1-4「瑠璃崎蒼音は祓魔師である」
中に入った瞬間、埃の匂いにむせた。木に侵食された窓から新鮮な空気は入らず、澱んだ空気が周囲を覆う。昼間なのに薄暗いここでは、何もなくても「何か」いると錯覚してしまう。蹴破られた扉を飛び越えた先は狭い廊下が待っており、左右に散るように部屋が転々と並んでいた。木造の扉にはそれぞれ「野球部」、「テニス部」、「陸上部」など外で活動する部活動の名称が刻まれていた。簡易な鍵であり、それこそ本当にトイレの個室と変わらない。木造のせいか、床の一部は腐って穴が空いている箇所もある。
「しっかし、なんでまたこんな場所に部活棟なんて……」
「昔はここら一帯も学校の所有地で、第二グラウンドとかもあったらしいです」
といっても、かなり昔の話ですけど、と水野さんは付け足した。
彼女の話だと、ここら一帯に別棟もあり、当時部活動が盛んだったため一部の校舎を改築して部活棟にしたらしい。ここもその一部だったそうだが、立地条件や地盤の緩みなどが理由で新校舎を作り、その時古い校舎は全て壊したそうだ。ただ一つ――この部活棟だけは、人数の多い運動部の物置として取っておいたそうだが。
――それにしてもここ……随分と脆いな。
ただ古いだけではなく、よほどぞんざいな扱いをしたのか、進む度に腐り落ちた床や割れた壁が目につき、そして湿った箇所にはカビやキノコが生えている。
そして、ある程度進んだ蒼音が、唐突に止まった。
「第二野球部」と刻まれた扉。不自然に、その扉だけが開いており、招き入れるように揺れている。
「あれだな」
「あれね。なんて分かりやすい。仮に妖怪だか幽霊だかいるとしたら、随分とベタね。バカなのかしら」
がたん、と周囲で大きな物音が起きた。
「こ、
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
服を掴む水野さんを宥めながらおそるおそる蒼音様を見ると――
「ていうか、幽霊ってさー、どんだけ未練たらしいの? 生きて散々迷惑かけている分際で、死んでも迷惑かけるとか……救いようのないクズね」
今度は近くの窓ガラスに亀裂が入った。
「弘青さん! これ大丈夫ですよね!? ホント大丈夫ですよね!?」
「だ、大丈夫。あれでもプロだから」
多分。
「大体姿を見せないあたり、いやらしさが目立ってしょうがないわ。死ねば? あと三回程」
がしゃん、がしゃん、がしゃん――切れた電灯が弾けとんだ。その破片から水野さんを庇うと、彼女はさらに心配そうな顔になった。気持ちは分からなくもないが。
それにしても――
「これって、一体〝何〟の仕業なんだろうな」
「え? 悪霊とかじゃないんですか? 現に投石の被害も出ているわけですし」
首を傾げながら水野さんが言うと、意外にも先頭に立っていた蒼音が答えた。
「それはないわね。幽霊はいわば死人。一度現世からログアウトした人間が、絶賛ログイン中の今をときめく相手に、何か出来るわけないでしょ。死んだ人間に出来る事なんて、何もないんだから」
「それじゃあ、怪奇現象とかは……」
「大体が気のせいか、幽霊のせいにしたい場合かのどちらかね。その方が都合の良い事だってあるし。まさに死人に口なし。ま、信じる方もバカだけど」
「え? でも、その言い方だと瑠璃崎さんも……」
「信じているわけないじゃない。超常現象が立証されたって言われても……、よくあるパターンだけど、蒼音様、自分の目で見たものしか信じないタイプだし」
しれっとした顔で、彼女は言う。何も依頼人の前で言わなくても良い事なのだが。
「見たものって……
案の定、水野さんは俺と蒼音を交互に見る。その姿を無知だと嘲笑するように笑い、
「
「……え!?」
水野さんが叫んだ直後、蒼音は扉を豪快に開けた。
刹那――冷たい風が拒絶するように吹いた。その風に押し戻されそうなのをぐっと堪えながら、部屋を見ると――白い影が見えた。もし幽霊がいるとしたら、こういう存在を呼ぶのだろう。半透明で、全身が真っ白な少年。腰より下が透けて見えない。薄汚れた制服を着ている所から察するに、ここの生徒か。俯いているせいで顔は見えないが、その少年は何かを呟いている。
『助けて……もう……たい、助けて、たすたすたすたすたすたすたすたたす……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
脳内に直接声が響いた。耳を塞ぎたくなる。その声は恐怖を掻き立てる。
対する蒼音は何も感じておらず、どんどんと先に進む。その時、少年の近くを通ったが、少年は何をする事もなく、ただ呟き続けるだけだ。
――どういう事だ? これが悪霊なのか。
それにしては大人しすぎる。悪霊にとって蒼音のような祓魔師は自分を脅かす存在だ。蒼音が素通りするのを見過ごす悪霊なんているのか?
いくら彼女が視えないからといって――
俺が考察していると、水野さんが後ろから俺の服を引っ張った。
「こ、弘青さん! あれ、ゆゆゆゆ……」
「君も視えるのか!」
「どういう事ですか!? なんで、あれ、瑠璃崎さん……」
慌てる彼女を落ち着かせようと両肩に手を置く。
「落ち着いて。何があっても君に触れさせはしないから」
ポッと彼女の頬が紅く染まった。が、すぐに顔を振って縋るような目で俺を見上げる。
「幽霊、亡霊、悪霊。呼び方は色々あるけど、〝ああいうの〟って、どれも死んだ直後の強い想いによって突き動かされた存在。簡単に言えば、未練ってやつだな。肉体を離れた魂の存在ってやつだ」
「そ、それは何となく分かりますけど……なんで瑠璃崎さんには視えていないんですか? 祓魔師なのに」
「幽霊ってのは、基本的に視えないんだよ。死んだ後の人間の思念体なんて、視えるわけがない」
「え? でも……」
「幽霊は視るものじゃない。幽霊が自分の存在を知ってもらいたいと思う事と、相手が幽霊を視ようとする事。つまり、互いに存在を認知しないと視えないんだ。だから、幽霊を視るんじゃない。幽霊に視せてもらっているんだ。所謂信じていない人には視えないってやつさ」
早い話、覗き見は出来ないという事だ。本人の許可なしに視る事は不可能である。
逆に、一方的に幽霊を視たいと思ったとしても、幽霊が許可しないと視る事も聴く事も出来ない。そして、幽霊が未練を果たそうとしても、相手がそれを望まず、或いは存在を信じなければ認知出来ず、世間一般で知られる呪いは成立しない。
「じゃあ、怪気現象とか祟りは?」
「祟りは、そうなる結果を生んだのが自分だと心の底で分かっているから、成立する。つまり、罪悪感による幻ってやつだな」
「幻……?」
「まあ簡単に言えば、被害者と加害者の関係さ。いじめを苦に自殺した幽霊が恨みを晴らそうとこの世に残った場合、それを起こした相手に少しでも罪の意識があれば、呪いは完成する。霊媒師や霊能力者と呼ばれる人達は、そういった輩と未来永劫付き合っていく覚悟がある。だから、誰でもいいから気付いてほしい幽霊の想いと繋がり、幽霊とコミュニケーションが取れるわけさ」
まあ、大半がやらせやインチキだが。
「だけどな、大体の連中は罪悪感なんて抱いちゃいなければ、自分が死に追い込んだ奴の事なんて覚えちゃいない」
俺が説明している間、蒼音は部室内を見て回る。残った器具やロッカー、壁の落書きまで念入りに調べており、部屋の隅で呪いの言葉を吐く少年の存在は認知していないようだ。
そう、彼女は幽霊の存在を否定している。悪魔はいても幽霊の存在だけは認めていない。だから、彼女は幽霊を視る事は出来ないのだ。そのために、俺がいる。彼女の欠けを補う事が俺の役目であり、俺が彼女の傍にいる理由でもある。幽霊を視ようとしない彼女の代わりに幽霊を視たいと望んだ俺と、誰でもいいから助けてほしいと願う幽霊の気持ちが一致すれば、俺は幽霊から許可を得る事が出来、このように視る事が可能だ。
となると、この少年は〝救い〟を求めている事になるが――
――だけど、何をそんなに怯えているんだ?
「だから、瑠璃崎さんには……」
「まあ、アイツの場合他にも理由があるけど……そもそも一日に一体何人死んでいると思う? それに、未練を残さずに死ぬ奴の方が少数だろう」
「それは、そうかも知れませんが……」
「だから、〝悪魔〟がいるんだ」
「悪魔?」
彼女がそう問うた時――またしても天井の一部が破裂した。段々と音は近付き、まるで少年の不安に呼応するように周囲の物や建物自体に亀裂が入り始めた。
「見ぃーつけた」
と、蒼音は床に手を置いて、ふふん、と笑った。怯えて身体から離れなくなった水野さんをなんとか歩かせながら蒼音が膝をつく所まで行くと、床に何かが描かれていた。
チョークで描いた簡単なものであり、小さな円の周囲に文字や動物のような絵柄が描かれている。チョークで描いたにしては掠れておらず、最近描いたもののようだ。
「魔法陣? 悪魔召喚のものとは違うわね。これは、もしかして……」
蒼音が呟くのが聞こえて覗き込むと、ラテン語と思われる文字の羅列が円の周囲に散るように描かれている。円の中心にはプラスチック製のネームプレートと砂のような細かいものが詰められた瓶がある。俺と水野さんがそれを覗き込む前に、彼女はそれを回収する。
「成程。この魔法陣に、ネームプレートと瓶。野球部の部室。そして、手紙と投石。この事件、案外簡単ね」
ふふん、と笑った後、蒼音は部屋を後にしようと踵を返す。
が、彼女が俺達を押しのけた時、扉の前に黒い物体が立った。半透明な少年とは逆に、真っ黒で物体的な存在。影のように姿ははっきりしないが、少年と比べるとこちらの存在感の方が際立つ。まるで少年の存在そのものを喰らっているように。
「こ、弘青さん! あれも……ゆ、幽霊なんです、か!?」
「いや、あれは悪魔だ」
「悪魔って……」
「つまり、俺達の仕事の始まりって事だ。蒼音様!」
「分かっているわ」
蒼音は後ろを振り返らずに答えると、徐に髪をまとめている剣の形をした簪に手を伸ばす。そして、彼女がそれを抜き取ると――花の香りを周囲に散らせながら髪が舞う。
その姿は夜桜のようで、人を酔わせる妖艶な美しさがある。
長い髪をかき上げながら、彼女は簪の先を悪魔に向ける。
刹那――彼女の簪はそのままの形を保ちながら徐々に膨れ上がり、やがて本物の剣と同じ大きさへ変化した。鞘や装飾の花や月の飾りまで再現しており、剣は簪が大きさを変えただけに見える。しかし、それは既に簪としての役目は果たさず、武器としての役目のみを果たそうとしている。
対する悪魔は人の形を模しているがどこか中途半端であり、人影のような姿を保ちながら蒼音に歩み寄る。目もなければ口もなく、ただ影のように形だけがある。そのせいでどちらが前か後ろかは分からない。
ぽたり、と影が歩む度に影の身体から黒い液体のようなものが溢れた。
――自分の形すらまともに保てないとなると、使い魔か。
同じ事を思ったのか、騎士の如く剣を構えた体勢のまま蒼音が呟いた。
「あらあら。魔力が垂れ流しよ。自分の存在すらまともに保てないとなると、随分と最弱な使い魔ね。可哀想だから、蒼音様が一瞬で消してあげるわ。光栄に思いなさい!」
蒼音が一歩を踏み出す。
彼女の邪魔にならないように俺は水野さんを背に庇いながら後ろに下がる。
『@●▼?※』
言葉にならない声を振り絞り、影の頭がよろめきながらこちらを振り返った。そして、ぽたぽた、と自分の身体の一部である黒い物体を周囲に撒き散らしながら俺達に向かって手を伸ばした。後ろから水野さんの怯えた声が聞こえ、俺は「見るな」と彼女に告げ、彼女の視界を遮るように抱きしめた。先に言っておくが他意はない。生女子高生とか、全く興味ないから!
「蒼音様の御前よ! 頭が高いわ! 即刻ひれ伏しなさい!」
鞘から剣を抜き取ると共に、剣を一文字に振るった。刹那の出来事であり、瞬きを終えた時には影は上下に分断されていた。
身体が半分になっても消滅する事はなく、ゆらゆらと影は揺れる。蒼音は空中に浮く上半身には目もくれず、地面に足が張り付いている下半身に剣を持った右手をかざす。
影が真っ二つになったところで抱きしめていた水野さんの身体を放すと、水野さんは安堵の息を吐いた。名残惜しいとか――思っては、いない。
「邪魔」
と、蒼音は後ろを見ずに剣を操り、自分の脇下から上半身の影を貫く。それは銃で打ち抜かれたように地面へ落ちると、蒼音の足に踏み潰された。ぐちゃり、と音を立てて泡が弾けて消えるように消滅した。それを確認してから、蒼音は剣を鞘に戻す。そして、俺の近くに来ると、影を踏み潰したブーツの裏をまるで汚物でも踏んだかのように俺のズボンに擦りつける。
「あの、蒼音様……」
「蒼音様の靴が薄汚い魔力で汚れてしまったわ」
「うん。それは分かるけど、どこで拭いているんだよ?」
「もちろん蒼音様専用家畜の皮でよ」
「蒼音様。辞書で人権って言葉引いて。でもってそのページをブクマして」
「嫌だわ、弘青」
彼女の顔がぐっと近付いた。ふわり、と花の香りが鼻先を撫でる。
そして、水野さんが顔を赤らめて見守る中、蒼音が妖艶な笑みを浮かべる。
「舐めて拭ってくれるとでもいうの?」
「……っ」
唇から覗く舌がやけに妖艶に見えた。ごくり、と俺が固唾を飲み込むと、蒼音の顔が間近に迫った。誘惑するような瞳に誘われて彼女の肩に触れた時、ふいに後ろから水野さんの視線を感じ、俺は慌てて彼女の両肩を押し返した。
「いいです! 俺の服は貴女様の雑巾です! 思う存分お使い下さいませ!」
一瞬で屈辱的な場面を想像してしまい、俺は一気に彼女から距離を取った。
もしあのまま誘われるまま一歩踏み出していたら――
――い、いや、ありえねえだろ。だって蒼音は俺の……。
どぎまぎする俺の反応に満足した蒼音は「あら残念」と呟いた後、ご機嫌な様子でもう一つの残骸――黒い物体の下半身に歩み寄った。
「み、水野さん。まだ説明の途中だったね」
話題を変えるため、俺はわざとらしい咳払いをした後に言う。
「え? はい」
突然話を振られて驚いた様子で彼女は俺を見上げる。蒼音という絶対的な脅威を目の前にしたせいか、震えは止まっている。
「未練を抱かない人なんていない。そして、死んだ相手を想う心がなければ、呪いの影響を受けない。なのに、どうして怪奇現象や曰くつきの場所……そういった無差別に襲われる人がいると思う?」
俺に言われて初めて気付いたのか、彼女は目を見開いた。
「答えは簡単さ。そういった人を手助けする存在がいるからだよ。そう、悪魔が……」
「悪魔?」
「悪魔。その存在は正しくは理解されていない。どこから来たのか、何のためにこの世界に現れるのかは謎に包まれている。ただ、悪魔は人を誑かす。生きた人間も、死んだ人間もね。死者が悪霊、生者が猟奇系に変貌するようにね」
悪魔は人為的に召喚される事が主である。生きた人間に取り憑いた悪魔や契約者の願いのために人を呪うのと同じである。ただし、死んだ人間――幽霊との契約は違う。悪魔は自らここ現世に訪れ、死んだ人間を誘惑する。
「死んで未練を残さない人間なんていない……からな」
俺にも覚えがあるから、よく分かる。そして、悪魔はそこにつけ込む。死んだばかりの魂だけの存在に、願いを叶えてやろうと契約を迫る。当然未練もあれば、死んで失うものは何もないと思っている連中は悪魔と契約を結ぶ。
「悪魔と契約した幽霊。そういった輩を、俺達は〝悪霊〟と呼んでいる。悪霊は、悪魔に魔力を与えられた結果生まれた、いわば霊的生命体だ。本来干渉出来る筈のない、生きた人間に影響を与える事が出来る。だから、よく覚えておくんだ」
そんな事をしている間に、蒼音は悪魔の腰より下――今はほとんど消滅しかけており、ただの黒い塊であるが、それを片手で鷲掴みにする。そして、もう片方の手をゆっくりと近付ける。
「悪魔というより、ただのペットのようね」
悪魔には階級が存在する。強い力を持った悪魔は高い位を所持しており、多くの奴隷を持っている。そして、この下半身だけで蠢く〈生物〉は悪魔ではなく、悪魔の使役する使い魔にあたる。言語もまともに操れない所から察するに最弱だ。
「弘青さん。使い魔って……」
「簡単にいえば、悪魔が使役する奴隷みたいなものだよ。動物の姿をしていたり、童話に出てくるような歪な化け物の姿をしていたり、様々だけど。まあ、魔物ってところかな。悪魔ほどの魔力は持っていないけど、人間が素手で敵う相手でもないから、気をつけて」
今回はその中でも最弱のようだ。自分の形すらまともに保てず、自身の魔力が外に漏れ出ていた。あれは自分で自分をコントロール出来ていない証拠である。
「さあ、蒼音様の質問に答えられる事を光栄に思いながら、迅速に回答なさい」
『‥‥○★▼』
使い魔の声か、脳内に直接声が響いた。しかし、聞いた事のない言語であり――、またそれは声と呼ぶよりも鳴き声に近い。
「ちっ! 雑魚が!」
と、蒼音は分かりやすい悪態をついた。
「言語もまともに操れないなんて、本当にカスね。しょうがないから、お前の〈感情〉に直接聞く事にするわ」
蒼音は不敵に笑んだ後、右の白いレースの手袋に左手を伸ばす。
――依頼人がいるのに、こんな所で使う気かよ!
「見るな、水野さん!」
「何ですか!? 鬼の手!?」
蒼音が手袋に触れたあたりから妙な期待を持っていた彼女は、俺の言葉とは逆に身を乗り出した。
刹那――蒼音の右の掌から無数の影が這い出し、彼女の周囲を包んでいく。影に見えたそれは、赤子の手のような形に変化すると、下半身だけで蠢く使い魔を触診するように呑み込み始めた。手の一つ一つに意識があるように、蠢きながら無数の手は使い魔を覆った。地面に落ちた手袋の中からも這い出るように、手の形をした影は蠢く。
「ひっ……」
案の定、水野さんは俺の背に隠れた。彼女が目を背けたのを待っていたように、部屋の中に何かを食い破る音が響いた。
ぐちゃり、
蒼音の前で、何かが潰れる音が鳴った。その後に続くように、様々な食事の音が響く。事実、あれは食事である。無数の手は口のように下半身に吸い付き、喰らい、あっという間に黒い塊となった。その度ぐちゃり、と噛み砕かれる音が響く。ふいに、蒼音の足元に使い魔の破片が飛び散った。食べかす一つ見逃さず、影の塊から伸びた手がへどろのような欠片を飲み込む。まさに、毒を喰らわば皿まで――。骨の欠片すら残さず、黒い手は全てを呑み尽くした。影の塊の奥で使い魔は何度かもがくように動いていたが、それも徐々に動かなくなり――やがて静かになった。そして、十を数える暇もなく、無数の手はすっと蒼音の掌へ戻っていった。影の気配が消えた後、蒼音は手袋をはめる。そして、何度か手を開いては閉じ、自分の手の中の存在を感じ取っているように見えた。
「この感情は……。へぇ、そういう事」
食事を終えた後のように、彼女は口元を拭いながら呟く。
そして、蒼音が振り返ろうとした直後。がたん、と大きな音を立てて水野さんが後ろで倒れた。彼女を背に庇っていた俺は咄嗟に助けられず、慌てて水野さんを抱き起こす。
「水野さん! おい、大丈夫か!?」
「嫌だわ。女子高生を失神させるなんて。蒼音様が懸命に働いている時にナニしていたの」
「何もしてねえ! カタカナ表記やめて!」
「まあ、家畜のする事なんていつの時代も変わらないわね。北京原人が」
「北京原人は家畜じゃねえよ!?」
そんな俺の言葉を無視して、蒼音は手袋越しに自分の右手をなぞる。
「今回は薄味だったわ。まあ、使い魔如きが秘めている想いなんて、そんなものでしょうけど」
蒼音は簪を元の大きさに戻して髪を纏めると、俺と水野さんの元へ戻ってきた。
「それより弘青。後ろで幽霊が何とか言っていたけど……」
「ああ、東中の制服を着た少年幽霊が魔法陣の中にいる。ていっても残り少ないから、放っておいても消滅するだろうな」
そう、あの少年は消える。きっと一週間後には兆しすら残っていない。それは未練を果たす事もなく、生きていた時と死んだ後と、二つの未練を持って二回死ぬ事を意味する。
――可哀想に……。
俺がそんな事を考えていると、後ろから蒼音に軽く蹴られた。
「何をしみったれた顔しているの。消えるも何も、元々消えゆく運命だったのだから当然でしょう。お前だって分かっているでしょ。悪魔も慈善事業じゃないの。何の見返りもなしに人間なんかを助けるわけないでしょ」
「ああ、よく分かっているよ。悪魔は人の願いを叶える代わりに〝何か〟を奪っていく」
それが魂だったり、それ以外の何かだったり、と要求されるものは様々だが。
「肉体を器、魂を本質。二つをもって生物の存在は証明される。魂だけで彷徨った所でその時間には限りがあるわ」
ホラー映画などで出てくる死んだ人間の怨念、最近の漫画やゲームに登場する幽霊少女。あれは俺達専門家の見解からすると、絶対にありえない現象だ。肉体を失った時点で、この世に留まる資格は失われている。
そう――人生にダブルチャンスなんてない。
ただ一つ、悪魔を除いて――
「生者とも死者とも言えない悪魔は、唯一この世の理に縛られていない」
そして、その悪魔との契約によって魂――死霊は肉体の代用品を得る事が出来る。
それが、悪魔の魔力である。悪魔の魔力と同化した魂は悪霊という全く別の存在となる。契約内容によっては元の形を失い、魔物と呼ばれる悪しき存在になる者もいる。或いは一線を超えて、
「この世で起きる数多の悲劇の裏にはいつも悪魔がいるんだよな」
ふと、俺は自分の両手に視線を落とす。血の通った、生きた人間の手だ。しかし、それは見た目だけであり、本当は――
「弘青」
深い意識の底から掬い上げるように、蒼音が俺の名を呼んだ。ふいに顔を上げると、すぐ間近に彼女の顔があり、俺は思わず後ろに下がってしまう。
その俺に対し、蒼音は両手を伸ばし――、俺の両頬を包んだ。両手から伝わる温もりは、彼女が内に秘めた深すぎるがゆえに狂った愛のように冷たい熱を秘めていた。
「蒼音様は悪魔が憎いわ」
「うん……」
知っている。それが、彼女が祓魔師になったそもそもの理由だ。
「悪魔のせいで、蒼音様は神父様と離れ離れになってしまったのだから」
相変わらず口調は生意気だが、その瞳は迷い子のような寂しさを秘めていた。
「大丈夫だ」
ぽん、と下を向いていた蒼音の頭に手を置いた。
「一弘さんは……蒼音様の事しか考えちゃいない。だから、悪魔に困っている人達を助けるために世界各地を回ってはいるけど……いつだって心はお前のものだ。だから……」
と頭を抱えるように抱き締め、幼子をあやすように背中を叩いていると、突然鳩尾に鈍い音が響いた。
「そ、そんな事、お前に言われなくたって……!」
腹を抱えて蹲ったまま上を見上げると、顔に真っ赤にした蒼音が俺を見下ろしていた。
顔が紅いのは怒りか、それとも――
「だ、大体ね! 神父様の事は蒼音様が一番分かっているの! あの人の使い魔だからって、蒼音様と神父様の間には入れないんだからね!?」
「わ、分かってる、って……」
本当に、何処までも神父様絶対主義な娘だ。
――本当に、可愛い程に……大好きなんだな。
「こ、弘青……」
殴られた痛みがおさまった頃、蒼音が零すように俺を呼んだ。
「い、一応言っておきますけど……お前は悪魔だけど、蒼音様のもの。だ、だから、お前は悪魔だけど……嫌いじゃない、から」
「あ、蒼音様……っ」
あの性悪娘からそんな言葉が聞けるなんて! お父さんは感動だよ!
俺が笑顔で蒼音を見ていると、俺の視線の意味に気が付いた蒼音は、髪をかき上げて極悪な笑みを浮かべる。
「だから、蒼音様の許可なく、沈むのは絶対禁止よ? 弘青は蒼音様のものなんだから、蒼音様が許可しない限り、哀しむのも沈むのも怒るのも死亡フラグ踏むのも、〈自主規制〉するのも禁止なんだから。ちゃーんと蒼音様の許しを得てからにして頂戴」
「ちょっと待て! 今文字に書けない事言わなかった!?」
女子高生の口からそんな言葉が聞けるとは、ありがとうございます――違った、年頃の乙女がそんな事を言ったらあかんだろ。
当の本人はしれっとした顔で、魔法陣に視線を移動させる。
「蒼音様には視えないけど、魔法陣の中心で渦巻いている魔力が弱くなっている事だけは分かるわ。まあ、当然ね。悪魔と契約していない死者が滞在出来る時間なんてたかが知れている。悪魔が注ぎ込んだ魔力が尽きれば、その存在は消滅する」
幽霊にとっての消滅は、そのままの意味だ、二度目の死であり、二回目の痛みを伴う。そして、幽霊は未練を果たさずに消える。成仏はおろか、生まれ変わる事も二度とない。魂が砕け散り――、消える。
「なあ、蒼音様。悪魔と契約した幽霊は、どうなるのかな」
「さあ? 悪霊のなれの果てなんて知らないわ。歪な姿に変えられて一生悪魔の奴隷として過ごすか、悪魔に存在を食われるか、それとも魂をかき消されるか。どちらにしても良い方向には転ばないでしょうね。何故なら、人にとって悪魔とは、〝悪いもの〟の象徴であって、悪魔と契約して願いを叶えたとしても、幸せにはなれないのだから」
「そうだけど……」
それは、分かっている。だけど、それじゃあ〝救い〟がない。
悪魔と契約をして、何かを失ってまで一縷の願いを叶えようとしたのに――その結末には哀しみがつきものだ。そんなのは、あんまりだ。
「もしかして、悪霊なんかに同情しているの?」
蒼音は鼻で笑った。
「無駄な事ね。死んだ相手に同情して、何か得るものがあるとでも? 死人が何をしても、現実は変わらないわ」
「得るとかそういうのじゃねえよ。こういうのは……」
「ふぅん、そういうものなの。まあ、蒼音様には分からないわね」
興味をなくしたように、蒼音は踵を返した。
「それに、あの子は悪霊じゃない」
断言する俺に、蒼音は「知っているわよ」と鬱陶しそうに答えた。
「悪霊は悪魔の魔力で形成されている。にもかかわらず、魔法陣の中心にいる幽霊を形成している魔力は悪魔のものに比べると、とても小さくて……すぐに消滅する弱いもの。悪魔じゃなくても、そのくらい分かるわよ」
「ああ。アイツは悪霊じゃない。何故悪魔の契約なしでこの世に居続けられるのか、その理屈は分からないけど……悪霊よりは希望はあるかも知れない」
「どうかしら。悪魔が関わった時点で、この結末は悲劇がつきもの。きっと最高の悲劇が待っているわ。蒼音様好みの、最高の……哀しみが」
「哀しみって……」
――どういう意味だ? この事件が悲劇になる確証があるのか?
――まさか、こいつ……既にこの事件の真相に辿り着いたのか?
彼女の言葉の真意が分からず首を捻る俺や気を失った水野さんに目もくれず、好物を目の前にした子供のように蒼音様は声を上げて笑いながら、早々に部屋の扉を蹴破って外に出た。
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