第1話

 部室に入ったのは何度目だろうか。

 考えてみるが、流石に去年一年間もあったのだ。具体的な数は分からなかった。ただ、二桁は超えていない。間違いなく、両手の指の数に収まる程度だと断言は出来た。

 だから極自然に、部室に入ることそのものに苦戦した。それは気分的に中に入るのを躊躇ってしまう、みたいな、そんな精神的な話ではなくて。

 まず部室の場所を忘れていた。そして鍵の存在まで忘れていて部室に入れなかった。職員室に行って鍵を借りようとするも部屋の名前が分からず立ち止まった。顧問に聞こうと考えるも顧問が誰か分からずに首を傾げた。四連続コンボだ。

 結局、新入生用の部活パンフを探し出して部室の名前を見つけてから職員室に取って返してやっと鍵を手に入れる。顧問が誰かもそこで調べが付いた。

 そんなザマの俺が部室に居る意味があるのか。疑問が首をもたげるけれど、それは頼まれてしまったのだから仕方が無いのだ。

「ったく、笠置のやつめ」

 部室に入り、適当にその辺にあったパイプ椅子を見つけてドカッと座る。悪態を吐くのも許して欲しいものだ。こういう煩わしいのが嫌いで俺は幽霊部員になったのに。

 だが今日、四月の十三日。この日からとりあえず最低五日間、俺はやむを得ぬ事情で部室に六時まで籠もらなければならないのだ。というかこれは部活としての義務である。ここ『水都高校』での規則、部活参加義務がそもそもの問題の基盤だ。

 "黒板に向かうことだけが学びでは無い"と、入学式で校長が語っていたのを思い出す。だからのだと。

 わりと飛躍した論理だと思うし、我が家で学ぶことだってあるはずだろう。そんな話の流れで部活参加義務について通告されて不満だったのを覚えている。まあ、一応入学前から知ってはいたから、諦めもついたのだけども。

 それはさておき、部活参加義務が原因で新入生向けに『部活選択期間』なるものが用意されている。

 だいたい二ヶ月。その期間の間に、新入生は部活の見学や仮入部などその他、方法は問われないが部活を選ばなければならない。つまり新入生が部活を選びやすいように、その期間は学校側からの指示で各部も新入部員受け入れ態勢を整えておかなければならないのだ。

 その期間、ちょうど今。その今に部活をやっていない、ましては『放課後に部員が誰も残っていない』のではお話にならない。規則は規則だ。生徒手帳にだって書いてある。『部活選択期間、各部は何らかの新入部員の勧誘活動を行う。これを守らなければ廃部や清掃係への強制配属などの罰則があり……』

 それでまあ色々あって部室でだらけていた。

 パイプ椅子の座り心地はすこぶる悪い。軋む音はうるさく、微妙な堅さが腰にクる。正直に言うと帰りたい。俺は家が好きなのだ。

 時計を探すも見当たらず、仕方が無いからスマートフォンで時刻を確認する。『16:39』。頼まれた滞在時間は六時までだ。長い。

「寝るか」

 そう思い立つも寝台なんて無かった。仕方が無いのでざっと部室内を見回し、パイプ椅子五つを並べて寝転がってみる。ダメだった。背もたれ用のこのあの何? 鉄の棒的なモノが非常に邪魔だ。

 しかし横を向けば何とかギリギリ……、なんて考えていたときだった。

 コンコン、と。扉が叩かれる音がした。

「……いや、まさか」

 隣の漫研だろうなんて希望的観測に任せて無視する。するとなんということでしょう、扉が開かれたではありませんか!

 ……あ、え。

「失礼しま……す?」

 入ってくるとは思いも寄らなかった。とか、そんなこと考えている場合ではなくて。

 逆さに見上げる形の視界に、一人の訪問者の姿が映っている。見知らぬ顔だ。流石に幽霊部員と言えども新聞部員の顔ぐらいは把握している、はず、だ。だから彼女はきっと新入生で、新入部員希望者、なのだろうか。

 量産型女子中学生、という感じだった。ここに居るということは間違いなく高校生なのだが、どうにも制服も馴染んでいない。いかにもな新入生だ。

 ということは、

「あー、入部希望?」

「エ、は、はいそうですケド! ……けほけほ」

 猛烈に裏返った声で返事をして、そのまま真っ赤な顔で咳をしている。平凡な顔だがその仕草が可愛い。逆さまの視界で見ても、手の甲で口元を隠す彼女にはどきりとした。

 しかしどうしようか。入部希望者が初日から現れるなんて考えもしなかった。歓待の準備は整っていない。

「そうか困った。見ての通り今日はちょっと都合が悪い。他の部活も興味あったら今日はそっち行ったら良いと思うんだけど」

「他の部活、ですか。ん-、私、新聞部しか興味が無くて……」

「え」

「じゃあ次来るならいつが都合が良いでしょうか。それと、今月の紙面がまだでしたけどありますか? あれば見せてほしいです」

「あ~……?」

 当然のように具体的な話に入られて本当に困ったことになったのを悟る。新入生さんはとても真面目な顔をしていらっしゃる。冗談を言っている雰囲気は無かった。つまり入るつもりなのだろう、この新聞部に。

 見学程度の生温い勢いなんてしていない。この場で入部届にサインしろと言われれば即座に筆箱を取り出しそうなその気配。何食わぬ顔で婚姻届を出しても名前書くぐらいまでは気付かずやってしまいそうな感じだ。気が逸っていそうである。婚姻届を持っていないのが残念です。

 というか、これは俺の守備範囲外の案件だ。なにせ俺は幽霊部員なのだから。

「部長にメールしとくわ。アドレス教えてくれる?」

 そう顔も見ず問い掛ける。が、言った直後に思い直した。メールアドレスなんてそんな簡単に聞いていいものだったか。

「いやメアドはダメか。クラスと出席番号でいいや、はい」

 やっとパイプ椅子から起き上がり、適当に鞄の中から取りだしたノートを机に置く。シャーペンを添えて、はいどうぞ。

 俺も居住まいを正してパイプ椅子に正しく座った。気分は面接官だ。

 どうやら意気込んで来たらしいこの新入生なら即座に書いて立ち去ってくれるだろう――と、そう思っていたのだが。

 なぜか動きを見せず、俺の方を見て思案している。

 嫌な予感がした。

「えと、先、輩?」

 言いにくそうに俺を呼んでいる。名前を呼ばなきゃ円滑なコミュニケーションが出来ないタイプの人なんだろうか。寡聞にしてそんな性格の人物を存じ上げておりませんが仕方ない。

 適当に並べすぎて邪魔なパイプ椅子を退かしながら告げる。

遠賀原おがわら

 新入生はほっと安心した表情をして、一言、

「遠賀原先輩は、新聞部員なんですよね?」

 ひっじょーに答えに困る質問を投げかけてきた。

 これは本当にものすごく難しい。言うなれば『どこからが友達なのか?』という問いに匹敵する難解さである。

 確かに、た、し、か、に、俺の名前は部員名簿に刻まれている。だが、部活に参加したことはほぼ皆無だ。遊んだことの無い相手を友達と定義し難いように、部活に参加したことの無い人員を部員として扱うのは不可能に近い。実際、部長の笠置以外の部員には居ないものとして処理されていた。本当に俺の顔を覚えていない奴が居たとしても不思議では無い。

 さて、だが、しかしだ。ここで『違う』と答えるわけにはいかないのである。そんなことをしてしまうと方々ほうぼうに問題が波及して新聞部は潰れてしまうやもしれない。そして俺は清掃係送り。あんな恐ろしいところに送られるのは単純に嫌すぎる。

 だって清掃係ってあそこ、その名の通り学内清掃はもちろん、強制自習や筋力トレーニングまであるんですよ。肉体と精神を鍛えて完全なる存在アゾートに至らんとする集団なのだあれは。しかも強制されて。

 顧問も入れ替わり立ち替わりだから楽なときは楽だが、逆にやばいときはクレイジーだ(語彙力)。極稀ごくまれとはいえ校長の監視下で勉強することもあるだなんて寿命が縮んで潰えてしまう。

 だからまあ長々と考えたが、心情には関わらず答えは決まっていた。

「そうだな、部員ではある」

 少しばつが悪く、視線を彼方に向けながらの返事となってしまった。そんなものでも満足だったらしく新入生は微笑むと、頷く。

「ですよね。よかった」新入生は椅子を引いて腰を下ろすと、ペンを持つわけではなくこちらに向いた。「じゃあこの部がいつもどんな活動してるか教えてください」

 沈黙。

 じわじわ、追い詰められているんだが。これは何だ。何かの罠だろうか。

 背中が汗ばんできた。部活動……部活動を説明すれば良いのだ。部活動。新聞部は何をしていたんだろうか。

 必死に脳を回転させる。流石に答えを知らないはずは無い。知っていたはずだ。アレだ、アレである。

「掲示」ようやっと出た答えに、自ら頷く。「掲示板に紙面を毎月貼っていた。多分そうだ」

「たぶん?」

「いや多分じゃ無くて……ほら、な」

 何がほらなのだろう。馬鹿すぎてちょっと口角が歪んでしまう。真剣な表情の新入生に対して失礼だが。

 それから数秒。

 はぐらかそうとする俺の胸臆を見透かしたのだろうか、ふと新入生は口元を緩めた。視線だけが変わらず鋭く、優しげな微笑みとの不釣り合いさが俺の恐怖を誘った。

「先輩」

 冷たい声音。首筋に水滴が落ちたみたいに背筋がピンと跳ねる。奇妙なぐらい、怖い。

「遠賀原先輩、本当に新聞部員なんですか?」

 疑われている。どこでボロが出たんだろうか。むしろボロしか出ていないってことはもちろん分かってるけど。重々承知しているけども。

 しかしどうしたもんか。誤魔化す方法も思いつかない。

「あー……」

 もう、いいか。そもそもが無茶な話だったんだ。

 笠置からの連絡も遅かったし、オレはあまりにも部活に触れなさすぎた。

 何より、取り繕うのが面倒になってきた。

 椅子の背もたれに背中をぐいーっと押し付けて、伸びをしながら喋り出す。

「まーー、部員は、部員だ。新聞部員」

 そして、そのままいつもの猫背モードに戻って新入生と眼を合わせた。

 まつげが長いのか、目元の黒い輪郭がハッキリとしている。遠目では気付けない、意思の強そうな瞳。やっぱり、こんな真剣そうな奴を相手にのらりくらりと逃げ回るべきではなかったんだろう。

「だけど部員は部員でも幽霊部員でな。事情はあんまり知らんのだが、どうやらちゃんとした部員達は今んとこ活動をやめてしまってるらしい。それで部長から無理矢理留守番に駆り出されて。だからな、俺個人だと新入部員の受け入れとか出来ないんだよ」

「それってルール違反なんじゃないんですか?」

「だな。困ったことに」

 実際、本当に困りものだった。ルールは守らないと清掃係送りが待っている。もしも俺が笠置他の新聞部員と交流があったのなら事情を聞きに行くところだ。交流が無いのだからそんなことはしないけれど。

「なるほど、納得しました。道理で掲示の日付が去年のままだったわけです。おかしいと思ってたんですよ」

 新入生の方は何かに得心がいったのかふんふんと頷いていた。

 掲示、去年のままなのか。笠置達にいったい何があったのだろうか。仲の良い奴らで、大抵のことは友達ってだけで何とかしそうなものだったのに。本人達に聞くつもりは無いが、掲示の確認ぐらいはあとで行ってみよう。

 とりあえず目下の問題はこの新入生である。こっちの事情は打ち明けてしまった以上、やれることは待つことだけだ。

 新入生は二度三度一人で頷くと、パッと顔を上げた。

 その表情、何かを思いついたかのように意気込んだ表情に、嫌な予感がした。

 だが、止める間も無く彼女は、新入生は発言してしまう。

「じゃあ、四月の紙面を急いで用意しなきゃですねっ!」

 もういつの間にか部員のつもりで居るような彼女の態度に、いっそ恐怖を覚えた。

 俺の輝かしい幽霊部員生活が崩れるだなんて、もしかしたって言わないだろうな。と、薄い期待だけを抱いてみる。その望みは叶わない気はした。

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