(4)家庭崩壊シンプトム
そう言われても、ぼくはコウくんが納得するような答えを即座に提示することが出来なかった。
哲学的に論ずるつもりなどないし、彼が欲しいのは、もっと直接的な答えだろう。
そういう意味で、生きていることすら
疑問を抱かれるほど大層なことをしているつもりはないし、さらに言えば、ぼくは自分の意思で選んで、生きているつもりもない。
きっと多くの人がそうなのだけれど、生きていること自体に、その人の重大な意思決定が介入する余地など無いのだ。
強いて言うなら、これまで死ぬ選択をしなかったから今生きてしまっている。
コウくんから見てぼくはへらへらしている風に見えるのかもしれないけれど、当然ぼくにはその自覚が無い。
だからといって生きていることそのものを賛美するつもりもないし、失恋した女子高生よろしく目に映る全てに失望するつもりもない。
普通に、普通に、普通に――
ぼくはいたって普通に生きている。だのに、そんな疑問を投げかけられるなんて――
頭に血がのぼっているのが自分でも分かる程度には、冷静さを欠いていない。けれどぼくは確かに腹を立てている。
だったらぼくはあの日泣き喚き、パパとママに弟が襲ってきたと告げ口をして、家庭から糾弾すれば良かったのか。
家庭の崩壊を食い止めた自分の選択を、褒めてほしいとは思わない。けれどせめて、衝動的な熱が冷え切ったあとに、謝ってほしかった。
「言いたいことがあるならはっきり言えや。気持ち悪いんや」
爺むさい舌打ちを、三回。
じゃあ言わせてもらいますけど、ぼくを押し倒して舌を這わせた時、あなたはどんな気持ちでしたか?
足の上に乗って、ぼくのパンツを下げて、そこにごわついた生理用ナプキンを見た時、あなたは言いましたね。使えない女だと。
ぼくが今まで何も言わずにあなたとテレビを観て、ご飯を食べていた理由が分かりますか? 考えたことがありますか?
ぼくからしてみれば酷い意趣返しのようなもので、今ぼくはあなたの心臓を抉り出して、自分の胸に縫い付け、この理不尽な事柄に終止符を打ちたい気持ちでいっぱいです。
怒ってなければ何も解りませんか。泣いて許しを乞わなければ収まりませんか。あるいは、あなたにとって女の子ってそんなものですか。
あなたと同じように血が通っていると思ったことは? 病めば消えるという認識は?
もしかして、もしかするとだけれど、最初からおまんこしか見えてませんか。
ぼくはあなたの股間に
男という性そのものを忌避するほど、独りよがりではありません。自分の貞操観念が如何なものか、ぼくにはよく分からないので、自分のバージンにどれほど価値があるのか知りません。
けれど、そんなぼくだけれど、この世でただ一人だけ、あなたにだけは抱かれたくありません。
なんてコウくんに言える筈もなく、ぼくはまな板に刺さった包丁を引き抜いた。
「なんやお前」
コウくんはぎょっと目を丸くした。そしてすぐにその目を細め、大仰に、威嚇するように吠え散らかす。
「お前に刺せるんか! ああ!?」
言いながらも後ずさるコウくんは、持っていた煙草を握り潰し、テーブルの上に置いてあったガラスの灰皿を掴んだ。
「上等やボケが! やってみいや!」
あの灰皿がぼくのこめかみを打ち抜けば、刺すような痛みの次に、猛烈な吐き気を催すのだろう。
コウくんのことだから、きっとその吐き気の最中に、痛みすら感じられなくなってしまうくらい、何度も何度も灰皿でぼくの頭を叩くはずだ。
やがて混濁した意識の向こう側にいるぼくの制服を剥ぎ、今度こそ犯すのかもしれない。
互いが思いきり手を伸ばせば届くような距離だから、コウくんの鼻息が荒いのがよく分かった。
「おねえちゃんね、今日死ぬかもしれないんだ」
目を血走らせたコウくんの耳に、正しく届くとは思わない。
最後までぼくの言葉を聞いてくれと、こちらから頼むこともない。
その灰皿がぼくの死因ならば大いに結構。死ぬのは嫌だけれど、きっと心臓を失った痛みにもがくよりはましなはずだ。
「意味わからんこと言うなや! それしまわんとぶっ殺すぞ!」
「分かるように言うよ。おねえちゃんは死ぬかもしれないの。人が死ぬってこと、分かる?」
「ついに気が狂った! 気味が悪いんじゃ!」
後ずさっていたコウくんが、不意に足を止めた。
自分でもびっくりするくらい、コウくんのことがよく見えていた。
きっとその所作は諦めじゃなくて、平謝りするためでもなくて、ぼくを駆逐するための準備。
「来ないで」
とぼくが言う。コウくんは踏ん張りかけた膝の力を咄嗟に抜いて、少しだけよろめいた。ぼくが、握った包丁を前に突き出したからだ。
「ぼく、どうしたらいいかな」
きっとどちらも生殺与奪を握っている。それでもぼくはコウくんに尋ねたかった。
来るかもしれない死を目の前にして、ふと湧き上がってしまったのは昔抑え込んだもの。
この怒りをどのようにして、誰に向ければ全て丸く収まるの?
「し、知らん!」
握った灰皿を振り回して。
「あの時もそうや! なんでおとうちゃんに言わんかったんや! なんで俺に恨み言の一つも言わん?」
目を血走らせたコウくんは、怒っている。
それは決して防衛本能によるものではないのだろう。声が孕んだ怒気は、内に秘めていたものを吐き出すように辿々しい。
「俺が好かんってはっきり言えや!」
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