4:フォルダ
優しい笑顔で、女性を見送る、青年マスター。
ネコを抱きかかえる、その姿は、見目の良さだけでなく、内面の穏やかさも表していた。
ピタリと立ち止まり、振り返る女性。
ふわっふわのボブカットを揺らして、ペコリとお辞儀する。
彼は、灰色猫の前足を手に取り、小さく横に振って見せた。
女性が帰っていく遊歩道の先には、カラフルな立体形状が建ち並んでいる。
言わずと知れた、第3区画の研究施設と工学部棟だ。
「ニ゛ャッ!」
その手を離せという意味の、ネコキックが炸裂した。
「
四つ足で、着地した灰色猫は、後ろ足で立ち上がる。そして、猫用のドアを使って、事務所店内へ逃げて行ってしまった。
「まったく、なんて事するんですか」
そこから、三角になった眼が覗いている。
「そんな、ニューロンみたいな眼で睨まないでくださいよ。僕が何かしましたか? あれ?」
ドアは開かない。足元を見ると猫用ドアが、開いたままになっている。
「……そんなに愛想を振りまいても、……君に得はないだろう?」
少女は、足先で小さなドアを、パタンと閉じて半歩下がる。
ドアを開け、少女に対峙した青年は、やや真剣な顔をしていた。
「いいえ有りますよ。これで、新築早々、壁に、アナタの
来客用の優しげな笑顔を、向けられた
「そう言うことなら、わ、判らなくもないが、別に彼女が”
「ソレはソウですね。でもきっと、無駄じゃありませんよ。……これを機会に、お得意さまになって頂けるかも知れないじゃないですか」
「君の苦しい台所事情は、私の管轄では無いからなあ」
口を曲げ、頭を掻く少女。お世辞にも行儀が良いとはいえない。
そんな様子を見た青年は、抱えていた”ランチメニュー”の書かれた黒板を壁に立てかけた。
「こちらのお嬢様は、本日のランチ、お気に召していただけましたか?」
少女の前に膝を突き、その手を取る
「き、君の料理がオイシいのは、私が一番よく知っている!」
「ありがとうございます」
彼は手を引っ込め、立ち上がる。
そして、ステップを踏むように、少女と応接セットを避け、オフィスチェアへ辿り着く。
「じゃー、本業に戻りますが、本日は、どうしましょうか?」
オフィスチェアに腰掛けた彼は、作業机の引き出しから、ミストパイプと紙製のフォルダを取り出した。
「ふう……そ、そうだな。ニャーロン君を航宙研に連れていく、
「ニャッ!?」
ネコが、一人掛けのソファーに飛び乗る。
フンフンフンと鼻を鳴らして、食い入るように2人を交互に見つめだす。
「このファイルを預けてくれた方にも、問い合わせては見たのですが、内容物に関しては、
「方法がない? それは、どういう事だい?」
「実証実験後、成果の無いまま、すぐにプロジェクトが凍結されたと、
「ふむ」
少女はテーブルの上の、来客用チョコを口に入れる。
ネコは様子をうかがっている。
「当時の関係者も、今は殆ど退職されていて、残っていた数名の方々も、別の研究機関へ移籍されたそうです」
「うむ。……もぐ、……すまんな、ニャーロン君。そういう事だと、……もぐもぐ……航宙研は無しだ」
「ニ゛ャーーーーーンッ!?」
慌てて、テーブルの上に飛び乗って、ニャガニャガとフォルダをひっくり返す。
「ニャーロン氏は、何と?」
「あー、……大嘘付きで、ボサボサ髪の、……これ以上はちょっと僕の口からは……」
ネコは、ニャンニャガガと書類を、ひっかき回している。
「す、すまんな、ニャーロン君。さすがの私でも、行使する権力の
「大見得切って、安請け合いするから……」
ぷぉわぁん♪
ミストパイプを起動させる青年。
「でも、各研究機関同士で、協力関係くらい有りそうなんですけど? すぱぁ~」
「国際的な学術会議の席ではもちろん顔も合わせるが、ココは、母体が違うと、基本的には全く接点がないからなあ。現在、7区画あるすべてが独立採算制で、接点はない」
「じゃあ、
「単純に、立地と、使用条件の都合だ」
「立地と、……用途?」
「首都近郊で広範囲に使用できる立地。ただし陸地との境を山岳に
「そういえば、事故による遠距離に及ぶ被害が、海や山で防げるとか、なにか有ったときには、海から幾らでも制圧可能だ、なんていう物騒な話も、聞きましたよ」
「それも、使用許可が降りた要因の一つで、広報資料にも書かれている事実だ」
「そうですか」
「ニャガ」
「接点がないとは言ったが、各研究組織ごとに
「ニャガ、ニャガ」
「君の、ファイル整理の様にな」
ネコに気を取られながらも、言葉を続ける。
「そういう意味では、君は
「いえいえ、僕は
「……こほん……そういう事じゃなくて、何というか、”研究区画が近接する中央、緩衝地帯の
「何言ってるんですか。僕はニューロンと合わせてやっと一人前の、単なる文書屋ですよ」
「今に、たかが文書屋なんて、言ってられなくなるぞ♪」
”すっげー面白そうな玩具をみつけた子供”のような眼を、キラキラと向けてくる主席研究員。
”職務へ猛進するあまり、名声と同じくらい悪名高くなってしまった”少女の『予言』を、彼は首を振って打ち消した。
「バカ言ってる暇ないですよ、コレ見てください」
少女へ向かって差し出される、2枚の書類。
フォルダ内の物とは別に、彼が手にしていたものだ。
「
コレが『所有権譲渡契約書』です。移管のための『諸経費の領収書』も有ります。
少女は受け取り、内容に眼を走らせ、白衣の
「ふむ、じゃ、コレは
「ええ、なので、ニューロンにボタンを押してもらいました」
青年はアンティークな壁掛け電話の横、タッチパネルの有るあたりを指さした。その下には、A4横幅程度のスリットが設けられている。
「ネコの手、いいな。私も欲しい」
フォルダと格闘していたネコは、フォルダの中に両手を隠した。
「しかし、君の事だから、どうせバカ正直に”
「は、……はい。ですが、似たような物が、あの年代の内部文書の類から次々と発見されていて、めぼしいものは既に、専門の研究チームが解析に当たっているそうです」
「じゃ、あの”ボタン”は、本当に自由に研究しても良いと?」
「そうなります」
「ふむ、ならば、他にもっと凄い物があったという事だろう。しゃくに障るが、私はアレに相当な可能性を見いだしている。……君は、さっきの冗談なんかじゃなくて、以外と抜け目ないというか、やるもんだなあ」
内ポケットの譲渡書類を、白衣の上から叩いてみせる。
「やっぱり、さっきのは冗談だったんですね。まあ、僕でお手伝いできる部分は力になりますよ。……すぱぁ~」
ふんふんと鼻を鳴らすネコと、白衣の
「抹茶フレーバーかね?」
そっと、パイプに手を伸ばす少女。
「だめですよ」
青年は、パイプを持ち上げ、口から、抹茶色の怪煙を吐きだした。
「ニャガ、ニャガ」
ネコは襲い来る抹茶色と、戦っている。
「非電源の
「タバコの成分はありませんけど、栄養上の観点から、20才未満は使用禁止です」
「また、箱(に書いてある注意)書きを
ソファーに座ったまま、ジタジタする様は、年相応の女の子みたいである。
「注意書きを守らないで、何を
姿勢を正し小言をいう様は、まるで長年勤め上げた令嬢付きの執事のようである。
「フッニャッ!?」
そんな喧噪の中、一心不乱にファイルに爪を立てていたネコが、
「「びりっ?」」
テーブルをみる2人。
ネコは、張り付いたフォルダの中を、こじ開けている。
「ニューロン、破いたな。全く、これ、買い取りにして置いて良かったですよ」
「やはり、君には、先見の明があるな。は、は、は」
青年が取り返した、紙製のフォルダ。その内部、長年閉じられていた、仕切りが開き、中身がこぼれ落ちた。
それは乱暴に千切られたような、小さな
「これ、
『第3研究区画.
自動工作機械:蒸着行程………6×480.
自動旋盤行程………5.
ーーー ーーー ーーー
(@$4×17280)$11,520.
(@$10×5)$50.
TOTAL $11,570.』
「このプロジェクトが凍結されたのって、1980年代って話でしたが、これ日付、2010年ですよ? ……3年前? なんかどっかで聞いたような?」
少女は自分が羽織っている、白衣をはだけて見せた。
「あっ!
「うむ。とりあえず、
「お手柄ですよ、ニューロン!」
「でもソウすると益々、ニャーロン君を航宙研に連れて行く名目が、なくなってしまった」
「ニャニャッ!?」
狼狽する灰色猫は、少女をみた。
そのネコの驚愕の表情は、青年の失笑を買い、抹茶色の煙が吐き出された。
「それなんだがな、ウチの航空宇宙研究部門では、ダメかい?」
「基礎研究がメインターゲットの、第3研究区画にも、
「ニャニャニャニャッ!?」
ネコがせわしなく屈伸を繰り返す。
「ニャーロン氏はなんと?」
「えっ? ロケット有るの? すごーい! と言ってます、たぶん」
ネコはテーブル上を駆け回っている。
「規模は小さいが、有るぞ! 34段伸縮推進ユニット搭載のスピアー3型が、この間、第一宇宙速度を突破したぞ?」
「凄いですね。ひょっとしてあの、オレンジ色の
「そうだ。あれが、我が第3研究区画が誇る射場だ」
「ゴロ、ゴロロッ♪」
まるで普通のネコのように、すり寄る灰色。
「ニャーロン君、君が懐いてくれるなんて、どういう風の吹き回しだい?」
全身全霊で、灰色ネコの蝶ネクタイのあたりを指先で、
「ニューロンの、宇宙船好きは、筋金入りですからね」
「ニャーロン君、君はもしかして、……
両目を糸のように細め、口をへの字にする
「ニャニャッ!?」
中腰のまま後ずさる、灰色猫。凄まじく挙動不審である。
照れているようにも見えなくもないが、やや不気味である。
「あー、それは無理かなー?
途端に意気消沈する灰色猫。
ネコは佳音の指先に、頭突きをした。
「こらっ! ニューロン! これは、本当にいけませんよっ!」
「いった―――くない、痛くない。いいよ、コレは、我が
プルルルルッ♪
青年が停止させてしまった秘匿回線は、とうの昔に再接続されている。
ちょっと失敬するよ、と言って席を立ち、ドア付近まで逃げていく。少女は青年から十分に遠ざかってから、スマホを取り出した。
「はい。……はい? ―――、―――」
そのスキに、小さな額に指先を落とす青年。
フギャッ!
「じゃ、行くとしようか。現場は我が第3研究区画の工作ライン工場、自動工作機械だ―――なにしてるんだい?」
少女のまえで、格闘家のように対峙している、灰色猫とハンサム青年。
「君達、ぜひ、そのフォーマルな格好のままで、付いてきてくれたまえ。ちょっと、寄りたい所が出来た」
「どういうことでしょうか?」「ニャッ?」
「ニャーロン君、君は―――空飛ぶ乗り物は好きかい?」
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