『ロートレック荘事件』ネタバレありレビュー

「久しぶりに、してやられましたよ谷藤たにとうさん」


『ロートレック荘事件そうじけん』を読み終えた僕は、例によって谷藤屋を訪れた。


「してやられていただけましたか。よかったです」


 谷藤さんはいつものように、レジの向こうでにこにこと笑みを浮かべていた。僕はレジ前まで歩いて行って、


「谷藤さん、この本にロートレックの絵が収録されていることについて、『より視覚的に場面を捉えやすくなる』とおっしゃっていましたけれど、それさえもがトリックの引っかけの役割を果たしていたということですね」

「ご理解いただけで光栄です」


 まんまと騙された。谷藤さんは嬉しそうに笑顔を見せる。


「しかし、谷藤さん、これも一種の叙述トリックですよね。こういう錯誤のさせかたもあるのかと感心してしまいました」

「見事な技巧でしたよね」

「ある登場人物を隠蔽すると同時に、この作品は全編一人称で記述されていますけれど、その記述者がひとりではないという、二重の叙述トリックでしたね」

「そうなんですよ。その構成について、人によっては、フェアじゃない、という意見を持つ向きもあるでしょうが、そんなことはないんですよ」

「そうなんですか? 僕、本当は確かに、これは少しアンフェアじゃないか、と思ったりしたんですけれど。記述者が何の断りもなく変わってしまうところなんか」

「よろしい。では解説いたしましょう」谷藤さんは、こほんとひとつ咳払いをしてから、「本作品は、浜口重樹はまぐちしげきと浜口しゅうの二人が記述者として出てくるわけですが、作品が始まってすぐの『第一章 序』の記述者は、当然のことながら修――まあ、このときはまだ、彼の名前までは分からないわけですけれど――です。で、続く『第二章 起』になると、開始してすぐに、記述者は八歳のときに怪我をしている、という情報が出てきますので、ここでの記述者は『第一章』に出てきた重樹だということがすぐに分かります。ということは、もうこの時点で『本作の記述者はひとりだけとは限らない』という宣言が成されているということなんですよね」

「そういうことですか!」

「そういうことなんです。二人の記述者の一人称が、たまたまどちらも『おれ』ですから、『第二章』移行はひとりの人物――重樹――による記述がずっと続いているんだと勘違いする読者がいるかもしれないけれど、それは仕方がないね。というスタンスなわけですね。過去を記している『第一章』だけ記述者が違うんだな、という捉え方をしてしまっても」

「確かに、冒頭の部分だけが特別な書き方をされている小説って、たくさんありますものね」

「はい。ですが、そういった作品って、だいたい冒頭の本編とは違った記述の仕方がされている部分は、『プロローグ』とか『序章』とか、本編と切り離されたサブタイトルが付けられていると思うんです。翻って、この『ロートレック荘事件』は……」

「『第一章』と、いきなり本編が始まっている! これはプロローグ的なものではない。『第二章』になって記述者が変わっていることから、『本作品では、章によって記述者が変更されることがありますよ』と高らかに宣言されてしまっているということですね! なんて巧妙な!」

「具体的に言うと、『第一章』の他には、『第七章 彩』続く『第八章 破』そして『第十章 逸』と『第十三章 急』の五つの章が、浜口修の記述によって書かれたものですね。それ以外はすべて、浜口重樹の記述です」

「でも、読者の多くは『第一章』以外はすべてが重樹の記述だと思わされてしまうということですね」

「本作のトリックの根幹を成すこの記述の技巧も、一見すると不自然でアンフェアな書き方に思われるかもしれませんが、そんなことは全然なくって、テキスト中には重樹の一人称部分に修の、あるいは修の一人称部分にも重樹の、それぞれの台詞がきちんと書いてありますからね。台詞の発信者をぼかした書き方は、まあ、されてはいますが、これも、二人にとって、お互いは常に一緒にいて当たり前な存在同士で、いちいち強調するところではなかったという解釈も成り立ちますし。それに、『我が忠実な護衛兵が』とか、ところどころにお互いの存在をもろに記述しているところが何箇所かありますからね」

「それは最後の謎解きの章の解説で分かりました。あんなにも大胆に書かれていたんですね。僕、読んでいる最中は全然気づきもしませんでしたよ。まだまだ甘いですね」

「ふふ。永城さんはそれだけ素直な方だということですよ」

「そ、そうですか? ただ単に読み込みが甘いだけなんじゃないかと」

「でも、お互いの存在を決して隠しているわけじゃないというこの設定は、そのまま記述のフェアさにも繋がってきますよね」

「というと?」

「重樹にとっては修、修にとっては重樹のことをことさら触れないように記述しているのは、作者がミステリとして成り立たせるために意図的にしていることではないわけです。作者の都合ではなく、登場人物の都合や心理として、そういう書き方が成り立っているという、メタ的な思惑が一切介入していない記述なわけですから」

「なるほど……あっ! そうだ! フェアといえば」


 と僕は思い出したことがあって、鞄から本を取り出した。もちろん『ロートレック荘事件』だ。


「それでも谷藤さん、これ」と僕は本を開いて、「ここです。これはいくら何でもアンフェアなんじゃありませんか?」


 そう言って49ページを指さした。そこには、舞台となるロートレック荘二階の平面図が描かれている。


「この平面図には、どの部屋に誰が泊まっているかが書かれているんですけれど、重樹と修の二人の部屋には、〈浜口重樹〉としか書いてありません。ここに二人の名前を書いてしまうと一発でトリックがばれてしまうから、仕方ないとは思うんですけれど、こういうメタレベルでの仕掛けはアンフェアだと僕は思うんですけれど」


 谷藤さんは、だが涼しい顔のまま、該当ページを覗き込んで、


「何を言ってるんですか、永城えいじょうさん。ここにはきちんと二人分の名前が書いてあるじゃないですか」

「えっ?」

「書いてありますよ。〈浜口〉と〈重樹〉と二人分の名前が」


 僕はのけぞった。


「なんてことだ……」

「片方は名前、もう片方は名字を省略して書いてあるというだけですね。その証拠に、ほら」と谷藤さんはページを指さして、「他の人も、名前か名字、どちらか一方しか書かれていないじゃないですか。唯一の例外が木内文麿きうちふみまろですが、これは同室になっている彌生やよい婦人が当然のことながら同姓であるための処置でしょうね。まあ、実は私もこればっかりはギリギリな書き方だとは思いますけど。でもですね、永城さん、この図面をよく見て下さい。何か気付きませんか?」

「えっと……」

「部屋の大きさに注目してみて下さい」

「部屋の大きさ、ですか……あっ!」

「そうなんです。重樹と修の部屋は、他の個人部屋よりも大きいですよね。五月さつき未亡人のものを別にすれば、二人で使っている文麿、彌生夫妻の部屋と同じ大きさです。これはどういうことか」

「実際に二人で使っているから!」

「この平面図が出てくる2ページ前の47ページには、『以前のおれの部屋』は『工藤忠明くどうただあきに充てられた』と書いてあります。どうして重樹はずっと自分が使っていた部屋に泊まらなかったんでしょう。それは、その部屋が二人で使うには手狭だったからです」

「そういうことですか。完全に理解しました。この平面図から、そこまで推理が可能だなんて、つくづく恐ろしい作品ですね、この『ロートレック荘事件』は……」

「アンフェアどころか、重大なヒントを与えてくれる、とてもフェアな図面ですよね」


 谷藤さんは、にこりと微笑んだ。


「参りました」


 僕は深々とこうべを垂れた。


「でも、言われてみれば」ともとの姿勢に戻った僕は、「この作品は、フェアに関しては徹底されていますよね。『第十七章 解』から始まる謎解き場面にも、どの記述がどういう意図、意味を持っていたのかが、対応するページ数と一緒に事細かに書かれています。ここまでするかって思いましたけれど」

「普通のミステリ作家なら、確かにここまで懇切丁寧に解説はしないでしょうね。恐らく、作者の筒井康隆つついやすたかがミステリを専門としていないため、だからこそ、より『フェアにあらねば』という意識を強く持って書いたことの現れではないでしょうか。ミステリ作家だと、『あとはそっちで探してくれ』と、仕掛けを施した箇所の発見を読者に丸投げする場合がほとんどですから。それは作者と読者との間の暗黙の諒解、『間違いなくフェアを貫いて書いている』という紳士協定があるからこそ成り立っているのですが、ミステリの初心者がいきなりそういった『紳士協定』が結ばれた作品を読むと、不親切だなと感じるところはあるかもしれませんね。たまに協定を破る作者もいますし」

「なるほど。普段書かないジャンル、いわば他人の庭に上がり込むからこそ、礼を失しないように思ったのかもしれませんね」

「ところで、永城さん、ミステリ的な仕掛け以外のところ、この『ロートレック荘事件』を小説として読んで、何か感じるところはありましたか?」

「ええ、それはありましたよ。自分の見識の甘さを露見させるようで恐縮なんですけれど、最初はこの作品が『第一章』以外、全て重樹の記述だとばかり思って読んでいたため、どうして重樹がこんなにもてるんだろう? と疑問に思ってしまいましたね。重樹は幼い頃の事故で下半身の成長が止まってしまっている。そんな身体の状態の重樹に、こんなにも想いを寄せているとは、この作品に出てくる女性たちは皆、人を外見で判断しない美しい心の持ち主ばかりなんだなと。もしくは、叙述の仕掛けに引っかかった読者は、重樹が絵描きで映画も作っていると錯覚してしまうわけですから、才能に惚れたのかなと。でも、女性たちのそれは全部、健常者で画家である修のほうに向けられていたものだったんですよね」

「重樹も作中で、自分のことを散々卑下していますからね」

「でも、彼のことを本当に想っている女性、典子のりこもいた。なのに、そうと知らない重樹は、彼女のことを自分の手で殺してしまうという。悲しい結末でしたね。もうちょっと何とかならなかったのかと」

「ええ。物語としては最悪な結末ですけれど、でも、私、ミステリとしてはこれで良かったんだって思っています」

「えっ? どうしてですか?」

「私、基本的にミステリにハッピーエンドってあり得ないと思ってるんです。だって、ハッピーエンドっていうことは、登場人物誰もが幸せになって物語が終わるということですよね」

「ええ。悪人なんかはもちろん別ですけれど」

「ミステリでハッピーエンドが起きる、ということはですよ、事件が起きたこと、被害者が殺されたことによって、誰かが幸せになる、ということじゃありませんか。誰かの死が誰かの幸せを呼び込んだということになります。例えば、事件がきっかけになって知り合った関係者の男女が相思相愛になって結ばれる、という結末のミステリがあったとしましょう。それって、とても複雑ですよね」

「どうしてですか?」

「事件が起きなければ、人が死ななければ、その二人が巡り会うことはなかった。逆を言えば、殺人事件が二人を結びつけた。それって意地悪な言い方をすれば、被害者が殺されてくれたことで二人は結ばれた。犯人が二人のキューピットになったということになりません?」

「確かに」

「風が吹けば桶屋が儲かる、みたいな話かもしれませんけれど、二人にしてみれば、被害者が殺されてくれてよかった、という見方も成立すると思うんです。それって、遠回しな殺人肯定になってしまうんじゃないかな、って」

「うーん、そういう捉え方もあるかもしれませんね」

「だから私、殺人事件が起きるミステリで、最後に幸せになる人が出てくるって、どうもしっくりこないんですよね。犯人を含めて、殺人事件が起きて得をする人なんて誰もいない。事件の最後は常にアンハッピーエンド。だからこそ、殺人なんて絶対にしてはならない、というメッセージに繋がると思うんです」

「なるほど……ミステリって、やっぱり深いですね」

「もっとも、あまりに陰惨でやるせない事件の最後に、少しの希望が生まれて救われる、という使い方もできますから、一概に反対するわけではありませんけれどね」

「そこは作家の腕次第、ということですね」

「ええ。私は、ミステリ作家には、たとえフィクションの中であろうとも、人を殺している、という意識は忘れずに書いていてほしいと願っています。驚愕のトリックで驚かせることも大事で、それは確かに本格ミステリの根幹を担うところではありますけれど、それだけでは味気ないです。登場人物たちのドラマがあるからこそ、トリックもただのトリックで終わらない。トリックだけを切り離せない、小説の一部として強い存在を主張するのではないでしょうか」

「なるほど。確かにトリックで驚くだけのミステリ小説って、一度驚いただけで終わる、味気ない読書体験になってしまうかもしれませんね」

「これからも私は、トリックもストーリーも楽しめる、上質なミステリ小説をどんどんご紹介していきたいと思っています。だから永城さん、これからもお付き合い、よろしくお願いしますね」

「こ、こちらこそ。じゃあ、僕はこれで」

「はい。谷藤屋を今後ともご贔屓に」


 ぺこりと頭を下げる谷藤さんに見送られて、僕は店を出たのだった。

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