2-1「簡単に生き死に語ってんじゃねえよ」


「さて、それじゃ話してもらいましょうか。幽霊少年と牝豚ちゃん、牝豚ちゃんとこの事件の関係性を」

 喫茶店に戻った蒼音あおとの第一声はそれだった。失神した水野さんを喫茶店に連れ帰り、蒼音が「起きろ、この卑しい牝豚が!」と叩き起こした。鬼畜だ。

 そして、目覚めた水野さんを待っていたのは、尋問である。

 俺も気付いていないわけではない。水野さんが蒼音に依頼したのは、この事件に悪魔が関係していると勘づいていたからだ。そして、彼女には消えかけていた少年の姿が見えた。幽霊をただ見する事は出来ない。視るには幽霊の許可がいる。という事は、水野さんとあの少年には何かしらの縁があるという事だ。

 今回は水野さんの話をまともに聞くようであり、蒼音の視線は真っ直ぐ彼女に注がれる。しかし、目つきが鋭いせいか睨んでいる風にしか見えないのでやめてあげてほしい。

「彼は……円堂誠二えんどうせいじ。中学時代の同級生です」

 円堂誠二。それがあの幽霊の名前か。名前までは聞き出す事が出来なかった。それ以前に、円堂少年の存在は消滅する寸前であり――

「東中の噂って知ってますか?」

「あー、俺学校は詳しくなくて……」

「ふふん。蒼音様は知っていてよ」

 俺の言葉を遮り、得意げに彼女はスマートフォンをいじりながら言う。知っているというか調べたよな、この現代っ子。

「東中っていえば、巷の中学校でも噂になるほど有名なのね……いじめが」

「……」

「無言は肯定と取るわ。隠す以前に、あのエリート学校は他校でも問題視される程に酷いいじめが行われている。蓋を開けば、エリートの名札をつけたクズばかりね。どうやらいじめの現場をイッテミターやらサインやらで拡散して、挙句ネットの掲示板に動画つきで投稿しているそうじゃない。ま、すぐに違反通告喰らってはいるけど」

 彼女の手元のスマートフォンの画面を見ると、幾つか画像が貼り付けられている。何かの投稿サイトのようであり、アダルト系のものの投稿まであり、合法的なサイトではないようだ。普通女子高生なら嫌悪しそうな動画や画像が幾つか並ぶ中、蒼音は慣れた手つきで目当ての動画を指す。目の前に現役女子高生がいるのに、本当に容赦がない。というか、何で成人サイトにアクセス出来るんだ、この子。

「ほら、ここ。同じ投稿者が連続で何度も投稿している動画なんだけど。ご丁寧に、〝数日後に自殺したった〟なんてテロップまである」

 動画には「円堂誠二」と名前まで記載されている。東中の名前や住所を載せなかったのは己の保身のためだろう。動画を再生すると、廊下を歩いている男子中学生――黒い短髪の、細身な少年。彼が、円堂誠二か。後ろ姿だから顔は見えないが、大人しそうな印象が強い。撮影者はその少年を、カメラを持ったまま追いかけ――、何かが円堂少年の頭に当たった。その場で彼は蹲り、彼の足元には乾電池が落ちていた。その他にも続く形で野球ボールやゴルフボール、石――どれも当たり所が悪ければ洒落にならない。この行為自体洒落にはなっていないが。

 逃げる彼の足元に、何度も物が投げられる。その内の幾つかが彼の頭や腕を掠った。たまにカメラの端に映るボールや石には赤い血痕が付着しており、正直見ていられない。音声が途切れ途切れで聞こえにくいが、嘲笑する声だけは嫌に響く。

「動画は一つだけじゃないわ。毎日連続で投稿していて、プールに突き落としたもの、焼却炉に制服や鞄が捨てられたもの、全裸で土下座、スク水着せられて縛り上げられたもの……どれも同じ少年が映っている」

 ここまで言われれば、俺にも分かる。動画にあった暴行と、今回の事件。そして、東中での集団いじめと東中卒業生に届く手紙。答えは、簡単だ。

「つまり、このいじめの被害者……円堂少年が悪魔と契約して、過去に自分をいじめていた奴らに復讐しているって事か」

「んー、それはどうかしら……」

 蒼音にしては珍しい曖昧な答えだ。その性格ゆえ、イエスならイエス、ノーなら嘲笑、と答えははっきりと出す。推測を嫌い、証拠がないうちは答えを言わない性格だ。

 ――でも、渋る程のものか?

 むしろ俺にはそうとしか思えないのだが。

 しかし、蒼音に視えない幽霊が俺には視えるように、それぞれ得意分野が存在する。

 そして、悪魔に関しては祓魔師の彼女が専門と言える。俺も悪魔には詳しい方だが、どちらかというと俺の専門は幽霊の方だ。その彼女が「多分」と判断したのなら、油断は禁物である。

 ――それに、円堂少年を形作っている魔力は悪魔のものにしては弱かった。

 その点は俺も疑問であり、単純に悪魔と契約して悪霊化しただけではなさそうだ。それにしては弱すぎる。ただ未練の理由としては、それが一番しっくりとくるだけだ。

 ――まあ中には俺みたいな中途半端な悪魔もいるわけだし。

 契約した悪魔がかなりの雑魚だったら、注ぎ込まれる魔力もまた弱くなるが――あれは、何かが違う。何故か、そんな気がした。

「一番考えられるのは、被害者の少年……自殺したとなっているから、恨みを持ったまま死んだところを悪魔に唆されて契約して、今回の事件を引き起こしている場合。だけど、それにしてはやり方が悪魔らしくないのよね」

「悪魔らしくないってどういう意味ですか?」

 今まで無言だった水野さんがようやく顔を上げた。

「手紙で呼び出して投石だなんて、人間らしさがあるっていうか。悪魔ならもっとドストレートに事故やら事件で精神不安定にして自殺に追い込むくらいはやってのけるし、首謀者の一人に取り憑いてモブどもを惨殺して最後に自分も自殺っていうのがセオリーね」

 流石、悪魔様。悪魔の気持ちがわかってらっしゃる。とても俺達が考えつかないような事を平気で言ってのけましたよ。

弘青こうせい。後でシメる」

 だから、何で心読めるの!?

「それに、悪霊ってのは死んだ直後に悪魔と契約しないと成り立たないわ。悪霊になって復讐するにしては時間が経過しすぎている。聞けば、この子がいじめられていたのはお嬢ちゃん達が中二の時でしょ。卒業後の、まして全員高校入学した後に復讐って、いくら何でも時間かかりすぎでしょ」

「他の幽霊とか悪霊を吸収して力を蓄えようとしたんじゃないのか?」

 悪霊が祓魔師から危険視される理由。それは、他の生物に悪影響を与えるからである。心霊番組などで出てくる曰くつきの場所や、無差別な祟りは悪霊が生きた人間から生気を吸い取って力を蓄える、或いは生まれたばかりの悪霊を襲って悪霊の魂や魔力を食い尽くすからだ。そうする事で悪霊はさらなる魔力を手にし、より凶悪な存在となる。悪魔に進化する場合だってある。そうなる前に悪霊を滅するのも祓魔師の仕事の一つだ。その可能性を考慮に入れているのか、蒼音は何かを考える素振りを見せた後、顔を上げた。

「とりあえず、事件の核が分からない限り動きようがないわ。明日あたり、被害者が入院している病院にでも行ってみましょう」


       *

翠咲みさきさーん。先に今日の分の支払いを……」


 蒼音は、よく食べる。これでもかってくらいよく食べる。特に人の金だと倍は食べる。

 ただの大食いキャラなら別に文句はないが、彼女はとんでもない悪食だ。性格と共に味覚もぶっ壊れているのか、見ただけで第三者の食欲は強制ログアウトさせられる。

 ――お陰で、俺の財産と食欲がどんどん消えていく……。

 相手が翠咲さんだから、まだ追い出されないのでマシではあるが。普通の店に行ったら、飲食物の持ち込みの時点で即出禁だ。ファミリーレストランの特大パフェに持参したカラシとワサビでデコレーションし始めた時なんて……

 ――やめよう。あれは、思い出してはいけない。

 きっとパンドラの何か的な記憶だ。封印しよう。

 ――今日はいくら使ったんだ、あの悪食娘は……。

 少しの間席を外す、と告げた俺は、喫茶店のカウンターへ移動した。

 蒼音が依頼人との交渉場として『カフェ・オリーブ』を使用する際、翠咲さんはあえて他の人の死角となる場所をすすめてくれる。有能だ。そのため、一人で切り盛りするにはやや広い店内で翠咲さんと話すためには、店の奥から入口付近まで移動しなくてはいけない。その点は不便ではあるが、人に聞かれたくない話をするから、まあ仕方がない。

 ――本当なら、もっと間近で翠咲さんのワンピースから覗く脚線美を……!

 おっと、いかんいかん。あやうく保護者キャラ失格発言をするところだった。うん、違うから。別に翠咲さんの長めのスカートから覗く細いふくらはぎとか、足首とか――全く見ていないから。短ければいいってものじゃない、という事を証明してくれる気品とか、全く思っていないから。いや、本当違いますから!

 と、誰に対してか分からない言い訳を思い浮かべていると、ふいに足元の高そうなタイルに自分の顔が映った。

「相変わらず、金かけているな……」

 もし蒼音の持つ力が純粋なる暴力なら、翠咲さんが持つのは純粋なる金の力だ。店内の設備も金に物を言わせ、かなりお高い雰囲気だ。正直必要ない気がするが、隣のテーブル席を隔てる薄い壁は何故か防音設備ありの上、銃撃戦を受けても安心して下さい、防弾・防火仕様です――といった具合に、安全への考慮が安全意識と程遠い。お陰で裏の仕事の話が好きに出来、襲撃の心配もない(されるシチュエーションがまずないが)。そんな具合に少し(?)変わっているが、悪い店ではない。

 そう、悪くはない。悪くはないのだが、一つだけ問題がある。それは――

「あら、いらっしゃい」

 チリン、と店の扉のベルが上品な音を立てた。俺がちょうど翠咲さんに声をかけるのと同じタイミングであり、彼女の接客の邪魔にならないように俺は数歩下がったが――


 ――何だ? この感じ……。


 ベルの音は鳴ったが、姿がない。しかし、足音だけはひたひたひた、と子供が駆け回るような音が何度も響いた。気のせいか、突然冷房でも入れたように部屋の空気が急激に下がった。天井から吊り下がっている古風な電灯も風もないのに右に、左に、と揺れ始めた。

「翠咲さん!」

 何かがおかしい、と感じた俺はすぐにカウンターにいた翠咲さんの元へ駆ける。いくらおっとりしている翠咲さんも異常を感じたのか、ルーペと読みかけの本をカウンターの上に置いた。

「翠咲さん、これって……」

 と、そこまで言いかけた時。細い指が、俺の唇に触れた。

 翠咲さんは右の人差し指で俺の口を閉じ、左の人差し指で自分の唇に触れ――

「ダメよ、コー君。しぃー、だよ」

 優雅か! 仕草が、優雅か! もう結婚して下さい!

 続いて、突然店の電話のベルがサイレンの如く鳴り響いた。静寂を破る音に驚いた俺とは裏腹に、翠咲さんは優雅な動きで今時珍しい黒電話の受話器を取った。

「はいはい。『カフェ・オリーブ』の……」

『てめえ、よくもはめやがったな!』

 傍にいる俺にも聞こえる野太い罵声が、耳に痛い程響いた。


「えっと、どちら様?」

『どちら、だと!? てめえ、二週間前の事忘れたとは言わせねえぞ!』

「ああ、横領の人ですね。どうですか? その様子じゃあまり景気良くなさそうですね」

『当たり前だ! 計画は失敗! お陰で俺は組の連中に……』

「へぇ。それでは、もっともーっと頑張らないと、ですね」

『誰のせいだと!』


 ――何となく事情は分かったけど、何となく関わり合いたくない。

 時折電話で聞こえる男の声には、「サツに追われている」、「裏切りへの制裁」、「見せしめ」、「絶縁状」、「このままじゃ海に沈められる」など、あまり我々の業界では馴染みのない言葉ばかりが飛び出してくる。

「嫌ですわ。貴方、何か勘違いしていませんか?」

 ふいに、受話器を握る翠咲さんの声に、冷たさが宿った。

「条件を提示して飲むか飲まないか、それは本人の自由。貴方は、自分で決めたんじゃありませんか。それを私のせいにするのは、お門違いですよ。だって私は……ちゃーんと確認しましたよ?」

 ぞくり――、と冷たい気配が周囲を包んだ。

『ち、違う! 俺はあんたに唆されて……』

「せやから、言うとるやろ。ウチは、嘘はついてはりません。あの情報を買うたんも、計画練ったんも、それを実行に移したんも……ぜーんぶおたくの選択や」

 ――あ、京都弁はまずい。

 京都出身のせいか、普段は標準語を使ってはいるが感情が高まるとたまに京都の訛りが出る時があり、その時の彼女は大体やばい。どうやばいかと言うと――

「それより急いだ方がええでおまへんの? 色んな所で恨み買うとったみたいやし。我こそはと、自分の首を狙っておっかない連中がほら……」

 翠咲さんは笑みを零し――

「後ろの正面だーれだ?」

『……っ!』

 受話器の向こう側で、男が息を呑む声が聞こえた。

 そう、こんな感じでかなり怖い。同情するぜ、おっさん。

「冗談ですよ。本気にしないで下さい。だけど、早くそこを……いや、国から離れた方がいいと思いますよ。表だろうと裏だろうと、社会にルールはつきもの。それで、貴方はそれを破った。約束を破った貴方と、社会はもう約束はしない。ほら、聞こえませんか? 貴方を社会から追い出そうとする輩の足音が……」

『はっ! なら、あんたも同じだな! 呪術者に依頼したんだ! どうせなら道連れだ! ざまあみやが……っ』

 男がそこまで言った時、受話器の向こう側で何かが爆発する音が響いた。

 男の悲鳴らしき声が一瞬聞こえたと思ったら、既に電話は回線ごと破壊されたようにぷつり、と途切れた。

「み、翠咲さん、今のって……」

「うーん、切れちゃった。間違い電話かな?」

「違いますよね!? 確実にブラックな社会の抗争的なものに関与してましたよね!?」

「やだなー、コー君。私は、しがないカフェのマスター。そんなツテないよ。その日の日替わりティーセットが、偶然〝ブラックな情報〟だっただけ」

「いらねえよ、そんな日替わり!」

 なんて物騒なメニューだ。裏メニューか? 二重の意味での。

「立派な野心が見えたから、少し突っついただけなのに……やっぱり人間は面白いな。まさか、あんな小さな火種をあそこまで燃え上がらせるとは……うふふふっ」

 ――この人は、この人で……ドSだよな。

 決して自分の手を汚さず、相手を唆し、動揺させて――堕落させる。

 ある意味では、彼女の方が質が悪いかも知れない。

「にしても、よく分からない人だったな。自分はこないな所で終わらない、あんな無能の下で終わっていい人間じゃないって言っていたけど……人間なんて、所詮みーんな平等。みーんな平等に、ただの元素の塊に過ぎないのに、どうして特別だなんて思うんだろ。まあ楽しませてもらったから、私はいいけど。うふふふのふー」

 うん、この人の方が質が悪い。

 と、その時――冷気が肌を撫でた。後ろを振り返ると、天井に達するほどの背丈を持った黒い人影がゆらり、ゆらり、と風に揺れるように佇んでいた。

「そういえば、さっき呪術がどうだとか……」

「私への腹いせに、呪術代行依頼したみたいだね。……難儀やな」

 相変わらずゆるい態度で、翠咲さんは呟いた。

 ――余裕だな。まあ、それもそうか。だって、この人……

「へぇ。生霊……あの人の恨みの感情と、式神を合体させた、合成呪術か。換算すると五万円コースって所かな。随分と格安な呪いだね」

「言っている場合ですか! 何か来ますよ!?」

 黒い影は徐々に距離を詰め、ついにはカウンターの前に立つ翠咲さんの目の前に佇む。そして、頭を垂れるように高い位置から翠咲さんを見下ろす。

 そのまま翠咲さんを飲み込もうと、影は頭から彼女めがけて落下するが――

「いけまへんよ」

 翠咲さんは、優雅な仕草で人差し指を影に突き出す。犬が待て、と合図されたように、たったそれだけの仕草で、影も、俺も、身動きが取れなくなってしまった。それ程の威圧感が、彼女にはある。そして、即座に空気中に何かの文字を描いた。まるで彼女の指先が光の筆となったように、彼女がなぞった跡が空気中に淡く輝く。

「〝天切る、地切る、八方切る。天に八違ひ、地に十の文……〟」

 詠うような〝音〟が、空気を震撼させるように響いた。天に、大地に、そして世界に直接語りかけるように――この場には、彼女の放つ〝音〟だけがある。そんな錯覚さえ生む程、その音は慈しみに満ちていて――それでいて絶対だった。


「〝秘音ひめね……一も十々、二も十々、三も十々、四も十々、五も十々、六も十々。ふっ切って放つ、さんびらり! さあ……消えい!〟」


 彼女が叫んだ途端、音波にかき消されるように、影は四散した。泡が弾けて消えるように――その痕跡すら残さずに消滅した。残ったのは、澱んだ空気と――

「あー、ほんまみーんなボランティア精神旺盛なんやから……かわええなぁ」

 ――い、一撃だった。

 腰をくねくねと動かしながら喜びに悶えるお姉さん。

 その正体は、かの織田信長の亡霊すら一撃で葬ったと噂される、凄腕の巫女。

「あの、翠咲さん、さっきのは……」

「ああ、簡単な呪法返しだよ。ぜーんぶ綺麗に返却したから、心配いらないよ。きっと今頃呪術代行者もろともテイクアウトしている頃だろうね」

 ――あの男も翠咲さんの娯楽のために唆されて失敗したからって、何も呪術代行を依頼する事もないのにな……。

 相手が、悪すぎだ。

「さ、流石巫女様……」

 驚く俺の言葉を賞賛と受け取った翠咲さんは頬を紅く染めながら、両手で顔を包んだ。

「もう、大人をからかっちゃいけないなー。私は現役の巫女と違って、本職というわけじゃないんだから」

 謙遜も込めて翠咲さんは言うが、実際現役巫女の中でも彼女の能力はトップクラスだ。

 呪法返しは、巫女や陰陽師のみに使える返し技にして防御能力である。超常現象が認知されて以来、仕事で呪法を請け負う呪い代行者が増加し――、また本来取り締まるべき政治家や警察などがその常連のため、質が悪い。そのため、陰陽師や巫女は、有力な抑止力であり、我ら祓魔師と異なり、世間一般の評価は高いのだが――。

「でも、翠咲さんに依頼したい人はたくさんいるんじゃないですか?」

「んー、全くいないわけじゃないけど。でも、私はやっぱりこうやって喫茶店やっていた方がいいかな。だって、あんな堅苦しい世界にいたら……こうやってコー君と触れ合う事、出来ないでしょ」

 ふいに、彼女の手が俺の頬を包んだ。もう片方の手は逃すまい、とばかりに強く俺の手を握っており――脳内が痺れるような甘い香りが間近で漂った。

「み、翠咲さん……」

 すぐ目の前に、エメラルドを連想させる聡明で知的な瞳が迫る。鼻先を彼女の髪が掠め、くらり、と紅茶の香りに混じった花の香りがより俺を酔わせる。

 ――もう、いいかも……。

 確かに多少性格には問題があるが、蒼音が言っていたように、甘さには時には辛さが必要なようなものだ。

「ねえ、コー君……」

 ふいに、俺の胸板に柔らかいものが触れた。視線を少しでも下ろしたら、俺の中の何かが切れる。というより終わる気がする。何とか踏み留まろうと、視線をずらすと、今度はスカートの下から伸びる細くて長い足が俺の両足の間に入り込み――

「コー君。もういいよね?」

「い、いいって、なななな何がでしゅか?」

 思ったよりもきょどった返しになってしまった。

 もう何を言われてもいい。地獄に堕ちろ、と言われたら喜んで参りま――

「これ……オプション料金」


 ……え?


「だから、オプション料金。今日、蒼音ちゃんが頼んだイチゴパフェと三色団子、クリーム(カラシ)あんみつ、練乳イチゴ氷……と、コー君と依頼人のお嬢ちゃんのコーヒーとオレンジジュースも込みだよ」

 にっこり、と翠咲さんは俺に伝票を見せる。先程まで誘うように重ねられていた手は、いつの間にか逃すまい、とがっちり掴まれている。

「あの……ゼロが、いつも、より……」

「私の脚線美をチラ見した回数、おっぱい堪能した回数、間近で〝翠咲さんハアハア、翠咲さんハスハス、翠咲さんクンカクンカ〟した回数と……脳内で〈自主規制〉……」

 やめて!

「私に〈自主規制〉で、〈自主規制〉を〈自主規制〉して、〈自主規制〉やった回数」

「もう殺して下さい! 俺が死ねば満足なんだろ!?」

 項垂れる俺の肩にぽん、と手を置いて、彼女は言った。

「嫌だなー。死ぬのは勝手だけど……、ちゃーんと払うもんは払うてからやで?」

 とても、いい笑顔が返ってきた。

 どうして、俺の周りにはろくな女がいないのだろう。だけど翠咲さん大好き。

「ぶ、分割払いで……」


       



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