1-1「瑠璃崎蒼音は祓魔師である」


 鈴風町三丁目に、最近新しく建った高層マンションがある。住宅街の中心部に位置しており、セキュリティを重視し、正面玄関から玄関扉、ポストまで全てがオートロックであり、解除には暗証番号の他に入居時に設定した指紋認証まで必要である。急いでいる時は面倒だが、ここまで徹底されると空き巣も入る気がなくなるというものだ。また二十四時間監視カメラが作動しており、不正な侵入を感知すると自動的に管理会社へ通報するシステムである。さらにシアター・カラオケルーム、ゴルフレンジにトレーニングルームなど、共有施設も充実しており、見る人によっては貧富の差を感じる。

 フロアは五十階まであり、上へ行くほどグレードが高くなる。そして、その最上階の四号室。花柄の乙女チックなデザインの表札に、「瑠璃崎るりざき」と書かれた部屋。バストイレ別の上に、和室一室と洋室が二部屋もあり、オール電化の床暖房完備。リビングは一人暮らしのアパートの一室よりも広い。こんな高級マンションに住む人物など、大企業の社長や富豪に限られるのだろうが、そのどちらにも当てはまらない人物が、一人――俺を含めると、二人存在した。


 開口一番。

「嘘だろ」


 今の状況を確認してから出た言葉は、あまりにも単純だった。

 俺――一色弘青いっしきこうせいがコンビニから戻ると、〝開かずの部屋〟の扉が開いていた。

〝開かずの部屋〟とは、玄関近くの個室の事であり、ずっと頑丈な鍵によって閉じられていたのだが――、今日は何故か開いていた。

 先に言っておくが、俺はこんな高級マンションの住民ではない。本来の部屋の主に何度聞いても開かずの部屋の謎は教えてくれず、正直かなーり気になっていた。

 好奇心に負けた俺は、部屋の中へおそるおそる入った。テレビはおろか折りたたみ式の簡易ベッド以外の家具が一切ない殺風景な部屋。その部屋の奥に、少年が一人足を抱えて座り込んでいた。長く閉ざされていた部屋に侵入者が訪れたというのに、少年は下を向いたままであり、こちらを見ようともしない。

 それもその筈。何故なら、少年はこの部屋に監禁されているからだ。

 少年の脚にはめられた金属製の枷に繋がる鎖はご丁寧に壁から伸びており、部屋の扉までの距離を考えるとぎりぎり出られるか出られないかくらいの長さだ。これがもし簡易ベッドと繋がっていればベッドを担いで出るという方法もあっただろう。あとは両足を切断する以外の脱出方法はなさそうだ。そんな無謀とも呼べる勇気があったとしても、ここにはそういった器具すらないので不可能だが。

 さらに最悪な事に、足枷の邪魔にならないように、少年は大きめのワイシャツを一枚羽織るというかなり危ない格好になっている。もし彼が女だったらエロ同人になるところだった。そして、相手が美少女だったら、俺は今頃陰から見守っていた。

 日光を完全に遮断するタイプのカーテンで締め切られ、僅かな日の陰り具合でしか昼か夜かは判断出来ず、時間の経過も不明である。退屈は、人を殺す。時間が経てば経つ程、脳みそが死んでいく感覚に陥る。それが余計に時間経過の錯覚を生み、いつもの一秒がやけに長く感じる。この中での一日は、彼の中でも三日に相当するだろう。

 俺も、経験があるからよく知っている。日に日に細胞が死んでいく感覚を思い出し、それを忘れるように俺は軽く頭を振った。

「えっと、君……大丈夫?」

 おそるおそる声をかけるが、やはり反応はない。

 大体小学校二年生くらいだろうか。まだ身体が出来上がっていない未成熟な少年は同じ年齢の子供に比べるとやせ細って見える。元々体力がないのか、それとも今の状況によるものか。出来れば、前者であってほしい。

 ――さて、どうしたものか。ひょっとしなくても、この少年はアレだよな。


弘青こうせい


 少し暗めの、少女の声が静寂な部屋の中に響いた。

 振り返った時。時既に遅く、彼女は目撃してしまった俺を見ると、俺の背を押して無理やり部屋の奥へ押し込んだ。そして、部屋の扉を後ろ手で閉じる。再び部屋が薄暗くなった。

 青の強い暗めの髪を今時珍しく簪で一つにまとめ、極端に長い前髪のせいで左目は隠れている。日焼けを知らない白い肌と黒い瞳は相反し、それゆえ妖艶な美しさがある。彼女は少しだけ背丈の低い俺を見下ろすと、雑貨屋で売っている伸縮式の指示棒で軽く俺の額を小突いた。

「いけない子ね。蒼音あおと様の秘密の場所に土足で踏み入るなんて」

「蒼音。いつからそこに……」

 つい昔の癖で彼女を呼んでしまったが、呼んだ後に俺は自分の失態に気付いた。

 まずい、と思った刹那――ぺちん、と鈍い音を立てて柔らかい手が俺の両頬に触れる。

「あ、お、と、さ、ま! 蒼音様の事は、蒼音様とお呼びなさいっていつも言っているでしょ。本当に礼儀のなっていない家畜ね」

「悪かったって、蒼音様」

 家畜になった覚えはないが、ここは素直に頷いておこう。

「よろしい。素直が一番よ。だけど……もし適当な事を言って蒼音様の説教をやり過ごそうとか思っていたら……分かるわよね?」

 ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。

 年頃の娘のものとは思えない妖艶な笑みが、俺の素肌を撫でる。

「主人の役に立たない家畜に、生きている価値なんてないもの。スーパーの特売セールの残り物の豚肉のお前でも、そのくらいの理解はあるでしょ?」

「生きてすらいねえのかよ! しかも特売品!? 俺、一応主人公なんですけど」

「今はお前の妄言に付き合っている暇はないわ」

 と、俺に取り合わず彼女は部屋の奥に進んだ。

「さてさて、そろそろいい具合に出来上がってきたかしら」

 と、彼女は手元で遊ぶようにレトロな鍵を振り回す。そのまま何処かへ飛んでいったらどうしてくれるのだろうか。彼女の性格から考えて、そういった不安を考慮した上での行動だろう。本当に、この女は――

「今、性格悪いとか思ったでしょ?」

「えっ……」

「蒼音様の百七つある秘密特技の一つ! 読心術!」

 そうだった。こいつ、相手の考えている事が大体分かるのだった。遠くで話している相手の唇の動きで内容を読み取る読唇術という技術もあるが、彼女の場合目の動きや微かな呼吸の乱れなどからその人の考えている事が分かってしまう。驚異的な洞察力と心理学を応用して独自に身につけた技らしく、当然の事ながら読唇術も使えるため、彼女の周囲では悪口一つ言えない。そもそも言った後でどうなるか、考えるだけで身震いがする。

「そもそも、主である蒼音様の許可なく無断でこの部屋に立ち入るなんて……相変わらず、弘青は常識というものがないわね」

「幼気な少年を監禁している奴に言われたくねえよ」

 もしこれがヤンデレな幼馴染だったり、ちょっぴり愛情表現が過激な恋人ならばまだ可愛いものかも知れない。

 しかし、彼女は監禁少年に対して、そういった色めいた感情は一切抱いていない。

 最近巷ではヤンデレヒロインが流行っているらしいが、あれは好いた相手がいるからこそ成り立つものであり、監禁・ストーカー・盗聴・妄想癖といった病み要素があるにもかかわらず、好きな対象がいなければ、ただの危ない奴だ。

 そして、恋愛感情を抱かれる事はあっても、自ら抱く事のない彼女は正真正銘の鬼ち……失礼、〈自主規制〉系少女であり、出る所に出たらしかるべき処分を受けても誰も不思議に思わないだろう。

 そんな事を考えている間に、蒼音は少年に近付く。

 そして鎖に繋がれて俯いている少年の顎を掴み、無理やり顔を上げる。

「さてさて、そろそろ頃合かしらね? ボウヤ」

 なんて危ない絵面だろう。武器という程ではないが伸縮式の棒を片手に持ったお姉さんと、鎖で繋がれた少年。場合によっては年齢制限が入る。

 ――あれ? 大丈夫だよね? これ児童ポルノ的な意味で大丈夫だよね!?

 しかし、彼女のその行動に見当のついた俺はあえて何も言わず、彼女が全てを終わらせるのを待った。そして、俺が瞬きにより目を軽く閉じた、その刹那に事態は起きた。

 突然空気が変わった。薄暗い部屋の中に暗雲が出現したように、余計に暗さが増した。

 そして直後、鼻をつく刺激臭により激しくむせた。

「あ、言い忘れていたけど……蒼音様が参上したあたりから除霊始まっているから、気をつけてねー」

「それを先に言え!」


『ぐあああああああああああああっ』


 一言も喋らなかった少年の口から、獣のような雄叫びが響く。もし鎖がなければ、彼はすぐにでも俺に飛びかかっていただろう。真っ赤に充血した目が、それを語っていた。

 間近にあった簡易なベッドを思いっきり蹴り飛ばして真っ二つに割ると、少年はその上に飛び乗った。鎖が限界まで引っ張られ、金属が擦れる音が響く。獣のように四つん這いで跨がり、威嚇するように腰を上げる。しかし、見た目はボロボロのワイシャツを着た男子小学生であり、ヒステリックに充血した目や涎と共に口から覗く牙、そして全身に広がる文様を除けば、タガが外れた少年に見えなくもない。その時点で既に常識を逸脱しているのだが、それを前に平然としている彼女の存在感がより異常性を際立たせる。

悪魔憑あくまつき、だな。結構侵食が進んでいるけど、アイツって契約者の方? それとも被害者の方?」

「いちいち聞かないと解決出来ないなんて、本当に弘青は救いようのない家畜根性ね。まあ寛大で慈悲深い蒼音様は、特別に答えてあげなくもないけど」

「憑いているのは悪魔の飼っている低級使い魔か。という事は、被害者か」

「あら、折角蒼音様が教えてあげようと思ったのに」

「けど、おま……蒼音様は、素直に聞いたら教えてくれねえじゃん」

「あら、学校に通うのにも支払うべきものを支払うでしょ。それと同じ。膨大なる蒼音様の知識の一片を得たいのなら、それ相応の見返りを求めるのは当然の事よ」

 と、彼女は得意げに言った後、少年に向かった。同時に少年も彼女へ飛びかかり――、ついに鎖が千切れた。獣が縄張りに入られて威嚇するように頬を切る衝撃が放たれる。俺は立っていられない程の脅威を感じてその場に立ち尽くす。

 対する蒼音は、悪魔憑きの少年を見て楽しそうに笑った。

「あらあら怖い顔。蒼音様と遊びたいのかしら」

「蒼音様。その少年がただ悪魔に取り憑かれただけの悪魔憑きなら……」

「あまり乱暴なことをしないで、って?」

 一度だけこちらを見下したような目で見た後、彼女は鼻で笑った。

「本当に揃いも揃ってバカばかりね。誰にでも言えるような事しか言えないの? これだからモブは。だからお前は弘青なの。弘青以上にはなれないのよ」

「俺の存在全否定か」

 結構この名前気に入っているのに。一色弘青ってかっこよくね?

「お前も蒼音様の下僕なら〝悪魔憑き〟がどういうものかくらい分かっているでしょ?」

「それは……って誰が下僕だ!」

 思わず言葉を濁した俺に、蒼音はやはり嘲笑を浮かべたまま言う。

「悪魔憑きを簡単に説明すると……ようするにバカでしょ? バカをぶつのに、理由なんて必要ないわ」

「いや、違うから!」

 悪魔憑き=バカ、って……。

 一体彼女の中の辞書はどんだけ醜悪なのだろうか。

「悪魔憑きは、悪魔に憑かれた被害者だろ」

「あら、悪魔に憑かれたって言っても、大きく分けて二種類いるじゃない」

「ああ、分かっている。第三者による被害者と……」

「自ら悪魔を召喚した際に失敗して悪魔に取り憑かれてしまった場合の自業自得のアホタイプと、何者かによって呪詛をかけられた、或いは曰くつきの場所に面白半分に行って簡単に取り憑かれたマヌケタイプ……まあ、どっちも似たようなものね。ゆえに、これを総括してバカというのよ」

 言い方は極端だが、内容は――大体合っている。


 悪魔憑あくまつき。読んで字の如く、悪魔に憑かれたもの。


 つまり、一見我を忘れたように見えるこの少年は、悪魔に取り憑かれた状態というわけだ。そして、今回の彼は後者の被害者にあたる。

 一体どんな理由で呪われたかは不明だが、少年の意思は既に悪魔に屈しているようであり、意識のない瞳がぎろり、と蒼音と――その後ろの俺に向かう。

「さてさて。ようやく出てきたのね。二週間監禁した甲斐があったというものね」

 楽しそうに笑う蒼音を見て、俺は悪魔憑きの少年に同情した。

 蒼音のいう監禁は決して自分自身の娯楽のためのものではなく、悪魔を退治するために必要な手段の一つであり――

「火事が起きればみーんな外へ避難するのと、一緒。恐怖で煽って煽って、煽りまくれば、悪魔だってこうやって出てくるってわけ。実に簡単な手段。誰にでも出来る悪魔撃退方法よ。どうして誰も試さないのかしら」

 そう――取り憑かれた相手を監禁する事で、中にいる悪魔もろとも恐怖を煽って外に出そうという、悪魔すら恐れる鬼畜手段。つまり――

「中にいる悪魔ごとシメる」

 それが、蒼音が生み出した悪魔祓いならぬ、悪魔追い払い技術である。

「ごめんね、ボウヤ。少し……うん、すこーし痛いかも知れないけど、我慢してね。恨むなら、簡単に悪魔に取り憑かれた不運で無力な己自身を恨みなさい」

「確かに中に潜んだ悪魔は出てくるかも知れないが、これって取り憑かれた相手の精神にも相当な負担が……」

「悪魔のせいにすればいいのよ」

 うん、全く悪びれた様子はないね。

「あの、場合によっては消えないトラウマが……」

「ま、悪魔に憑かれればそうなるでしょ」

 とてもいい笑顔で答えが返ってきた。最初は気付かなかったが、部屋の隅には飼ってもいないのに猫用のトイレ一式や大量のミネラルウォーターのペットボトルが散乱している。何に使ったかは知らない方が幸せだろう。そして映像化出来ない監禁生活の末、痺れを切らした悪魔が飛び出してきた――というのが今の状況である。

『が、が、が……』

 獣のような、或いは機械音声のような音が少年の口から響く。その音を聞いた人は底知れぬ不安に襲われる。悪魔は、人の負の感情――憎悪や嫉妬、不安などを増幅させる。悪魔の雄叫びは人に恐怖を与え、悪魔の囁きは人の欲望を引き出す。

 しかし、目の前の蒼音は相手を嘲るような目で見下ろし、小さく笑みを零した。

「おいで、子豚ちゃん。蒼音様が、たーっぷり可愛がってあげるか……ら!」

 叫ぶと共に、蒼音は足を高く上げ――少年の脳天に向かって叩き落とした。

 悪魔に取り憑かれた人間は、悪魔と同化する事に等しく、肉体も尋常ではない能力を持つ。早い話、獣並みの頑丈さと怪力が備わり、物理的に祓魔師を殺そうとするのだ。取り憑かれた相手ごと倒そうにも、その化け物じみた力の前では、人間の使う力技では歯が立たないのだが。

『ぐがああああああああ!』

 少年は、一度は倒れたもののすぐに起き上がり、蒼音へ向かった。

 少年の爪は獅子の爪のように鋭利なものへと変化しており、顔つきも獣に近い。プロの祓魔師ですら怯む姿に、蒼音は一切顔色を変えず――

「腐れ雑魚ざこの分際で!」

 まず腹に一撃。

「蒼音様の! 前に!」

 二撃。惨劇……間違った、三撃。

「許可なく立つな! この小物が!」

 一番きつーいのが、顔面に一発。計、四ヒット。

 蒼音は千切れた鎖を引っ張り、「悪魔だから何だって言うんだよ、おら」と少年を自分の方へ引き寄せては彼の腹部を連続して蹴る。うん、ただの虐待だ。

 少年の口からは血が混ざった唾液が零れ落ちた。

「堕ちろ、クズが!」

 他の祓魔師の名誉のために言っておくが、悪魔は力技では倒せない。普通の祓魔師が取る正式な方法によって悪魔は退治され――

「近くで見てもぶっさいくな顔ね。頭の悪さが顔ににじみ出て可哀想だな、お前」

 他の祓魔師の名誉のために再度言っておくが、悪魔祓いでは聖書や聖水などを使用する、一般的に知られている方法の方が正しく、蒼音が取る方法の方が邪道なのだ。というか外道なのだ。

「馬糞って、畑の肥料になるらしいけど……お前は、何の価値もなさそうね」

 本気で馬糞を見るような目で少年を見下ろすと、蒼音は少年の頭を掴んだ。少年の足が、地面から浮いた。一体その細腕のどこにそんな剛力が眠っているのか、片手で軽々と少年の頭を掴んで持ち上げた蒼音は、それこそ魔王のようなあくどい笑い声を上げた。

「ああ、やっぱり自分より弱い子を嬲るのは、最高に気持ちがいいわね。まあ、世界最強にして至高の女神たる蒼音様に敵う奴なんていないだろうけど。流石食物連鎖の頂点に君臨するだけはあるわ。素敵蒼音様、かっこいい、美しい、ヴィーナス」

『ぐがが!』

「だから、雑魚が許可なく吠えるんじゃねえよ!」

 頭を掴んだまま、蒼音は少年の腹部を殴った。鬼畜だ。

「さっきからキャインキャインうるさいわね。主人に吠えた犬に歯は不要よね? 全部抜いてみましょうか」

「やめてあげて!」

 あまりの暴言の数々に、耐え切れず俺は待ったをかける。

「あの、蒼音様。いくら初登場でテンションハイだからって、やりすぎだ。もうそのへんにしよう?」

「あらあら、嫌だわ。冗談に決まっているじゃない。誰がこんな雑魚キャラの歯なんて抜きますか。薄汚い。そのまま腐って抜け落ちるのを観察した方がよっぽど有意義だわ。それに……鳴こうが鳴くまいが、豚は豚だもの」

 ぼとり、と雑巾を床に捨てるように少年の身体を落とす。

『ぐっが……』

 蒼音の渾身の一撃を喰らったあと、床に叩きつけられた少年は、意識のない目で蒼音を見上げる。その彼の顎に手を置いて軽く引っ張り、蒼音は耳元で何かを囁いた。

『あ、あ、あ……っ』

 徐々に少年の顔が青ざめていく。

「さあ、返答は? 蒼音様はせっかちなの。早くなさい」

『ぐあああああああああああああ!』

 頭を抱え、少年は狼狽するように身体を上下に揺らした。

 そして、糸が切れるように膝を折った。蒸発するように、少年の顔から熱気を帯びた黒い煙が溢れ――次第にそれは神に導かれるように天井に向かった。その煙は意識があるかのように蒼音から離れ、天井へと移動する。逃亡するように天井を何度も回る黒い煙に向かって蒼音は飛躍して追いつく。そして煙を手に持っていた指示棒で貫いた。壁に貼り付けられた黒い煙はじたばたともがく。それに向かって、蒼音はゆっくりと近付き――

『く、来るなっ』

 初めて黒い煙が喋った。黒い煙だと思っていた物体は徐々に姿を変え、こびとのような姿になった。三角帽子を被り、額には小さな角のある全身黒いこびと。黒いこびとは取り付いていた時の威勢はなく、涙目で蒼音を見上げる。

『じ、慈悲を! ほんのイタズラじゃねえですか! 許して下さいよ、姉さん!』

 壁に貼り付けられたまま、使い魔は土下座する。

『ホント、靴の裏まで舐めますんで! 勘弁して下さい!』

「あらあら、随分と従順ね。賢い子は、好きよ。だけど……蒼音様の人生における貴重な日々を奪った罪は重いんだよ! クズが!」

 蒼音の長い足が、使い魔に命中した。

「おらおらおらおらおらおら! 泣けごらぁ! 惨めったらしく命乞いしなさい、雑魚が! 地面に額を擦りつけろ、虫けらが!」

『ひいっ! やめっ……ちょっ! 蹴らないで! あ、そこは……あ、いいかも……じゃなくて! ちょっ! マジ勘弁してくだせえ!』

 おい。今、余計な言葉混じってなかったか?

 使い魔が纏っていた魔力が蒼音に吸い込まれるように拡散し、やがて泡が弾けて飛ぶように消滅した。綺麗に消滅した使い魔を見て、蒼音は笑い声を上げた。

「雑魚魔ちゃん。蒼音様、お前の事気に入っちゃった。また遊びたくなったらいつでもおいで。その時は、蒼音様がたっぷり最高の快楽ってやつを教えてあげるから」

『ひ、人って怖いっ』


「〝ご馳走様オッティモ〟! 小物にしては、なかなかの味だったわ」


 と、追い打ちをかけるように蒼音は高笑いをした。

 ――気の毒に。

 使い魔の残した言葉に、俺は合掌した。上機嫌な彼女とは裏腹に、少年の体は力なく地面に落ちた。それを直前で受け止めると、俺は少年の身体を抱き起こす。

「一応完了だけど……今回は何したんだ?」

「えー、聞きたい?」

「遠慮しておきます」

 蒼音の悪魔祓いの方法は、はっきり言って暴力的である。

「悪魔にも娯楽があるなら、人と同じように恐怖心もあるわ。そして、恐怖は生物が屈する唯一の感情。恐怖に抗う事の出来る生き物なんていないわ。たとえ人であろうと悪魔であろうと、恐怖の前には無力。つまり……恐怖による純粋なる脅し! これが、一番手っ取り早いのよ」

 ――だそうだ。

 つまり、彼女が編み出した、彼女だけしか出来ない退魔方法とは――ぶっちゃけただの脅迫である。恐怖で煽って、純粋なる暴力をもって強制的に追い出すというのが彼女のやり方であり、霊感とか、儀式とか、そういった手法はまるっきり無視である。力技のみで退治する時もあるが、彼女の最大の武器はその言葉であり、彼女の言葉という刃に貫かれて心を折った悪魔は多い。調教された悪魔もまた多い。


 瑠璃崎蒼音るりざきあおとは、祓魔師エクソシストである。


 一見ただの性格の悪い女子高生に見えなくもないが、これでも実家は教会であり、幼い頃から悪魔に対抗する術を間近で見てきた。

 一般にはあまり馴染みがないかも知れないが、祓魔師は公的な職の一種である。本部のあるバチカンを中心に、イタリアでは悪魔祓いが一般的な医療技術の一つとして認定されており、病院に行けば、「内科」、「外科」、「退魔科」などが存在し、祓魔師養成学校もあるため祓魔師を志してイタリアへ渡る者も少なくはない。バチカンを中心に今や世界中に規模を広げつつある、公的悪魔祓い組織『退魔組合』が定期的に行っている祓魔師認定試験に合格すると、本部からも認められた「認定祓魔師」となり、医療でいうところの医師免許のようなものが貰える。悪魔が絡んだ事件に関して、公的に介入する事が認められ、本部が公開している祓魔師情報誌にも載るため、それを見て依頼してくる人もいる。

 そして、瑠璃崎蒼音は十七歳という若さにして認定祓魔師の資格を持った、正真正銘の祓魔師なのだ。しかし、その方法を見た者は二度と彼女に依頼しない。悪魔よりも非道な彼女に同業者がつけた通り名は「鬼畜祓魔師エクソシスト」である。そんな不名誉な通り名すら自分の魅力の一つとでもいうように、彼女は笑みを絶やさず、本来最も過酷な職業を営む。

 そして俺――一色弘青はそんな彼女の従順なアシスタントである。とある理由によって彼女に協力する事になった俺は、今更だがその時の自分の選択を大いに悔やんでいる。

 見ると、蒼音は水色のスマートフォンを取り出していた。

「あ、おたくの息子さんの除霊完璧に終了しました! もう心配ナッシングですよ。これからはいわくつきの場所に行かないように釘を刺しておいて下さいね。というわけで、指定の口座に百万振り込んでおいて下さいね。え? 額が最初聞いていた時よりでかい? いやいや、奥さん。こっちは命懸けですよ? 命投げ打って息子さんを救出したのに、それはないんじゃないですか? 息子さんの一生を考れば、安いものでしょ。可愛い我が子の命にそんな格安な値段をつけるんですか? ……はいはい、分かりました。それなら、一週間だけ待ちましょう。もし間に合わない時はご相談下さい。商売柄、いい店知っているんでね……はい、はい。そうならない事を祈ってますよ、奥さん」

 極上の笑みで通話を続ける彼女の横顔を見て、誰もが一度は思うだろう事を俺は口にした。

 やっぱり一番の悪魔は、こいつだ――、と。



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