3:パスタ
「下がチョット曲がって、……そこで良し」
少女が指さす、青年の住居の一角。全く代わり映えのない、
「ふんっ!」
青年が力を込める。
「やはり、
「まあ、苦楽を共にして……きましたからねえ、ぐぐぐっ」
青年は、
『
そう鮮やかな飾り文字で書かれた看板は、ひたすら押し当てられている。
「そろそろ……1分半たちましたか?」
青年の額に、汗がにじむ。
「その接着剤は、市販の物だが、私が見立てたものだ。15キロの力で、5秒押し当てれば、事足り……1分半たったぞ」
白衣のポケットから、スマホを持ち上げ、時間だけ確認して、即座に戻す。
少しだけ後ずさったのは、電子機器を青年に触れさせたくないと言う、無意識の現れかもしれない。表示されていた日時は、件の冷蔵庫が吹っ飛んでから約一日半、2013年6月14日(金)AM11:57。
「ふー。説明書きには1分30秒ってなってるんですから」
その足下、灰色猫が、小さな黒板を立てかけた。
『古文書解読から、代筆、筆陣、経費申請まで。何でも承ります。』
文字の
だが、それには
『本日のランチメニュー。
水冷チキンパスタ
陣スペシャル―――$9』
「これ、
ジャケットを脱いでいる青年に問いかける、少女。
「いえ、コレでボウル皿ごと
そう言って、シックな蝶ネクタイにベスト姿の青年は、ドア横の木箱から、
その木製の桶を、ひったくる
「おや? ニャーロン氏まで、……その礼装は何なんだい?」
ドアの低い位置に付いた、
「ああ、コレは、代わり映えしないとは言え、新築記念と言うことで、気持ちだけでも華やかにしたいって、ニューロンが言うもので」
「は? ……君は、なんてなんて可愛らしいことを言うのかね!」
速攻で、全身ダイブ。本日、彼女が羽織っているのは、キレイな白衣だが、それに大した意味は無い。汚れる事に
「フッニャ!」
バコン!
ネコは、木桶でガードした。
ふっぎゃっ。シッポを踏まれた猫みたいな声が上がる。
またもや
「こんな明るいウチから、顔を出したって事は、なにか分かったんですか?」
青年は少女の顔も見ずに、新しい木桶を取り出して、状態を確認したりしている。
「組成は恐らくマグネシウム合金と炭素繊維の複合体と推測される。外側はセラミックで
少女は、鼻をさすりながら、一息で
「ええと、……つまり?」
ゆっくりと振り返った彼の口は、盛大に、ひん曲がっていた。
「紛れもなく、未知の機能性素材だが、現物だけ有っても何の意味もない。反発力増強の原因が解明出来なければな」
少女の視線が、下り坂の向こう、
カラフルな立体形状が
「現物があっても、再現できないモノなんですねえ……」
感心したように、少女の表情を見つめる青年。
「まあ、砕いたり削ったりして、弾き飛ばしたりしたら、この辺一体吹っ飛びかねないから、思い切ったことが出来んのだよ。それで、何とはなしに光学スキャンしてみたのだが……」
話が長いと思ったのか、猫はドアを大きく開け放ち、事務所へ桶を運んでいく。
「アレの
白衣の少女は立ち上がり、トレードマークでもある、着ていた白衣を脱いで、放り投げた。
「おっと、……今日は暖かいですよね」
青年はその、真っ白で、そこそこ厚手の研究員たちの制服を、片手で受け取る。
『
そう漢字で刺繍されている名前は、主席研究員である彼女のモノだ。
「私の、特注の白衣に付いているボタンと、
ガンゴロロン。
ネコが、木桶を落とした音が聞こえてくる。
青年は、白衣に付いているボタンを、指で摘んでみた。
「確かに、コレくらいの大きさでしたね、昨日の丸いヤツ」
「厚みも、直径も全く同じ、開いている穴も同様だった」
「フニャァァァァ!」
灰色猫は、青年の脚にしがみつき、少女へ向かって
「ニューロン。いくら何でも、そう言うことを言ってはいけませんよ」
「ニャーロン氏は何と?」
「……冷蔵庫爆破の犯人はお前だ! と言ってます、たぶん。……すみません」
彼は、掴んだ灰色猫の頭を、下げさせようとしている。
ぐぐぐ。抵抗して居るのか、小さな頭は、なかなか
ぐぐぐ。ニ゛ャ~ッ。
「いや……ソレは新しい解釈だ。
「いえそんな、今、その”跳ねる方のボタン”はお持ちですか? 比べてみましょうよ」
「手元には無い。本当に危険な可能性が出てきたので、厳重に保管してきた。具体的には、耐震ケージを衝撃吸収素材で満たした中に、絶縁体でくるんで埋めた」
青年は、白衣の背襟を調べた。
『第3研 自動工作機 4号機』というブランドタグが付いている。
「研究所の工作機械で作られたのですか?」
「私が、最初にここにきた3年前、子供用のなんて無かったから、立体採寸して、40着。3Dプリンタで量産した。別にボタンに
腕組みしたまま、首ごと体をよじり始めた。
「3年前? 成長期に40着も作ったら、……はっ!?」
彼女の顔も見ずに会話していた彼は、側頭部への圧を感じたのか、慌てて向き直った。
「これでも少しは、成長したんですからね!」
胸元を隠すように腕を組んで、仁王立ち。
「立体採寸のおかげで、腕周りとかゆったりだから、今ではハーフサイズになってちょうど良いんだからねっ!?」
「わ、分かりました。そうだ! 航宙研のフォルダの調査結果を……」
そそくさと、事務所へ向かおうとする彼を、引き留める少女。
「
「最近、いろんな研究機関の秘書の方から、未精算の伝票や、出所不明の内部文書の処分なんかを、頼まれるようになったのですが、その中の一つですね」
「ふっふっふ。大出世じゃないか。1年前、私の
「感謝してますよ本当に。あの、工学科のブラックホール、佳音主席研究員から日報をもぎ取った、
青年の表情が、
「未だに、”佳音文書崩落事件”だなんて言われて、新任の研究員たちからは恐れられているぞ? ぐっふっふー」
白衣を脱いだ少女は、青年たちの礼服と並んでも、見劣りしない格好をしていた。
サスペンダーで吊られた、落ち着いた色合いのコルセットスカートは、青年達と合わせたコーディネートだと言っても違和感はない。ヨレヨレのストライプシャツにループタイというトップスも、華麗とは言いがたいが及第点と言えよう。
惜しむらくは、『第3研』と書かれた……
「何で嬉しそうなんですか。……まあ、
彼は、自分の靴に腰を下ろしたネコを見た。ネコは近くの木々を眺めている。
ネコのくつろいだ様子を好機と見た少女が、カランと音を立てて歩み寄った。
ネコは動きを止めて、少女を見つめる。
「じゃー概略で。結論としては、『非公開の実証実験中に失踪した人物』に関する、日割りのお給金に関する
彼は少女と猫の、目に見えない凄まじい攻防に、毛ほども構わずに会話を続ける。
「そんなモノから、なぜあんな、奇抜な物体が? その給金とやらは何日分かね?」
ジリ。
ネコは腰を上げ、半歩後退。
「人物名は気にならないのですね。まあ、非公開なので知る由もないですけど、……13日分……約2週間だったと思います」
ジリジリ。
更に半歩。
「それは、高額なのかね?」
「いえ、決して高額ではないのですが……」
眼に見えない攻防に、あきれる青年。
「……航宙研に足を運ぶ、必要があるな」
眼を合わせず後ずさる灰色を、凝視する
「にゃ」
間合いを計る事に集中していたが、ネコは
もう一度、青年の足にしがみつく。
「連れて行けって!? ニューロン、君は航空宇宙研への入室パスを持っていないじゃないですか」
「にゃ!」
猫は
「僕だって、工学部以外へは、パブリックスペースにしか入れませんよ。こらっ! くすぐったい! ヤメッ! やめなさい! 無理なモノは無理っ!」
「そう言えば、月イチで、航宙研の敷地内に進入しては、トラップに引っ掛ってるけど、ニャーロン氏は、航宙研に何の
あまり刺激しても仕方がないと判断したのか、彼女は1歩下がった。
「ニューロンは、宇宙船マニアなんですよ」
青年は灰色猫を、ベリベリと引きはがす。
「地下シェルターの寝床も、航宙研から強奪してきたガラクタで一杯です」
そのまま猫掴みされ、顔の前に持ってこられてしまう。
「……ニャニャニャー」
両耳をペタリと伏せ、眼を逸らす。
「いーや、ガラクタです。年に一回も引っ張り出さないモノは、必要有りませんよ」
「いや、君、そりゃ間違ってるぞ。君の次の次の次の代に、それを必要とする場合は、往々にして存在する」
「
不意に矛先は、少女の自室へ
「
猫を掴んだまま、にじりよる
その直後。
「あのぉう? それぇ、水冷? パスタってぇ、今日ヤってるんですかぁ?」
そう背後から声を掛けられる、クシも入れていないであろうボサボサの髪型。
背後から見れば、寝坊して髪をセットする時間がなかった、”カフェの店員さん”に見えなくもない。
ここ、『
『
『
『ニューロン』は、……ウェイターと呼んでも、特に差し支えはないかもしれない。
「いらっしゃいませー。うふふふー? 何名様ですかー? お席は最大4名様までとなっておりますー❤」
少女は満面の笑みで振り返った。
冗談だったのか、それとも、気まぐれで、青年達の手伝いを買って出たのかもしれない。いずれにせよ、ソレは悪意ではなかったはずだ。
ここ
事務所に飾ってある雑誌や新聞の切り抜きは、主に彼女の基礎研究の功績によるモノだ。
そして、その中の極一部の
「しゅっ、主席研究員っ!?」
うわずった叫び声。
青年に近い年齢の、スラリとした女性が、気を失う。
青年は、独特な呼気を用いて瞬間移動し、女性を背後から優しく受け止めた。
そして、明朝には、次のような記事の切り抜きが、青年の事務所の壁に増えると思われる。
『
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