第六章
第44話「監視者からの応答」
1
太陽が闇にのみこまれていく。
冬の夜は長く深く、空気が澄んでいるせいか、不思議なほど鮮やかになる。
押し潰されていく日射しは、脆く壊れていく時間のようだ。手を伸ばせばすぐそこにあるのに、決して触れられずに、まばたきの最中にどんどん自分から遠ざかっていき、忘れ去られていく。それでも完全には失われずに、光は光であること、自分であることを止められずに、映像の残滓として、残酷な網膜の残像として、原形すら留めない紫色の帯となって、地平線の彼方に広がる。
でもそれが、美しいと思う。
人間の心は、凍てついた空気にとてもやさしい。暗闇は恐怖と畏怖の象徴で、天災や自然の神々を司り、だからこそ光を、日射しを、焚き木の炎を発明した。
だが炎がなくても、ふとした瞬間に、目の前にひらけたありのままの暗闇の美しさに、胸を打たれることがある。悲しまないでいいと思う。畏れないでいいと思う。
暗闇に、惹かれる。
自分の弱さを、受け入れるように。
冬の残照の失われていく窓ガラスの手前には、寝たきりのまま動かない巨体がある。
モルヒネの強度は、また一段、上がった。囁きの頻度は、減ってしまった。夢さえみることができていないのかもしれない。多幸感を導く投薬の行きつく先は、自律呼吸さえできないほどの、生理現象さえ奪い去るほどの、無気力な死だ。
もう声を届けることはできないのだろうか。そう思って、は、は、は、と咄嗟に笑い声をあげる。伝えたい言葉なんて自分に何があるだろう?そんなものが、果たして古今東西、憎しみの言葉以外で、あっただろうか。それを放ったところで、救われるだろうか。
紫の残照の下に黒々とのびる父親のからだの手前、自分の膝にひらかれたラップトップが、蒼白い光を放ちながら、スリープの解除を実行する。
メールのウィンドウ画面には、緋色の文字が浮かんでいる。
やめろ。
送信者は「UNKOWN ?ISO-2022-JP?B?GyRCSnM9NyRPNS5KfSROOHI+RCRI8IUJ
oGyhCISE=?=2012/12/22/(木)20:21 4KB」。匿名の、メッセージが届いていた。僕の挑発に反応した、反応しないではいられなかった、天使狩りのアクティブユーザーだ。
スタンガン天使の画像がバラ巻かれるのを、快く思わない者。
反射的に、メールオプションの詳細ヘッダーの表示欄をクリック。webメールの送信者が、どんなIPアドレスの持ち主で、どんなサーバーを経由して、自分の元にやってきているのか。それが、最近のマシン利用者にはあまりしられていないが、受信メールのソース表示画面、またヘッダーや詳細表示などと呼ばれる、メーラーには必ず付いているツールで、みることができる。
Subject: ?ISO-2022-JP?B?GyRCSnM9NyRPNS5KfSROOHI+RCRIT1M8IUJoGyhC
ISE=?=
X-Apparently-To:sgaoloi@ahoo.co.jp via 1x4.4x3.x8.7x; Mon, 22 Dec 2012 04:57:08 +0900
Return-Path: <exntlt@yahoo.co.jp>
X-YahooFilteredBulk: 218.22.185.167
X-Originating-IP: [248.42.185.147]
Received-SPF: softfail (143.79.29.240: domain of transitioning exntlt@yahoo.co.jp does not designate 248.42.185.147 as permitted sender) receiver=183.79.29.240; client-ip=218.22.185.167; envelope-from=exntlt@yahoo.co.jp;
Authentication-Results: mta453.mail.kks.yahoo.co.jp from=yahoo.co.jp; domain
keys=neutral (no sig); dkim=neutral (no sig) header.i=@yahoo.co.jp
Received: from 218.22.185.167 (HELO 484.79.29.240) (248.42.185.147)
by mta553.mail.kks.yahoo.co.jp with SMTP; Mon, 15 Oct 2012 02:57:06 +0900
Received: from 36.230.61.53 by 218.22.185.167; Tue, 16 Oct 2012 19:51:52 +0200……
暗号じみた、記号の集積が並ぶ。だから、ちょっとしたネットワークの教養がないと、意味不明で、全く役に立たない。
そのことが、単純化されたOSの進化により、使い勝手の格段によくなった現在のパソコンユーザーに、普段はほとんどメール・ソースが意識されない原因だろう。
この詳細ヘッダーは、メールの流通経路を現す。
見方としては、基本的には、下から上に伝達されると思えばいい。
下にいけばいくほど、発信者に近づく。つまり発信者の経由したサーバーを辿ることになる。
着目すべきポイントは、Receivedの項目だ。
Receivedの直後の、From X by Y は、XからYへと受け渡されることを意味している。例えば、郵便でいえば、千葉県千葉市に住む人が、神奈川に郵便物を投函するときに、まずは千葉(X)に送られ、そこから神奈川(Y)を経由する、といったような。
その、千葉とか神奈川にあたる部分は、IPアドレスに該当する。
From欄の四列の数字――36.230.61.53が、全てを現している。
このメールは、36.230.61.53、即ち日本(愛知県)からスタートしている。そして、by 218.22.185.167 のサーバーに渡される。この時点で、まずおかしい。相手は日本に住んでいて僕も日本にいて、要するに日本から日本の受け渡しだけでいいはずなのに、なぜ外国のサーバーを踏み台にしなければならないのか。わざわざ別の国(218.22.185.167はチェコ)を、経由しなければならないのか。
そして、最後は、アメリカのサーバーから、日本の僕のwebメールのサーバー、ahoo!に届けられている。そこから、僕のメールに配送される。
僕は、この送信者に、「返信」ボタンで応答しかけて、もう一度ソース画面をみた。ちょっと考えてから、表示された投稿画面をキャンセルして、次のメールに移る。
あなたのしていることは、犯罪です。
今度は、警告と書かれた、少し大人びた文面の相手からのメールだった。メールの件名欄は、「From=?ISO-2022-JP?B?GyRCIVo1VTFnPXUlOyVsJVYhWxsoQg==?=『警告※あなたのしている禁止行為について』2012/12/22/(木)22:14 6KB」となっている。氏名は文字化けしているが、題目は、はっきりと記載されている。僕は、今度はソースを開かずに、ざっとその他の受信メールに、視線を走らせる。
「UNKNOWN『スタンガン天使ちゃんに踏まれたい志望』2012/12/22/(木)23:34 3KB」
「UNKNOWN『はやく死ねよ』2012/12/21/(水)04:11 5KB」「peko『誰がスタンガン天使なんですか?』2012/12/21/(水)02:13 4KB」「Ryu藤崎『これってマジ?』2012/12/2
こうしたメールが他に八件届いていて、全部で九つの志願表となっている。
〝これから血祭りにあげられる壇上列席者のリスト〟
僕は、新規フォルダに、そんな長ったらしい名前をつけて、メールを振り分けて保存した。
もちろん、願望もこめて。
2
メールが届く仕組みは、郵便配達における、差出人不明者からの手紙に似ている。
そこにはメールを収集・分配するサーバーの、非対称性がある。
投函者は、宛先の住所さえ示していれば、差出人である自分の住所を、記す必要はない。
誰からの手紙か、その誰がどこに住んでいるのか、などの情報が記載されていなくとも、投函された手紙はきちんと相手の住所に届く。郵便物には、それがどこの郵便局から、いつ配達されたのか、ということが、押印となって刻まれている。
メールも同じだ。
メールは、受信する際には必ず認証を必要とするが、送信する際には、種別を問わない。ごく大雑把にいって、そんなシステム上の問題がある。だから、送信段階で、発信者が、いくらでも自分の属性を偽装できてしまう。
匿名の郵便物が、差出人不明で宛名を書くように、匿名のメールは身元不明のまま宛先に文章を配送することができる。受信側の住所さえ間違っていなければ問題ない。
そして現実の住所に対応するものは、ネットの世界ではIPアドレスになる。
だから、少し調べると、偽装IPアドレスがわかってしまう。受信メッセージの詳細なソースを開くと、そのIPアドレスから放たれたメッセージが、どういう経由地、つまりサーバーを通って、自分のIPアドレスにメールを配達されたのか、がわかる仕組みになっている。大抵の場合、世界中を通って――日本から日本へ送信するだけなのに――不審な動きをしている。
重要なのは、この偽装IPアドレスは、アクセス解析のIPアドレスと、照応することができるという点だ。今回の《スキャナー》には、そういう仕組みを組み込んである。
閲覧者がメールを送信する場所にも、アナライザーの網をかけているのだ。
アナライザーには、そのサイトにやってくるきっかけとなった、外部に貼られたリンク元のURLのほかに、そのサイトからどこか別の場所に飛んだ「リンク先」という綱目も表示される。
僕へのメッセージは、そのリンクを必ず踏まないと送信できない仕組みになっている。Xaiや、デザイアなどが用意しているメッセージサービスを禁じて、もっというとコメント欄さえも禁止して、「僕」への窓口をそこだけに限定した。
これが何をもたらすのかというと、メッセージを送ってきた者の偽装IPアドレスと、メッセージを送るために閲覧者が踏んだ、偽装前のアクセス解析の結果が、ほぼ一対一に結び付く、という事態だ。
ここまでしなくてもいいのかもしれないとは思うが、手の込んだ閲覧者なら、サイトにアクセスした際のIPアドレスと、メール送信の際のIPアドレスを、毎回変更する、といった作業を、試みている可能性がある。
だから、従来のアクセス解析のIP情報の他に、直前にメッセージフォルダへのリンクを踏んだ者のIPアドレス、そして受信されたメールからわかるIPアドレスの、三つを視野にいれて、前者二つのマシン情報を比較し、同一の閲覧者を同定するのだ。
そして同定されたIPアドレスは、実生活上の詳細なプロフィールを垂れ流している、SNSのユーザーと紐づけられている。
恐ろしい作業だが、監視者(相手側)がこんなに用心深い人間でなければ、ここまで手数を要する必要はない。ITに関する危機意識の乏しい、ごく一般的な相手なら、SNSとアナライザーの組み合わせで、瞬殺だ。
簡単に匿名は暴かれる 。
いずれにせよ、数百のアクセス解析の出力結果、数千のIPアドレスを全て俎上にあげて、比較と検討の対象とするのは、現実的ではない。
だが、僕にコンタクトをとってきた者だけに限定してアナライザーの解析結果を照合するならば、それほど大変な作業ではない。
だから、後は、舞台を整えて、待つだけだ。
僕らが準備しなければならないものは、アクセス解析の結果と、SNSのユーザーを一対一に対応させる作業、いわば匿名性をはぎとられた閲覧者リストをつくることだ。
僕は、九つの受信メールを順番に眺めてから、椅子にもたれた。
犯人のことを、考える。
中年の、男性で、自己陶酔的で、知性が高く、自己の存在を誇示するかのような性質をもつ。それでいて神経質。
すぐに父親の顔が浮んだが、すぐにあたまを振り払って、候補から外す。
彼には入院という名のアリバイがあるからだ。
だがこの類推は、かなりの部分、九条マキの遭遇した羽根の購入者に、引っ張られている。可能性としては、九条マキの出会った人物が犯人である確率が、高い。だが、絶対、ともいえない。
状況証拠はつき合わせて初めて意味をもつ。複数提出された証拠をもとに、異なる角度から事件の闇を照らし合わせて、推理は可能となる。
まだ、九条マキから導かれた証拠は単体で、犯人を浮かび上がらせるに足る、十分な証拠とはいえない。
それは、逆接的なもののいいかたをすれば、彼女の《神隠し》が未遂に終わったからだ、ともいえる。
完全に失踪していれば、犯人による犯行だ、とみなすことができたのに。そんな風に一瞬考えて、あたまを振る。身近な人間の死を願うなんて馬鹿げている。それに、もし彼女がいなくなってしまっていたなら、そもそも犯人像を浮かび上がらせるための情報も、得られなかったではないか。
僕は、できるだけあたまをクリーンな状態に保つように意識して、ゆっくりと、もう一度長い呼吸をする。そして、受信メールの件名が並ぶ表示スレッドに目を走らせ、先頭から二番目の、「あなたのしている犯罪行為について」を選択。
返信画面を開く。カチカチと、指を動かし始める。
なぜ、一番最初に返信する相手を、『文字化け』からのメールにしたのか。あいにく、まだ、詳細なIPアドレスとSNSユーザーの対応表は、できていない。また、ソースを詳細に表示して、経由したサーバーを詳しく調べたわけではない。
だが、ここでも、勘というか、推察というか、自分なりの理解がある。
もし、メールの送信者が監視者か犯人(ビンゴ)なら、やめろ、などと直接的なメッセージを書くだろうか?そんな脊椎反射的な短絡的手段でコンタクトをとるのは、自分が犯人だといっているようなものではないか。だからそれを回避したいという気持ちが働く――そんな、推察だ。
犯人も馬鹿じゃない。明らかな過剰反応で直接僕の行為を妨害するのではなく、もっと間接的な、婉曲的なやり口で僕の行為をやめさせるように動くのではないだろうか。例えば、僕がこうした反社会的な行動をとることによって、生まれるリスクを小出しにしてくる、といったような。
これまでの書きこみからもわかるとおり、僕は、ネット上では、無知で愚かな、それでいてある種の癇癪もち、たやすく逆上しやすい軽薄なユーザーを装っている。ネットの世界の、代表的な若者像だ。
そして相手は、それにあわせて、僕を刺激しないように回避の誘導、いわば愚かな生徒に啓蒙を促す教育者のようなメッセージを、送ってきている。
だから、僕も、そんな相手に即した返信で、切り返す。
学校にはもう連絡をいれたよ^^
こんな感じでいいだろうか。完全に舐めている、と思われるかもしれないが、こうした神経質で、饒舌さを内に秘めているようなタイプの相手には、あえてあっさりとした連絡がちょうどいい。
それが釣り針になる。
案の定、すぐに返信が帰ってきた。
あなたのしている行為は、各都道府県の定めている迷惑防止条例に違反します。
たとえば清錠県ですと、他人の身体の無断撮影・記録は三○万円以下の罰金又は拘留、
常習者は一年以下の懲役又は一○○万円以下の罰金に処されます(他人の身体又は下着
を覗き見る行為にも同様の罰則規定が適用されます)
また、法的な観点からみれば、盗撮した被写体の公開は、著作権違反にもあたります。
こちらの方がより厳罰化した措置が与えられるのではないでしょうか。近年は、インタ
ーネット上で配布される肖像権や著作権に関して、社会全体が非常に敏感になってきて
おり、あまり興味本位で、というか悪ふざけが過ぎるのも考えものではないでしょうか。
自分の写真が無断で公開されること、インターネットにアップされることに対する生理
的な嫌悪の感覚は、十代の若い人たちのあいだでも、殊に共有されてきているように思
います。また、そうした無断使用の画像ファイルや、盗撮などの違法行為の防止を目的
とした、非営利的な団体(ネットワーク)も幾つか存在します。それはインターネット
上を巡回し、監視し、告発する機構のようなもので■
律儀で、長々とした、堅苦しい警告の文言だ。そうした堅苦しさを、あえて装っているかのような不自然ささえ、感じられる。
だから僕はそれには取り合わずに、
あした、このコを公開処刑をします^^
よびだしたから、無駄だよ^^
それだけを打って、送信。ページを切断する。
似たような文言を、残りの八つのメールにも行う。
公開処刑――要するに、場所を指定して、ユリアの撮影会をやるのだ。
地下アイドル宜しく、地下でやるのがいいだろう。どこがいいか、と考えて、すぐに脳裏に見知った場所と光景が浮ぶ。
ラブラドールの地下で行おう。
ただ、ここにアイロニーがある。公開処刑、とは、スタンガン天使ちゃんである『ユリア』の処刑ではなくて、犯人自身の処刑を公開するのだ。
地政学の伝統が示すように、戦いの勝敗はいつの時代も戦場、つまり地形に左右される。地の利はこちらにある。
僕らのたまり場ラブラドール。
そこに犯人を誘き出し――暗闇でも撮影できる監視カメラを回して、パソコンとつなぎ、ユーストリームで流すのだ。
「……、の………、。……」
そこで、思考の切れ間から、呼吸の合間にもれる酸素マスクのうちがわの声がきこえてきて、意識が戻る。
日は既に沈みきっていた。
順調に物事の段取りが決まっていく一方で、まるで動かないからだがある。
僕は逃げている。
そんな風に思ってしまったのは、連続失踪事件の犯人に立ち向かう危険よりも、もっと身近で、もっと孤独で、自分に全てを与え、全てを教え、バットの持ち方を教えた憎しみの対象が、息を引き取ろうとしていること。憎しみだけが、怒りだけが、そしてその安らかに眠りに付く姿を眺めているときのどうしようもないほどの悲しみが胸に去来する戸惑いだけが、それだけが自分のアイデンティティの支えとなっているような存在と、向き合うことの方が、自分にとっては困難なのだと、ふいに自覚してしまったからかもしれない。
「……の……み」
ぶつぶつとうわごとのように繰り返すモルヒネの眠りにつく身体。窓の外は完全に昼の世界が終わって、視界の下方で、闇に溶けたからだがかすかに上下する。僕はパソコンを閉じ、足を組み換え、なんとなく落ち着かずにパイプ椅子の上で胡坐をかいて、目を瞑った。
酸素マスクの音がいつまでも響き続ける。
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