第62話「<天使狩り>の二重性。都市に編まれた少女の繭」
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天使は初めから一人だった。
言葉の二重性がカギだった。振り返るとそれが明らかになる。
天使狩りなる都市伝説、その事象が漠然としたものにとどまっていた理由も、言葉の曖昧さにあったのだ。
提示された言葉――「天使狩り」には二種類ある。
男の立場からのものと、少女の立場からのものの二つだ。
それは少女を性的に捉える売春の見方と、失踪という神隠しに重点をおく見方の二つで――きっと僕の認識の限界は男であることにあった。
男の立場から、事件を捉えてしまっていることにあった。
天使狩りとは天使の羽根を売る少女を狩ることではなく、天使すなわちエレナに狩られた少女を売ることだったのだ。そうやって、少女の情報を売るのだ。ビデオにして、映像を売るのだ。噂にして、風紀(イメージ)を売るのだ。
なぜならそれがこの都市伝説の第二の目的だからだ。
イメージの改変。
それこそが彼女の二番目の狙いで、僕に行為を寄せる少女に対する敵対行為に他ならない。
僕の目の前から物理的にいなくなるように仕向けるだけではなく、
彼女たちが消え去った後も、精神的にもいなくなるようにする。
それこそがエレナの狙いなのだ。
これまで天使狩りは、誰もが知りながら、実態がなかった。
関わることがなかった。足取りを掴むことができなかった。聞き取りをしても同じだった。不思議な浮遊感とともに意識の隅にひっかかっていた。
だが天使狩りの実態が掴めない理由がわかった。実態などなかったのだ。掴み取るべき存在などなかったのだ。暗闇の中空に手を伸ばしても虚空を掴むだけだ。しかしある意味でそれは都市伝説というタームの原義からいって、実に正しい。
怪異や怪談、物の怪の類にまつわる話がそれにあたるように、あたかも存在するかのごとき噂を都市伝説という。あたかも存在するかのように、とはつまり実際には存在するはずがないからだ。
天使狩り。それはまぎれもない都市伝説だったのだ、たった一人の少女の想像力によって都市に編まれた。
そしてそれを彼女にやらせていたのはきっと自分だ。
僕が意図しようがしまいが、彼女の動機の中心には、狂気的な感情がある。
僕のなかに潜む屈折した欲望――闇は、少女を誰一人所有しないという決断を導いた。いや、まだ僕は自分を偽っている。僕はもっと最低だ。それは決断なんて格好よいものではなく最悪のタイプの優柔不断、周囲の少女に少しずつ依存させて自分の心の安定を得ながら、その気にさせながら、それでいて拒絶するという態度を招いた。
だがその病んだ心は、別の誰かの病んだ心と共振して、絶対にありえないハザードを招き寄せる。僕の闇と彼女の闇。二つの闇は――惑星同士をむすぶ引力のように、引き寄せ合いながら遠ざけあうことによって――周囲に凄まじい磁場の負のエネルギーを、撒き散らしていたのだ。
そして轟音が聞こえた。
液晶画面に、亀裂がはいった。
次の瞬間には、壁がモザイク状に炸裂した。
足元が震えて、足元から揺り動かされる衝撃に、僕は咳きこむ。
地面を引き剥がすかかのような凄まじい轟音とともに、それは現れた。
黒シリーズ。
現在進行形で
チカチカと点滅しながら破裂を免れたモニタの中、エレナが半裸で横たわるソファの奥。そのガラスの窓の向こう側に、茜色の空を鴉のように横切る、漆黒の巨体が映っている。
大きい。と僕は思った。これまでより遥かに大きな機体だ。バラバラに散らばるそれはしだいに集まって、編隊を組んで飛んでいく。僕は直観的に悟った。
圧倒的な破壊が始まろうとしている。だが、
そんなことしるもんか、と僕は思った。
「なんで……そんなことするんだエレナ、」
擦り切れた声がのどから絞り出される。
壊れた液晶の真っ暗な画面には、苦悶に歪む自分の表情が映っている。
言葉は、幼なじみの少女に対して向けられていた。
だが彼女が引き起こした、事件の大きさからではなかった。
犯した罪の大きさを、気にしているわけでもなかった。
行方不明になった少女たちのことなども、一切頭になかった。
ただ女としての彼女に対して憤っていた。
「畜生……」
やり場のない怒りを声に出した。
あたまの中では残念だ、という気持ちと、どうして止められなかったのか、という後悔の念が交錯している。
だがその表層的な感情の奥には、言葉で表現できる気持ちの裏には、もっと漠然とした、不思議な喪失感が巨大な闇のように渦巻いていた。
僕は自分の足元をみた。
その闇に自分が足元から吸いこまれそうな気がした。
そこで視界が不意に液状化した。
自分でも理由はわからなかった。
僕はまた泣いている。
押し寄せては引いていく波のように、まぶたからボロボロと涙がこぼれてくる。「ヴ……クゥ……うぐっ……」
とめどなく流れる涙を手の甲で抑えるので精一杯だ。
頭の神経の先まで感覚が麻痺して、思考が真っ白になっている。
そんな貧血時におこる眩暈にも似た意識の空白に、再び流れ始めた血液のようにしだいに言葉が飛びこんでくる。
「彼女が大切だったんですね」
「でも今でも大切ですか?」
地盤が揺れて天井から小石が落ちてくる。
「天使狩りの神隠しはすべてエレナの自作自演だったんです。切断された羽根。羽根についた墨。でもそんな荒唐無稽な事件を起こした彼女が求めたものは何でしょう」
嗚咽の隙間からミコトの声がきこえてくる。
「イカスミの答えがわかりますか?」
「――〝気付いて欲しいから〟」
「誰に?決まっています」
「あなたに。ですよ。エレナはもう長くないんです」
剥がれ落ちた岩が落下して背後で砕ける。
長くない。ながくない?
脳裏で逡巡させても、言葉の意味がはいってこない。
それはどういうことだ、僕は反射的に声に出した。
「言葉の通りの意味です。彼女の生命の糸は途切れようとしている」
「原因?わかりません。私は結果しかみることができませんから」
「私は彼女にそれを伝えました。伝える義務があったのです」
ガラスが割れて、足元がさらに強く振動する。
ユリアは目を細めながらスタンガンのスイッチを断続的にオン/オフさせて強度のレベルを入念にチェックしている。
だが音はほとんど聞こえない。
無音の静かな世界で、にもかかわらず周囲の異様な光景――散乱した文房具やノート、散らばった制服、岩石、胸を裂かれて横たわる死体、そして目の前のスカートだけを身に着けた、全身に禍々しい言葉を書きつけた異形の少女――が瞳に飛びこんできて、まるでサイレント映画をみているようだと思う。
そこでようやく、室内を襲う凄まじい轟音の存在をはっきりと意識する。
かつてないほど巨大な黒シリーズがすぐ真上を旋回しているのだ。
それが電撃の音も自分の鼓動も一切の物音を消してしまう。
なのにミコトの言葉、勅旨を受けた異界からのミコトの言葉だけは耳に不思議なほどなじんでくる。
「彼女はせめて命が尽きる瞬間まで、あなたに誰のものにもならないでほしかった。だからあなたの隣人の同性たちを憎んで、憎んで、憎みまくった。憎むことで、あなたへの愛が、途切れないようにしていたのです。無意識のうちに、そうすることで、生への執着が断たれないようにしていたのです。自分を、ぎりぎりのところでつなぎとめていたのです、この地上に。この世界に」
それはリストカットで自傷する少女とどこか似ている。
僕は神経質なまでに繰り返し繰り返しスタンガンの電流の強度を確かめるユリアの横顔を眺めながら、そんなことをなんとなく思う。
電撃を繰り返すたびに跳ね踊る彼女の長い髪の隙間からは、蒼白い光のフラッシュの狭間に、こめかみの蝶の傷痕が覗いている。
心の痛みと、肌の痛みという違いはある。
憎むという外へ向けた攻撃衝動と、自分を傷つけるという、内へ向けた攻撃衝動の違いもある。
だが攻撃することで自分をつなぎとめるのは同じだ。
痛みで自分を地上につなぎとめるのは同じだ。
自傷というナイフの痛みで、十五歳の少女が自分の魂の場所をしるように。
十五歳のエレナは、憎しみという心の刃で誰かを痛めつけることで、自分をしるのだ。
刺激を与えなければ、感覚は生まれない。
痛みがなければ、何も感じなくなる。何もなくなる。自分もいなくなる。
タマシイの場所がわからなくなる。
その痛みで自分の魂のありかを突き止めるのがユリアのスタンガンなのではないだろうか、こめかみをふっ飛ばすことで。
そんな奇想天外な啓示に打たれて、僕は息もできない。
ミコトの声は続いている。
「いずれにせよそれは果てしなく恐ろしい感情です。私は彼女のとった行動を肯定も否定もしません。ただ彼女はそういう風にすることでしか生きられないのです。誰かを愛せないのです。最低の自分だと気付きながら、他人を呪いながらでも、少しでも長く幸福な時間を求めた。あなたに一切を隠しながら、自分の気持ちさえ隠しながら、あなたとの時間を求めた。でも心のどこかで、最後にあなたに気付いて欲しかった」
液晶画面にはそんなエレナの放心したような微笑がある。
その微笑が、距離以上に、いつも以上に、遠く感じた。
僕は彼女を永遠に失ったのだ。そう思った、
「それがイカスミです。犯人自身のダイイング・メッセージ。犯行の意図をほのめかすと同時に自らの死をも暗示させるメッセージ。それが天国からの使者を意味する天使の羽根――わざわざ切断された装身具の、本当の意味だったんです。そこにおとされた黒い汚れは、やはり現世の自らの罪の汚れの暗示、いわば堕天使の証明――その無意識の表象だと考えるのはいささか思い込みが過ぎるでしょうか」
彼女を永遠に失った――たった一度の性のあやまちでそんなふうに考えるのはばかげている。遊びなれた大人からは、みっともない経験不足な少年の戯言と一蹴されるだろう、
だが思想哲学の伝統だって告げている。
性のあやまちは、その人物の存在のあやまちだと。
その人物の性的な関係をしることは、その人物がどんな人間かをしることと同じなのだ。不特定多数のクラスメイトと関係をもっただけでヤリ××と罵倒され影で嘲笑される。少女として、失格の烙印を押される。とくに、性的なことがらに過敏な思春期の僕らの間では。
そこで僕は先ほどのミコトの言葉の意味を、ようやく理解する。
〝――彼女が大切だったんですね。でも今でも大切ですか?〟
つまり彼女は、そんな風になってもまだエレナを想い続けられるかと尋ねているのだ。大勢の人間を傷つけて、さらに自分まで傷つけて、結果的に僕を傷つけることになった彼女の失敗を認めて、許して、さらにそこから再生を手助けすることができるのかと訊いているのだ。
だがそれは僕にとっては単純なことでは到底ない。
意識してもどうしようもない、何か心のタブーに触れてくる。
僕は馬鹿みたいに泣き続けた。ミコトの声は続いていた。
「天使の羽根を売る少女を消すのではなく、天使の羽根をもった少女を消して、羽根を売っていたことにする。そして失踪した少女に対する、ネガティブな悪い噂だけを残す。なぜなら、あなたにとって性的な事柄がNGだと彼女はしっていたからです。からだを売ることが、タブーだとしっていたからです。あなたは成育環境のなかで、何かを失敗した。それは闇となって、性的な事柄を忌避する原因、からだを重ねる異性を醜いと感じてしまう原因になっている。だからエレナは悪になった。何の罪もない純粋な少女を悪に貶めて、自らも罪に堕ちた。――あの子は天使を売ってたんだ。――あんな清純そうな顔して。そうやってネガティブなイメージを与えて、己の脅威となる少女を最低の評判で貶めて消す。物理的にも精神的にも、あなたの世界から彼女たちを消去する。そのために初めて利用されるのが大人です。だから、論理が逆転している。大人に利用されるのではなく、少女が徹底的に利用したのが大人なのです。画面に映っている男はおそらく天使狩りの実行役、エレナの指令を忠実に実行する労働者でしょう、頭脳労働と肉体労働に対置される形での
僕は唾液を飲みこんだ。そして、彼女の次の言葉を待った。そこで光が止まった。ユリアが繰り返していたスタンガンの強度の実際と彼女のイメージとのシンクロ作業が完成したのだ。地盤の揺れがしだいに終息に近づいてくる。
「でも、それだけで済むでしょうか?利用して、利用して、利用し尽くして、でも利用していたはずの相手に逆に利用されている、というのは、ミイラ取りがミイラになる例の方法よろしく、物語の典型的な構図です。彼女は自らの目的のために大人を利用しました。だけれど今度は、利用していたはずの大人の世界から痛烈なしっぺ返しを受けることになる」そこでミコトはいったん言葉を区切った。それから両手を裸の胸の前で交差させて自分のつま先を見た。指の付け根のまたの部分にまでびっしりと禍々しい墨のデザインで文字が書きこまれている。「――こんな物語はどうでしょう?」それからいたずらっぽく首を傾けて、僕を見た。「そして彼女は最後に気づくのです。大人の、いや人間の恐ろしさに。人生の物語は、簡単なゲームみたいにはいかないことに。この物語と異世界の物語は、どこかでリンクしている可能性があることに。でもしったときにはもう遅い、というパターンですね。勿論私は彼女の人生には関与していません。私に降ろされるのは異界の物語で、現世での出来事はわからない、と思っている。でも、たった一つ例外があります。それは異界の物語がこの世界の出来事とリンクしている場合です。結果のみを直観的あるいは運命的にしっている現在の状況は――そのあらわれの、ほんの一端だと思ってください」
映像は流れている。画面には広大な男の背中が映っている。男はいまいまこちらに背を向けて、机に腰を下ろしてくつろいでいるようだ。ただ、映像は固定された監視カメラによるものというわけでもない。そこでふとした疑問が胸をつく。このビデオは誰が撮影しているのだろう?
「彼女は大量の闇を世界に吐き出しました。今度はその闇に、自分が飲みこまれます。密室で吸う自分の二酸化炭素みたいに」
そこで、視界の下方で何かが光った。目を凝らして、男の背後に長々と置かれている、あるものを見つけた。
「散弾タイプのスラグですね。ベレッタ製でしょうか。滑稽なほど戯画的な猟銃ですが、本物です。愚かな彼女は、まだ気づいていないみたい。でも彼は、何にそれを使うんでしょう。それで獲物でも仕留めるのでしょうか。それで誰かを撃つのでしょうか。誤ってひとを撃ってからというもの、マトモに触れることすらできなかったのに? おやおや、あなたは何もしらないんですね。それともただの演技ですか。いいでしょう、しらないフリに付き合ってあげます。彼はいまはっきりとその銃に弾をこめて引き金のありかを探っている――彼は彼自身の過去を解決したのかもしれません。とにかく、それを撃てる状態にある。それともただの脅しでしょうか。本当に撃つ気などないのでしょうか。でも、何のために。何をしたいために脅すのでしょう、そこにはエレナしかいないのに」
ガタガタと震えが大きくなる。僕はのどを抑えた。そして自分の首を絞めた。悲鳴が流れ出るのを防ぐためだ。弱音がこぼれるのをふせぐためだ。涙が声のはしに混じっているのを、悟らせないためなのだ。そのまま下腹部のあたりに力をいれる。弱気とともに、全身の緊張が流れ出してしまわないようにするためだった。恐ろしい、忌まわしい、そんな風に心で叫んで、そのまま両手でまた顔を覆った。
指の隙間からミコトとミコトのうしろのエレナの裸とノゾミさんの死体とが瞳に流れこんでくる。
「エレナは心のどこかであなたを待っています。ボロボロになって。自分だけでなく他人までボロボロにして。本当にどうしようもないコです。死んだほうがいい、のかもしれません。あたたかい言葉をかけてやる必要なんてまったくないのかもしれません。冷たい場所で、誰からも愛されない暗闇の中で、息絶えればいい。そんな風に、彼女のせいでいなくなった少女の遺族はいうでしょう。でも実際、彼女はずっと暗闇の中にいるのです」
そこで僕の脳裏に浮んだのは、あの井戸の底から見た地上の丸い光だった。
彼女はまだ、井戸の底にいるのだ。あの場所で助けを求めて泣き続けているのだ。
あの日、誰も助けてくれなかった闇の深遠から。
僕は泣き続けた。目の前には銃がある。ランダムに切り替わる周辺のモニタからは、裸で獣のようにもだえる、大切だったはずの少女のきこえるはずのないあえぎが聞こえてくる。その地上の地獄絵図に飛び出していって、銃を手にした父親みたいな巨漢の男を相手に、何をすればいいのだろう。何が自分にできるだろう。そこでミコトが僕の目の前に来た。彼女の影で、自分の影が塗り潰される。声は繰り返した。
「彼女が大切だったんですね。でも、今でもまだ、彼女が大切ですか?それでもまだ、彼女を守りたいと心の底から願うことができますか? 彼女のために、彼女の残された時間のために、自分を犠牲にしてあらがうことができますか?」
「僕は、」
そこで言葉が口内で途絶えた。舌の付け根から甘酸っぱい唾液が次々と溢れてくる。それなのにのどの奥はカラカラに渇いている。
液晶画面には、エレナの顔のアップがある。五割弱の映像がブラックアウトした虫食いだらけのディスプレイ。その斑なモニタに幾つもエレナの顔が連鎖して、増殖しながら広がっていく。
僕、僕は――、
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