2-2「簡単に生き死に語ってんじゃねえよ」
同時刻。
「……」
沈黙。特に会話のない蒼音とマイの間には、重苦しい空気が流れた。しかし、それを気まずいと感じているのはマイだけであり、
――あーあ、おなかすいたな。
テーブルの上に並ぶ完食済みのパフェやあんみつ、かき氷の残骸を見ながら蒼音は思った。当然その傍には携帯用のワサビやカラシの空になったチューブがある。
時折マイが、その残骸を気にするようにチラチラと見るのが、鬱陶しい。
――それにしても……、どうして、この娘はあんな分かりやすい〝嘘〟をついたのだろう?
彼女を観察すると――、視線が合う度に慌てて視線を逸らし、狼を前にした子兎のように怯える。そういえば、兎って食べられるらしいけど――美味しいのかな。
「ねえ、お嬢ちゃん」
テーブルの上に肘を乗せ、その上に小さな自分の顎を置く。もし相手が異性ならば、テーブルの上に荷物のように置かれた胸に目がいくだろうが、この娘はこの娘で面白い。自分にないものが目の前に現れ、羞恥と落胆が手に取るように分かる。
「お前……恨んではいないの?」
「え……」
蒼音の質問を受けたマイは、鳩が豆鉄砲ならぬ――バズーカ砲を喰らったような顔になった。
「あら、どうしたの? ブッサイクな顔をそんなにブッサイクにして」
「ぶ、ぶさいくって……」
と、マイは何か言いかけるが、蒼音の容姿を凝視した後、何でもないです、とそっぽを向いた。ああ、分かりやすい。
「それはそうと、蒼音様の質問に答えてないわよ。お前如きが、蒼音様に発言を許可されているの。ここは涙を流して喜びながら、答えるべきだわ」
「は、はあ……。そうは言われましても、質問の意味が……」
「分からない、なんて事はないでしょう? 何故ならお前自身の事なのだから」
「……っ」
マイは、絶句した。
別に質問の意味も、蒼音の意図も理解していないわけではない。
対する彼女は、〝その事〟自体に気付いていないのか、瞬きの回数が比較的多くなり、ほんの一瞬だが眉を顰める時がある。代表的な〝嘘の仕草〟である。
――まあ、そんなものなくても……蒼音様には、アホの考えそうな事くらい分かるけど。
「嘘をつく上手い方法って知っていて?」
「嘘、ですか……?」
「ええ。それはほんの少しの真実を混ぜる事。たとえ九割が嘘だったとしても一割の真実を混ぜる事で、それは〝本当〟になるの。それを本当だと思えば、それはその人にとっての本当になる。たとえ……自分に都合の悪い事を偽物、都合の良い事のみを本物だと言っても、それがその人にとっての真実になるの。そして、人間は唯一嘘と共存している生き物であり、この世界は偽りに満ちている」
「何が、言いたいんですか?」
「ただのアドバイスよ。蒼音様が助言するなんて滅多にないんだから。その幸運に感謝して、せいぜいない頭で考えなさい。それが〝嘘〟か、〝本当〟か。もし嘘ならそれは誰に対しての嘘なのか……時間は有限よ。選べるうちに選んでおきなさい」
これから先起こるだろう事を予想して、蒼音はさらに笑みを深めた。
――ああ、早く食べたいな……。
*
次の被害者になるかも知れないので、水野さんは俺が送る事になった。蒼音はというと、何か気になる事があるらしく、また旧部活棟へ行っている。
アスファルトを夕陽が照らす中、俺は水野さんと住宅街を歩く。
――それにしても、何だったんだ……。
蒼音と別れる直前。彼女は、俺に言った。
――『あの小娘から、目を離さないように、注意なさい』
まあ離した所で結果は変わらないでしょうけど、と蒼音は忠告するように言った。
しかし、その意味は分からない。
――普通に考えれば、次の被害者になるからだろうけど……。
〝そんな事〟で蒼音が俺に忠告するとは思えない。それに、あの試すような視線。きっと何かがある。〝ナニカ〟が、ある。
「あの、弘青さん。
「人間だよ」
彼女の次の言葉を予想した俺は、はっきりと言う。目の前で得体の知れないものと戦ったのだ。疑問を抱かない方が不思議だ。普通は依頼人の前では見せないのだが、あの娘に遠慮などない。まあ、蒼音にかかれば口止めなんて朝飯前だからな。
「あの簪は魔道具って言われていて。退魔専用の武器職人が作ったものなんだ」
本来ならば魔力を込めた弾丸や剣などを用いるのだが、日本ではそういった武器の携帯は禁じられており、普通に持ち運ぶ事が出来ない。他国でもそういった分かりやすい武器を携帯しているものは少なく、武器の気配を悟られないように普段身に付ける物を武器としている。そして、蒼音の場合簪がそれに当たる。他にもペン型の拳銃などもあるらしい。
そして、そういった退魔武器を総括して「
――まあ、アイツは魔道具なしでもいけるが。
「じゃあ、あの手は……」
蒼音の右手から這い出た無数の手。いくら彼女でもあれが異常である事は理解しているようであり、怯えた目で俺を見上げる。
――どう誤魔化すか。またいつもみたく企業秘密とでも……。
――アイツが考えなしに毎回使うから、いつも俺が誤魔化す羽目になるんだよな。
「こ、弘青さん。おかしくないですか?」
「え……」
彼女に言われて周囲を見渡すと、確かに妙だ。それほど遅い時間でもないのに、誰もいない。住宅街だから普通は家の中から人の気配がするものだが、それすらない。
周囲を見渡していると、突然道を塞ぐように黒い影が一つ、二つ、三つ――と続けて現れた。彼女を背に庇うと、黒い影は人の形を模した。
「使い魔か。それにしては形が定まっていない。もしかして、悪魔と契約した連中か?」
「え……」
「悪魔と契約した時に、悪魔は何かを人間に要求する。悪魔の中には生存している間じゃなくて、死んだ後に請求してくる場合もある。例えば、死んで魂となった後、自分の使い魔になれ、とか。さっきの影の塊みたいなのも、それだろうな」
その場合人は自分の形を失い醜い姿に変えられて、永遠に悪魔の奴隷となると聞く。今までそういった元人間を相手にしてきた事がないわけではないが、正直やりにくい。元は人間だったせいか、つい意識してしまうのだ。
――蒼音の気配は……まだ部活棟の方か。
なら俺がやるしかないか。俺は片手で水野さんを後ろに下げる。
「水野さん。君はどこかに隠れていて」
「え?」
「いいから! 君は、何も見ない方がいい。悪夢を見る事になる」
「は、はいっ!」
すぐに彼女は近くの電信柱の陰に隠れて身を固くした。ギュッと目を閉じて耳を塞いでいる。そこまでしろとは言っていないが、俺にしてみれば都合が良い。ここから先は、彼女のトラウマになりかねないから。
――このタイミングで現れるという事は、人為的なものか。
――蒼音が渋った理由、今なら何となく分かる。
今回の事件、悪魔絡みにしては方法が人間くさい。つまり、事件を背後で動かしているのは人間だ。「嘆き」の塊である円堂少年には、ここまで高度な策略を練る事は難しいだろう。そもそも死人である彼は人目を気にする必要などなく、策を練る必要すらない。
――まあ、それは後で蒼音と考える事として……。
「ひと仕事、しますか……!」
まず大地を蹴って相手に突っ込む。そして――
「〈我が半身にして我が剣……纏え、〝オロバス〟〉」
俺が叫ぶと共に、茨を連想させる刻印が全身に広がった。そして、十を数える間に、右半身の爪は黒く鋭いものになり、瞳は赤く染まった。少し茶色っぽかった髪も半分が闇色に染まる。毎度ながら、なんてアンバランスな姿なのだろう。右半身だけが禍々しく変貌した姿は、かっこ良いとも怖いとも言えない。中途半端なのだ。実際蒼音の前でこの姿になった時は、爆笑された。だから彼女の前でだけは絶対に見せたくないのだ。
『ぐ……が……』
もう人語すら失っている使い魔達は俺の放つ魔力に反応してようやく動き始めた。しかし、彼らの主と同じ悪魔の魔力を放っているからといって、俺が味方とは限らない。
そもそも俺は悪魔ではないのだから。正確には、人ですらないが。
「業をもって罪を討つ。それが、俺の罰……さあ、地獄の業火よ!」
俺は闇が纏わりつく右手を振り上げる。そして、影にめがけて思いっきり振り下ろした。途端、影の身体は黒い炎に焼かれ始めた。
『あ、ぎゃあああああああああああああああああああああああ』
まだ痛みは残っていたのか。炎に呑まれながら、使い魔達は蠢く。弱っている虫を踏み潰すようで、忍びないが――そう長くは時間をかけられない。
一体を火だるまにした後、続いてもう一体へと突っ込む。しかし相手もただやられてくれるわけがなく、もう一体が俺の左足――人間の足へと纏わりついた。底なし沼に直に足を突っ込んだような気持ち悪い感覚に、足が捉えられる。
――本当は火力を上げて消し炭にしたいけど、そうすると俺の人間部分の足も巻き添え喰らうからな。
仕方なく、俺は影が纏わりついた足を思いっきり上げ――、近くの壁へと叩きつけた。
「ぐっ……」
鈍い痛みが足から頭へと伝わった。捻挫まではいかないが、正直かなり痛い。
壁にぶつかった衝撃で、影はへどろのように壁を伝って地面に落ちる。
そこへ、もう一体の影が近付いた。
「……っ」
俺は、絶句した。
影が、影を食い始めた。最初は融合でもしているのかと思ったが、そんな易しいものじゃない。徐々に一つの影の魔力や気配が薄まり――、代わりに残った影の魔力が上がった。
『キシャア』
影が鳴き声を上げると、何の形も持っていなかった影がコウモリに似た形へと変化した。普通の人間には視えないかも知れないが、先程よりも存在感が増しており、物質から物体へと変化している。
――まずい。これ以上進化されると俺が危ない。
それ以前に、これ以上の悪魔化は……。
『キシャアアアアアアアアアアア』
コウモリ型は素早い動きで地面を這う。突っ込んでくるコウモリ型を寸前でかわし――相手の背後に回り込み、
「焼き尽くせ!」
『クシャアアアアアアアアアアアアアアアアア』
炎に呑まれた使い魔は地面を転がる。助けを求めて腕を伸ばすが、炎に包まれて地面に落ちた。地獄の業火に呑まれた使い魔は欠片すら残さず、綺麗に消し炭となった。泡が弾けて消えるように気配すら残さず消え去り、その場には俺一人が立っていた。
「解除!」
と、額に指を当てて唱えると――ようやく元の人並みの姿に戻る事が出来た。
全て燃やし尽くし、残骸すら残っていない地面に向かって、俺は深く頭を下げる。
「〝アレルヤ〟――」
途端、一気に疲労が押し寄せてきた。
呼吸を乱しながら自分の身体に異常がないか確認する。
――よし。まだ、俺のままだ。
ふぅ、と小さく息を吐いて振り返ると――こちらを凝視する少女が立っていた。
「み、水野さん!?」
すっかり忘れていた。そういえば、いたんだ。この子……。
「あの、さっきのは……」
「ト、トリック……?」
「無理があるかと」
使い魔が消えると、元の場所に戻れたようであり、周囲から人の気配が嫌という程に感じられた。いつまでも路上で立っているわけにはいかず、俺は水野さんを連れて近所の自然公園のベンチに腰掛ける。
「オロバスって悪魔の名前ですよね?」
「知っているのか」
意外だ。悪魔の名前なんてオカルトマニアくらいしか知らないのだが。
「昔、本で読んだ事があります。たしか、人の禁じられた欲望を呼び覚ます悪魔で、死んだ人を蘇生する事が出来る、って」
「まあ、そんな所だ」
「て事は、悪魔と契約を!?」
「ま、そんな所かな……って、祓魔師じゃ結構多いんだぜ!? 悪魔と契約して、悪魔を倒す奴って」
「そう、なんですか?」
不審者を見るような目が突き刺さるが、一応本当だ。
「なんていうか、悪魔ってさ、他の生き物と違って同族に対する思い入れとかないんだ。だから、同族を喰らう事で自分の魔力を上げようとする悪魔もたくさんいる。そういった奴らと祓魔師はある意味では目的が一致しているんだ」
他の悪魔を喰らって自分の魔力を上げたい悪魔と、悪魔を倒す事を商いにする祓魔師。互いに目的が一致しており、強い力を持った祓魔師の中には強大な悪魔の影が見え隠れする。有名な例を挙げるなら、ソロモン王もそれに近い。
「じゃあ、さっきの瑠璃崎さんのも、悪魔と契約して得た力って事ですか?」
「ああ。アイツの右手は悪魔と繋がっている。アイツが必要な時だけ、悪魔は彼女に文字通り手を貸す」
まさに、「手助け」である。
「まあ、良い事はないけどな」
「え?」
「悪魔と契約して願いを叶えても幸せにはなれない。だから、水野さん。よく覚えておくんだ。悪魔が叶えた願いに幸福な未来なんて存在しない」
「じゃあ、どうして悪魔と契約を?」
「あの時は、それしかなかったっていうか……」
「あの時?」
水野さんはじーっと俺を見る。最初は誤魔化そうと思ったが、今回の事件に大きく関わっている彼女には話してしまった方が、この先楽かも知れない。
「十年前に起きた事件を覚えているか?」
「鈴風町の至る所で起きたテロ事件の事ですか?」
「ああ。同時多発テロとも言える、街の至る所で起こった連続爆破事件」
十年前の夏。鈴風町の教会を中心に過激な犯罪グループが爆破する大規模な事件があった。今では痕跡すら残っておらず、犯人も全員逮捕された。しかし、その被害は大きく、たくさんの人が怪我をして、爆発に巻き込まれて死んだ人もいた。
それが、日本では珍しい同時多発テロ事件だ。当時の事を覚えている人は少ないが、この街の住人なら、いたたまれない事件として記憶に残っている。
「でも、その事件って犯人は全員捕まったんですよね?」
「表向きはな」
「え!?」
「そもそもあれは人為的なものじゃない。あの事件の中心には悪魔がいたんだ」
「悪魔が起こした事件って事ですか?」
こくり、と俺は頷く。
「神を崇める宗教があるように、悪魔を祀る宗教も存在する。願いを叶えてくれるのは神ではなく、悪魔だと根強く信じている連中。そう、悪魔信者が……」
「悪魔、信者……悪魔を信仰する人達の事ですか?」
「ああ。悪魔信者は、悪魔を心の底から信仰している」
悪魔が起こす事件や事故の中心には彼らが存在し、祓魔師にとっては同族の敵にあたる。
「彼らは願っても何もしてくれない神を無能だと嘲笑い、契約すれば何でも願いを叶えてくれる悪魔を真の救世主だと信じ込んでいる。その彼らが起こしたのが、あのテロだ」
至る所で悪魔を召喚して、街を壊滅させようとした。無差別に召喚された悪魔は、生きた人間、死んだ人間――全てを喰らった。その企みにいち早く気付いた祓魔師達は街に集い、警察と協力して悪魔を駆逐していった。しかし、その代償は大きく、多くの被害者が出た。その大半が先陣をきって戦っていた祓魔師である。一弘もその内の一人だった。
「じゃあ、瑠璃崎さんも……」
「ああ。あいつも、あの事件のせいで悪魔と契約する事態になった。悪魔に襲われたアイツは、生き延びるために悪魔と契約をしたんだ」
悪魔を滅するために、悪魔と契約する。正直矛盾しているとは思うが、悪魔との契約なんてそんなものだ。悪魔の囁きに耳を傾けた時点で既に間違えているのだから。
それに、どちらかというとあれは――
「俺のせいか」
当時の事を思い出すと、自分の無力さが情けない。
「無力だったんだ、俺は。結果、俺は一番大切な女の子を泣かせてしまった」
「それって、瑠璃崎さんの事ですか?」
「……秘密だ」
と笑いかけると、何かを悟った風に水野さんは微笑んだ。何かえらい誤解をされている気がするが、この際気にしないでおこう。
「悪魔信者に対抗するため、何よりあの子を泣かせないために、俺は悪魔と契約をしたってわけだ」
「そう、だったんですか。確かにそんな事態に陥れば、悪魔と契約せざるを得なくなるのも、分かります。私も、自分が死ぬかも知れない事態に陥ったら、きっと……。いいえ、それだけじゃありません。何を犠牲にしても叶えたい望みっていうのは、誰もが抱えている。それを目の前に突きつけられたら、誰だって願ってしまう。たとえ、それが人の道を外れていようとも」
そう、悪魔とはそういうものだ。自分が死ぬかも知れない事態。絶体絶命な時。誰も助けてくれない孤独。そういった時に悪魔は現れる。そして、俺達に囁くのだ。「願いを叶えてやろう」と。人はその囁きを神の救いだと錯覚し、代償を承知で悪魔と契約してしまう。全て自分の意思であるせいで、誰のせいにも出来ない。
――今の俺や、蒼音の境遇も……全ては自分の弱さが招いた事だ。
だから、これは俺が背負うべき罰なのだろう。
ふと視線を落とすと、人間の手があった。血が通った、体温のある人間の手。
しかし、一見ただの人に見えるが、俺の身体はとっくに……
「弘青さん」
彼女の呼ぶ声で、俺はハッと顔を上げる。
「どうしました? 何か思いつめた顔をしてましたけど」
「いや、何でもねえよ。それより送るよ」
俺は誤魔化すように立ち上がり、さっさと歩き始める。少し遅れてから水野さんが小走りで駆けてきた。彼女の歩幅に合わせて歩き出すと、ふいに彼女が零すように笑った。
「どうした?」
「いえ、ただ……弘青さんって優しいな、って」
「え!? そんな事は……!」
年甲斐もなく、俺は顔を真っ赤にして両手をぶんぶんと振り回した。その様子が可笑しいのか、水野さんはさらに声を上げて笑った。
――天使だ。天使がおる。
周りの女子が鬼畜とドSのせいか、水野さんの優しさが心に沁みる。
「お、俺なんかよりも水野さんの方が優しいよ。友達のために、襲撃犯を捕まえようとするなんて……」
「え!?」
俺が感心して言うと、彼女は予想外の言葉だったのかひどく驚いた顔をした。
「友達、って……」
「え? だってかつてのクラスメイトが襲われたから、危険を顧みずに俺達に依頼してきたんだろ?」
俺の言葉に、水野さんはさらに困惑した。おかしな事を言った覚えはないが。
「ああ、そうか。友達、なのか。だから、私と同じ目に……」
「え?」
「そう、ですよね。だって友達だもん。友達は何でも一緒。悲しい事も嬉しい事も、痛かった事も、全部分け合える。だから、こうなったんだ。ああ、そうか……そうだったんだ。ただ、同じ目に、同じ想いに、同じ痛みに……。だから……何も、間違っていない」
自らを抱くように両腕を交差させたかと思ったら、交差した腕で自らの腕をかきむしり始めた。「そうか、そうか、そうだったんだ。だから、そうなんだ。やっぱり、そうなんだ。私は、何一つ間違っていなかった」と納得したような呟きが聞こえ――より不気味さを増した。水野さんの爪には引っ掻き傷による僅かな血液が付着し、細い腕には幾つもの爪痕が刻まれた。よく見ると、新しい傷だけではなく、手首に刃物で引っ掻いたような痛々しい傷跡が残っていた。もしかしなくても、これは――
「あー、そうだったのか」
にっこり、と水野さんは長い苦悩から解き放たれたように――笑顔になった。
つい数分前の出来事が嘘だったかのように、彼女は何事もなかったように「行きましょう」と俺の手を引いて歩き出す。
――何だったんだ、今のは……。
もしかして、蒼音はこの事を予期して俺に忠告したのか。いや、この程度では蒼音は何も言わない。もっと、これ以上の〝ナニカ〟が彼女には潜んでいる。
――もしかして、この子……
「あれ? 弘青さん……」
ふいに水野さんが小さく首を傾げて俺を見た。
「ん?」
「いつ前髪切ったんですか?」
「……っ」
思わず、絶句した。まさか蒼音すら気付かない変化に、初対面の彼女が気付くとは思わなかった。
「さっきまでは目が隠れるくらいはあったと思ったんですけど……私の気のせいかな?」
「そう、だな。一瞬で髪が縮むわけないしな」
「変な事言って、ごめんなさい」
「いいって。それより行こうぜ」
彼女を自宅まで送り届けた後、俺は再び自然公園のベンチに腰掛ける。
夜の公園は静かであり、一人になりたい時は最適である。虫の鳴き声が心地よく響き、自然と心が鎮まる。
――久しぶりに悪魔化したせいか、どっと疲れた。
少し視線を落とすと、長かった爪が短くなっていた。髪の毛も、彼女の言う通り数ミリではあるが縮んでいる。お陰で切る手間は省けたが――
「一ヶ月前に戻っちまったな」
自分にしか分からない言葉を呟く。
この手は確かに人間のものだ。この腕も足も、心も――全部人間のものだ。空腹を感じるし、まずいものは食べたくない。腐ったものを食べれば腹は下すし、乾燥した紙で指を切る事もある。だけど俺は――人と呼ぶにはあまりに歪な存在だ。
『随分とブルー入っているな』
ふいに、耳元で童女の声が囁かれた。
公園は無人であり、俺しかいない。そして、この声は俺にしか聞こえないものだ。
「オロバス。お前、いつからいた」
『お前が解除って叫んだあたりからだ。一時的に戻ったのだが、気になって来ちゃった』
「彼女か」
オロバスと俺が呼んだ悪魔は、俺に寄り添うようにその場に存在する。見た目は黒い喪服を着た幼い少女であり、その年頃の娘らしく髪を二つに結っている。大人しそうな顔をした、日本人形のような少女。しかし、その姿は祓魔師のような魔力を持った人間にしか視る事は出来ない。何故なら、彼女を形成しているのは魔力であり、本当の意味での肉体ではないからだ。その点は、魔力と死魂が同化して生まれる悪霊と同じと言える。ただ悪霊は魔力が尽きれば消滅するが、彼女達は魔力を与える側であり、常に体内で魔力を生み出す事が出来る。外見も好きに変える事が出来るらしく、時代やその時の契約者に合わせて悪魔は姿を変えて現れる。文献によると、動物の姿が多いらしいが、近年は人の姿――特に相手に警戒心を抱かせないように若い異性の姿が多い。
そして、彼女――と呼ぶべきかは不明だが、オロバスは少女の姿を好んで使っている。俺が初めて会った時も二十代前半の若い娘の姿をしていた。今はわけあって、それよりさらに幼い姿であるが。
「それより、何の用だ?」
『私の半身はお前に貸しているのだ。久しぶりに使っているみたいだから、気になってな』
俺の隣に腰掛けたオロバスは、人間の少女のように足をばたばたと動かす。
「早く帰れよ。蒼音に見つかったら、消されるぞ?」
『その時は、運命を共にする事になるな。何故なら、お前の半分は私で、私の半分はお前なのだから』
「まあ、そういう契約だからな」
俺に寄り添う少女は悪魔である。
十年前に俺が呼び出した、悪魔――オロバス。
例の事件で命を落としかけた――いや、俺はあの時彼女との約束を果たさずに死んだのだ。しかし、ある〝未練〟によってこのまま死ぬわけにはいかなくなった。
そして、俺が取った方法は悪魔と契約して、延命してもらう事だった。
俺は、一度死んでいる。
例の悪魔信者の起こした事件。その中で俺は一度死んでいる。しかし、悪霊ではない。悪霊は魂と魔力が同化する事で生まれるが、俺の肉体は無事とは言い難いがこの通りちゃんとある。この手も足も肌も全部俺のものであり、他人の借り物なんかではない。
だからといって、人間とはもう名乗れないが。
悪魔はこの世の理から外れた存在であり、一線を超えてしまった人間が死後悪魔に転生するという話もある。逆に、善行を遂げた人間が天使に転生する場合もある。そして、俺は一線を超えて、決して犯してはいけないルールを破った。もし死後悪魔に転生するのならば、今俺がこうしているのはその「罪」のせいだろう。
『そう、お前の肉体は死んでいる』
その時の事を懐かしむかのように、少女のような笑みを浮かべてオロバスは言う。
『お前の肉体は、ただ死ぬ前に戻っただけ。死ぬという未来を逆転させて、私の魔力を注ぎ込む事でその肉体は巻き戻ったに過ぎない』
オロバスは、言う。
『結構大変だったのだぞ? 死をも覆す程の巻き戻しは、いくらオロバス様でも容易な事ではない。魔力の八割を失う事になって、私はこんな姿になってしまったのだから』
「分かっているよ。その事は素直に感謝している」
蘇生を得意とする彼女の力で俺は生き返った。しかし、一度死んだ俺の肉体は脆く、すぐに朽ちてしまう。だから、俺はオロバスと契約する際、彼女の魔力の八割を注ぎ込まれる事で、俺の肉体そのものにある細工をした。
つまり、この身体は半分は人間だが、半分は悪魔の魔力で形成されているという事だ。
そして、巻き戻る事で延命した俺の肉体は、今もその状態のまま。
「あれから十年近く経つっていうのに、見ろよ、この若さ。見た目、蒼音と変わらないんだぜ? このままいけば、いつか追い抜かれるな」
『後悔しているのか? 蘇生の代償に、未来を失った事を』
「いや、あの時の俺にはこれしかなかった。きっと何度同じ目に遭っても、俺は同じ選択を繰り返すだろうよ」
俺は〝未来〟と引き換えに、悪魔の魔力と朽ちる事のない肉体を手に入れた。
そう――俺には、未来がない。
何故なら、ずっと過去へ巻き戻っているからだ。
人は生まれ、死に向かっている。死は人にとって未来である。一秒ごとに成長し、一年ごとに違う姿に成長し、人は老いてやがて死ぬ。
しかし、俺の身体はその逆のルートを辿っている。未来ではなく、過去に向かう時間。進化ではなく、退化していく肉体。当時三十代だった俺は、今じゃ十代の若造だ。
死んだ未来から生きていた過去へ巻き戻り続ける肉体。それが、オロバスが俺にかけた巻き戻しの呪いである。成長時間は普通の人間と変わらず、一年後には俺の肉体は一年前に退化する。そして、悪魔としての力を使う度にその速度は増していく。
「で? 結局何しに来たんだよ? 俺の事を心配でもしてくれたのか?」
『まさか。お前が魔力を消費する度、お前の中にある私の魔力は私の元へ還ってくる。むしろ使ってくれた方が助かる。じゃんじゃん使え』
「だよな」
俺は彼女に魔力を借りているだけであり、俺が力を使う度に彼女へ魔力は戻っていく。
そして、俺にかけられた巻き戻しの呪いの効力で、いずれ俺の肉体はどんどん退化し、やがて消滅する。生まれる前の、何もない姿に。未来を失った、姿に。過去も未来も魂も記憶も姿もなく、ただ消滅する。
成人は子供に、子供は幼児に、幼児は胎児に、胎児は細胞になり――
「なあ、オロバス。俺の期限って、どのくらいかな?」
『さあ? 魔力を消費すれば早まるし、使わなくても砂時計の砂が全て落ちるように、やがて消滅は訪れる。せいぜいその前に、お前の未練とやらをどうにかする事だな』
「ああ、肝に銘じておくよ」
彼女とは一心同体ならぬ、二心半体のせいか、悪魔と分かっていながらどこか憎めないところがある。他の悪魔は契約した人間の魂を早く得るために様々な方法で惑わし、或いは寿命を貪り、早々に魂を得ようとする。
悪魔と契約した時点で、悪魔はその人間の魂に自分の印を刻む。その烙印がある限り、悪魔はその人を取り逃がしたりはしない。そのための印だ。そして、悪魔の烙印を押された人の魂は他の悪魔から見ても魅力的らしく、契約後は常に悪魔から狙われやすくなる。
といっても、その理由は「他人のものほど欲しくなる」というしょうもないものではあるが。
しかし、契約に忠実な彼女は悪魔として囁く事はあっても、惑わす事もなければ、約束を破ったりしない。そういった点は俺達人間よりもよっぽど誠実だ。悪魔の中でも高位の位を持つ彼女の烙印があるせいか、他の悪魔から狙われる事は少ない。普通逆なのだが、悪魔すら恐れる程の影響力を彼女は持っているのだ。
『ああ、それから……せいぜい用心する事だ』
ふわり、と蝶が舞うように彼女は俺の周囲を回りながら言う。
『昼間お前が訪れた場所。あまり近付かん方がいいぞ』
「部室棟の事か?」
『あそこ全体に、微量な魔力が集っている。一応、お前の肉体には私の魔力が残っている。だから、雑魚に簡単にやられ、私の品位を下げるような真似はしてくれるな』
「分かっている。もう簡単には死んだりしない。二回も死ぬのなんて、ごめんだからな」
『なら、いいが』
徐々に彼女の気配が遠ざかり――やがて、すぅと消えていった。
最後に、耳元で別れの挨拶を囁いて。
『じゃあな……』
『……カズヒロ』
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