出会いは有栖川有栖『乱鴉の島』有栖川有栖 著

『乱鴉の島』プレビュー

「では、さっそくですけれど永城えいじょうさん。『ミステリ』と聞いて、どんなものを思い浮かべますか?」

「うーん、そうですね……外部との連絡手段が絶たれた絶海の孤島に閉じ込められる人々。その中で奇怪な殺人事件が起きて、偶然その場に居合わせた名探偵が事件の謎を解く。みたいな感じ、ですかね」

「ほうほう、〈クローズド・サークル〉ものですね。使い古されているとはいえ、絶対に欠かせない定番のシチュエーションですよね」


 谷藤たにとうさんは顎に手を当てて、うんうんと頷きながら満足そうな表情を浮かべている。


「わかりました……!」


 少しの沈黙のあと、谷藤さんはレンズの向こうで目を見開くと歩き出し、入り口から見て右側の書棚の前に立った。ぎっしりと本が詰め込まれた棚に目を走らせると、彼女は一冊の文庫本の背表紙に指を掛けてそれを引き抜く。


「永城さん、あなたが今読むべきミステリは……これです!」


 その一冊を僕の前に差し出した。


「こ、これは……?」

有栖川有栖ありすがわありす 著『乱鴉らんあしま』です!」

「らんあのしま? これで『乱鴉らんあ』と読むんですか? しかも、作者の名前ですかこれ? 有栖川有栖? 女性作家なんですか?」

「何を言ってるんですか永城さん! 有栖川先生は女性ではありません! ロングヘアが似合う素敵なオジサマですっ! ほらっ!」


 谷藤さんはそう言うと表紙をめくって、カバーの返しを僕に向けて突きだしてきた。確かにそこには、長髪のおっさん――もとい、ロングヘアの素敵なオジサマの写真があった。〈著者近影〉というものだろう。


「それで、どんなお話なんですか? この本は」


~あらすじ~

 警察捜査に協力し、いくつもの難事件を解決に導いてきた臨床犯罪学者火村英生ひむらひでおは、作家である友人の有栖川有栖(アリス)とともに、三重県熊野灘くまのなだ沖合にある孤島を訪れることになるが、ちょっとした手違いから似た名前の全く別の島に到着してしまった。そこで二人は、伝説的文人海老原瞬えびはらしゅんと、その近しい人々の集まりに顔を出すことになる。やがて、火村とアリスの他にも招かれざる客が訪れ、からすが乱舞するその島は不穏な影に覆われていく。そしてついにひとつの「死」が島を襲い……。


「……というですね、典型的なクローズド・サークルものの傑作なんです」

「さっきも気になっていたんですけれど、そのクローズド・サークルって、何のことですか?」

「複数の人間が、外部との行き来、通信の一切が絶たれた場所に閉じ込められてしまい、そこで何かしらの――まあ、ほとんどが殺人事件なんですけれど――事件が起きるという構造を持つミステリの総称です」

「ああ、それで、〈クローズド・サークル〉日本語にすると〈閉じられた輪〉というわけなんですね。確かに、そういう設定の話って結構聞きますね。実際に読んだことはないけれど。あと、さっき谷藤さんが言っていた、ヒムラヒデオっていうのは、この話の主人公の探偵ですね? で、あらすじに作者の名前も出てきていましたけれど?」

「ええ、アリスこと有栖川有栖は、火村の助手を務めるミステリ作家です。いわゆるワトソン役ですね」

「えっ? 自分の作品に作者自身が出てくるんですか? ロン毛のおっさんが?」

「違いますっ! 同じ名前でも、作中のアリスと有栖川先生は別人なんです! 作中のアリスは三十代半ばの青年ですからっ! 作者と同名の登場人物が自作に出てくるって、ミステリ小説では珍しいことじゃないんですよ! 二階堂黎人にかいどうれいと法月綸太郎のりづきりんたろう、比較的新しいところでは、詠坂雄二よみさかゆうじ三津田信三みつだしんぞうにも、そういったシリーズがありますし。これは、エラリー・クイーンから続く、本格ミステリ界の伝統なんです!」


 谷藤さん、眉を釣り上げて解説する。「ロン毛のおっさん」と思わず言ってしまったのだが、そこはスルーしてくれたようだ。突っ込み忘れただけなのかな? 思い出して叱られる前にと僕は、


「い、今、谷藤さんが言ったのは、全部推理作家の名前ですか?」

「そうに決まってるじゃないですか! ……永城さん、もしかして、おひとりもご存じない?」

「はい」


 正直に首を縦に振る。随分と落胆されるかと思いきや、さにあらず、谷藤さん、うんうんと満足そうに頷いて、


「そうですか、そうですか。人生で初めて触れるミステリが有栖川作品であるということは、私たちのような古いミステリファンにとっても嬉しいことです。第一印象って大切ですからね。最近は、既存の古典ミステリのことを、読者が既知であること前提で書かれた作品も少なくないですからね。本格ミステリはマニアックかつ特殊性のあるジャンルなので、そういうことも許されるんでしょうけれど、間口を常に広くしておかないと先細りしてしまいますからね。その点、有栖川先生の作品はどれも、自信を持って初心者に送り出せます。で」


 と、谷藤さんは手にしたままの文庫本『乱鴉の島』を顔の高さまで持ち上げて、


「いかがですか? お買い上げいただけますか?」


 そうだった。すっかり忘れていたが、ここは本屋だったんだ。成り行きとはいえ、ここまできて、いえ、いらないです、とは言えない。


「は、はい。それを下さい」

「毎度ありがとうございます! あ、永城さんは初めてのご来店でしたね。今後ともご贔屓に。カバーは掛けますか?」

「あ、はい、お願いします」

「承知しました」


 谷藤さんはレジまで戻ると、カウンターに文庫本を置き、簡単な装飾と店名が入った紙を取りだし、本を閉じ始めた。

 僕は息を呑んだ。それは、あの、かつてここのレジに座っていた〈達人店主〉を彷彿とさせる手捌きだったからだ。皺だらけで太い老人の指が、白くて細い女性のそれに変わってはいたけれども。


「……れますか?」

「えっ?」

「袋に入れますか?」


 谷藤さんは、綺麗にカバーを掛け終えた文庫本を手に、僕に声を掛けていた。


「あっ、い、いえ、そのまま鞄に入れて持って帰りますから……」

「簡易包装に御協力ありがとうございます」


 続いて谷藤さんはレジを打ち始める。僕は財布を取り出して代金を払った。お釣りをもらうとき、達人のような動きで本にカバーを掛けた指が僕の手に触れた。お釣りのあとに、谷藤さんは本を両手で持って僕に向けて差し出す。満面の笑顔とともに。受け取るとき、もう一度彼女の指が僕の指と触れあった。ページがめくれて折れてしまわないように、僕は丁寧に本を鞄に入れた。


「ぜひ感想を聞かせて下さいね」

「は、はい、読み終わったら、また来ます」


 笑顔のままの谷藤さんから言われ、思わずそう返してしまう。しまった、これじゃあ、この本を読み終えるまで、ここには来られなくなるじゃないか。


「じゃあ、さっそく帰って読もうかな」

「はい。感想を聞かせてもらえるのを楽しみにしています」


 最後に、ありがとうございました。と谷藤さんに見送られ、僕は〈谷藤屋〉を出てまっすぐ家路についた。

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