ぼくの心臓をかえしてください

相川由真

放課後


「キミの心臓はボクがもらったよ」


 たった今すれ違った小学三年生くらいの男の子は、はっきりとそう言った。

 ぼくはまず、その言葉が自分に向けられたものだと、気づかなかった。

 振り返り、少しだけ目線を下げて、その子のまんまるな目がはっきりとぼくに向いていたので、ようやく男の子の話し相手が自分であることを認識した。

 ぼくが女子高生という肩書きを手にして二年弱。思えばこのように、見知らぬ人に道すがら話しかけられることなんて無かった気がする。

 大仰に語られるニュース報道。女子高生はいつだって被害者で、きっと何かしらの悪意をもって近づく人でなければ、ぼくたちはある意味恐ろしい存在なのかもしれない。

 まして突然、心臓を貰った、だなんて素っ頓狂なことを言うには、あらゆる社会的地位を投げ打つ程度の覚悟が必要だろう。


 肝が据わったその不審者は、あまりに小さかった。


「私の心臓を?」


 それは何らかのメタファーと言うにはあまりに生々しい表現で、その言葉が指し示す意味の候補を、頭の中でいくつか見繕ってみたけれど、どれもしっくりこなかった。

 したり顔な男の子は、少しくたびれたパーカのポケットに両手を突っ込んで、しゃくりあげるようにしてぼくを見上げたまま。


「そういう悪戯はやめたほうがいいよ。本気にしちゃう人も、もしかしたらいるかもしれないしね」


 白線すれすれのところで、軽自動車が風を伴う速度を持って駆け抜ける。

 ふわりと舞い上がるプリーツスカートを抑えながら、ぼくはその子の目線と同じになるようにしゃがみ込んだ。

 すっぽりとフードに収まった顔は薄暗くて、あどけないのに少しだけ不気味。

 ぼくは出来るだけ男の子の機嫌を損ねないように、言葉を選びながら――


「今なら許してあげるから、お姉さんの心臓返して、ね?」


 フード越しに頭を撫でようと手を伸ばす。

 男の子は、歯を出して笑った。ポケットに突っ込んでいた右手を、ぼくに向けて突き出した。


「ひっ!」


 ぼくはその手に握られているものが何なのかを、すぐに理解した。

 見ただけでゴムのような弾力を彷彿させる大動脈と静脈が絡みついて、てらてらと艶を帯びた心房は、掌の上で脈を打っていた。

 ぼくはそのグロテスクな肉塊から少しでも自分を遠ざけたくて、溢れそうになった悲鳴を飲み込みながら、アスファルトにへたり込んだお尻を引きずる。


「胸に手を当ててごらん」


 男の子に見下ろされたまま、ぼくは言われるがまま胸に手を当てた。

 彼の言葉の意図がすぐに分かったからこそ、ぼくは胸の上から心臓を探るように、指の腹を少しずつ動かす。


「はっ、はっ、はっ」


 音が、無い。


 肉の奥で胸骨が指を跳ね返す、そんな当たり前の感触はあったけれど、その更に奥に、本来あるべき鼓動がすっかり消えてしまっていた。

 呼吸がままならなくて、今の自分の吐息が犬のそれとよく似ていることに気づいた。

 ぼくは今自分がどんな顔をしているのか分からなかったけれど、男の子は意地悪な笑顔のまま満足げに喉を鳴らしているから、きっと間抜けな顔をしているのだろう。


「大げさだなあ、お姉ちゃんは。心臓くらい取られたって死にはしないよ」


 いや、死ぬに決まっている。


「おちついて、深呼吸してごらん。いつもと何も変わらないはずだよ。ただ、心臓が無いだけ」


 不相応な猫なで声に促されるまま、ぼくは何度か深呼吸してみる。

 頭の中にもやがかかったみたいに、視界がおぼつかない。

 喉の奥で木枯らしがひゅうひゅう鳴っている。

 震える指先を鎮めるように、ぐっと握り締めてみると、ようやく身体が落ち着いた。


「返して、私の心臓!」


 右手の心臓目がけて飛び込んだけれど、男の子がすり抜けるように躱すから、私はアスファルトの上で前のめりに転げてしまった。


「やだよ。すぐに返したら盗んだ意味がないじゃん」


「私の心臓を盗む意味なんてあるの!?」


「あるよ。ボクはキミの心臓を手に入れないと、死んでしまうんだからね」


 心臓をポケットの中に戻しながら、男の子はぼくに背を向けて、一歩、また一歩と遠ざかってゆく。

 止めなきゃ。心臓を、取り返さなきゃ――


「日付が変わるまでにボクを捕まえられたら、この心臓を返してあげるよ。もしも間に合わなかったら……その時はキミの身体が、心臓を抜き取られたような症状・・・・・・・・・・・・・・を訴えるだろうね。つまり、キミは死ぬ。外傷もなく、心臓だけがそのまま抜け落ちた状態で、耐えがたい激痛に悶えながら、助からないと分かった上で助けを乞いながら」


 男の子の口調は、別人の言葉をそのまま朗読しているみたいに、彼に似合っていなかった。

 日付が変わるまで、じゃない。

 今だ。今、心臓を取り返さないと。


 頭では分かっているのに、膝が震えて立ち上がれなかった。

胸に痛みは無いけれど、心臓が無いことが生む違和感は、ぼくの身体をアスファルトの上に縛り付けるには十分過ぎた。

 動け。動いて。お願いだから――


「じゃあね。楢原ならはらメイちゃん。痛みのない場所で待ってるよ」


 首から上だけを、ぼくに向かって傾けて、男の子は含みのある口調でそう言った。と同時に、ようやくぼくは両手をつきながら立ち上がることが出来た。

 男の子はそれを確認したからなのか、おどけるように肩を竦めて、駆け出した。


「待ちなさい!」


 ぼくも遅れて一歩踏み出すけれど、まだ震えを残した膝はぼくを上手く支えきれずに、そのまま姿勢を崩してしまった。

 男の子の背がどんどん小さくなる。小さくなる。

 そして、道なりのカーブを曲がって、見えなくなってしまった。


 遠くで、ドヴォルザークが十七時を報せている。

 タイムリミットまで、あと七時間。

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