第14話「防空壕跡地のガンマニア」


  3

 

 静かな冬の校舎にたたずむ、白髪混じりの一人の男。

 温厚そうな微笑を口元に浮かべて、しかし目の奥では笑っていない。

「ははは……」掠れた声で笑うと、そのまま、ゆっくりとした足取りで歩いてくる。僕は壁にぶつかった。

「ははは……何をこわがっているんだい……?」

 一拍遅れて、鉛筆削りが音をたてた。

「大丈夫……。担任に言いつけたりはしないよ」

「伊達先生、」

「悲しいなあ……。その他人行儀の呼び方、何とかならないの?」

「はい……」僕は俯いた。全身の血が、からだ中の毛穴から蒸発してしまったように、足元の感覚がない。膝はガクガクと震えている。

「昔、よく河原で遊んだろう? 可愛かったなあ……はっくんは。綿飴を食べるのが下手でねえ。口のまわりを、いーっぱい飴でべたべたさせてねえ。左利きで、ぶきっちょでねえ。グローブも見繕わないと行けなくてねえ……。おっと、昔話に意識がもっていかれてしまった。はは……」

 年をとると駄目だねえ。そんな風に伊達はつぶやきながら、そっと僕の肩を、同僚をなだめるように抱いて、耳身とで言った。

「……部室の無断使用は禁止だよ?」

「はい」

 背中を悪寒が走った。

「これで、何度目かなあ?」

「はい」

「このままじゃ、特待取り消しだよ?」

「はい……」

 僕はうなだれたまま、足元を見つめていた。影が落ちた。

「すみません先生!」

 エレナだった。

 優等生で知られるエレナが割って入った。

「来年度の文化祭の出し物について相談してたんです。なのに、クラスが吹奏楽部で使われてしまっていて……」

 そう言って、頭を下げた。

「ふうん。随分早い提案だねえ……我が校の文化祭は、確かに、冬の受験に備えて六月に行われる――でも、それにしたって、早いねえ。おかしいねえ」

 ねちねちと繰り返しながら、にやにやとエレナの制服からのびる白い素足を舐めまわす。

「もちろん、きみたちの気持ちは分かるよ。何か、変わったことがしたいんだろ? 非日常っぽいことがしたいんだろ?――僕もしたなあ。僕もやったなあ。"青春ごっこ"」

「そういうわけじゃ……」誰かが言った。

「みんな帰宅部だもんねえ? でもさ。それじゃあ学校としては困るわけよ。きみたちは特進クラスだよ? そこにいるエレナくんは学年首席を二年間一度も譲ったことがない。ミコトさんは常に一桁をキープ。戦場ヶ原さんはのみこみがよくて暗記科目に強い。ノブナガくんは、数学と物理は満点だったかな?」

 みんなの顔を順番に眺めまわしながら、また僕を見る。

「もちろん学校側としてはね。勉強さえやってくれれば何の問題もないんだよ。でも、僕としてはね。それだけじゃあイカンと思っているんだ。人間教育が必要だと思っているんだよ」

 伊達は穏やかな口調で言って、煙草臭い息を吐き出した。

「あらゆる生命体をいずれ焼却されるゴミだと考えよう。世のなかにいは燃えるゴミと燃えないゴミがある。燃えるゴミはいいんだ。でもね、燃えないゴミは困るんだよ。きみたちのうちの誰か一人がそうであっては困るんだ。落ちこぼれでは困るんだよ――なあ。ハジメ?」

 その温厚な雰囲気に亀裂が走る。 

「ハジメ、お前……お前このやろう……」

 瞳孔が見開かれ、顔中に血管と神経がピシリピシリと浮き上がる。

「お前はなんでいつもいつも、そんなできねえんだ?」

 英語科の講師である伊達は、

 黙っていると、伊達はさらに僕に詰め寄った。

「おれの……、……なのに……九渚クナギサの血を引いているのに……万年赤点だらけってのは、どういうことなんだ? ああ?」

 だんだん語尾が荒くなる。

「勉強が足りないんじゃねえのか?ここは、部室棟だ。お前がいるべきは図書室だろ? え?違うのか?」

「はい……」

「おれはな――?」

「はい……」

 沈黙が流れた。

 ミココ。ミコト。ノブナガ。

 周囲の視線が、一斉に自分に注がれているのがわかった。

 

 伊達は……僕の伯父さんなのだ。父親の弟なのだ。

 

  4

 

 教員採用試験に合格した親戚が、自分の学校の教員になることは、地方都市では、それほど珍しいことではない。

 これでも、幼い頃は、それなりにいい"おじさん"だった。僕たちは仲良しだった。一緒に野球をしてくれた。『戦争ごっこ』もしてくれた。裏山の防空壕跡地に隠れながら、弾の抜かれたモデルガンを片手に、ふざけあうのだ。

 そこで、射撃の訓練も、お遊びの一貫で教えてくれた。

 彼は、大のガンマニアで――射撃場につれていってもらったこともある。

 僕と伊達と父親。そんな幸福な関係が壊れたのは、『舵取り役』がいなくなってからだ。

 僕は、その存在を、はっきりとは覚えていない。

 原初体験というものがあるが、僕のなかに刻まれている一番はじめの記憶は、団地の薄暗い床に転がった小粒なガムを、はいはいしながら食べて咎められたときの、情景だ。


 とても美しい人だったらしい。


 伊達と僕の父親は兄弟で、同じ街で育ち、幼なじみだった三人は、いつも一緒に遊んでいたらしい。

 案の条、二人とも彼女のことを想っていて――最終的に父親が奪った。

 ……と。いうのは、井戸端会議の好きな、近所のおばさんの弁である。

 

 とても美しく、優しく、可憐で、華やかで――いつも彼女を中心に物事がまわっていて――それなのに突然いなくなってしまった。

 失踪してしまった。

 

 人々は、口々に噂した。

 彼女には、人に言えぬ過去があったのだと。人に言えぬ罪があったのだと。

 この街は、一歩裏通りをいけば、田畑の続く、古くさい街である。むかしからの言い伝えに、清なる錠前は封鎖地区――『きよらかでないものはきよめられる』という伝承がある。

良寛よしひろさん……」

 僕は、顔をあげて言った。

 身長一八〇センチはあろうかという巨体。温厚そうな外面とは反対に、鷹のような目。

 威厳とも、尊厳とも異なる、見る者に奇妙な畏怖を与える微笑が、この男の『トレードマーク』である。

 これが、伊達良寛(よしひろ)。これが、僕の親族。これが、僕の父親が"ダメ"になったときの後見人。つまり、引取先だ。

 これ以上父親の、沙羅への虐待が進めば、児童相談所児相で育つのと、どちらかを選ばなければならなくなるだろう。

 そのせいだろうか。

 僕は伊達に対して――異常なほどの恐怖心を持っていた。

 そのせいだろうか。

 僕は伊達に対して――複雑なほど、認められたいという気持ちがあった。

 だから惨めな姿を晒したくないのだ。黙っていると、伊達が続けた。

「わからないか? 何が問題か。。一体いつになったらわかる。わかるんだ!」

 絶叫して、花瓶を叩きつけた。

 凄まじい音が鳴った。沈黙が流れて、水が流れた。粘り気のある花瓶の腐敗した水が、靴下を浸食してくる。

 だが僕も、ミココも、ミコトも、黙っていた。身動きがとれなかった。進学校特進科の特別顧問ボスである伊達に刃向かうということが、自分の進路にどんな影響を与えるか知っているのだ。

「ハジメ貴様ァ……どうして一番になれないんだ」

 激情した伊達が、そう言って僕の胸元につかみかかる。

「かはっ、」渇いた吐息がもれる。凄まじい力で太刀打ちできない。

 伊達のからだが動いた。全身を弓のようにしならせて、思い切り左腕を振りかぶった。

「歯ァ。食いしばれ」

 ――殴られる。

 そう直観した僕の脳裏に浮かんだのは、諦観だった。

 ああ。またか。全身の筋肉が弛緩して、目を瞑った。

 黒い影が、横切った。その瞬間、背後から「何か」に突き飛ばされ――、

『ゴッ』

 骨の歪む音が、聞こえた。肉と骨の潰れるいやな音が、耳元に迫った。

 だがそれは、僕にぶつけられた衝撃ではなかった。

 僕は、無傷だった。何ともなかった。

 目を開けて――そして気付いた。

 

「エレナ!」

 

 長い髪が待って、音をたてて崩れ落ちた。

 エレナは、僕の身代わりになった。伊達に顎から首元を強打され、意識を失って、即席の調理場に倒れこんだ。コンロが倒れた。椅子が倒れた。

 具材が撒き散らされ、鍋が吹き飛んだ。割れた鍋の破片が、かんかんかんかんと遠ざかる。

(ひどい……)誰かが悲鳴をあげた。

(こんなの、あんまりだ)誰かが口にした。

 だが、それを誰も言葉にして発することはできない。

「エレナ!」

 僕は、エレナを抱き寄せた。完全に意識を失っていた。

 口元の唾液を、制服の裾でぬぐってやる。エレナの首筋にある『古傷』が、殴打のせいで、水脹れのように膨れあがる。同時に、僕のなかに、猛烈な怒りがこみあげる。僕は衝動的に立ち上がった。

「……なんだきさま、そのカオは」

 暴発寸前の感情を抑えながら、肩で大きく息をする。

 暴走寸前の衝動を抑えながら、口元をわなわなとふるわせる。

 僕は伊達を睨んでいた。決して睨んではいけない相手に敵意を剥き出しにしていた。だが、そんな自分自身の姿に気付いた僕は、咄嗟に、

「ははは……」

 渇いた笑いを浮かべているのだ。無気力感が、足元を襲う。腕の中に横たわるエレナの長い髪が、死体のように窓から流れこむ風に揺れている。

「いえ……なんでもない、です……」

そう言って、笑っていた。心が渇いて、のどがカラカラに渇いて、それでいて目尻からはぶるぶると涙が溢れそうになる。圧倒的権力差に、自分は何もできない。人形同然だ。それにもかかわらず握りしめた拳は二の腕の腱がはちきれそうなほどギリギリと震えて汗ばんでいるのだ。

 そして『その音』は聞こえてきた。心臓の鼓動が、大きく脈打つ。

 ドクン。

遥か後方、意識の欄外。

 世界の向こう側から凄まじい轟音が飛来する。


 黒シリーズ。


 巨大なギアの鳥が現れていた。

 十字に切り取られた窓枠の向こう。

 そこに、漆黒のギアの鳥が浮かんでいる。

 。だが伊達も、誰も、その存在に気づかない。

 どうして、それがこんな至近距離にあるのか。

 どうして、それが突然現れたのか。

 一切が不明なまま、すべてがスローモーションになって、もう一度伊達のこぶしが振り上げられる。


『ゴッ』


 今度は音をはっきりと近くで感じた。耳元から頭蓋に反響した。

 一瞬の奇妙な浮遊感のあと、無重力状態に襲われて、

 盛大な炸裂音が響き渡った。

 僕は伊達に殴られて、ぶちまけられたゴミ山に倒れこんだ。


 いつのまにか黒シリーズは跡形もなく空から消えていた。

 


 

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