〈仮面〉を被っているのは誰だ?『仮面山荘殺人事件』東野圭吾 著

『仮面山荘殺人事件』プレビュー

 いつものようにドアを押し開けて、谷藤屋たにとうやを訪れた僕を待っていたのは、


「……」


 目があった。いや、本当に視線同士がぶつかりあったのかは分からない。レジの向こうでこちらを向いて立っている人物は、頭部をすっぽりと黒いマスクで覆っていたためだ。


「……」


 僕も、マスクの人物も無言のまま微動だにしない。マスクのデザインは異様だ。半開きのようになった口は口角がつり上がっており、まるで三日月のようだ。目は鎌のような形をしている。切っ先が上を向く形で配置されており、よって目が異様に鋭くつり上がっているように見える。被っている人物の素顔を窺い知ることは出来ない。口も目も、銀色のメッシュがかけてあるためだ。ただ、そのためマスクを付けている本人は、きちんと呼吸も視界も確保できているのだろう。


「――おわっ」


 マスクの人物が動いたので、思わずのけぞった。カウンターを回ってこちらに近づいてくる。逃げるべきか? ……待て、と冷静になって思い直す。このマスクの人物は、恐らく、いや、間違いなく「彼女」だ。恐ろしげなマスクを被ってはいるが、身長は僕よりもずっと低く、前に一度だけ会ったときに確認した彼女の身長と一致する。そのマスクマン、いや、マスクウーマンは、僕に右手を差し出してきた。その手には、


「な、なに?」


 マイクが握られていた。本物ではない。カラフルなプラスチック製の、明らかにおもちゃのマイクだった。


「ギギギ……ガガガ……」


 マスクの中から声がした。声色こわいろやニュアンスからいって、機械音を真似ていると推察される。


「受け取れと?」


 僕が言うと、マスクウーマンはこくりと頷いた。僕は仕方なくおもちゃのマイクを受け取る。再び無言で顔を見合わせる僕とマスクウーマン。


「……なんやねん! 自分!」しびれを切らしたように、マスクウーマンが喋った。完全に人の声、あの人の声だ。「この状況でマイクを受け取ったら、言うべき台詞はひとつやろ!」

「えっ? どういうことですか?」

「なんで『お前は平田ひらただろう!』って言わへんねん! ほんま信じられへん!」

「いや、平田じゃなくて、アイちゃんですよね。谷藤さんの妹の穂愛ほあいちゃん」

「こういう咄嗟の状況にも、素早く対応せんとあかんで! そんなんやったら、厳しいお笑いの世界で生き残っていかれへんで、自分」

「お笑いの世界で生きてはいないですけど」


 もう何が何やら分からない……。お姉さんのふうさんは不在のようだし、今日はこのまま帰ろうかな……と思っていたら、


「ちょい待ち、永城えいじょうはん!」


 心を読まれたかのように、マスクウーマン、いや、アイちゃんに引き留められた。


「私が、伊達や酔狂でこんな格好してると思うとるん?」


 腕組みをしたアイちゃんに言われ、僕は正直に、はい、と言い掛けたが、思いとは反対に「いいえ」と答えておいた。

「せやろ」とアイちゃんは、うんうんと頷く。マスクのため分からないが、恐らく満足そうな表情を浮かべていると思われる。


「永城はんが谷藤屋を訪れるのは、ミステリ小説を読むためや。ほいで、私らの使命は永城はんに面白いミステリを勧めること。今回、私がお勧めするんは……」とアイちゃんは本棚に向かい、「これや!」


 一冊の文庫本を引き抜いて差し出した。


東野圭吾ひがしのけいごの『仮面山荘殺人事件かめんさんそうさつじんじけん』! これを勧める時はきた。それだけだ」

「寸劇が長い! あっ!『仮面山荘』だから、マスクを被っていたんですか?」


~あらすじ~

 自動車事故により、婚約者の森崎朋美もりさきともみを失った青年、樫間高之かしまたかゆきは、朋美の死後も仕事を通じて関係が続いていた森崎家に招待されて、山中の湖畔に建つ別荘にやってきた。ドアの上に木彫りの奇妙な仮面が掛けられた玄関を通り、別荘内に足を踏み入れた高之は、そこで森崎家の面々を含めた招待客たちと顔を合わせる。

 食事を終えた歓談の中、招待客のひとりである、朋子の親友だった阿川桂子あがわけいこが、「朋美の死は事故ではなく、殺人によるものだった」という自説を話しだして……。


「もしかして、鋭一えいいちさんの『リラ荘殺人事件そうさつじんじけん』、谷藤さんの『ロートレック荘事件そうじけん』につづく、『荘もの』第三弾、ということですか?」

「せやねん。鋭一や風やんから話を聞いてな、私も、おもしろ――やなかった、なんとか荘がタイトルに付くミステリをお勧めしとうなってな、これをチョイスしてみてん」


 そういうことだったか。どうでもいいけど、鋭一さん、妹二人ともから呼び捨てされてるんだ。


「ということは、これもいわゆる〈クローズド・サークル〉ものということですか? あ、とは言っても、これまでお勧めされてきた二作は、どちらも世間から完全に隔離されている、真の〈クローズド閉ざされた〉空間ではありませんでしたけれど」

「そこのところは、ばっちりや。この『仮面山荘殺人事件』は正真正銘の〈クローズド・サークル〉やで」

「おお。ついに来ましたね」

「しかもな、その〈外界から閉ざされる理由〉というのが、また他の〈クローズドサークル〉ものとはひと味違ってて……おっと、これ以上は言われへん」

「それは楽しみです」

「で、永城はん。お買い上げいただけまっか? 今なら税別560円に勉強させてもらいますわ」

「はい、もちろん買います。というか、その値段、普通に定価でしょ」

「まいどおおきに」


 そう言うとアイちゃんは再びレジカウンターに戻っていった。


「あっ、そうや、永城はん」

「何ですか?」

「くれぐれも忠告しておくで、この本、裏表紙に書いてあるあらすじを事前に読んだらあかんで」

「えっ? どうしてですか?」

「先の展開が書いてあるんや。ネタバレというほどのものやないねんけど、なるべくその情報は知らないで読んだほうが、何倍も驚けて楽しめると思うわ」

「分かりました。まあ、ここで本を買うときはカバーを掛けてもらうから、裏表紙を見ることはないですけれど」

「なるほど。本屋でカバーを掛けてもらういうんは、そういう効果もあるわけやな……ほい」

「あ、どうも……」


 僕は代金を支払ってアイちゃんから本を受け取った。が……雑。カバーの掛け方が明らかに雑。谷藤さんの名人芸とはおよそ比較にならない。谷藤きょうだいの中で、書店員に向いているのは長女の谷藤風さんひとりだけのようだ。


「ほんじゃ、読み終わったら、また来てえな」


 アイちゃんは手を振る。残念ながら今日は谷藤さんとは会えないみたいだ。諦めて出入り口に向いかけた僕は、


「あ、そういえば」


 と足を止めて、未だマスクを被ったままのアイちゃんを振り向いた。


「なんや?」

「アイちゃんが被ってるそれ、『仮面』というよりは『覆面』になるんじゃありません?」

「……」


 店内に流れる沈黙。と、アイちゃんは自分の頭に手を掛けてマスクを握り、そのまま引き脱ぐと、


「しょっぱい試合ですみません!」


 顔をくしゃくしゃにして叫んだ。


「なんだ? ――あ! ちょっと!」


 アイちゃんは、やおらレジカウンターから出ると、狭い店内を駆け抜けて外に飛び出してしまった。


「ちょっと! 店番はどうするんですか!」


 慌てて追いかけたが、すでにアイちゃんの姿は商店街の遙かかなたに去っていた。

 仕方がなくそのまま店に残った僕は、一時間ほどして姿を見せた谷藤さんと出会うことができ、楽しく歓談をしてから家路についたのだった。

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