第9話
授業中はいつもいつも無心だ。ノートも取るし話も聞いてはいるけれど、どこか現実に居ないような心持ちで臨んでいることが多い。
特に今日は、今朝から八尾なんて妙な生き物に絡まれたせいでふわふわしっ放しだった。あいつは喋り方と佇まいからして浮き世離れしている。あんなものと喋ると原風景に旅立ってしまうのも仕方ないだろう。
だからその一日は一瞬だった。
朦朧とした意識のまま帰りのホームルームもやり過ごし、下駄箱に立っている。そこではたと思い出した。
「ああ、新聞部」
意識せず声が漏れ出る。もう今にもスリッパを下駄箱に突っ込もうかとしていたところだった。部活のことなど忘れて帰路に着きそうだった。反復行動の為せる技だ。
そうか、俺はまだ去年のままなんだなと。そんなことに気が付いた。
今年になっていろいろ起こってはいたが、染みついた習慣はそのままだ。去年のようにぼーっと授業を受けて、帰路に着こうとしていた。ただ、下駄箱の前でギリギリ気が付いた辺り、まるっきりそのままってこともないのかもしれないが。
手に持ったスリッパを床に落とす。
昨日掲示も終わったことだし、何も無ければ帰っても良かったのだが、そうもいかない事情があった。約束しているのだ、笠置と。
踵を返して、部室へと向かう。
そこで笠置が待っているはずだ。昨日メールしたやりとりがポケットの携帯にしっかり残っている。
用件はそう、顧問の面談の件だった。それでまあ仕方なく適当に文面考えて送ったのだが。返ってきたメールに書いてあったのだ。『明日の放課後、部室に行く』と。
猛烈に拒否したかったのだが、そういうわけにもいかない。部長は笠置だ。しかも明記されてはいなかったが間違いなく俺が部室で待っていること前提だった。困ったものだ。
それに、睦野も居るに違いない。
昨日、四月の掲示を貼り終えてからはろくに会話も無く解散となった。だから今日の部活について示し合わせてなんていないのだけれど、だからこそ睦野なら部室に来る。そんな確信があった。
睦野は猪突猛進だから。
部活が無いという可能性は思考の片隅にも存在していないだろう。
躊躇いの無さと目標に突き進む力。そう考えてみると笠置にも似たところがある。
あいつは考え無しに行動するタイプでは無いが、逆に思考力については頭一つ抜けていたはずだ。確か模擬試験の点数なんかも軒並み一桁台を記録するレベルだっただろう。
新聞部を作るに当たってほとんどの課題を笠置一人の力で難なくクリアしたのは覚えている。というか、笠置が行動すると壁に阻まれることが無い。だからそう、多分。あいつはいつだって頭の中で、思考実験的に、目標に向けた行動をし続けていた。あの四人を見ていれば気付けたことだった。
睦野については笠置にも名前だけ伝えてある。だが性格は伝えていない。もしもあの二人が部室でかち合わせたとして、何が起こるか。ちょっと想像も付かない。
不安だ。
だがそうこうしている間に部室に辿り着いてしまった。見た感じ争いなどは起こっていないようだが、大丈夫だろうか。扉を開けたら変な対決とかしてないだろうな。
――コン、コン、と。
躊躇いがちにノックしてみる。
「あ、先輩ですか!」
がたがたと中で動きがあり、扉越しに小さく声が聞こえた。程なくして開く扉から顔を覗かせる睦野と、椅子に座ったまま片手を挙げて挨拶してくる笠置。
何も、起こってはいなさそうだった。
「うす」
軽く頭を下げる。寒くも無いのに身体が縮こまっていて不細工な仕草になってしまった。
だがあの笠置の雰囲気、久しぶりに見ると気後れもしてしまう。的確に急所を突く物言いに、奇妙なまでの察しの良さ。苦手だ。
「……来たな」
そんな視線に気付いたのかどうか、ゆったりと笠置がこちらに身体を向けた。
眼鏡の奥の瞳がいやに光っている。何だかこう、夜行性の生き物みたいな。背筋のむずむずする光だった。
笠置は言った。
「相変わらず気の抜けたキャベツみたいな顔して。睦野さんも不満だと言っていたぞ。もう一度シッカリした顔でノックからやり直せ」
「……は?」
キャ、キャベツ?
聞き返そうにも笠置はクッソ真面目な表情のままだ。だがなんとなく、ここでキャベツなんて言ったらふざけているのが俺みたいじゃないか。実態がどうあれ、そう扱われる予感がある。
だから俺はそっと外に出て扉を閉めると、表情を引き締めてからもう一度ノックをした。
コンコンと。
躊躇いを捨ててノックをやり直す。
――いや、俺は何をやっているのだろう。流れに身を任せてしまったがおかしな状況である。
もやもやしていると、なんかちょっと引け腰の睦野に扉を開けて貰い、笠置と目が合った。
「やはり顔が気に食わんな。もっとキリッとした顔で人生をやり直せ」
「殺すぞ」
「まあまあ怒るな、ちょっと喧嘩を売ってただけだ」
「喧嘩売ってんのかよ。何だお前そんな奴だったっけ……」
一瞬本当に頭に血が上ったが、眉尻一つ微動だにしない笠置に怒りを向ける気も失せてしまった。
「そんな奴も何も、僕達と遠賀原は互いの性格を知るほど関わってないだろう。というか立ち止まってないで入ってこないか? 扉を塞いで僕達をどうするつもりか知らないが僕はポケットにカッターナイフを忍ばせているぞ」
「ほんと何なんだお前」
ふふふと笠置は不敵に笑って、懐に手を突っ込んだ。
まさかカッターかとびびるが、笠置が取り出したのは何かの用紙一枚だった。何故懐からなんだ。笠置はぽんとそれを机に置く。
多分意味のあるものなのだろう、そう思った俺は部室にようやく入って、笠置の二個隣のパイプ椅子に座った。睦野がその俺の隣に座る。位置取りを間違えた。
「で、だ。本題だ、遠賀原。僕がメールで頼んだのは『五日間だけ部室に居てくれ』だったよな? 部活動をしてくれとは頼んでないわけだが、自主的に四月の掲示を完成させてくれたって認識で良いか?」
「……ああ、まあ」
事実は事実だが何故か言い回しにはちょっとイラッと来た。
「それは、私が無理矢理――」
「わかってるわかってる、遠賀原自身にはそんな積極性が無いってことは」
横からすっと口を出してくる睦野の台詞を笠置が途中で遮る。明らかにムッとした睦野だったが、
「睦野さんが遠賀原を引っ張ってくれたんだろう。正直助かったよ。掲示の問題はどっちにしたって無視できなかったから。ありがとう二人とも」
当然のように頭を下げた笠置に、睦野だけで無く俺も握り拳を解いた。さらに笠置はそのままの姿勢で、続ける。
「出来ればで良いんだが、これからも二人で新聞部として活動してくれないか。今日はそれを頼みに来たんだ」
その言葉の意味を咀嚼するにはほんの少しの時間が必要だった。
「……それは、えーと、つまり、」
「二人だけで、ですか?」
簡潔に、睦野が問うべきことを問い返す。
笠置は『二人で』と言ったのだ。俺と、睦野と。なら笠置はどうするつもりなのだろうか。田賀先生からの面談の件も間違いなく伝えたのだが、それでもやはりここでの部活動はしないつもりなのか。
笠置の答えもまた、簡潔だった。
「僕には部活動できない理由があるからな。他の奴らもそうだ。万が一他の誰かが来たらとにかく話を聞いてやってくれ。来るとしても八尾ぐらいだろうが。ま、暫定二人だ。頼むよ。頼む」
八尾ならもう来た。だが、何となく黙っておく。
笠置は頭を上げて、目を合わせてくる。変わらない無表情の中にある色はいまだ読み取れないが、冗談の類で無いのは確かだった。
だからこそ、
睦野がぽつりと「私は構いませんけど」と、らしからぬ弱い声で零すのを聞き流し、諦念混じりに釘を刺してみる。
「田賀先生からの面談の話は伝えたよな」
「部員下限数を満たさないという話なら何とかなる。僕がだいたい何とか出来るからな」
「部長は笠置だろうに」
「部長なんて飾りだ。僕の仕事はこの、」机に置いた紙を持ち、ひらひらと俺達に見えるように振る。「毎月の部活動報告書を提出するぐらいだ」
俺達に内容を見せながら、
「この通りぺら一枚だし、この学校の教師は基本的に忙しすぎる。こんなものちゃんと見てる余裕は無いし、流し読みされる程度なら誤魔化してみせるさ」
「……そうか」
何の気負いも無しに言ってのける姿に、気力を持っていかれた。
ただ悪足掻きというか、どうしようもなかろうと悪態ぐらいは吐かないとやっていられなくて、
「俺は部活なんてやりたくないんだけどな」
負け惜しみ、だ。
そこで初めて、鬱陶しいことに、笠置はふっと鼻を鳴らす。初めて、微かとは言え一瞬だけ表情を崩したのだ。こんなタイミングで。
「そんなことはそもそもこの学校では通らないはずだろう。それに、新入生を一人で活動させるつもりか?」
反射的に睦野を見遣ると、気にしないでくださいとばかりに首を振られた。だがそうしている割に、唇が軽くきゅっと結んである。何をどういう気持ちで受け止めているのかは分からないが、そもそも話の流れが良くないのだろう。前向きな感情は見られそうもない。
だがどう返せば睦野が喜ぶかなんて分からないし、意図的に眼を逸らす。
視界正面に、頼み事をしている側なのに余裕綽々な小柄メガネ。こう考えると笠置は
「部活動しないって宣言してる部長様にそんなこと言われるってのもな」
「悪いな。別に断ってくれてもいいんだ」
「やるよ」
自分でも驚くほど、すんなりと決められた。考えるより先に答えが出て、理由が後から追いついてくる。
「確かに部活動するって普通のことだし。清掃係送りも避けたい。何より俺は暇だからな」
「いいんですか先輩」
「いいったらいい。やるったらやる。仕方ない」
「そう言ってくれると思ってたよ」
そう言わないとは思っていなかったんだろう。そしてそれは正しい。俺には断る理由が無かった。だから俺が部活動をすることは決まっていたのだろう。多分、睦野がここを訪れたとき辺りに。
「じゃあ、田賀先生の面談に行ってくるよ。そのあとはここに寄らずに帰るから、一応この部活動報告書を見ておいてくれ。書いて提出するのは掲示紙面を頼りに適当に僕がやっていくつもりだが、それがややこしいと思うならメールしてくれ。田賀先生に担当が変わったということにしてもらっておく。部活、頑張れよ」
話は終わったと席を立ち、一方的に告げて立ち去るその背中を、俺は薄い意識で見送る。
二人だけの部活動。そもそも人手が足りるのだろうか。どうしたものだろう。どうしようもないけども。
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