第2話 嫌な思い出だってある

 祖母ローラはその日帰りが遅かった。

 それは幸運なのか、不運なのか。運命なのか。

 家を揺らす様な雨が降っていて、近くの川の音も近付くことを拒絶するかの様な、石を打つ音になっていた。

 いつもは深緑色のカーテンが黒く、外に行くことも中に入ることも出来ない様な深く、重い闇がずっと続いている。雨に打たれて掘り返された土は緑の骸を押しつぶす様に覆いかぶさり、その見た目を実際よりも過重な物に変化させる。

 私は外の景色が怖くて。

 私は外の狂騒が怖くて。

 部屋の隅に隠れていた。

 いつ雷がここに落ちるかもわからないという恐怖が、より一層私を奥に押し隠した。

 怒りが轟くのが聞こえると、身体がブルブルと震え部屋の温度が一気に下がった様な感覚に陥る。

 あぁ、何処に落ちたのだろうか。そこはどうなってしまったのだろうか。もし、それがこの家だったら……。

 そこまで思考が行くと私は頭を振ってイメージを崩す。イメージを崩して、破壊して、でもそれは元に戻ろうとする力を持っていて。何度も何度も頭を振って、思考が鮮明になる度に、意識が鮮明になる度に。恐怖に怯えた。

 何かがおかしかった。

 今日は何か嫌な事が起きるのではないかと不安が私の頰を、首を、背中を、脚を舐めている様な。纏わり付いて話さない呪いの様な。そんな厭らしい感覚をその日、今朝から感じていた。

 そんな予感から少しビクビクとしていたが、雷がしばらくして鳴りを潜め胸を少し撫で下ろした。

 そんな矢先。

 ザッザッと。

 だんだんと近づいてくる土を踏むその音を聞いた。聞いてしまった。

 ドクンッと。心臓が飛び跳ね頭が真っ白になってしまい、一体何秒息を止めていたのだろうかと子供ながらに息苦しさを感じてしまう。

 あぁ、きっとお婆様ね。と私は無理やり落ち着かせようと口角を釣り上げてみたが、額から流れる脂汗は顎まで伝って私の恐怖を認識させる。怯えなさい、震えなさい、自分の殻に篭っていなさい、と耳元で冷たい声が告げる。それは頰を撫で、私の首をひんやりとした手で抱いてその細い指を私の身体に這わせる。

 バンッとドアが開き、父と母の戸惑いの声が聞こえる。


「この国は先週国王セルベス様が亡くなられた為、御子息であるアルベーザ様が統治する事になった。そこでアルベーザ様により国民は直ちに5万ゼル以上の税を納めよ、との命が出されている」


 ガシャッと立てて入ってきたであろうそれは低い声でそう告げる。そんな横暴な、と母が抵抗すると金属を擦るような音を立てた。


「払えぬと言うのか。こちらは国王から徴収する際に払わなければ殺しても良いという許可が下りている」


「あと、1週間待ってくれ!この家はそんなに裕福な家ではない、今すぐは用意出来ないんだ!あと1週か」


 急に父の話が途切れる。

 何か重い物が床に落ちる音がしてから、母の悲鳴が家中に響く。母が父の名を悲痛な声で何度も呼び、泣きわめく声が聞こえた。

 私はガタガタと震え現実から逃げたくて耳を手で覆った。

 息が苦しく、視野が私の目の前の映る床板一枚しか見えないほど極端に狭く感じた。


「〜〜〜!!」


 母が涙声で何かを叫び何かを訴える声が聞こえたが、何を言っているのかわからないまま時が経ち、暫くして途端に母の喚き声がしなくなり、家はしんとした静寂に呑まれた。

 私の世界はその瞬間に停止した。

 何分。いや何時間経ったのだろうという疲労感と目、耳、鼻、口、皮膚、筋肉、心臓からの情報が私を狂わせ、自分の身体に通う血の感覚さえ忘れてしまった。

 スーッと時間が再び動き出す、生ぬるい水面に落ちた感覚が私を襲い、ハッと息を大きく肺に送った。

 バタバタと何かが歩き回る音がして、家の外に何かを投げ捨てる音が聞こえた。そして、この部屋に近づいてくる足音が聞こえ、私が顔を上げたと同時に扉が開き、何か赤黒い液体が跳ねた鎧を着た大柄の兵士が入って来た。


「……ぇ。……ゃ、ぁっ!」


 私は上手く声が出ず、近づいて来る兵士に抵抗しようとするが、脚も腕も全く力が入らずただ震えることしか出来ない。


(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで)


 そんな、尊い願いを。悲痛の望みを。心の中で叫びながらただ、身体を恐怖に震わせることしか出来なかった。

 それは無慈悲にも誰の耳にも届くことはなく、私に影を降す兵士の手がこちらに伸び、母と同じ栗色の髪を掴んだ。


「ぃっ!ぃだぁ…っ!」


「おい、こっちに餓鬼が居たがどうする」


「ああ?餓鬼だぁ?物と一緒に外に出しちまえ」


 分かった。兵士は返事をして私の髪を引っ張り引き摺った。

 その際に私は首の付け根とその上が離れた父と、頭からバッサリと顔の目頭まで割れて変わり果てた姿の母を見た。二人の倒れている床は赤黒く染まり、私とお揃いだった髪も黒くバサバサな物になっていた。


「ぉがあざ……っ!おどうざ……あぐっ!」


 私が母と父を掠れた声で呼んだが二人が返事をする事なく、家から放り出された。


「ーーーっ!ーーーっ!」


 地面に叩きつけられた際、割れた家具の欠片が私の腕につき刺さり、私は声にならない叫び声を上げた。

 私は慌てて欠片を引き抜き、細い腕の肉を見ると皮が剥け、露わになった肉からいくつもの木屑が腕を鮮やかな赤色に染め上げて生えていて、一際大きな穴から血が溢れる様に流れ出ていた。

 雨に晒され、身体が段々と冷えて行くのが分かる。地面に寝そべった私の頭上から、グチャッと泥を踏む音が聞こえる。歩み寄ってきた人物は骨が浮き出た白い腕で私を揺すった。

 ああ、お婆様。

 私はスッと瞼を閉じた。


 ***


 ガバッと目を覚ます。

 ハァハァ、と荒い息が落ち着かない。心臓の鼓動が早く、私の耳まで鮮明に聞こえるくらい音が大きい。私が窓の外を見るとまだ暗く、ピィッという鹿の鳴き声が聞こえた。嫌な夢だわ、と呟き額の汗を拭って大きく溜息を漏らした。

 すっかり目が覚めてしまった私は部屋を出て暖炉に薪を足しながらおもむろに服の袖をめくり腕を見る。そこには傷痕が残っていた。


 私は幼い頃両親を失った。

 裕福でなく、お金のなかった私の家は抵抗した両親が殺され、家を含んだ土地を全て国に持っていかれた。

 私は記憶が無いのだが、祖母が言うにはあの後兵士が居なくなった後、白く美しい女性の僧侶が現れて私に魔法を掛け、森を抜けた町の隣に流れる川を跨いだ場所にある森に祖母を案内するとその地の家に、今住むこの家を譲られたらしい。祖母はその僧侶の名前を聞いたが教えてくれず「こんなボロ屋で申し訳ありません」とだけ言い、去って行ったという。

 今はこの家と土地は祖母が買った事になっているが、机や椅子、箪笥などが残っていたところを見ると、例の僧侶の物だったらしい。

 私は再び窓の外を見る。

 昔暮らしていた家や森のあった場所は現在、城壁の建設中であり今や見る影もない。

 薪を取ろうと手が二度三度宙を舞うので、見ると薪がない。今日は朝から仕事がないので薪割りでもしようかと私は立ち上がった。


 ***


 コーン、コーン、と子気味良い音を立てて薪割りを行う。暗い中だと危ないがもう慣れたものだ。少し明るくなりかけてきて、私が額の汗を拭って大きく息を吐いた。


 ザッザッと。

 だいぶ薪を割終わって少し休憩していた私の耳にそんな音が聞こえてきた。

 何だろう、と私が音がする方を見る。それは森の奥から聞こえてきていて、暗い森の闇から淡い日の光に照らされた地にその音の主が姿を現した。


「いやぁ、懐かしいなあ。何年振りかなここにきたの」


 それは白く美しい女性の僧侶だった。


「おや?もしかしてあの時の娘さんかい?大きくなったねぇ、もう……何年振りなんだっけ」


「……9年です」


 そっかぁ、と懐かしそうに笑う彼女は、9年経って今幾つなのだろうと言うほど若く、私よりも2つ3つ上くらいじゃないかという大人びた雰囲気を持った透けるような白い髪を持った女性だった。

 その人は服装は白を基調とした僧侶服で、白い肌とスギライトのような深い青紫の瞳の整った顔をしてるーーあとバストも中々大きいーーその落ち着いた見た目とは裏腹に。


「ねぇねぇ、今幾つなのー?」


 とても無邪気な笑顔を浮かべていた。


「じ、15です」


「若わねぇ。そういえば、前は聞きそびれちゃったけど、名前はなんていうの?」


 ノウです、と私は少し戸惑いながら応える。

 私の名前を聞いて「可愛い名前だね」と笑顔で言うと、彼女は顎に手を当て、少し惟るような表情をすると再びこちらを向いた。


「私の名前はエティよ。エティ=モルメティス」


 そう告げた。

 エティ=モルメティス。美しい名だと思った。


「エティさん、9年前はありがとうございました。貴女のおかげで今も私は生きています」


 私が丁寧にお辞儀すると彼女は少しだけ視線を落とし、悲しそうな表情をした。

 私が彼女を見てどうしたのかと少し首をかしげると、彼女はいえね、と言葉を繋げた。


「申し訳ないなって思ってさ。結局、その、ご両親は亡くなられてしまってさ。私が出来たのは昔使ってた家をあげるのと、貴女に治癒力促進の魔法をかけることだけ。勿論、僧侶としてご両親の霊を成仏させたのもあるけど、誰も救えてないんだよね、私。もっと早く来ていればご両親を助けることだって出来たかも知れないのに、感謝までされちゃって」


 情けない、と彼女は悔しそうに組んだ手を強く握った。そんなことない、そう彼女の握られた手の上に私は手を置いた。その手に彼女は驚いたように顔あげる。


「貴女が、エティさんが居なかったらもっと悲惨で、悲しい運命になっていました。だから私は幸運だ、と自信を持っていうことが出来ます。なので、気に病まないで下さいエティさん」


 そう言って、もう片方の手も重ねた。彼女は少しだけ視線を落としてアハハと笑うと、顔をあげ目尻に涙を溜めてありがとうと感謝の言葉を述べた。


「ありがとうは私の言葉ですわ」


「あはは、そうだね。じゃあ、どういたしまして」


 こうして私は白く美しく、そして優しく明るい命の恩人に出会った。


 ***


「でさー、聞いてよノウちゃん」


 酒場でビールを飲みながらそこら中に食べカスを付けた仕事中の私に話しかける白く小汚い女性、エティさんは今では教会に勤める司教様。


「はいはい、仕事終わってから聞きますよ」


「あーん、ノウちゃんのいけずー!」


 もう溜息が出る。出会った時はあんなに美しい人だったのに、今ではそんな面影は無く、夜酒場に来てはギルドの冒険者や他の司祭さん達の肩に腕を回し、聖職者にも関わらずーーエティさんの宗教は飲んでもいいらしいが、少しは自重した方がよいのではないだろうかーー酒で顔を真っ赤にして馬鹿笑いと女性へのセクハラをしながら私に愚痴を漏らしている。

 私は客の注文を運びせっせと働いていると一つ疑問が湧いてきたのでエティさんに注文を届ける際に聞いてみることにした。


「ご注文の鳥軟骨の唐揚げになります。……そういえばエティさん、なんでお婆様が名前を訪ねた時に答えなかったんですか?」


 ん?と唐揚げを口に咥えてこちらを向いたエティさんに食べてから話して下さい、と忠告する。エティさんはごくんとビールを飲み干してくぅー、とか男臭い声を上げた後にゆっくり口を開けてそりゃあと言って少し溜め。


「かっこいいからに決まってんじゃーん!」


 と笑いだした。

 私はそれを冷ややかな目で見てベルが鳴ったテーブルに注文を取りに行きながら大きく溜息をついた。なんであんな人に感謝なんかしちゃったのかしら、私。

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