孤独な作家の誕生と断筆まで

 少年は空腹を紛わせるため、乾いた茶色い大地に、知っている文字を書いてみた。


「いも、いも、いも。たべたい。いも、でないもの」


 少年が知っている数少ない文字を、羅列したのだ。


「なんて書いたんだい?」


 少年のすぐそばで写真を撮っていた男が、腰を下ろした。


「この国の文字だろう? 僕の言葉は分かるかい?」

「分かるよ。読むのも書くのもできないけど」

「ああ、そうか。そうだった。それで、なんて書いたのか、教えくれるかい?」


 がっしりとしたカメラマンの男は微苦笑を浮かべ、書かれた文字を指さした。

 少年は、ほんの短いあいだ考えて、いいよ、と言った。


「いも、いも、いも。たべたい。いも、でないもの。って書いたんだ」

「いいね。それ。君の写真を撮ってもいいかい?」

「いいよ」


 カメラマンの男は少年から数十歩離れて、カメラを構えた。

 レンズが、少年と、少年の前の地面を向く。


「ちょっと、指さしてくれるかい。君の書いた文字のところをさ」

「いいよ」


 少年は自分の書いた文字を指さした。カシャ、カシャ、と聞きなれない音がした。

 立ち上がったカメラマンの男が、ポケットからスマートホンを取り出し、言った。


「君の書いた詩の事を記事にしてもいいかな?」

「いいよ」

「ありがとう。また来るよ」

「次にくるときは、食べ物をもってきてよ」

「いや、もっといいものを持ってきてやるよ」


 そう言って、カメラマンの男は、村を出ていった。

 彼がまた村を訪れたのは、それから数ヶ月ほど経ってからだった。

 少年の頬はこけ、腹は膨らんでいた。

 カメラマンの男は数枚の写真を撮ってから、芋の入った袋を差し出した。

 何日ぶりかの食事を、少年はかみしめた。生の芋は、なんの味もしない。


「食べ物をもってきてくれてありがとう」

「もっと欲しいかい?」

「欲しいに決まってるよ」

「じゃあ、これで――」


 カメラマンの男は、一冊の本と、ボールペンを取り出した。


「文字の勉強をしてから、作品を作ってくれよ」

「作品?」

「ああ、そうか。ほら、坊やが前に、地面の上に文字を書いてたろ? あんなことを書いてくれればいいんだ。君には、文字を書く才能があるんだよ」

「僕は才能とかいうものより、食べ物が欲しい」

「ああ、そうだろうな。だから、前に書いたみたいな文章を、もっと書いてほしい」

「なんで?」

「食べ物に変えられるからだよ。やりたくないかい?」

「やる」


 カメラマンの男は唇の両端を目いっぱい引き上げ、カメラのシャッターを切った。


「そうこなくっちゃな。いっぱい書いて、いっぱい読むんだ」


 本を受け取った少年は、読み方をカメラマンの男に教えてもらった。

 文字を覚えて、文章を書いて、渡す。すると食料に変わった。

 しばらくすると食料が少しばかり余るようになり、それを売って、本を買った。


 ――すごい。


 本を読んだ少年は、本の虜になっていた。

 たった一冊の小説による読書経験が人生を変えていく。

 少年はより長い文章を書けるようになり、文章量に応じて、もらえる食料も増えていく。売れる量が増え、買える本も多くなる。読み、書き、読み、また書く。


 そうして少年が青年になる頃、彼は自分が著名な作家になっていることを知った。

 カメラマンの男は、青年が書いてきた文章を、金に換えていたのだ。できた金で安い食料を買い、青年に与えてきたのだった。


 真実を知っても、怒る気にはならなかった。

 たとえどんな理由があったにせよ、彼のおかけで、青年は文章で糧を得られることを知ったのだ。怒るよりも、感謝の方が先に立つ。

 世界に出てからより多くの本を知ると、青年は自分の文章力に打ちのめされた。


「中途半端に語彙が増えて読みにくい」「空腹の頃の方が、言葉に重みがあった」


 世間の評価も、青年の気づきと同じだった。

 それでも、そんなはずはない、と青年は思った。

 より多くの本を読み、より多くの文章を書いてきた。今の方が、いい。

 青年は高みを目指して、本を読み、書いた。繰り返す。創作と吸収の反復をし続けて、語彙を増やし、物語に厚みを作り、ときには、あるがままに書く。

 青年に与えられる評価は、次第に変わっていった。


「平易な文章の裏に強い思想がある」「語の羅列がつくる行間にこそ、本質がある」


 青年は評価を受けて、さらに語を削り、平易にし、誰にでも受け取れるように、と研鑽を重ね続けた。気づけば青年は、苦学して大成した作家と呼ばれた。

 ある著名な受賞式のスピーチで、文学者となった青年は言った。


「私はできれば、母国の人々に、同じように小説を楽しんでもらいたい。次回作はすでに構想ができあがっている。すぐにでも出すだけの準備が、整っています」


 喝采を受けた文学者は少年時代を懐かしみ、涙した。

 あのときの、なんでもない文字の羅列が評価された喜びを、思い出していた。

 文学者は、宣言通り、すぐに次回作を発表した。


『無題』


 そう題された本の一ページ目には、


『これ以降、自由に文字を書いてよい』


 と、あった。他のページは、すべて白紙である。

 世界は大家の新作を絶賛した。売れに売れた。


「最初期の迫力に勝るとも劣らない文学性だ」「一行が伝える500ページの空間」


 文学者の発表した新作は、全世界で、最高傑作ともてはやされた。

 しかし、彼の母国では、ただの一冊も売れなかった。

 文学者であった青年は筆を折り、母国に帰った。

 いまでは、母国で教師をしているという。


 人々は口々に言った。

「そんな仕事は誰でもできる。あなたは私たちのために本を書け」

 と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る