第四話 赤ちゃん猫の和栗と、突然の別れ

 猫の赤ちゃんがこんなにも何もできないとは、知らなかった。

 牛や馬の子どもが、生まれてすぐにプルプルと脚を震わせながら立って、ヨチヨチと歩く姿は感動的だ。だけど知ってる? 猫の赤ちゃんは、ただぐだーっと、そこに転がっているだけ。時々もぞもぞと動くが、歩くどころか、這っていると言っていいかどうかさえ怪しい。

 目は閉じっぱなしで、何も見えていない。ミルクを作ってあげても飲んだり舐めたりできないので、哺乳瓶がわりの小さなスポイトであげなきゃいけない。

 ただまぁ、ここまでは何となく、分かる。

 でも、おしっこもうんちも、自分の力ではできないなんて……マジ?


 私は、左の手のひらに猫の赤ちゃんを乗せ、右手にティッシュを何枚かつかんで、洗面台の前に立っていた。

 猫の赤ちゃんはまだ生まれたばかりで、先日お母さん猫に捨てられたのを、行きがかり上、うちで預かることになった子だ。ある日パートの仕事を終えてスマホを見たら、ダンナから「あの赤ちゃん猫、うちで預かるから」とメールが入っていて、それ以来、世話している。

 名前は、子どもたちが「和栗」と名づけた。

 最初は、娘の小夏が「ココア」だの「シフォン」だの、女の子が喜びそうな可愛らしい名前を挙げていたが、息子の耕輔が「オスかメスか分からない(赤ちゃん猫とはそういうものらしい)から、どっちでもいい名前にしよう」「俺は和風が好き」と言い出して、「あずき」や「だいず」が候補になり(耕輔は豆類が好きだ)、結局、毛の色がちょっと栗っぽいという話から、「和栗」に落ち着いたのだ。

 私は洗面台の蛇口からお湯と水を適当に出してぬるま湯にし、ティッシュを濡らした。軽く絞って湿り具合を調整する。

 そして……赤ちゃん猫の股間に、優しくチョイチョイと当てた。

 チョイチョイ。チョイチョイ。

 ……何をしているかというと、「排尿」を促しているのだ。

 猫の赤ちゃんは自分でおしっこができない。お母さん猫が股間を舐めてあげると、その刺激で排尿するのだそうだ。濡らしたティッシュで股間を触っているのは、その真似事をしているというわけ。

 チョイチョイ。チョイチョイ。

 すると突然、ティッシュが薄い黄色になった。おしっこが出たのだ。

 よしよし。

 なぜか、無性に嬉しい。何でかな? これが母性本能というやつだろうか。

 気のせいかもしれないが、目を閉じている和栗の表情が、「あー、すっきりしたー」と言っているように見えて、思わずニンマリする。

 ちなみに昨日は、おしっこだけじゃなくて茶色いうんちも出て、ちょっと感動した。

 生きてるって、素晴らしい。

 そして排泄が終わると、次はミルク。

 赤ちゃん用の粉ミルクを溶かし、スポイトで口に入れてあげる。飲みきれない分が口からこぼれた。あーあ、と言いながらタオルで拭く。……小夏や耕輔の赤ちゃんの頃を思い出すなぁ。

 とまぁこれくらい、赤ちゃん猫というのは何もできない。母猫が世話してくれなければすぐに死んでしまう、か弱い存在だ。そしてそんなところが、どうしようもなく、かわいい。


 和栗は、うちで世話をするようになって、あっという間に家族のアイドルになった。

 小夏も、耕輔も、ダンナも、家に帰ってくるとまず和栗が寝ている段ボール箱を覗き込み、にへっとした笑顔になる。学校や会社で味わったであろう、いろんなストレスを、一気に忘れる瞬間なのだろう。

 我が家は一軒家とはいえ借家なのでペットは禁止だが、こんな赤ちゃんならまぁいいだろうと、こっそり世話をしている。ただ、大家さんがすぐ隣に住んでいるので、いつまでも隠すこともできない、という事情もある。

 去年、和栗よりもう少し大きい子猫が迷い込んできて、どうにか飼えないかと思って、仲介してくれた不動産屋のおばちゃんに相談したことがあった。だけど最後は諦めて、別の飼い主を探した。爪とぎや何かで家を傷つけた時の費用は払えるの? と聞かれ、とても払えないと思ったからだ。

 ただ今度は、ダンナは腹をくくっているようだった。先日、和栗が生きるか死ぬかという瀬戸際で命を助けたことで、何か運命的なものを感じているらしい。そしてそれは、私や耕輔、小夏も同じだった。

 和栗にミルクをあげた後、家族四人で昼食のパスタを食べていると、ダンナが突然口を開いた。

「和栗のことだけど……今夜、大家さんにお願いしてみようか」

 耕輔と小夏の表情が、パッと明るくなった。おお、ついにきたか。

「飼わせてくれないか、ってこと?」

 こくん、とダンナがうなずく。

 私も同じ気持ちだったが、気にしていたことを質問した。

「不動産屋さん、どうする?」

 前回、不動産屋さんに相談した経緯もあるだけに、今回は頭越しに大家さんと直接交渉するのが、気が引けたのだ。

「今回は、直接大家さんに話してみよう。不動産屋のおばちゃんに説得をお願いするのも悪いし、そもそも、人を介してお願いするより、直接話した方がこっちの気持ちも伝わるし。不動産屋さんには、うまくいってから報告すればいいよ」

 何だか、いつもはちょっとだらしない印象のダンナの話し方が、今日は違う気がする。テキパキしているというか。外で仕事をしている時は、こんな感じなのかな。

「で、考えがあるんだけど」

 ダンナはちょっと芝居がかった仕草で、人差し指を立てた。

「パパとママと小夏の、三人で行こう」

「え? わたし?」

 予想もしなかった展開に、小夏がきょとんとしている。

「うん、というか、パパとママというより、小夏がお願いするんだ」

「ムリムリっ! パパやってよ!」

 小夏が全力で拒否するのを、まぁまぁと遮って、ダンナは続けた。

「大丈夫、しゃべるのはパパがやるよ。小夏は、タイミングを合わせて『お願いします』って言ってくれればいい」

「それだけ?」

「うん。あと大事なことは、和栗を小夏が持ってて欲しいんだ。こう、大事そうに」

 両手をお椀のように揃えて、胸の前に出してみせる。その上に和栗を載せるということらしい。え、和栗を連れてくの?

「和栗は連れていかなくてもいいんじゃない?」

 思わず口を挟むと、ダンナはこの反応を予期していたかのように、滑らかに説明した。

「でもさ、ただ『子猫を飼いたい』って言うより、和栗を見せて、『こんなに小さな猫の赤ちゃんを助けたいんです』って言う方が、情に訴えるでしょ?」

 うっ。そうだけど、何か、ズルい気が。

「ひょっとして、小夏を連れ出すのも、そういうこと?」

「そう。隣に住んでる小学生の女の子が、こんなに小さな猫の赤ちゃんを拾いました。両親は借家だからダメだって言ってるんだけど、どうしても育てたいんです……っていうことにしよう」

 ダンナは気のせいか、ちょっと生き生きした様子だ。

「何か、微妙に違くない?」

 小夏も複雑な表情を浮かべている。

「小夏は和栗を飼いたくないの?」

「そりゃ、飼いたいよ」

「じゃ、概ね間違ってないよ。いい歳したおっさんが、契約違反なのは知ってるけどどうしても猫を飼いたいんです、って言うより、そっちの方が大家さんもOKしやすいでしょ?」

 ものは言いよう、か。

 いつも会社ではこんな感じで仕事をしてるんだろうか、とか、大人のズルさを教えるには、小夏はまだ早いんじゃないか、とか思わなくもないが、どうやら小夏は納得した表情だ。

「よし、それでいこう!」と、逆に乗り気になってきた小夏に、「真剣な表情でお願いするんだぞ」と演技指導までしているダンナを見ながら、私は席を立って昼食の後片づけを始めた。

 ちなみに私は、隣でどんな顔をしてればいいんだろう。ニヤついちゃったらまずい、よね。


 その夜。

 周到な準備をして臨んだ大家さんとの交渉は、拍子抜けするほどあっけなかった。

 つまり、それくらい底抜けに、大家さんがいい人だったのだ。

 私より少し年上くらいの大家さんは、経営している呉服屋からさっき帰ってきたばかりで、スーツも化粧もそのまま。仕事終わりで疲れているだろうに、アポなしで突然やってきた隣人に、ほんの少しも嫌な顔をしなかった。

 挨拶の後、本題に入って少し話し始めたところで、小夏の手の和栗を見るなり「えー、これ猫ちゃん? すごく小さい!」と目を丸くし、「え、飼いたいの? いいわよ、どうせ古い家なんだから、気にしないで! もうね、爪とぎとかで傷つけちゃっても、ぜんぜん大丈夫だから!」と、ダンナが用意した物語の出番もほとんどないまま、若干食い気味で盛大な許可を出してくれたのだ。

 おお、人間の器が違う。大家さんにどうやってウンと言わせようかと、悪知恵ばかり働かせていたうちのダンナが恥ずかしいくらいだ。そのダンナは、いろいろ考えてきた説得の言葉の出番がなくて、ちょっと残念そうですらあった。

 正直、わざわざ小夏やら和栗やらを連れてこなくても良かったんじゃないか、とも思ったが、ひょっとするとダンナが考えた演出がばっちりツボにはまったのかもしれない、とも思い、それは黙っていた。

「いやー、やっぱり資産家は心に余裕があるね」

 短いやり取りが終わり、大家さんが笑顔でドアを閉めて、庭の門を出たあたりで、ダンナが小声で呟いた。言い方には貧乏人のひがみがあるが、ダンナも人間の器の違いを実感しているのだろうか、と思って、吹き出しそうになった。

 でも、こないだ和栗を助けようと、仕事中に帰ってきてミルクをあげてくれたこととか、何とか家で飼えるようにと、ない知恵を絞っていたところとか、あなたも器は小さいなりに、いいとこあるよ、と、こっそり心の中で呟いた。



 和栗の様子がおかしい、と思うようになったのは、大家さん公認の元で飼い始めて、数日たった頃のことだった。

 なかなか大きくならない。ネットで調べたところ、そろそろ目が開いても良さそうな頃なのに、目も開かないままだ。ミルクを飲む量も、少ない気がする。

 生まれたばかりの頃にちゃんと栄養をもらえなかったから、成長が遅いのだろうか。それとも、生まれつき体が弱い子で、だから母猫は見捨てたのだろうか。無事に成長してほしいと願いながら、世話を続けていた。

 そんな、ある夜のことだった。

 ダンナの帰りが遅い日で、私はリビングで一人テレビを見ていた。子どもたちはもう寝てしまっていて、テーブルの上では冷めた豚の生姜焼きがダンナの帰りを待っていた。

 時計の針が十一時を過ぎ、そろそろ寝るか、と立ち上がった私は、その前にミルクをあげようと、まだ段ボール箱に入れたままの和栗に近づいた。先にトイレを済ませて……と抱き上げて、気づいた。ぐったりしている。

 なでても、つついても、ピクリとも動かない。体温はあるが、いつもより低かった。

 直感的に、ただ事ではないと思った。そしてそう思った瞬間、膝が崩れ落ちるような感覚に襲われ、一気に涙があふれてきた。

 どうしよう!

 和栗が死んでしまう。完全にパニックで、何も考えられなかった。

 ダンナはまだ仕事中だろうが、構わず携帯を鳴らした。繋がると、叫ぶように言った。

「ねぇ、和栗が動かないの。死んじゃうよ!」

 それからダンナが帰ってくるまでのことは、よく覚えていない。体温が下がったらまずいと思って、ずっと手のひらで温めていたような気がする。ダンナは十分ほどで帰ってきてくれたはずだが、玄関の引き戸が開くまで、とても長く感じた。

「ただいま」

 帰ってきたダンナは、玄関で待っていた私の手から和栗を受け取ると、一目見るなりすぐに「病院に行こう」と言った。和栗を飼い始めてすぐの頃に診てもらった動物病院が、車で五分ほどのところにある。

「でも、診察時間が……」

「とにかく、行こう」

 ダンナは和栗を私に返すと、庭に停めてある車の助手席に強引に私を乗せて、出発した。

 最初の赤信号で止まった時、ダンナが聞いてきた。

「動物病院、先生の家と併設かどうか分かる?」

「……ごめん、わかんない」

 もしそうなら、叩き起こしてでも診てもらうつもりなのだろう。でも、人間の重病人ならともかく、子猫でそんなことしてくれるだろうか。

 信号が青に変わり、車は灯りの消えた弁当屋のある交差点を、静かに通り過ぎた。

 手の中の和栗のかすかな温かさが、とても心細く感じた。


 郊外の県道沿いにある動物病院は、看板にも建物にも電気一つついていなかった。

 この辺りでは評判の病院で、建物もそこそこ大きく、ふだん駐車場は車でいっぱいなのだが、さすがにこの時間はひっそりしていて、ぱっと見、廃屋のようにさえ見える。ただセキュリティだろうか、窓のあたりで小さな緑の光が明滅していた。

 私を助手席に残したまま車を降りたダンナは、早足で入り口の自動ドアに向かった。当然ドアは開かないが、その周りにある貼り紙を一つ一つ確認している。そうか、緊急連絡先の類を探しているんだ。

 なかったと見えて、次は建物の裏手に回って行った。ひょっとすると、ここから見えない向こう側に、先生の自宅があるかもしれない。私は祈るような気持ちだった。

 しばらくすると、ダンナが帰ってきた。ドアを開けて運転席に座ると、「家はなかった」と短く報告し、スーツのポケットからスマホを取り出した。すばやくブラウザを立ち上げ、近所の動物病院を探し始める。

「まだ近くに二〜三軒ある」

 私がうなずくと、その膝にスマホを置き、二軒目へ向けて車を出した。


 二軒目も、外れだった。運転席に戻り、スマホの地図を確認して三軒目に向かおうとするダンナに、私は話しかけた。

「さっき、和栗がちょっとだけ動いたよ」

「ん?」

 ダンナはキーをひねろうとした手を止めて、私の手の中の和栗に目を落とした。

「手で温めてあげたからかな? このまま、元気になってくれるといいんだけど……」

 ダンナが車を出ている間に、少しだけ動いたのは、本当だった。でも、その後はまたぐったりしたままで、状況が良くなっているようには思えない。ほとんど、自分に言い聞かせるように口に出した言葉だった。

 ダンナは和栗から目を離すと、ハンドルに両手を置いて、フロントガラスの向こうの暗闇を見つめた。そして、静かに呟いた。

「和栗さ、もし……もし、このまま死んじゃったとしても……」

 逡巡するように、間を置いた。

「ママの暖かい手の中で最期を迎えられて、幸せだと思ってるんじゃないかな」

 和栗を家に迎えた日のことが、鮮やかに脳裏に蘇った。季節外れの寒い日で、和栗は家の外の段ボール箱の中で、寒そうに母猫が迎えに来るのを待ち続けていた。兄弟が一匹、また一匹と連れて行かれて、でも最後まで、自分は連れて行ってもらえなかった。

「生まれてすぐ、あのまま一人ぼっちで死んじゃってても、おかしくなかったんだ。でも最後の数日間は、暖かい家の中で、ママにミルクを飲ませてもらい、家族の笑顔に囲まれて過ごすことができた」

 私は、涙が止まらなかった。両手で和栗を包んでいるので、自分で拭くこともできず、とめどなく流れ出る涙が、ぼとぼとと和栗の上に落ちた。

「……ごめん。行こうか」

 ダンナはエンジンをかけ、次の病院へと向かった。



「うわっ、何だこれ!」

 ダンナが大きな声をあげた。家の裏に向かう途中、木の枝に小さな毛虫がいっぱいついているのを発見したのだ。

「気持ちわるー……」

 足が止まったダンナを、耕輔が急かす。

「父ちゃん、早く奥に行ってよ」

 家の裏には桜などの木が何本か植わっていて、夏になると茂って、通りづらくなる。ただでさえそうなのに、そこに毛虫がたくさんいるとなれば……

「いや、無理だって。ぜったい毛虫に触っちゃう」

 都会育ちのダンナは、虫がからきしダメだ。クモが一番苦手だが、毛虫もやっぱりダメ。

 とはいえ、今日ばかりはそこを通らない訳には行かない。

 結局、ダンナは一度家に戻り、引き出しの奥にあった殺虫剤を持ち出して、中身が無くなるまで毛虫たちにかけ続けた。これはこれで残酷だと思うんだけど。

 かわいそうな毛虫たちは、苦しそうに枝から落ちて地面に落ち、息絶えた。

「いやー、一軒家もいいけど、こういうのがなぁ……」

 とか言いながらダンナは、毛虫たちをまたいで奥へ。その後ろを私たち家族もついて行った。毛虫さん、ごめんね。

 少し開けた場所に出ると、そこが我が家のリビングの裏だ。少し前に、和栗たちを入れた段ボール箱を置いていた場所。

「パパかっこわるー」

「小夏だって虫、苦手だろ?」

 私たち四人は、春に見事な花を咲かせた後、今は葉桜になっている木の下にしゃがんだ。

 木の根元はほとんど雑草で覆われているが、ちょっと土が見えるところに、茶色い小石が一つ、ちょこんと置いてある。これが和栗のお墓だ。

「ほら、線香に火をつけて」

 私は二本の線香をぽきっと半分に折って、ダンナと子どもたちに渡した。ダンナがポケットからライターを出し、それぞれに火をつけていく。

「もう、ひと月か。早いね」

 待っている間、私がそう言うと、三人も無言でうなずいた。


 あの夜、三軒目に訪ねた住宅地の動物病院は、先生の自宅と併設だった。ベルを鳴らすと、もう十二時近いというのに、寝間着姿の若い先生が出てきて、診察室に入れてくれた。

 ただ、もう和栗は限界だったらしい。

 先生が手際よく心電図をつけ、処置を始めると、ほんの一分ほどで波形は平坦になった。

 私は、せめて私の手の中で逝かせてあげたかったと泣いて、ダンナと先生を困らせた。寝ていたのに急に起こされ、ボサボサ頭のままで丁寧に対応してくれた先生には、ほんとうに申し訳ない

 と思う。

「何もしていないから」と断る先生に診察費を受け取ってもらい、冷たくなった和栗を温めるように手で包んで、家に帰った。

 特に葬式などはしなかったが、翌日、子どもたちと桜の木の根元に埋めた。小夏が、どこかから和栗の毛の色と似た茶色い小石を見つけてきて、そっと置いた。


 それから、もうひと月になる。いつの間にか四人とも半袖になり、手を合わせていると、まだ昼前なのに太陽がジリジリ照りつけてくる。

「さ、戻ろっか」

 手を合わせた後、ダンナが明るく言って、みんな立ち上がった。

「午後、どっか行く?」

 和栗の月命日にあたる今日は、日曜日だ。予定は何もない。

「去年行った、川に行かない?」

 小夏が提案した。車で十分も行くと、水遊びできる手頃な沢があるのだ。でもこの時期は……

「まだ六月だよ? さすがに寒すぎて無理でしょ」

 すぐに冷たく反対したのは、耕輔。確かにその通りなのだが、もうちょっと優しい言い方はできないのだろうか。

「そういえば、今朝の新聞のチラシで見たんだけど……」

 ダンナが、口を開いた。

「きょう商店街で、猫や犬の譲渡会やってるらしいよ」

 そのチラシは、私も見た。地域の市民グループが、定期的に市のスペースを借りてやっているらしい。でも、和栗がいなくなってまだひと月というのに、もう次の猫を、というのは……

「譲渡会って何?」

「捨て猫みたいな、行き場のない犬や猫を、もらって下さいっていう会」

「ふーん……」

 ダンナに質問した小夏も、ピンときていない様子だ。

 みんなの気持ちを察したダンナが、和栗の方を見ながら、呟くように言った。

「和栗は救ってあげられなかったけど、何か……何て言っていいか分からないけど……」

 あ、そっか。そういうことか。

「救ってあげられる命があるんじゃないか、ってこと?」

「うん、まぁ。……でも、まだ早いよな」

 ダンナは話を打ち切って、玄関の方に戻ろうと歩き出した。

「行ってみようよ」

 小夏が、声をあげた。ダンナは足を止めて振り返った。

「もう、猫飼っても大丈夫だしね」

 耕輔も、異論はないようだった。

 正確には、大家さんは和栗を飼ってもいいと言ってくれただけで、ペットが完全にOKになった訳ではない、のかもしれない。けどまぁ、あの感じだと、大丈夫だろう。

 和栗が来てくれたから、私たちは大家さんと話せて、猫を飼うことを認めてもらえた。そのおかげで、別の命が救えるとしたら、きっと和栗も喜んでくれるはずだ、と思う。

「うん、行ってみよう」

 私も、賛成した。

 ダンナはわずかに微笑んで、玄関の方へと歩いて行った。


 だいたいこれが、我が家の二匹目の猫、和栗のお話。

 ほんの数日しか一緒にいられなかったけれど、確かに和栗はうちの初めての飼い猫で、家族の一員だったと思う。

 そして和栗がいてくれたから、その後、我が家の猫たちとの素敵な暮らしが始まった。

 その意味では、和栗はほんとうに運命の猫だったと思うし、今でも、大切な猫だ。


 ありがとう、和栗。

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