第15話覚醒

 あれからどれだけ経っただろうか。もはや声が出ないし、声を出す気力すらない。

 僕はぼやけている視界で、目の前のフォロスという男を見つめた。

 彼は手にしている短剣でチクチクと刺して、フォロスは相変わらず僕を痛めつけてくる。あえてヤツは致命傷にならない部位に攻撃しているようで、死には至っていないが、それでも何度も繰り返されると、肉体的な痛みを通り越して、精神的な苦痛に苛まれている。

 頭がぼーっとしてくる。

 僕を掴んでいる巨大な氷の手から伝わってきた冷気も、今はほとんど感じない。すでに痛覚をはじめてした、感覚が失われ始めているからだ。

 すでに自分に課せられている苦痛に対して、第三者目線で見ているような変な感覚に陥っていた。ナイフで刺されているのが、自分に対して他人事に思えるようなそんな変な感覚だ。

 なんで僕がこんな目に合わなければいけないのだろうか?

 ――眼前で、愉悦に染まった笑みを浮かべているこいつが腕輪を奪ったりするからだ。

 どうして悪人が裁かれることなく、こんなに楽しそうに笑っているんだ。

 僕にはそれが許せない。

 思考がまとまらくて、靄がかかったかのように脳内でいろいろな感情が渦巻いてごちゃごちゃになっている。

「さあて、そろそろトドメと行こうかね」

 フォロスがシ短剣を思い切り振りかぶり、心臓めがけて突き出してきた。僕は自分の運命を受け入れられなくて、たまらず目をつむった。

 短剣の切っ先が僕の皮膚を捉えようとした――その時だった。

「待って」

 広場の入り口のほうから、抑揚の感じられない女の子の声が聞こえてきたのだ。

 フォロスは律儀にもショートソードを突き刺そうとした手を止めて声の主を見つめた。

 僕も霞みゆく視界の中で、声のした方に視線を向ける。そこには十歳前後の黒髪の女の子が立っていた。感情が読み取れない表情をした女の子。ここに来るまでの間に知り合いになり、入口においてきたはずの女の子だった。

「ユウヤ、何してるの? こんな小悪党にやられるために、あなたをここに送り込んだわけではないはずよ」

 マリヤが僕のほうに視線を向けて言葉を紡ぐ。

 子悪党呼ばわりされたフォロスだが、それでもフォロスは自分が圧倒的に優位な状況に立っているという余裕から、紳士的な様子を乱したりはしない。

「お嬢ちゃん。ここは遊び場じゃないんだよ。危ないから外に出てなさい」

 マリヤに声をかけるフォロスからは、優しさのようなものすら感じられた。

 しかし、マリヤはフォロスのことなど眼中にないかのように、彼のほうに視線を向けようとすらしない。

 フォロスの忠告を無視して、マリヤの小さくて華奢な身体が僕たちのほうに向かってくる。

 ――来ちゃダメだ!

 言おうとしても、声が出せない。

 見ると、フォロスのほうも時が止まっているかのように彼女を見つめたまま動かない。ひょっとしたら本当に時が止まっていたのかもしれない。

「どうやら手段を選んでいられないみたいね」

 マリヤは手を伸ばせば届くほどの距離に近づいてから、背伸びをして僕の頭に両手を乗せたあ。

「憎しみを解放して。怖がらないで。きっと大丈夫だから」

 ――その瞬間、僕は妙なほど頭の中がすっきりした。

 記憶の映像の中に真っ先に思い浮かんだのは、浮かんだのは悲しみに暮れたナナの表情だった。

 いつも無邪気に笑っているナナに、そんな顔をさせたのは誰だ?

 原因は僕にあるのだろうか?

 それは間違いない。でもそれは一因であるだけで、原因のすべてではない。

 それじゃあ、他に誰が悪いというのだろうか。

 そんなものは決まっている。僕の目の前にいるこの男だ。

 僕はナナにそんな顔をさせたこの男が憎い。

 殺してやりたい。

 だったら殺せばいい。

 何の問題がある?

 力のおもむくままに。

 力をふるってやればいい。

「うあああああああああああああ!」

 僕は、貯まっていた鬱憤をすべて放出するように雄叫びを上げた。

 身体の内側に巡る血液が一気に沸騰するような感覚だった。

 笑えるほどに全身から力があふれかえってくる。

 驚くほど視界と思考がクリアになる。

 さっきまで感じていた鈍い痛みも何も感じないし、なんだか心地いい気分だった。

 大きく呼気を吐いて、身体に力を込めて氷の手の破壊を試みる。するとあれだけ僕を苦しめ、僕を拘束し続けた氷の手はあっさりと砕け散ってしまった。

 その惨状に目の前の子悪党はは情けない声を上げて唇をわななかせながら、後ずさった。

 そういえば、コイツは何者なんだっけ?

 頭はすっきりしているのに、前後の記憶がどこか曖昧になっているようだった。

 目の前の男の情報がすっぽり抜け落ちているが、そんなことはどうでもいい。僕の中にあるのは、ただただコイツが憎いという事実だけ。だったらその感情をぶつけてやればいい。

 速攻で間合いを詰めて、ありったけの憎しみを込めて剣を振るった。

 男は短剣で抵抗を試みるが、僕はその剣を軽く弾き飛ばし、がら空きになった男の心臓を一刺した。

 剣越しにずぷりとした、生々しい感触が手に伝わってくる。癖になるような、とても心地よい感触だった。

 ――コンナンジャタリナイ。

 そうだ。僕が味わった苦しみはこんなもんじゃない。ナナがコイツに味わわされた喪失感はこんなもんじゃない。

 やがて目の前の男がすぐに動かなくなってしまうが、それでも感情の矛先を収めきれない僕はまだまだ男に一撃、二撃と叩きこんでいく。

「シネ! シネ! シネ! あは、あははは」

 男の身体が人間という形からどんどん乖離してゆく。

 僕は、男の身体から肉が引き裂かれる様子がなんだか楽しくなってきて、その行為にも熱が入ってしまう。すると、喜びを隠しきれなくなって、自然と口元がだらしなく微笑んでしまう。

 それも仕方ないことだ。人間は楽しいときって、自然と笑みがこぼれるものだろう。そういうことだ。

 夢中で男の身体を引き裂いていると、僕は何者かに羽交い締めされて、拘束された。

「やめて! もうやめて!」

 僕の背後から、女の人の声が聞こえてきた。その声が鼓膜を通して脳に入っていくと同時に、その声の正体に思い至る。

 振り返らなくても、声の主の必死な形相が脳裏に浮かんでくるようだった。

 そんな彼女の様子を重いか可部田瞬間、僕を支配していた熱がすうっと引いていく。

 フォロスの血がこびり付いた剣から手を離して、僕は僕の身体を拘束しているアスカの手をそっと掴んだ。

「ゴメン。もう大丈夫だよ」

 すると、アスカはおそるおそるだけれど、僕の拘束を解いてくれた。

 そのときに、僕の懐に忍ばせていたナイフが転がり落ちた。 

 地面に膝を突いて、血に染まった右手でそのナイフを拾い上げる。それはナナにあげたナイフとお揃いのナイフだった。

 そのナイフを見つめながら、ナナの顔を思い出していると、

「そろそろ、少しくらいは思い出してもいいんじゃない?」

 僕を見下ろしながら、マリヤが意味深な笑みを浮かべていた。

「――っ!」

 マリヤ顔を認識した瞬間、僕はチャンネルが切り替わるかのように意識が途切れたのだった。


 これはあるはずのない記憶だった。

 僕はキッチンに立っていた。

 僕はまったく料理ができないのだが、それでも大切な誰かのために料理を振る舞うためにそこに立っていたのであった。

 そして僕の隣にはもうひとりの人間が立っていた。

 僕はその人のために料理をこしらえていたはずだったのだが、僕の料理があまりにも不安だったため、自分の身の安全のために僕のことを近くで監視することにしたらしい。

 横目でその人の表情を伺うが、顔のあたりがうすぼんやりとしていてよくわからない。いや、しっかりと顔のつくりも見えているはずなんだけれど、僕の脳みそがその人の顔を認識してくれないという不思議な感覚だった。

 でも夢の中の僕はそんなことを気にも止めず、その人と楽しそうに会話をしながら料理を進めている。

「ちょっと! なんでそこで砂糖を入れるのよ! そこは塩でしょう。まったく信じられない。なに? あたしに料理を振る舞ってくれるって言ってたけど、もしかして料理にかこつけてあたしに恨みでも晴らそうっていうの? それでこんなゲテモノ料理を作ってるんでしょう?」

 そうやって不満の言葉を並べてもいるものの、その人の顔は綻んでいて、どこか楽しそうな雰囲気だった

「あはは、ごめん。しっかりやるからさ。完成を楽しみにしていてよ」

 僕はそう言いながら、今度は野菜を切り刻んだ。

 それからも、横から、ああでもない、こうでもないと口を挟まれながら、料理が順調? に完成していく。

 やがて出来上がったのは何の変哲尾内料理。だけれど、その料理は靄がかかっているかのようにぼやけてしまっていて、その正体が掴めなかった。

 これは記憶の断片か何かだろうか……、でもやっぱり、僕の記憶にこんな思い出はないはずだ。

 そして、二人で手を合わせて、料理に手をつけようとした瞬間、夢の世界の僕の意識は途切れてしまった……。

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