第三話 季節外れの寒気と、赤ちゃん猫

 若い頃は、生意気な社員だった。

 自分が一番、というほど思い上がってはいなかったつもりだが、それでも、仕事ができる方だと思っていたし、凡庸な(そう見えていた)先輩や上司を、心のどこかで、軽く見ていたように思う。

 四十を過ぎて、分かってきた。

「有能」という言葉の意味は自分が思っていたよりもずっと幅広く、様々な長所や個性を持った人たちが、自分とは違う形で活躍しているということ。一見目立たない人たちも、実はしっかりと世の中を支えているということ。

 歳をとり、「プレーヤー」を卒業して管理職になると、そこには全く見たこともない風景が広がっていた。新鮮でもあるし、もう少し正直に言うと、これまで積み上げてきたものが崩れていくような虚無感と、恐怖心を感じる。


「四十にして惑わず、か……」

 俺は家に帰る住宅街の道を歩きながら、またため息をついていた。惑わないどころじゃない。管理職になった途端、まるでこの年で転職でもしたかのように新しいことだらけで、どっちかというと、惑いしかない。

 山口に来て、一年あまり。部下とうまくいっていない。

 不思議なものだ。ついこの間までは、現場のプロジェクトリーダーとしてグループを引っ張っていく立場で、時には上司にたてついて煙たがられたりもしたが、自分で言うのもなんだが、後輩たちには慕われていた。

 転勤して管理職になり、周りにいるのが「後輩」から「部下」になったとたん、心が通わなくなってしまった。職場での冗談や軽口も上滑りして、正直、嫌われてさえいるのではと感じる。

「何であんなこと、言っちまったんだろ……」

 今日も、二十代の若手社員と、ちょっとした感情の行き違いがあった。

 プロジェクトの方針をめぐって現実的とは言えないプランを示してきたので、ついきつめにダメ出しをしてしまったら、向こうが激しく反論してきたのだ。売り言葉に買い言葉に、なった。舐められたらいけない、という思いもあったかもしれない。この一年たまってきたイライラも、全く無関係といえば、嘘になる。

 言わなくてもいいことを言ってしまい、さらに職場の雰囲気が悪くなる。典型的な悪循環だ。

 分かっては、いるんだけど。

 道路に面した門をくぐり、幕末、井上馨の屯所にもなったという古い寺の境内に入った。山口市はごく普通の冴えない地方都市だが、街のいたるところに、室町や幕末の歴史が今も息づいている。一見どこにでもあるような、しかし実は幕末の動乱の舞台となったこの寺の境内から、裏道を抜けたらすぐ我が家だ。

 会社からは、歩いて十分。そして古いとはいえ、庭つきの一軒家。こんな住環境が地方生活の魅力、なのだろうが、会社を出て家に帰るまでの間に気持ちを切り替える時間がないのは、つらくもある。

 玄関の前で一度立ち止まり、ふーっと息を吐いて頭の中をクリアしてから、引き戸を開けた。

「ただいま」

「おかえりー」

 娘の明るい声に、少し救われる。リビングに入ると、妻が夕食を温め直してくれていた。ぷーんとスパイシーな香り。今夜はカレーらしい。

「牛すじカレー?」

 スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら聞いた。最近、近所の商店街にいい肉屋ができて、そこの牛すじがうまいのだ。ちなみに、その商店街は室町時代から続いているという話で、家から歩いて一分だ。

「お父さん、いいもの見せてあげよっか?」

 小夏が、いたずらっぽい笑みを浮かべて、近寄って来た。

「なに?」

「ちょっとこっち来て」

 手を引いて、また玄関まで連れ戻された。サンダルをつっかけ、外に出る。

「何だよ、いったい」

「いいから、いいから」

 家の周りをぐるっと半周して、裏側に出た。建物とブロック塀の間に、庭というほどでもないがちょっとしたスペースがあり、桜などの木が数本植わっている。

「これ!」

 壁際、ちょうどリビングの窓の下に、段ボール箱が置いてあった。中を覗き込むと……

「何、これ?」

 見たこともない小さな生き物が、四匹いた。毛むくじゃらで、大きさは十センチもあるかどうか。よく見ると、顔と手足がある。

「動物?」

「猫の赤ちゃんだって!」

「え、猫!?」

 驚いた。確かに猫といえば猫に見えなくも、ない。だけどこんなに小さいのか…… 軽く手のひらに乗るサイズだ。

 思わず手に取ろうとして、「ダメっ」と小夏に止められた。

「人間の匂いがつくと、お母さん猫が迎えに来なくなっちゃうんだって」

 手を引っ込めて、まじまじと見た。明るくはないが、リビングの窓から漏れる光で、見づらくはない。四匹は寄り添うように集まって、寝ているようだった。一匹は黒猫で、残り三匹は焦げ茶色をしている。

「へぇ、猫の赤ちゃんって、こんな小さいんだ」

「生まれたばっかりだって。まだ目も開いてなくて、何も見えないらしいよ」

「ふーん」

 そう言えば、猫に限らず、動物の生まれたばかりの子どもを直に見るのは、初めてだ。そういえばテレビで見たパンダの赤ちゃんも、こんな感じだったっけ。

 もっと見ていたかったが、早々に小夏に袖を引かれた。

「じゃ、戻ろっか? お母さん猫が戻ってくるといけないから」

 玄関へ引き返しながら、小夏は「隣の竹田さんが、預かって下さい、って持ってきたんだって」と教えてくれた。


 リビングに戻ると、テーブルの上でうまそうなカレーが待っていた。

「いただきまーす」

 牛すじとルーとご飯をスプーンで山盛りすくって、口に放り込んだ。うまい。本当はもう少し辛めが好きだが、小学生の娘がいる家でそんなワガママは言えない。

「あの猫、竹田さんから預かったんだって?」

 食器を洗っている妻の亜希子に、聞こえるように大きな声で話しかけた。

「うん。預かってるっていうか、場所を貸してる、っていうか。ちっちゃいでしょ? 私もあんなちっちゃい猫、初めて見た」

 亜希子は振り返って笑った。猫好きなのだ。もっとも俺も、こないだ一匹の子猫が家に迷い込んでから、すっかり猫派になってしまったのだが。

「確かに考えてみれば、猫って一度に五匹も六匹も産むんだよね。あれくらい小さくて当たり前か」

 と言いながらも、まだ実感がわかない。それくらい、あの赤ちゃんたちは、自分が猫だと思っているイメージとはほど遠かった。

 亜希子は食器洗いを途中でやめて、テーブルの向かい、いつもの席に座った。

「きょう竹田さんが商店街の裏の道を歩いてて、見つけたらしいの。人が集まってて、何だろうって近づいてみたら、お母さん猫が授乳してたんだって。みんなでそれを見てたんだけど、そのうち誰かが、保健所に電話しなくちゃ、って言い出したんだって」

「ま、そうなるわな」

 カレーをぱくつきながら答える。牛すじが舌の上でねっとりと溶け、濃厚な旨味が広がった。

 この辺りでは、ノラ猫の増加がけっこうな問題になっている。ほっとけばドンドン増える訳だから、まだ小さいうちに保健所に連れてってもらうのは、当たり前と言えば当たり前の話だ。

「保健所に連れてかれる、ってことは、そこで殺される、ってことじゃない? 竹田さん、せっかく生まれてきた猫たちがすぐ殺されるなんてかわいそう、って思って、みんなの隙をついてこっそり救い出してきたんだって」

「隙をついて救い出した?」

 思わず、吹き出しそうになった。いかにも竹田さんらしい行動だ。その思いには共感するが、町内のノラ猫問題の最大の当事者とも言える竹田さんがしているとなると、のんきに笑ってもいられない。

 どうやらその後、竹田さんが、うちの裏庭に置かせてほしい、と来たらしい。竹田さんの庭だと、外から丸見えで子猫を持って来たことがバレちゃうのと、ノラ猫が多いので、子猫たちが危ないからだそうだ。オス猫が赤ちゃん猫を食べてしまうという話は、この時初めて聞いた。人間に置き換えると、相当怖い話だ。

「お母さん猫は、騒動の間に逃げちゃったらしいんだけど、うちの裏庭に子猫たちを置いてるのを遠くで見てたから、きっと迎えに来るって竹田さん言ってた」

「迎えに来る、って、どこに連れて行くんだろうね」

「さぁ。どっかに住処があるんじゃない? すぐ一匹ずつくわえて連れて行くと思うから、静かにしといて、って言われた」

 ノラ猫の増加に手を貸しているようで気がひけるが、ああして赤ちゃん猫を見てしまうと、保健所で殺してもらおうという気になれないのも、人情というものだ。まぁ、仕方ないか。

「母猫が、早く連れてってくれるといいね」

 あたりさわりなくまとめて、甘い福神漬けをシャリシャリと食べた。


 母猫は、確かに迎えにきた。

 一匹目が消えたのは、翌日の朝だった。朝食を食べていると亜希子が教えてくれた。

「今朝見たら、一匹いなくなってたよ。夜の間にお母さんが連れてったんじゃないかな」

「オスのノラ猫が食べちゃったんじゃないの?」

「やめてよ」

 そういうのは、想像したくない。どうせ分からないのだから、母親が連れて行ったことにしたい、というのは同じ気持ちだ。

「この調子なら、今日中には四匹ともいなくなっちゃうかもね」

「だね。じゃ、行ってくる」

 こうして、猫たちのことはさして気にもとめず、出勤した。


 その日も、きのう口論になった若手社員と、ちょっと揉めた。

 言っていることはこっちが正しいのだが、互いに感情的なしこりができてしまうと、なかなか理屈だけでは物事が進まなくなってしまう。

 その上、職場の他の社員が、こぞってその若手の味方をし始めたから、始末が悪い。管理職は孤独なものだ、とは聞いていたが、この状態はあんまりだと思う。自分の人望の無さが招いた結果だと考えれば、自業自得なのだが。

 今思うと、赴任してすぐに、部署の仕事の進め方をいろいろ変えたのが良くなかった。昔ながらの方法ばかりで、効率上、あるいはコンプライアンス上、改めた方がいいものばかりだったから、判断は間違っていなかった、と思う。

 ただ、気負い過ぎていた。

 あんなにはっきり、「こんなやり方はダメだ」とか「古臭い」とか言わなくても良かった。部下たちからしたら、東京の本社から来て、ずっと続けてきた自分たちのやり方を全否定する上司。さぞ気に食わなかったことだろう。

 つまり、そこなのだ。

 プレーヤーの頃は、クライアントや取引先の気持ちには十分に気を遣っていたが、社内では気遣いは無用で、判断が正しいかどうかが大事だと、ドライに、そしてある意味素朴に信じていた。

 バカだった、と思う。仕事をするのはいつだって、感情を持つ「人」だ。社外とか社内とかに関わらず、気持ちを軽視していいはずがない。管理職になって、つくづく思い知らされた。

 そして、そうなって初めて、気づいた。これまでだって、そんなやり方で良かったはずはないのだ。誰かが我慢してくれたり、ひょっとすると知らないところでフォローしてくれてたりして、どうにかやってこれていたのだろう。

 四十、というのは、そういう、いろんなことを突きつけられる歳だ。惑わないどころじゃない。惑いと、そして後悔しかない。


 夜、家に入る前に裏に回って確認したら、赤ちゃん猫は二匹になっていた。母猫はきょうは黒い毛の子を連れて行ったようだ。

「ただいま。一匹、減ってたね」

 そう言いながらリビングに入るとすぐ、小夏が心配そうな顔で話しかけてきた。

「お父さん、子猫って、自分で体温調節できないから、あっためてもらえないと死んじゃうんだって」

「え、そうなの?」

 五月初旬だったが、昨日から急に冷え込んでいた。天気予報で、上空に強い寒気が来ていると言ってたっけ。この街は周囲を山に囲まれた盆地で、寒い日は本当にしんしんと冷える。小さな命を奪うには、十分な寒さに思えた。

「お母さん猫、あと二匹を早く迎えに来てくれるといいんだけど……」

 夕食を並べる亜希子の表情も、曇っている。軽い気持ちで子猫を置く場所を貸しただけのつもりが、いつの間にか、我が家の一番の心配事になっていた。

 小夏はダイニングテーブルで宿題の漢字ドリルをやっていたが、見たところあまり進んでいない。鉛筆を指でもてあそびながら、提案した。

「夜の間だけでも、家に入れてあげたらどうかなぁ?」

 確かに、夜の寒さだけでもしのげたら、生き残る可能性はぐんと高くなるだろう。でも、それが猫たちにとって本当にいいことなのか、自信がなかった。

「もし夜中、お母さん猫が迎えに来た時に二匹がいなくなってたら、もう迎えに来なくなるかもしれないよ?」

 亜希子も俺と同意見のようで、諭すように小夏に言った。

「やっぱり、もう一晩だけ、様子を見ようよ。赤ちゃんたちだって、やっぱりお母さんのところに戻りたいと思うよ」

「そうかなぁ…… そうだよね」

 小夏も納得したようだ。

「一匹目が連れて行かれたのも夜だったじゃん。きっと今夜の間に、お母さん猫が二匹とも連れて行くよ」

 わざと明るく言って、発泡酒の缶をプシュっと開けた。

「それにもし死んじゃったら、かわいそうだけど仕方ないよ。ノラ猫の世界は厳しいんだから」

 そう言って、ぐいっとあおる。炭酸が舌をピリピリと刺激した。

「お父さんひどい」

 小夏は不満げだが、それが現実なのだ。

 夕食を食べながら見た夜のニュースでは、いつも以上に天気予報の最低気温が気になった。

 明日も、寒いらしい。


 翌朝。

 赤ちゃん猫は、一匹、減っていた。逆に言えば一匹は残ってしまったのだ。

「残った一匹だけど……」

 亜希子が朝食のヨーグルトを出しながら、窓の向こうに心配そうな目線を向けた。朝早く、見てきたらしい。

「なんか、元気がない気がするの。あんまり動かないっていうか……」

 やっぱり、昨晩の冷え込みがキツかったのだろう。

「母猫、いつ来てくれるかなぁ?」

 そんなこと聞かれても、分かるはずがない。ヨーグルトのスプーンを片手に、新聞の字を目で追いながら、答えた。

「確か二匹目の時も、昨日の午後いつの間にか、いなくなってたよね。今日も午後じゃない?」

「それまで、体力がもつといいけど……」

 朝のニュースが、ちょうど天気予報になった。明日の朝までは、季節外れの寒さが続くらしい。

 それを聞いていた亜希子が、ぽつりと言った。

「お母さん猫ってこういう時、元気な子どもから先に連れて行くんだって」

「弱ってる子から助けるんじゃないの?」

「うん。将来生き残る可能性が高い、強い子どもから優先なんだって」

 残酷なようだが、厳しい生存競争を勝ち抜くには、合理的でもある。

 だとすれば、いちばん体力のない赤ちゃんが、この寒い中で二晩を過ごしたのだ。次に母猫が迎えに来るときまで、生きていられるかどうか。

「ねぇ、家に入れてあげる? 昨日までは兄弟がいたから、集まって暖かくして過ごしてたみたいなんだけど、今は一匹だけでしょ? ほんとに寒そうで……」

「でも家に入れたら、匂いがついて、もう母猫は来ないんだよね?」

「分かんないけど、たぶん」

 もし家に入れて生き残らせることができたとして、その先はどうするのだろう。

 うちでは飼えない。こんな小さな赤ちゃん猫を貰ってくれる人が、見つかるだろうか。

「日中は、夜ほどは気温が下がらないんじゃない? 夜まではお母さんを待ってあげようよ」

 自分でも、これが正しいのかどうか、よく分からない。ただ決断を先延ばしにしているだけなのかもしれない。

 四十歳を過ぎても、世の中には分からないことだらけだと、思う。


 その日の夜になっても、母猫は迎えに来なかった。

「さすがに、家に入れてあげようよ」

 いつもより少し早めに帰宅すると、これまで比較的無関心だった耕輔までそう言い始めていた。

「まだ生きてる?」

「さっき、母ちゃんがちょっとつついたら、動いたんだって」

 でも、もう限界だろう。母猫はこの子を連れていくのを諦めたのかもしれない、と感じた。

「そうだな。連れといで」

 と言うと、すぐに耕輔と小夏でダンボール箱を運んできた。

 焦げ茶色の赤ちゃん猫は、一人ぼっちで、箱の隅で丸くなっている。

「ほら、これで温めよう」

 亜希子が、ペットボトルにハンドタオルを巻いて持ってきた。お湯を入れたもので、子猫を温める方法としてネットで紹介されていたらしい。

「近くに置くと、熱を感じて寄ってくる、って書いてあったんだけど……」

 赤ちゃん猫は、全然動かない。もう動く力がないのだろう。

 お腹の部分がペットボトルで温められるように、上半身をつまんでそっと上に乗せてあげた。驚くほど柔らかくて、ちょっと力を入れたら握りつぶしそうだ。

 赤ちゃん猫は、ちょうどあごをボトルの上に乗せて、もたれかかるような格好になった。その時初めて、顔がよく見えた。まだ目が開いてないからか、やっぱり猫のようには見えない。

「スターウォーズのヨーダに似てない?」

 変な感想を口にしたのは、やはり初めて顔を見る耕輔だ。そうかなぁ? まぁ、似てなくも、ないか。

「かわいいね」

 亜希子は慈しむような微笑みを浮かべている。こういうのをかわいいと手ばなしに思えるのは、母親の本能なんだろう。

 俺は、こないだうちに来た子猫と違って、一目見てかわいい、とは思えなかった。生後すぐの耕輔や小夏を見た時も、こんな感じだったような気がする。

 ただ、守ってあげないと、という気持ちがわいてきた。これが父性本能なのかもしれない。

 ペットボトルに寄りかかっている赤ちゃん猫の表情は、目を閉じているので、お風呂に入ってほっとしている表情のようにも見える。あるいは、本当にそういう気分になっていて、それが伝わってくるのかもしれない。

「あ、ちょっと動いた!」

「元気、出てきたのかな?」

 家族みんなの気持ちが、ほっこりしている。

「……かわいいな」

 自然に、そんな言葉がこぼれていた。


 一時間もすると、赤ちゃん猫は、もぞもぞと動くようになっていた。その様子を、もうずっと家族四人で見続けている。

 しかしこれから、どうしようか。

「この猫、飼うの?」

 小夏が聞いた。一瞬、家族の中に沈黙が流れた。猫を飼うことは去年の夏に一度考えたが、やはり借家で飼うのは難しいと、あきらめている。

「サンペーの時みたいに、もらってくれる人、いないかな?」

 と、耕輔。でも、ここ数日ネットで猫のことばかり調べている亜希子が、すぐ否定した。

「赤ちゃん猫は育てるのにすごく手がかかるから、ちょっと難しいんじゃないかな」

 すると、飼いたがっているのかと思っていた小夏が、意外なことを口にした。

「でもこの子、お母さんや兄弟のところに、行きたいだろうね」

 今度はもう少し長く、沈黙が流れた。

 この二日間、この子は寒さに耐えて、母猫が迎えにくるのを待ち続けていたのだ。最初は、四匹の兄弟みんなで寄り添い、温めあって。そして、兄弟が体力のある順に一匹、また一匹と母猫に連れて行かれる間、頑張って生き続けた。たぶん、次は自分だろう、次は自分だろうと思いながら。

 母猫は、一匹目と三匹目を夜の間に迎えに来ていた。最後に残ったこの子を、ひょっとしたら今夜、迎えに来るかもしれない。

 亜希子も、同じことを考えていたらしい。

「もう一晩だけ、外に出してみようか? お母さんが迎えに来れるように」

「今夜も寒いよ。大丈夫かなぁ?」

 小夏は、ほとんど泣きそうな顔をしている。

「じゃ、このペットボトルを一緒に置いておこうよ。時々、中のお湯を入れ替えて、いつも温かいようにしておけば、大丈夫じゃないかな」

 最後のチャンス、という気持ちで、そう提案した。今晩だけ、賭けてみよう。

 近くにペットボトルがあったら、母猫が警戒して近寄らないかもしれない。でもそれ以前に、死んでしまったら元も子もない。そもそも母猫が今日一日迎えに来なかったことを考えると、この子はもう見捨てたという可能性だって、十分にあるのだ。

「俺、お湯を替えるよ。みんなはもう寝な」

 起きている役を引き受けた。家族が二階に上がっていくと、母猫が警戒しないように電気を消して、ソファに横になった。

 それから三時間ごとにお湯を沸かして、ペットボトルの中身を入れ替えた。その時だけは電気をつけることになったが、仕方ない。そもそも、勝率の低い賭けなのだ。できるだけのことをして、あとは運を天に任せるしかない。


「お母さん猫、来なかったね」

 亜希子に起こされて、目が覚めた。明け方にお湯を替えてから、眠ってしまっていたのだ。

「まだいるの?」

 目をこすりながら聞く。

「うん。でもなんか、昨日より元気な気がする。ペットボトルが温かかったからかな」

「そっか」

 赤ちゃん猫は、また一晩、生き延びたのだ。自分がしたことが小さな命を救ったのだとしたら、嬉しい。

 顔を洗って戻って来ると、亜希子がコーヒーを淹れてくれていた。

「ねぇ」

「どうした?」

 新聞をめくりながら答える。今日の最高気温は25度を超え、昨日までとは一転して夏日になるらしい。

「あの子、水もえさもあげてないのに、どうして生きてるのかな?」

 そういえば、そうだ。母猫と離れてからもう三日になる。猫というのは、それくらい生命力のあるものなのだろうか。

「ひょっとしてお母さん猫が、こっそり授乳だけしてるのかも」

 どうだろう。母猫に授乳するくらいの気持ちがあれば、さっさと連れて行くような気もする。

「そうかもね」と答えると、亜希子がマーマレードトーストを出しながら言った。

「今日は暖かくなるみたいだし、このまま夜まで、様子を見てみようか?」

 コーヒーを飲みながら、湯気ごしに亜希子の表情を見た。

 たぶん、俺と同じように、いろんな思いが渦巻いている。赤ちゃん猫を母猫のもとに戻してあげたい、という思い。家に入れて助けても、その後どうしていいか分からない、という思い。そしてもちろん、この小さな赤ちゃん猫が、リビングのすぐ外で命尽きてしまうのは何とか避けたい、という思い。

「うん、そうだね」

 短く答えると、亜希子は、パートに出る支度をしに二階に上がっていった。

 俺はあくびを一つして、トーストにかじりついた。


「こないだの件だけど」

 朝の会議が終わった後、プロジェクトの方針で揉めていた若手社員、松岡に話しかけた。

 あの後松岡には、俺が指示した方針で仕事を進めてもらっている。もう少し具体的にいえば、彼が提案したいくつかのプランのうち、時間的余裕もノウハウもなく現実性がないと感じたものを見送り、確実にできそうなものに絞って進めさせているのだ。

「はい」

 松岡は、キーボードを打っていた手を休め、座ったままこちらを見上げて返事をした。

 上司に話しかけられたら、立ち上がって目線の高さを合わせて受け答えするものだ、と教えてやりたい。が、またうるさい上司だと思われるだろうか。それでも彼のために教えるのが、指導者の役割なのだろうか。でもこれ以上嫌われたら、今後の仕事もうまくいかなくなるし、指導の効果だって薄れる気もする。やっぱり、分からない。

 ただあえて言えば、上司が話しかけても作業の手を休めず、目を合わせないまま返事する若手社員だっていると聞く。それに比べればずいぶんマシだし、正直に言えば、生意気盛りだった頃の俺だって、席を立って返事したりしなかった。だから、まぁ、いいか。

「どうかしましたか?」

「あ、いや」

 空いていた隣の席に座って、こちらから目線の高さを合わせた。社内の打ち合わせや商談でも、こうした何気ない気遣いが結果に影響するのだが、そういうことはおいおい教えていこう。

「松岡が提案したプランの中で、二つほど見送ったのがあるだろ?」

「はい」

 話の内容に興味が湧いたのか、松岡はやっと体全体をこちらに向けた。

「どっちか一つだけ、チャレンジしてみるか?」

「え?」

「スケジュールがタイトになるけど、俺もサポートするよ。ノウハウが必要なら、本社の同期に相談してみる」

 プロジェクトのことを考えたら、二つともやめた方がいいという判断は、変わっていない。あまり欲張りすぎると時間的な余裕がなくなり、終盤の状況変化に対応できなくなる。大事な詰めの作業が甘くなれば、結局は全体的なクオリティが落ちることになる。

 ただ、プロジェクトの着実な成功よりも松岡の育成の方を重視したら、違う風景が見えてきた。その気になっていろいろ工夫すれば、一つくらいはやってできないこともないだろう、と思ったのだ。

 こちらとしては、松岡の気持ちに配慮した最大限のサービスのつもりだ。さぞ喜んでくれるだろう、と思ったが、意外にも松岡はちょっとムッとした表情をした。

「だって、こないだは無理だって言ったじゃないですか。急にできるって言われても、納得できません」

 やっぱりできるんじゃないですか、課長の前の判断が間違っていた、ってことですよね? と顔に書いてある。いや、そういうことじゃなくて……と言いかけて、やめた。世の中には、言わなくていいこともある、のだろう。

「悪かった。あの後、冷静になって考え直したんだ。……だから、どっちのプランがやりたいか、ちょっと検討して後で教えてくれ」

「分かりました」

 悪かった、と謝ったからか、松岡の表情が少し和らいだように感じた。席を立って、自席に戻った。これで良かったのだと、思う。うん。


 午後、外回りから帰ってきた部下が、「寒かったー。今日は夏日になるって言ってたのに、全然暖かくならないですね」と言っているのが聞こえた。

 窓の外を見ると、曇っていて、風が強い。街路樹が寒そうに枝を震わせていた。忙しくて昼飯を食べに出なかったので気づかなかったが、天気予報が外れているのだろう。

 視線をパソコンのモニターに戻すが、作成中のドキュメントの内容が、急に頭に入ってこなくなった。冷めたコーヒーを飲んで、集中しようとする。

 ……ダメだ。

 立ち上がって、ホワイトボードに「寸外」と書いた。

「ちょっと出てくる」

 建物を出ると、冷たい風で身が引き締まった。確かに、寒い。早足で住宅街を抜け、寺の境内から裏道に入って、家に向かった。

 家に着くと、そのまま裏に回って、段ボール箱の中を覗きこんだ。

 いた。

 赤ちゃん猫が、寒そうに身を丸めていた。結局、母猫は迎えに来なかったのだ。

 もうためらいはなかった。箱ごと抱え上げて、玄関へ向かった。亜希子はまだパートで、家には誰もいない。キッチンでお湯を沸かし、ペットボトルに入れてハンドタオルでくるんだ。

 赤ちゃん猫をつまんでペットボトルに乗せた。予想通り弱っているようだが、大丈夫、まだ生きている。

 家を出て、今度は商店街に走った。確か、肉屋の二、三軒向こうにペットショップがあったはずだ。

 店内に入ると、猫のコーナーを探す。キャットフードの袋や缶詰、猫じゃらしなどに混じって、子猫用の粉ミルクが二種類あるのを見つけた。安い方を手に取り、レジへ向かった。

 平日の昼間から、スーツ姿でペットショップに駆け込んで来て、子猫用の粉ミルクを買おうとする中年男性。店員からしたら、さぞかし不思議な光景だろうと思う。

 店員の女性が、商品をピッとレジに通して、ふと手を止めた。

「スポイトは、お持ちですか?」

「え、スポイト?」

「こちらです」

 店員は、わざわざ商品棚まで案内してくれた。知らなければ気づかないような隅っこに、理科の実験で使うような、小さなプラスチック製のスポイトが売られていた。そうか、猫にも哺乳瓶が必要なんだ。ミルクを小皿に入れて出したら、ペロペロなめると思っていた。

「二千円お預かりします」

 会計をすると、粉ミルクとスポイト、合わせても千円ちょっと。一つの命が、わずかこれくらいのお金で救われるのかと思うと、拍子抜けした。

 店員にお礼を言って、ペットショップを出た。家に戻り、スマホで調べながらミルクをつくった。冷たくてもいけない、熱くてもいけない。人肌がいいそうだ。そういえば亜希子が子どもたちに授乳していたとき、溶かしたミルクを自分の手にたらして温度を測ってたっけ。

 ペットボトルで温めていた子猫を手にとって、おっかなびっくり、口にスポイトを入れてミルクを含ませた。

「これ、飲んでんのかな……」

 ほとんどこぼれてしまって、飲んでいるのかいないのか分からない。でも、少しでも口の中に入っていれば、多少は栄養になるだろう。あまり無理しない程度にして、またペットボトルの上に戻した。

 相変わらず目は空いておらず、お風呂に入っているような顔をしている。ちょっとホッとしているように見えるのは、本当にそうなのか、こちらの気持ちの問題なのか。ただ少なくとも、さっきよりはもぞもぞと動いているようだ。

 ふと、自分が微笑んでいることに気づいた。耕輔と小夏が小さい頃は、頭の中が仕事でいっぱいで、こんな風に世話をしていなかった気がする。亜希子に悪いことをしたな、と思った。

「あ、会議!」

 時計は、三時四十五分を指していた。会議まで十五分。慌てて家を出て、会社に向かいながら、亜希子に短くメールで報告した。

 寺を過ぎて、住宅街の道を会社の方に歩いていると、暖かい日射しを感じた。見上げると、雲の切れ間ができて、山口の澄んだ青空が顔を出していた。

 どうするのが正しいのかは、正直、よく分からない。でも、どうしたいかは分かる。とりあえずはあの子猫の命を救いたい。その後のことは、それから考えよう。

 会社の近くにある自動販売機で、缶コーヒーを二本買った。一本は松岡にやろう。いかにもご機嫌をとっているような感じで、鼻につくかな。ま、いっか。ご機嫌をとってやろうじゃないか。

 会社の自動ドアが開いた。

 二階のオフィスに上る階段が、昨日までより、少し短く感じた。








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