第63話「漆黒の破壊と緋色の鳥居」


 

 次に気付いた時には枯葉の道を歩いていた。

 街路樹の木々の枝葉が視界の左右を流れていく。

 足を動かす度に目じりからは次々と涙がこぼれてくる。

 吐く息は白く、目の前を一瞬だけ翳めて、あたまの先を痺れさせて消えていく。

 

 枯れ葉の踏み砕ける音が背後で弾ける。

 嗚咽は、大通りを走る自動車の騒音に掻き消されていく。

 とめどなく流れ落ちる涙は寒気に触れて、連続的な刺激となって頬を流れる。

 

 僕は泣きながら歩き続けた。


 悲しかったわけじゃない。

 苦しかったわけでもない。

 寂しいわけでも、情けなかったわけでもない。

 なぜ泣いているのか、自分でもわからない。

 

 あのときと同じだった。

 集合住宅のフロアで、父親に殴られる沙羅を前にして、何も抵抗することができずに、家を出て泣きながら僕は夜の道を歩いていた。

 沙羅を、その罪を、暴れる父親の暴力を、弾ける鮮血を、一切を、まるで見なかったことにして、逃げて逃げ続けた。

 

 そして今も逃げ続けている。


 地下を出て、ラブラドールを迂回して、何もみないようにして舗道に出る。

 そうやって、何も考えずにただただ足を動かして、

 先へ先へと歩き続けている。

 

 自分が、どこに向かっているのか。

 自分が何に衝き動かされているのか。

 まるでわからなかった。

 

 しだいに空ばかりが瞳に映され始めた。

 

 自分が顔を上げて泣き続けている。

 液状化した視界の下方に、しだいに夕暮れの空が滲み始める。

 

 僕はからだを動かした。そうして先へ先へと進んだ。

 置き去りにしていた問題を動かすことができないかわりに、

 足だけは動かすように前進した。過去から遠ざかるように、

 彼女を遠ざけるように、いたずらに歩いた。並木を抜けた。駅を通り過ぎた。橋を渡った。小学校のそばのマンションに寄った。

 階段をのぼって、欄干の手すり沿いに薄暗い五階の通路を歩いた。

 

 そこはかつての自分たちの遊び場だった。

 高い場所から街を見下ろすのが好きだった。

 

 だが屋上にはいけなかった。

 だから放課後はいつも学校の裏のそのマンションの五階で、

 いたずらに外の景色を眺めて、下にガムを落としたりして遊んでいた。


 隣にはいつもエレナがいた。

 

 僕は薄暗い逢魔ヶ時のマンションの長い通路を、踵を鳴らし歩いていた。

 夕刻の通路から右手にひらいた空を見ると、光が幽かに点滅した。

 黒シリーズの胎からミサイルが次々と撃ち落とされていく。

 

 街が燃えている。

 

 山が、工場が、港湾の埋め立て地が、絨毯爆撃の炎に包まれている。

 港湾のビル群が軒並み潰れていく。

 街の境界線に沿って蚯蚓みみず腫れのような爆煙が走る。

 山が閃光とともに裂けていく。

 モノレールが裁断されて、ターミナルに停車するタクシーやトラックやバスや通行人たちの直下に崩れ落ちる。

 通勤電車と家屋が吹っ飛ぶ。


 だが驚くほど静かだ。

 消防隊のサイレンの音も、自衛隊のヘリコプターの旋廻音もきこえない。

 戦闘機もいない。

 無音のサイレント映画を眺めているように、

 回線の壊れた機動兵器のコックピットに乗っているように、

 ただ世界の向こう側で街が破壊されていく錯覚に包まれる。

 だが勿論それは錯覚だ。

 あるいは距離が生む、光と音の到達ラグだ。

 静寂の底に逃げ惑う人間たちの悲鳴じみた金切り声がきこえてくる。


 僕はここにいる。


 黒シリーズは殺戮のミサイルの雨を街に降らせながら、ゆっくりと裏山に向かっていく。

 自爆する気か、と咄嗟に思った。

 なぜそんな風に思ったのか、自分でもよくわからない。

 だが闇の本体が、あの裏山の井戸の周辺に渦巻いていることは明らかだった。

 その本体の上に直接ミサイルを投下することは、自爆にあたるのではないだろうか。

 残念ながら、僕は黒シリーズを直接駆動させる本体ではない。

 あの神話の中の兵器の、操縦者ではない。ただの媒介だ。

 この世界と異世界とのパイプだ。

 だからそれを止めることも消し去ることもできない。

 

 そこで凄まじい頭痛が自分を襲った。

 

 こめかみのあたりが、頭蓋の中身が吸い出されるように痛んだ。

 思わず倒れこんで、通路から階段に転がり落ちた。

 鮮血が額から溢れてくる。

 夕暮れの世界が緋色に染まる。

 だがそこで僕は気付いた。

 黒シリーズが一瞬だけ、姿を消したようにみえた。

 機体がディーラーにシャッフルされるカジノの図版のように、

 霞みながら点滅し、朧ろにブレていく。ブレていくようにみえる。

 僕の脳髄がダメージを受けた一瞬の隙間、いや、僕の意識が途切れた数十秒間だけ機動兵器のギアの鳥はこの世界から消失していたのだ。

 靴音を響かせながら僕はこの世界と異界をつなぐどこでもドアを想像する。

 その扉の役割を自分がもし果たしているのだとすれば、自分がいなくなれば異世界からの物体が流れこむこともない。

 機動兵器のギアを可視化させるほどの莫大な負のエネルギー、その闇の供給が途絶えれば、あの悪魔の鳥たちは存在の強度を保っていられなくなる。

 僕のこめかみを執拗に狙っていたユリアの言葉は本当はそういう意味だったのだ。

 彼女はスタンガンで僕こと黒シリーズを消すとしきりにいっていた。

 それはおそらくこめかみに異常なほど高濃度な電流を流しこんで精神を破壊することによって、異世界の闇を閉ざしてしまおうと試みていたのだ。

 だがそれは僕が黒シリーズではなく、黒シリーズの媒介役でも同じことだ。

 異界の伝達物質、一体のメディアとなった〈僕のあたま〉を破壊しても同様の作用は得られる。

 要は異世界から飛来するギアの本体を破壊するか、彼らがやってくる入り口を閉じてしまうかのどちらかだ。何のことはない、僕が自爆すればいいのだ。

 そうすれば街の崩壊は免れる。世界の終わりを終わらせることができる。僕が自殺すればこの崩壊は止まるのだろうか。例えばこのマンションの崖から飛び降りればいいのか?

 そんな馬鹿げた妄想が感傷とともに胸を襲い、僕は立ち止まった。

 そこで目に白いものが散らついた。

 枯れ葉と剥き出しの枝が立ち並ぶマンション前の遊歩道。

 色褪せた景色の遠くには黒シリーズが光を撒き散らしながら飛んでいて、

 手前には白いカタマリが点滅しながらぼうっと浮かび流れてくる。


 雪が降っていた。


 夕凍ゆうじみに冷えた空からゆっくりと白い雪が舞い降りてくる。

 その色の白さは鮮やかで、白い光が外界から流れこむのではなくて、瞳の内側から光を発して網膜に点滅するほど、意識に強く刻みこまれて感じられる。

 涙はいつのまにか止まっていた。

 僕は雪原のなか佇む少女の存在を思い出した。

 あの日も雪が降っていた。


『あなたには守りたいものがありますか?』


 初対面で、彼女はそういった。

 だが、彼女はもう死んでしまった。

 エレナもじきに死んでしまう。父親も死んでしまう。ユリアもじきに消えていくだろう。


 そして僕もいつか消えていくのだ。

 

 今なら、なんとなくわかる。

 そうした立て続けに起こるいくつもの死から、目を逸らすことでしか、守ることができなかった。

 莫大な喪失の恐怖から、逃げることでしか、守ることができなかった。

 僕が守っていたのは自分だったのだ。

 僕が本当に恐れていたのは自分自身だったのだ。

 ときどき意識が途切れて、暴走してしまう自分。

 そんな自分が世界に放たれてしまう不安。

 その恐れが、不安が、あの黒シリーズの出現とリンクしていたのだ。

 

 だがそれで何がいけないんだ、と思う。


 こんな苦しみから目を逸らして何がいけないんだ、と背後で誰かが叫ぶ。

 時間がすべてを手遅れにするのは素晴らしい。あらゆるキズを、剥き出しの心の皮膚を、生ぬるい保護膜で包んで、ゆっくりと自分から遠ざけてくれる。

 手を伸ばしても触れられない場所に押しこめて、癒してくれる。

 だけれど、とそこで別の誰かが叫ぶ。


 本当は気付いている。


 だけれど、それらは決して消えてなくなるわけではないのだ。

 物事が解決するわけでもないのだ。

 父親の言葉が蘇える。


『恐怖の場所に戻らなければならない』


 だとすれば僕が戻らなければならない場所はどこだろう。

 その不安の根源はどこからくるのだろう。

 同様の理由で、エレナが戻らなければならなかった場所はどこだったのだろう。

 或いはノゾミさんは、その場所に戻るために、消えたのだろうか。

 そこでまたケータイの着信が鳴った。

「…………、」

「…………、」

 また無言電話だ。

 僕は指先でタッチパネルを操作して、すぐに切ろうとした。

 だが指先が汗に引っ掛かって、うまく操作できず、入力が弾かれてしまった。「?」

 だが反応は帰ってこない。ひどく寂しい孤独な感覚が胸で波打ち、漣のように耳の裏側へ流れていく。瞳から止まりかけた涙が再びあふれてくる。

 無言電話は続いていた。

 いつもより異常に長かった。

 僕はその無言電話に何かを感じ始めていた。

 相手は喋らないんじゃない、喋れないのだ。

 言葉でやりとりを交わす人間同士の間で、ときどき交わされる言葉以外の伝達手段、言外の雰囲気のようなものが鼓膜から流れこんできて――それがわかる。「……………………………」

 そこで僕は気付いた。受話機の向こうで、音がする。

 

 風が吹いている。


 深い、谷間に吹きすさぶような、高い天井に反響したときの音だ。

 独特の跳ね返り方をするその風の音を、僕は、どこかで耳にしたことがある気がした。通話相手は、その場所の近くにいるのだろうか。いや、もっと強い主張が、メッセージ性が、通話時間の長さと、沈黙する相手の――押し殺した声にならない声からはっきりと感じられる。

 。そこではっと息が止まる。

 僕の無意識は、その奥で息を潜める僕の闇は、答えをしっているのだろうか。

 だがその思考を深く追求する間もないままに、僕の足は動き出していた。

 遊歩道を抜けて、芝の色褪せた草むらの中へ分け入っていく。

 あれは天井の高い場所から奏でられるガラスの反響音だ。

 それがある場所は、この街で一つしかない。

 

 黒シリーズの破壊は続いている。

 

 僕の大切な街と森と空と景色を粉々に破壊しながら、圧倒的な破壊力とスピードで全てを無に帰していく。

 その爆風と殺戮の渦中へ、自分のからだは向かっている。

 無意識の作用か。極限の意識の演算が生み出す、思考の帰結か。

 わからない。

 だが本能的なものなのだろうと思う。

 恐怖の場所に立ち返る時、きっと人間は本能でそれをしっている。

 夏の夜の蛾が、焚き火の炎に飛び込むように。

 僕は予期せず自爆へと向かっているのだ。

 だがそれでもいいと今は思える。

 僕は暗い森の中を進み、山を登り続けた。

 しだいに思考は肉体から遊離して、中空を漂い始める。

 感覚だけが世界の全てになる。


 ただ映像だけが言葉のない世界に流れている。

 

 光はほとんど消えかけている。闇が世界を覆い始める。

 冬の長い夜がやってくる。

 視界の下方に滲む夕暮れの赤みはしだいに薄れていって、闇色の世界に漂う光は、黒シリーズの殺戮の閃光だけになる。

 絨毯爆撃の火炎はチカチカと瞬いて、爆風とともに木々と自分をなぎ倒す。

 悲鳴が風に流れてきて、僕はふっ飛んで後ろ向きに転がった。

 背中がこすれて、衣類がビリビリに破けていく。

 ワイシャツは墨と泥で斑に汚れている。

 激痛に身を悶えさせて顔を上げると、森はいつのまにか終わっていた。

 顔を上げて、だがそこに待ち受けているのは光ではなかった。

 ミサイルの絨毯爆撃の閃光でもなかった。真っ黒な夜の空でもない。

 機動兵器のギアの鳥が、漆黒の装甲を夜の闇に溶けこませながら井戸の上の屋敷の上空をぐるぐると旋回していた。

 頬に風圧を感じた。

 禍々しい闇色の怪物が異界の瘴気を発しているのだろうか。

 僕はもう一度ケータイに耳をすました。

 勿論通話は途切れている。

 だがそれでも記憶を手繰たぐり寄せるように、通話口の向こう側の世界から聞こえてきた音を思い出す。

 そうやって、自分を奮い立たせる。

 ケータイを握りしめる手はふるえ、ひっきりなしに汗が額からこぼれてくる。

 僕は目を閉じて、彼女の痕跡に身を委ねた。

 そして意を決して立ち上がり、屋敷のなかに足を踏み入れた。

 

 誰もいない。


 薄暗い豪邸のなかは、騒々しい普段の姿がまるで嘘のように静かだった。

 カツカツと床を打つ自分の足音が、自分を後から追ってくる。

 大広間の行く手に広がるシンメトリーな二つの螺旋階段をのぼる。

 足元にはガラスが散乱している。

 シャンデリアは壊れていて、月明かりだけが邸宅の中を照らしている。

 奇しくも、今日は満月だった。

 巨大な満月が屋敷の階段の、一面の壮大なガラスの壁の向こうに浮かんでいた。

 十字にくりぬかれた影が、途切れ途切れに大理石のフロアに続いている。

 ミサイルの爆撃の余波だろうか。おそらく屋敷の住人は全員避難しているのだ。

 僕は足を引き擦って歩きながら、屋敷の奥へと向かった。

 階段を登り、階上の通路を左に曲がって、大広間を後にする。

 壁に立てかけられた石造りの燈籠は、至るところがふっ飛んで壊されている。

 室内の足音に気づいたのか、館の木の枝に止まっていた鴉が一斉に飛び立つ。

 鳥の影が尖鋭せんえいな市松模様を回廊に描きながら流れていく。

 奥へ、奥へと進む度に、自分の呼吸の音が大きくなる。

 息が切れ始めているのだ。

 そしてそのきれぎれに吐き出される自分の呼吸の狭間から、深い嘆きのようなあえぎの声が近づいてくる。

 

 ――……ァ…、


 僕は歩き続けた。

 爆風があたまの後ろで弾けていく。

 回廊にのびる影が点滅しながらフラッシュする。

 すぐ近くでまた黒シリーズのミサイルが落とされたのだ。

 それでも僕は歩き続けた。あえぎはどんどん大きくなる。片方の靴が脱げる。

 散乱したガラスの破片を指先で踏みしめる。気がつけば足元が濡れている。

 指の付け根から、血が流れているのかもしれない。

 砕けたガラスの破片が、足裏の皮膚を深く傷つけているのかもしれない。

 痛みはどんどん大きくなり、歩を進めるたびに刺すような痺れがからだの下のほうから上がってくる。

 だがその痺れるような痛みが自分がこの世界に存在していることを教えてくれる。

 僕の意識は途切れかけていた。

 何日もろくに睡眠をとっていないが故の疲労か、精神的な打撃の影響か、井戸の底からこの場所まで肉体を酷使した結果か、いずれが原因かはわからないが、僕の意識は朦朧とし始めていて、しかしそれでもこの場所に立っている。

 僕は歩き続けている。

 僕はまだ生きているのだ。

 生暖かい呼気の膜が自分を包む。

 それは自分自身のもので、そして与えられたものだ。

 何から与えられたものなのか。それは世界から与えられたものだ。人間のからだから与えられたものだ。自分にこのからだを与えた人間たちは次々に退場していく。いなくなる。そして今度は僕が誰かに与えて、いなくなる番なのだ。

 回廊の突き当たりに辿りつく。

 あえぎはその場所からきこえてきていた。

 突き当りを右手に臨むと、隠し扉の闇色のすりガラスが開いていて、屋敷の深部が視界に現れる。

 そして僕はそれをみる。

 そのあまりにも場違いな美しさに、息を飲む。

 一瞬の神々しい光が胸を打ち、だがそれはすぐにまやかしの妖しい闇色の揺らめきに変わって、鮮烈な緋色が網膜に飛びこんでくる。

 

 ――……ァ……アア……、

 

 赤い鳥居がある。

 屋敷の書斎の最奥の通路の先。

 長く暗い回廊を抜けた先には、古代から神体しんたいの祭られている神社が鳥居ごと納められている。

 屋敷と離れの神社とを結ぶ地面は、回廊に敷きつめられた大理石の床からスリットの入った樫木かしぎに変わって、参道を構成する。

 まばゆい緋色の鳥居をくぐると、さらに明度の高い朱色の道が手招いている。

 木目の地面のスリットの幅に合わせて、幾つもの四角い光の膜が一定の間隔で連続し、神殿へとのびている。くさび笠木かしぎのとりのぞかれた小柄な鳥居を織り重ねられてつくられた回廊のようだ。深海に生息する甲殻類の胎内のようだ。緋色の回廊は、回廊の左右に渡された小池のほとりの水の、燈籠の薄明かりのやわらかい光の反射を受けて、海底に落ちる日射しのように輝いている。

 そんな幽玄の静寂を感じさせる世界のなかで、二つの乾いた音が耳の左右で弾けていく。自分の足音だ。ゆらゆらと水の揺れる音は燈籠とうろうの影からのびる赤い反射光の揺れ動く光と同期して、連続する波のように頭上を抜ける。

 僕はしだいに自分の呼吸の速度がその水の揺れるリズムと一致するのを感じた。

 僕は歩みを進めた。どんどん本殿が大きくなった。剥き出しの足が踏みしめる木目の地面はやわらかく、どこかあたたかみがあって、何だか人間のしかばねの上を歩いているようだと思う。そんな人生だと思う。それが日常の連続だと思う。足音はほとんど聞こえない。足音もあえぎも一切が木目の板に吸いこまれて、無音の情景のなか影だけが自分を追ってくる。

 僕はその緋色の回廊を静かに歩いて渡った。

 だがその緋色の明かりに照らされた道はしだいに豪奢ごうしゃ金色こんじきの、ホログラフィックな水面みなもの明かりの反射する漆黒の地面へと変わっていく。

 社殿を抜けて、賽銭箱を通り過ぎる。

 音のない足音が、闇に沈みこむ。

 あたりは暗く、緋色の光と前方の金色の御堂みどうの明かりが闇に撹拌し、ミラーボールのように回転しながら動いていく。

 そしてその光と影の奥からあえぎは聞こえてくる。

 僕は歩き続けた。

 足元にはねっとりとした空気が絡みつく。

 風は腰のあたりで浮きあがり、生ぬるい感触となって肌を撫でては消えていく。

 そうして本殿に辿り着く。祭壇の手前には黒い人影が浮かんでいる。

 声はその人影の先、金色の坐像からこぼれている。

 ふいに激痛が足元からのぼってくる。

 木目の地面が終わり、砂利道に変わったのだ。

 人影は神殿の奥で、こちらに背を向けて座っている。

 後姿うしろすがたに、懐かしいものを感じる。

 エレナの父親だ。屋敷の主人だ。だが屋敷の主人だと認識したはずのものがまるで動かない。

 僕は唾をのみこんだ。金色の阿弥陀如来の坐像の鋳型の中心に、それは座り込んでいる。巨大な燈籠とうろうの影だけが、祭壇で蠢いている。

 僕のバットだ、とまず思った。

 本殿の入り口の外陣から祭壇へと至る階段の手前に、行方不明になっていた僕の、金属バットが落ちている。

 その柄から先端にかけての細長いボディの上部を、人工的な青白い光がすべっていく。

 液晶の光だ。

 祭壇で蠢いているのは、備えられた蝋燭や燈籠の炎だけではない。

 液晶の光が幾何学的な影となって、回廊全体を照らしているのだ。

 祭壇の奥の人影の向こう、人影の周囲の幾体もの神像の向こうから、映像が流れてくる。

 あえぎはそこからこぼれてくる。

 僕が祭壇に足をかけると、その動作の余波で、鎮座していた屋敷の主の影が、ぐらりと倒れた。僕は、とっさに支えようと手をのばした。

 そして、そこから思考が抜け落ちた。

 

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア

 

 頭が打ち割られている。

 エレナの父親が塑像の中心で頭を叩き割られて死んでいる。

 金色に照り輝く仏閣の中央で巨大な漆黒の花びらが弾けている。

 黒い鮮血の影は、じきに僕と頭を割られた主人の人影が液晶も似たに照らされて、流線型のフォルムとなって神殿を踊るようにかけていく。

 

 ポルノだ。

 画面には、またポルノが流れている。

 エレナが乱れている。悪夢は連鎖していく、

 何度でも何度でも繰り返されるかのように続いていく。

 あえぎは悲痛なものへと変わって、のどの奥から搾り出される地鳴りのような絶叫へと切り替わる。だがすぐに、違和感に気づく。衝撃がのどの奥をしびれさせて、嚥下とともに閉じていく。なんだこれは、僕は思わず呟いた。

 

 さきほどの映像とは、明らかに違う点が二つある。

 彼女は、望んで身を差し出しているわけではない。

 絶叫が大きくなる。

 彼女は、必死で、死に物狂いで相手を拒絶している。

 だがその拒絶している相手こそが――頭蓋を撒き散らされて死んでいる人間にそっくりなのだ。

 屋敷の主だ、と僕は思った。

 彼女の父親なのだ、と僕は両手で顔を覆った。

 だがもっと奇妙なのは、その父親に犯されている少女が――現在のエレナそのものではなく、遥か遠い過去の時代、あどけなくおさない、言葉さえろくにしゃべれないような小学校のランドセルを背負った幼女のエレナなのだ。

 おぞましい。単純に、僕はそう思った。悲惨だ、とか、悲しい、とか、かわいそう、とかいった表面的な感想はすべて越えて、ただ拍動の音だけが強くなる。

 映像のなかのエレナの幼い瞳、その瞳からこぼれ落ちた光の点滅が首元のキズを教えてくれる。父親ともみ合ったさいにつけた傷だろうか。

 あるいは、それ以前に遊んでつけたキズだろうか。

 彼女の首すじには大きなガーゼがはられて、上から包帯で巻かれており、

 それが父親との揉みあいの末にズレて、蛇の紋様もんようのような傷口がはみ出ている。

 

 彼女は実の父親に犯されていたのだ。

 

 そんな事実が、鮮烈な驚きでもって、遅れて自分のあたまに飛び込んでくる。

 あまりの事態に、状況を把握するのに時間がかかっていたのだ。


 彼女は父親に犯されていた。


 もう一度、繰り返す。理性的に、納得する。疑問が自然と生まれてくる。

 だが、いつからだろう。どうして、気づかなかったのだろう。

 僕は幼なじみである彼女とずっと一緒にいたが、明確な徴候はよみとれなかった。

 いや、とそこで思い直す。本当に徴候はなかったのだろうか? 本当に彼女に変化はなかったのだろうか?


 そして僕は思い出す。

 彼女は一回だけ変化したではないか。

 あの夏の日の井戸に転落した一晩から。

 そのときから彼女の首には蛇の鱗のような痣ができて消えなくなった。

 そのことを「あとにのこったらどうしよう」などといって悩んでいた昇降口の記憶から覚えている。


 蛇の鱗の傷はあの夏の記憶とセットになっている。

 エレナが井戸に落ちてたった一人で一晩を過ごした、記憶とともにある。

 彼女は、その日から変わってしまった。

 明確に、病的な精神的特性を強めた。

 病的に、僕に依存するようになった。

 

 

 悲鳴が神殿に響き渡る。

 

 こんなものを神棚に流しているなんて彼女の父親は狂っていると、いまさらながら思う。

 この世界の父親はすべからくみな狂っている。

 その狂った父親に犯されて太ももの付け根から血をながすエレナの目を覆いたくなるようなポルノが、目の前の液晶プロジェクターに延々と流されている。そして気付く。

 エレナは死のうとして自ら井戸に飛びこんだ。

 彼女が変わってしまった原因はあの暗く恐ろしい、怨念の渦巻く井戸の底に一晩中閉じ込められたことなんかではなくて、それより以前に、まず初めに、彼女の父親に肉体を奪われたことが原因としてあったのだ。

 だから、彼女は取り戻すしかなかった。

 叩き割られたエレナの父親の頭蓋と、死体のそばに転がったバットを見下ろす。

 。自分だけのやり方で。

 たった一人で、エレナはエレナ自身の恐怖の場所に立ち戻った。

 それがどれだけ間違っていて、罪に汚れたものだとしても。

 最初から間違ってしまった性の交感がすべての元凶となってそうさせていたのだとしても。

 


 だから僕も、僕のやり方でケリをつけなければならない。

 僕は深く長い息を口から吐き出し、金属バットを手に取った。


 そしてもう一度井戸の底に下りていった。

 

 

 

「なんできたの」

 案の定、拒絶された。 

 そういって彼女は疲れたように笑って、そしてまた笑った。



 

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