人がごった返していた。おじさんたちの香ばしい加齢臭と、乾いた汗の酸っぱい臭いと、人生充実してますアピールに余念のないリア充様の香水の臭いで、ホームの大気は茶褐色に汚染されているように思えた。
『……当駅到着予定の電車は、ただいま、十分ほど遅延しております……』
聞こえてきた構内放送に舌打ちし、霞はスマホを取りだした。
……朝のニュース……続報でもみよ。
特定オタク禁止法関連の呟きを探す。
どうやら少年たちの趣味矯正施設送りはまだ執行されていないらしい。またニュースでは特に触れられていなかったが、少年たちはアイドルオタクと言っても、アイドル声優のオタクだったらしい。
霞はすぐにアイドル声優グループのタグを漁った。
すでに話題は少年たちが持っていたアイドルグッズの行方に移っていた。
特定オタク禁止法によって連行されると、当人の生活を侵害したオタクグッズは押収されてしまう。これまで押収された物品は危険物でない限り返却されてきたのだが、趣味矯正を終えた特定オタクに返却した際、再発したことがあった。
そのため、現在はアメリカの方式に倣い、特定オタクの現住所がある県の名義で、競売にかけられるようになっている。
特定オタクに認定されるのは、日々の生活に支障をきたすほどのオタクたちだ。彼らの所持するグッズには、高価なものであったり、希少性の高いものが、多く含まれている。それらを買うのもまた同系列の趣味をもつオタクたちであり、彼らは大金を支払ってでも入手したがる。
いまでは特定オタクの押収品の競売は、重要な地方財源となりつつあった。
かわいそうにねぇ。ショボいバイト代貯めて、一生懸命、買い集めたのにね。
霞の内側でコールタールのような可笑しさがゴボゴボと吹きだす。
自分も何か呟いとこうか。
そう思ったとき、友人が小田Eライブチケットを入手した、と呟いているのに気付いた。
私は抽選に外れたのに。
吹き出す感情が勢いを増す。素直に、おめでとう、なんて言えるわけがない。
『ふざけんな、自慢してぇなら壁にでもやっとけ』とまで打ち込んだところで、ふ、と息を吐きだす。
危ないところだった。そんな呟きをたれ流せば、スクショを撮られたうえで警察に持ち込まれ、特定オタクに認定されるかもしれない。
なんと書こうか迷っている内に、友人が平日休みだったことを思い出した。
『おめでとう でも仕事は? まさか土日の仕事、嘘ついて休む気なの?』
『大丈夫w 有給残ってるしw ブラックじゃなくてよかったw』
霞は勝ち誇る友人の顔を目に浮かべ、スマホを線路に投げ込みたくなった。
くそ! くそ! くそ! 特定オタクに認定されて連行されちまえ! お前のオタグッズ全部私が買い取ってやるからよ!
霞は怒りを込めてスマホを鞄に叩き込んだ。
まだ電車は来ないのかよ!
『間もなく、二番線に電車が参りまぁす』
「あ?」
思わず頓狂な声を出してしまった。構内放送が、妙に甘ったるい、半笑いしながら喋っているような声だったのだ。どこか聞き馴染みがある。
霞の前にいた中年男が顔をあげた。
「
誰だよ――って!
霞はとっさに身を引いた。
中年男がスマホを天高く掲げたのだ。
「な、なんぞ……?」
思わずつぶやき、また口を手で隠す。目をちらりと滑らせる――。
いや、マジでなんぞ。
見ればホームのそこかしこでスマホが掲げられている。「すげぇ、マジで柳川沙菜じゃん」だの、「超レアだろこれ」とか、ボソボソと喋る声も聞こえた。
どうやら天井に向けられたスマホは、アナウンスを録音しているらしい。掲げられたスマホのいくつかは、同じスマホカバーを使っている。霞も見ている深夜アニメの女性キャラクターが描かれたカバーだ。
ああ、声優がアナウンスしてんのか。
そう思った瞬間、ホームに酷い叫び声が響いた。
「沙菜ぁぁぁぁ! 朝からありがとぉぉぉぉ!」
どうやらオタクの一人が叫んだらしい。すぐに笑い声に混じって「ちょ、やめてください!」と抗議の声が続いた。すかさず目の前の中年男が怒号を飛ばした。
「録音の邪魔だろうが!」
うっせぇよ。バカか。
と、同時。
すぐそばにいた背広の男が、中年男の手首を捻りあげた。
痛みに叫び、身を捩る中年男。
背広の男が大声を出した。
「動くな! 警察だ! あんたを特定オタクと認定する! 抵抗するな!」
その名乗りを皮切りに、ホームのそこかしこで取り締まりが始まった。ある者はどうせ捕まるのならと盛大に声優の柳川沙菜とやらに愛を叫び、ある者はホームに飛び降りて逃亡し、またある者は私服の警察官を相手に大立ち回りを演じた。
その後二十分ほどかけ、騒然としたホームは、ようやく落ち着きを取り戻した。
霞は目の前で繰り広げられた囮捜査まがいの大捕り物に、友人への苛立ちも、眠気も、すっかり吹き飛んでしまった。
興奮も冷めぬままスマホを取りだし、先ほどの光景をネットの世界へ放流する。
すぐに大量の反応があると期待したのだが、それほどでもなかった。
どうやら各所で同じような抜き打ちの捕り物があったらしい。霞の呟きは大河の如くうねる同種の情報に紐づけられ、飛沫のひとつなった。
遅れていた電車が、生き残ったオタクたちを満載して到着した。ほんの数人しか降りてこない。もはや人の入る隙間などないようにも見える。
霞はため息交じりにバッグを抱え、乗車口に背中から突っ込んだ。
顔の前にスマホを出しておくのだけは忘れない。腐臭漂う車内に三十分近く耐えなくてはいけないのだ。せめて愛する小田Eの顔を見ていないとやってられない。
ここで油断して小田Eの声を聴いてはいけない。
仮にイヤホンから音漏れでもしていたら、最悪の場合、特定オタクに認定されてしまう――隠れオタクたちによって。
隠れオタクたちは日々耐えて過ごしている。できることなら日々の生活なぞ投げ捨ててでもオタク趣味を満喫したいのだ。霞が通勤中にオタク趣味を楽しんでいると知られれば、隠れオタクたちの神経を逆撫でしかねないのだ。
それはなにも声優の歌声だけが対象というわけではない。すべての楽曲が特定オタク認定につながる危険を孕む。つまり、日々の生活に支障をきたすほどの音楽オタクと認定されるのだ。もしそんなことになったとしたら――。
私が集めた物は、絶対に他のオタクには渡さない。
霞は確固たる決意を込め、スマホのホーム画面で微笑む小田Eに笑いかけた。
いかん、どうしてもにやけてしまう。
『本日は運行に遅延が生じまして、誠に申し訳ありません』
うぅん。別に謝らなくて――はっ?
『この電車は、この先――』
「小田E!?」「小田E!?」
しまった。
霞はスマホで口を隠した。それで大丈夫だと思った。
すぐそばで同じ言葉を発した女性が、薄く笑った。
「キモ! あんた、公共の場で声優の壁紙にキスとか、気持ち悪いんですけど!」
「えっ、ちが、違います! 私は違くて、違うんです! 信じてください!」
「なにが違うのよ! 私、見てたんだからね! あんたが――」
「どうでもいいよ!」
男の叫び声だった。
見れば、車内に満載された隠れオタクたちが、霞と女を睨みつけていた。
「お前ら、どっちも、うるせぇんだよ!」
車内にアナウンスが響いた。
『なお、僕の声に反応しちゃうと、特定オタクに認定されちゃうかもだから、ご注意お願いいたしますぅぅぅ』
もう、遅いよ。
押し潰された体から力が抜けていく。
目の前の曇った窓ガラスを手で擦ると、ホームで、制服警官たちが待っていた。
この日に行われた一斉取り締まりは、違法な囮捜査ではないかと批判があがった。
しかし、アナウンスに声優を起用するのはかねてより行われてきた取り立てて珍しい企業PRではなく、正常なオタクなら日々の生活に変調をきたされたりしない、という意見に黙殺された。現に、多くの人々は特定オタクに認定されなかった。
特定オタクは特定のオタクを禁止する法ではない。オタク趣味の区別なく、日々の生活に支障をきたすオタクのみを対象とする、禁止法案である。
長い趣味矯正を終えた霞は虚ろな顔で帰宅した。集めてきたグッズは、すでに部屋から無くなっていた。しかし趣味を変えた霞は何も感じなかった。
霞は、ほぼ真っ新になったスマホを操作し、タイマーを起動した。
溜まっていた呟きの山の中に、友人からのもいくつかあった。
『ライブ楽しかったw』『あんたの持ってたもの、買い取っといたw』『なんか言ってよ』『大丈夫?』などなど。他にもいくつかあったが、内容はどれも退屈だった。
タイマーが二十分を告げた。
「よし。仕事いこっ」
霞は満面の笑みを浮かべて、バッグを手に取った。
『一日に二十分間、呟きを眺める。』
それが、及川霞が趣味矯正所で得た、新しい趣味だった。
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