へその緒、猿、携帯電話

二十四番町

第1話

 猿が木箱を掠め取っていった。

 走りゆく子ザルの姿と、いましがたまで木箱を握っていた手を見比べる。何の変哲もない道端で猿に遭遇したことも驚きだが、外出時に持ち出すことのないものを偶然持っていた時に、それを盗まれるとは予想だにしなかった。

 猿が街角を曲がる。達也は手のひらを数度開閉してから、猿を追い始めた。

 真夏の昼下がり、むせ返るような熱気の立ち上る道端での出来事。


 猿は巧妙に達也を誘っているのか、ぎりぎり視界に収まるように逃げ続けた。たまに途中で立ち止まっては耳を後ろ脚で掻いたりするのだが、達也の手が届く範囲に入った途端再び走り出す。猿にもてあそばれる高校生という構図はなんとも滑稽である。

 それでも必死に追いすがり、何度目かの角を折れ、町の喧騒が随分と遠くなった細い路地で、ようやく猿は完全に動きを止めた。茶色い毛むくじゃらの小憎らしい背を目の前にして、達也は荒い息を吐いた。雫がアスファルトに吸い込まれ、黒々と滲む。

 一息をついて体を起こすと、目の前には『リサイクルショップ宗村』という看板。橙に白抜きで書かれた文字はところどころはげていて、赤茶けた錆が浮いている。軒先まであふれ出した古物の山が、リサイクルショップというよりも骨董品屋を名に冠すことを勧めていた。

 猿は急に息を吹き返し、その店のわずかに開いた引き戸に滑り込んでいった。「あっ、おい」という制止の言葉がむなしく宙に消える。達也は数秒悩んでから重い足を店へと向けた。




 立てつけの悪い扉を人ひとり通れるだけ開いて中に入る。かび臭く冷たい空気が達也を迎えた。外からでも見て取れたが、やはり店内は所せましとものが置かれ、横歩きでなんとか進める程度の空間しかない。箪笥と五月人形、それから招き猫と茶臼に縁どられた通路を注意しながら歩き、店奥をのぞく。

 古めかしいカウンターにはこれまた古めかしいレジスターが置かれていた。カウンターの先はそのまま自宅となっているのか、すりガラスで締め切られている。

 ものとものの隙間に視線を這わせ子ザルの姿を探すが、一向に見当たらない。茶色の背景に溶け込んでいるのかもしれないと、蚤取り眼で視線を往復させた。

 突然ガラス戸が勢いよくひかれた。そこには若い女性が立っていた。いかにもさっきまでテレビを見ながら茶菓子を食っていたという体の、紺のTシャツにクリーム色のデニム。長髪は所々跳ねている。

「なに? あんたお客さん? それとも泥棒?」

言葉の節々から伝わるけだるげな空気が、言外ではどちらでもいいと語っている。しかしここで盗人にされてはたまらないと、達也は律儀に「客です」と答えた。そもそも盗人は猿の方だ。

「そう、で、何か探し物? うちなんかじゃなくて、近くの量販店いった方が安くていいの売ってると思うよ、なんなら地図描こうか?」

「いえ、その、さっきこちらに木箱を持った小猿が来ませんでしたか?」

 女性は合点がいったという風に言葉を零し、首だけ戸の向こうに伸ばして「サスケ! こっちおいで!」と声を上げた。するとさっきの猿が元気よく走り出てきて、女性の脚、胴、背、肩へと登りあがり、小箱を片手で抱えて大きな瞳をぐるぐる回した。

「ごめんね、さっきまでわたし寝ててさ、起きたらこいつがなんか持ってるし、前にもこんなことがあったから、どっかからとってきたんだろうとは思ってたんだけど、まさか人様のものに手を出すなんてね」

 女性はサスケと呼ばれた猿の手から小箱を取り上げた。抗議の声を上げるサスケの頭を人さし指で小突く。

「はい、どうぞ、わるかったね、ほんと」

「いえ」

 小箱が差し出され、達也は手を伸ばした。しかし掴みとろうとした手は空を切る。目標物は達也の頭上へと移動していた。

「……なんの冗談ですか?」

「いやぁ、なに、あたし今暇だし、ちょっとゲームしない?」

 「ゲーム?」と達也がオウム返しすると女性はサスケに再び小箱を持たせ、「そう、ゲーム」と呟く。その顔はまさにいたずら小僧のそれである。

「私が勝ったら君はこの小箱の中身を私に見せる、私が負けたらこの小箱は即返還、どう?」

「どうって、それじゃ僕になんのメリットもないじゃないですか」

「まぁまぁ、これも何かの縁だし、しがない大学生の暇つぶしに付き合ってよ、ね?」

 蠱惑的なウィンクと、腰をかがめた際に覗いた谷間に負けたわけではなかったが、達也は迷った挙句しぶしぶとその勝負を受けてしまった。

 レジスターの上で小箱を弄んでいるサスケをカウンターにどかし、女性は楽しそうに言う。

「それじゃあ、この店内で一番高いものを当ててみて、もちろん選べるものは一つだけだからね」

 達也は店内を見渡した。うず高く積み上げられた古物達は互いで互いの体を隠しあっているように見えた。もちろん目利きの才能などないが、あったとしてもこの山から目当てのものを見つけ出すのは至難の業である。ため息を零し、内心あきらめつつも谷へと分け入った。

 土鍋、古びた端本、マトリョーシカ、天狗の面、手毬に手鏡、その他諸々を手に取っては元の位置に戻していく、達也の目は終業式に配られたプリントを見るように流れた。

 適当なものを持って行ってしまおうと決めた瞬間、竹で編んだびくの中に何かあることに気付いた。埃の溜まった縁に触れないように手をつっこみ硬質なそれを取り出す。

 鋏だった。持ち柄の部分で金のススキが揺れている。刃先は鈍い光を宿し、妙に静謐な威厳を放っていた。

 達也は数瞬それを見つめてから、閉じた刃を握りこんで女性の前に差し出した。女性は目を丸くしてそれを受け取り、宙を数度裁断する。サスケは小箱を転がして遊んでいた。

「こりゃまた懐かしい、爺ちゃんがよく使ってたやつだよ、これ、なくしたっていってたけど」

「びくのなかにありました」

 女性は刃先をじっと見ながらぞんざいに返事をする。

 達也もまた同様、刃先にずっと意識が向いていた。はさみ、切る道具、あれに挟まれたらさぞ痛かろう、血が出る、切れる、すぱりと、そしてぽとりと落ちる。想像した途端、腹の中心に渦ができ、シャツが吸い込まれるような感覚を得た。

「どうしたの? 顔色悪いよ」

 女性に顔を覗き込まれ達也は視線を逸らした。「いえ、なにも」と言葉をぼとりと落とす。

 鋏をカウンターに降ろし女性は満足そうに頬を緩めた。

「こんなゴミの山から意味あるものを探し出したことは評価しよう、しかし、これは別に高値の品じゃないね、残念ながら君の負け」

 予想通りの決着に達也は落胆も喜びもしなかった。当然だ、こんな一方的なゲーム、なんの特にもならないのだから。女性は「ちなみに正解はあれ」といって箪笥の上に飾られた日本刀を指差した。あまりにも分かりやすい品のうえ、目につく場所にあったはずなのに、全く気付かなかった。審美眼以前に注意力が欠けているらしい。

「じゃあ約束通り、箱の中身は見せてもらうよ」

「どうぞ」

 女性はサスケの手から小箱を取り上げた。

「……君ね、線香の匂いがするんだよ」

 達也の肩がびくりと跳ねる。

 女性は小箱を縦横に締め上げた赤い紐の封を解き、小箱のふたをゆっくりと持ち上げた。

 中には干からびたミミズのようなものがあった。朱色のベッドでとぐろを巻くようにして鎮座したそれは、酷く浮いて見える。

「これって、へその緒? またなんでこんなものが」

「もらったんです、今日、母の葬式の場で」

 女性は固く口を引き結びこちらを見た。瞳は何かを問うようだったがあいにくとその真意までは読み取れない。思った以上に真剣な視線は長い間達也の目を貫いた。だからだろうか、ついと口から言葉があふれ出した。

「父と母は俺が小さいころに離婚して、俺は父の元で育ったんです、母はどうも生活力がかけていたらしいんで。それから全く顔も合わせないまま、昨日連絡が来て、母が死んだと。それで今日葬式に出席したら、これを親族から渡されました。遺品だそうです」

 写真で見たことのある母の顔よりも数段老けた遺体の表情は、今まで見てきた中で一番の無表情だった。漫画やアニメでは死人の表情は決まって何かを語る魔力を宿しているのに、現実のそれはただただ血の気がないだけで、酷く生々しかったのだ。

正直なところ達也はそれを肉だとしか思えなかった。人型をかたどったタンパク質の塊、そう感じてしまった自分に対し、うしろめたさを覚えた。その罪悪感は、いまだ胸中にわだかまっている。

 きっとそれは焼香のあと、小箱を受け取った際に形を成してしまったのだ。

 呪い、関係という呪い。自分の死を他人の生に結び付け、あの世から生気を吸い上げるその醜悪な管は、簡単には断ち切れない。自分自身少なからずそれにつながりを感じてしまったのならなおのこと、管はより強固になり現実味を増す、ぬめぬめと光る赤い管が目に浮かんだ。

「ねぇ、君さ、これ、うちに売らない?」

 達也は自身の耳を疑った。顔を跳ね上げ、思わず間抜けな反応を返してしまう。女性は柔和な笑みを浮かべ無言で「どう?」と尋ねてきた。

 初めになんのメリットがあるのだと疑問した。他人のへその緒を欲しがる客など、魔女くらいのものだろう。それとも、この店には独自のルートがあって、へその緒を大金に変えられる算段がついているのだろうか? 子供のいない夫妻に渡し、これが母親の証左ですと売りつける? ばからしい、そういうことじゃないだろう。

 達也の視線は自然と小箱と鋏の間を行き交った。干からびたへその緒、鈍く光る鋏。やがて視線はその境界を捉えた。絞り出すようにして擦り切れた言葉を吐き出す。

「……俺は別に母を恨んでいるわけじゃありません。特別嫌いなわけでもなければ、当然好きでもない。ほんと、感覚としては赤の他人だったんです」

 女性は達也の突然の語りにも動じず、静かに耳を傾けていた。達也は胸の内で小さな穴が開くのを感じた。堰き止めていた何かが崩壊したというわけではない、指の隙間から砂が零れ落ちるような、ほんの少しの、感情の流出。

「一報があって、ああそういえばそんな人もいたなと思いだしたくらいでした。葬式に出席したのだって、形式的なものだった。遺影よりも前の人の焼香の手順を覚えるのに必死で、まともに写真の顔も見てません」

 生前の母の顔はどんなだっただろう? 柔和な笑顔の似合う、落ち着いた、妙齢の? なんだそれは、母という一般的イメージを言葉にしているだけじゃないか。本当は何も覚えていない。仕方がない、それは小箱を受け取る前の話なのだから。

奥歯がきしみを上げた。脳に向かう血液がヘドロに変化するようだった。耳鳴りがする。

「全く顔も合わせないでおいて、今更ですよ、こんなの、たちの悪い、嫌がらせです」

 達也は口を閉ざした。最後の言葉は女性の瞳を避けるようにして、埃の溜まった地面に紡がれた。沈黙が下りる。遠くの雑音がどこからか集まりだして、古物の山が隆起する。何も変わらない、先ほどと同じ空間だ。

 しばらくして女性は小箱にそっと蓋をし、元のように紐で封をすると、それを鋏の横に置いた。二人の視線はそのすぐ頭上で交差した。

「ごめんね、夏に上着まで持ってたから、ちょっと気になっちゃって……軽薄だった」

 達也は冬用制服の上着を小脇に抱えていた。上下は夏用の制服。夏休みの真っ只中に、この格好はさぞかし目立つだろう。

「あまり根詰めて考える必要はないと思うよ、別に正しいことがするべきことじゃないんだから…………私のじーちゃんもつい先日死んでさ、今はもうこの店を継ぐ人は誰もいないの、父は公務員だし、母は腰を悪くしているしね、満場一致で『リサイクルショップ宗村』は閉店が決定よ、たとえこの店が何十年も続いた店だとしてもね」

 達也はちらりと女性の顔を覗き見た。何の色もない。冷たくも温かくもない。

「故人の想いを汲み取ることは人間的だとは思う、けれどさ、いない存在を想い続けることって凄く大変なことだよ、もしこの店を続けるなんて言ってもいつかは絶対やめる、そんな中途半端なことするくらいなら、初めから決断してしまったほうがいい、って、私は思う、けれどそれはさ、十分に故人との時間を共有したからこそ、言えることなんだよね、たぶん、未練て不十分の裏返しだから……あくまで参考、ごめんね余計なことだったかな」

「……いえ」

 不十分、それは、自分とあの女性の関係を表すのにピッタリな言葉だと思った。

 これからもずっと、この関係は続くに違いない。指を切った時や体を洗っている最中、赤く脈打つ生々しい管が脳裏を掠め、隠し切れない事実に気がふさぐだろう。絡まり合った糸をどうにか解こうと苦心して、その糸の頑強さを理解するのだ、きっと。

 達也は答えを求めるように女性を見た。優しげな微笑が浮かんでいる。

「……今の俺には、決められません」

「そっか、じゃあもう一度ゲームをしよう、勝ったら小箱は私の元へ、負けたら君のもとへカムバック、今度は……そうだね、この中から非売品を見つけてみて」

 達也は首肯し、再び古物の山へと分け入った。

 埃を被り、数多の傷が刻まれた骨董品。過去には別の持ち主がいて、それぞれが固有の歴史を持つ。

 本を手に取った、これを読んだ持ち主は、何を思ったのだろう。

 五月人形のケースに手を置いた、子供たちの笑顔をたくさん見てきたのかもしれない。

 黒色の和箪笥を眺める、何をその腹に隠していたのだろうか。

 モノが語ってくれたのなら、或いは付喪神でも宿っていたのなら、その持ち主の想いを代弁してくれたのかもしれないが、現実の古物達はむっつりと口を閉ざし、ただただ朽ち果てるその時を待つだけだった。

だからこそ、モノは人から人へ渡されるのだと思った。語ることがないから、安心して手放されるのだ。

達也は深く息を吐き、女性の元に戻る。

始めから選ぶ品は決まっていた。

「これです」

「……」

 達也は鋏を握り、女性の前に掲げた。

 女性はため息を吐くと、やれやれと言った風に肩を竦める。

「ぶぶー、外れ、けど惜しい」

「惜しい?」

「そう、正解はね」

 腕を大きく開き、言う。

「この店だよ」

「……ずるいです。というか言ってて恥ずかしくありません?」

「ええい、うるさい、とにかく小箱は没収だからね!」

 眉を逆ハの字にして頬を染める女性に苦笑いを浮かべていると、女性は鋏を握った方の手を取り達也の胸に押し付けた。 

「代わりに、君にはそれを上げる、なくすなよ」

「……はい」

 握った鋏に視線を落とした。案外それは重かった。ぎっしりと詰まった鉄は、鉛だって紙切れのように裂ける気がした。

 女性は「あともう一つ」といって、ガラス戸の向こうに姿を消す。カウンターの前に一人残されぼうっとしていると、サスケが消えていることに気付いた。どこかに隠れているのだろうかと周囲を見渡すが、見当たらない。

 しばらくして、ガラス戸の向こうから慌ただしく現れた女性は携帯を握っていた。真っ赤でシンプルなデザインの携帯。女性は素早く何かを操作すると、ずいと携帯の頭を差し出してきた。意図が読み取れず、それを注視していたら、「早く、携帯」と不機嫌そうに催促された。慌てて尻ポケットから携帯を取り出す。銀色の携帯。

「はいじゃあ赤外線準備して、私のメルアドと電話番号送るから登録よろしく」

 こちらの了承も取らずこのずけずけとした態度はなんだろうかと思うまもなく、達也は連絡先を女性と交換してしまった。

「達也っていうのね、よろしく、私は透、透明の透で、透、覚えといて」

「あの、いまさらですが、なんでこんなことを?」

「なんでって、君がこの箱を取りに来るときに一報を入れてもらうためでしょ? さっきも言った通り近々この店は閉めるの、だから今度会うときは個人的にね」

茶目っ気たっぷりにそう言って、透は片目をつぶった。

「もしかしたら、もう来ないかもしれませんよ?」

「こんな美人がいるだけで、来る理由は十分だと思うけど?」

 なんのてらいもなく胸を張って言う透がおかしくて、達也は笑った。非難の視線が頬に突き刺さったが、それを手で払いのけ礼を言う。透も笑顔を浮かべた。




 帰り道、自宅まであと少しという距離で、達也は小さな追跡者に気付いた。

 ため息を一つ、それから携帯を広げ、真新しい連絡先にコールした。

 夕暮れに染め上げられた携帯は、真っ赤に染まって見えた。

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