第二話 イッペイくんの思い出と、サンペー
暑くて、寝苦しい夜だった。
明日も早起きしてお弁当作らないと……と思いながらもなかなか眠れず、イライラしていた。
午後はパートがあるから、お昼寝もできないし。寝なきゃ。寝なきゃ……
「にゃぁ。にゃぁ」
どこかで、猫の声がする。
「にゃぁ。にゃぁ。にゃぁ」
聞き覚えのある声。
ああ、これはイッペイくんの声だ。
でも何だか元気がない。それに寂しそう。どうしたんだろう。
「にゃぁ。にゃぁ。にゃぁ」
イッペイくんは、いつまでも鳴き続けている。たぶん、玄関の外の植え込みのところで鳴いているんだな。家に入ってくればいいのに。ご飯もあるよ。イッペイくんの好きな、ウェットタイプのマグロ味のキャットフード。
「にゃぁ。にゃぁ。にゃぁ」
イッペイくんの声は続く。
……あ、そっか。
きっとこれは、お別れの挨拶だ。
もう、行くんだね。
仕方ないね。
イッペイくん、長い間一緒にいてくれて、ありがとう……
「にゃぁ。にゃぁ。にゃぁ。にゃぁ」
目が覚めると、子猫の鳴き声がした。
私、寝てたんだ。あー、せっかく眠れたのにぃ、もう。
鳴き声は、窓の下から聞こえる。小さいけれど、繰り返し、繰り返し。それであんな夢を見たんだな。私は涙を拭うと、上半身を起こした。
隣の家が猫屋敷なので、うちの庭にも始終猫が出入りしていて、鳴き声は別に珍しくはない。私は眠りが深いたちで、猫が大げんかするうるさい声でもなかなか起きないのに、今日はどうしたんだろう。
「にゃぁ。にゃぁ。にゃぁ。にゃぁ……」
わかった。
この鳴き声は、私に向けられているんだ。だから起きたんだ。子猫は、休むことなく懸命に、私に呼びかけ続けている。
ふと気づくと、隣で寝ていたダンナも目を覚ましていた。
「ねぇ、あれ……」
「うん。何かあったのかな? あんなにずっと鳴き続けてるなんて」
私はベッドを出て、寝室の窓を開けて庭を見下ろした。
「どう?」
ダンナが聞いてくる。でも、鳴き声の主は見えなかった。
「わかんない。このすぐ下の、ひさしの陰にいるみたい」
そうしている間も、子猫は鳴き続けている。
「何か、俺たちに訴えてるみたいだな」
ダンナも、同じことを感じたみたい。
「そうね」
私は言いながら、もう寝室のドアを開けていた。ほっとけない。
電気をつけて、階段を降りた。
ガラガラと玄関の引き戸を開けると、子猫は、すぐ目の前に座っていた。
そして私と目が合うと、鳴きやんだ。
ほとんど銀色に近いグレーと白の、小さな猫。こっちを見ても逃げないどころか、安心したような表情さえ浮かべている。やっぱり、私を呼んでいたんだ。
「あれ、イッペイくんに似てるね」
後ろからダンナの声がした。イッペイくんは、私が昔実家で飼っていた猫だ。もう死んじゃったけど、ダンナは付き合い始めた頃に何度か見ている。
「うん」
私は引き戸を開けたまま、キッチンに向かった。猫にあげられるようなもの、何かなかったっけ?お隣さんのこともあって、この町内では、ノラ猫にえさをあげないように厳しく言われている。でも、あんなに小さな猫が、こんなに頑張って訴えているのだ。少しくらい……
削り節を小皿に入れて玄関に戻ってくると、まだ子猫は引き戸のすぐ外側にいて、ダンナと見つめ合っていた。
「ぜんぜん逃げないんだよ」
ペットを飼ったことがないダンナは、何だか嬉しそうだ。そういえば、将来は犬か猫が飼いたいと、前に言っていた気がする。
私はその脇から削り節のお皿を出して、子猫の前に置いてあげた。子猫は、何の警戒もなく、嬉しそうにムシャムシャと食べ始めた。
「か、かわいいな」
ダンナと目が合った。最近あまり見ないくらい、ニヤニヤしている。
ダンナは転勤で山口に越してきてから、ちょっと神経質になっている。噂に聞く中間管理職というやつになったらしく、人間関係とかが厳しいのだろう。
でも、今はダンナのことはどうでもいい。子猫だ。
生まれて三か月くらい、だろうか。毛並みがいい。一見して、この辺りでよく見るノラ猫ではないのがわかる。
そういえば、聞いたことがある。隣のおばあさんがよくノラ猫にえさをあげているので、遠くから猫を捨てにくる人がいるらしいのだ。きっと、それだ。
飼いたい。これはきっと運命。でも……
「うち、ペット禁止だよな?」
子猫が削り節を食べるのを見ながら、ダンナが呟いた。
「そうね」
としか、言えない。
いろんなルールを、ある時は知らずに、ある時は知っていても破っていた子どもの頃とは、違う。子どもたちだっている。ルールを守ることを教えるのは、親の務めだ。
やがて、子猫は削り節を食べ終わった。でも、やはり逃げない。
ダンナが立ち上がった。
「お前、うち来るか?」
これまでは、玄関に入るのをふさぐように座っていたのだが、おいで、とばかりに道を開ける。
「ちょっと、やめてよ。どうせ飼えないんだから」
「まぁ、そうだけどさ」
すると、子猫はごく自然な感じで、自分から玄関に入ってきた。まるでここがずっと前から自分の家であるかのように。
「お、おい。ほんとに入ってきたよ」
子猫は玄関のタタキに入って、ダンナの脇にちょこんと座った。小首を傾げてこっちを見る仕草が、なんとも愛らしい。
「よし、じゃこっち来い」
ダンナが家に上がってそのまま階段を上っていくと、子猫も嬉しそうに上がり込み、ダンナの後を追って、階段をぴょんぴょんと上がっていった。
「あー、もう。ノミだっているのよ?」
そう言いながら、自分でも微笑んでいるのがわかる。少し高めの階段の段差を、子猫が体全体を使ってジャンプしながら一段ずつ上っていくのは、思わずニヤけずにはいられない光景だ。
しかもその子猫は、イッペイくんと同じ毛の色をしているのだ。私は、強烈なデジャブを感じていた。
戸締りをして、小皿を片づけてから二階に上がると、子猫はベッドの上でダンナに撫でてもらっていた。
「ほら見て、このくつろぎっぷり。警戒心とか、ないのかね?」
「でも、ほんとうにどうするの? この家、ペット禁止でしょ?」
この家を借りる時、大きな家だからひょっとしてペットを飼えるかも……と思ったのだが、契約書にはばっちり「ペット禁止」と明記されていた。
「バレなけりゃ大丈夫じゃない?」
ダンナはいたって能天気だ。
「バレないわけないわよ。大家さん隣に住んでるのよ?」
そう、うちの猫屋敷じゃない方のお隣さんが、大家さん。商店街で大きな呉服屋を営む資産家で、新築の広くてお洒落な家に住んでいる。うちよりちょっと年上くらいの、感じのいい中年の夫婦で、ひょっとすると新しい家を建てる前はここに住んでいたのかもしれない。
たまに挨拶する程度で、そんなに世間話をするような仲でもないけれど、さすがにこの先何年も隠し通せるとは思えない。
「確かになぁ。……でも、まぁ、こんなに懐いてるんだから、今夜一晩くらいはいいだろ? これも何かの縁だし」
ずっと飼いたかったペット、たとえ一晩でも経験したい。ダンナの顔にそう書いてある。
「そうねぇ……」
私は不承不承、という感じで頷いた。けれど正直に言うと、明日の朝、子どもたちに子猫を見せるのが、少し楽しみになってきていた。
「一晩だけ、ね」
「うん、一晩だけ、な」
その晩、子猫は私とダンナの間で丸くなって寝た。私はまたイッペイくんの夢を見たような気がするが、よく覚えていない。
「わー、かわいい!」
娘の小夏は、目を輝かせて大声をあげた。
先に起きてきた小夏に、「実は昨晩、家に子猫が来たのよ。一晩だけ泊めてあげたんだけど、見る?」と、朝ごはんを食べ終えた子猫を見せたのだ。
越してきてから少し元気がなかった小夏が、これだけはしゃいでくれるのは、嬉しい。
子猫は小夏にもまったく臆することなく、好きに撫でさせている。甘え上手な子だ。
「ね、お母さん、飼わない?」
小夏は、予想通りの反応をした。そりゃそうだろう、私が小学四年生の女の子だったら、やっぱりそう言ったと思う。というか、今の私だって本当は同じ気持ちだ。
「ダメよ。この家、ペット禁止だもん」
「そっかぁ……」
こういうところで「こっそり飼えばいいじゃん」などとズルいことを言わないのが、小夏の長所だ。悪く言えば融通がきかない、のかもしれないが、ルールをルールとして自然に尊重できるのは、やっぱり長所、だと思う。
そう思いながら子猫を撫でている小夏を見ていると、今度は息子の耕輔がリビングに入ってきた。
「わ、何? その猫!」
ババっと近づいて、撫でようとする。「やめてよ、わたしが撫でてるでしょ?」「いいじゃん、もうたくさん撫でたんだろ?」「わたしも今来たばっかだもん」と、いつものケンカが始まった。
小夏は兄の耕輔に妙なライバル心を持っていて、兄妹でのいさかいは絶対に譲らない。一方、中学二年生の耕輔は、そんな妹に譲ってあげるだけの度量も器量もなく、テレビのチャンネルからお菓子の分配まで、二人は常に言い争っている。
でもまぁ、そんな妹に力づくで言うことをきかせるわけでもなく、最後にはブツクサ言いながら折れてあげる優しさが、耕輔のいいところだ。
「どうしたの? この猫」
「きのうの夜、うちに来たんだって。一晩だけ泊めてあげたんだって」
耕輔は結局撫でるのを諦めて、小夏が撫でている子猫を興味津々という顔で見ている。そういえば耕輔も小学生の頃、猫を飼いたいって言ってたっけ。あれ、犬だっけな?
「えー、可愛くない? うちで飼おうよ」
「ダメだよ。うちペット禁止だもん」
「いいじゃん、バレなけりゃ大丈夫だよ」
耕輔のこういうところは、父親譲りだ。口ではこう言いながらも、ほんとに実行することはできない、気の弱さも。
「ほらほら、学校遅刻するよ。朝ごはん食べて!」
朝食のトーストをテーブルに並べながら言うと、小夏が名残惜しそうに子猫のそばを離れて、席に着いた。
「ねーお母さん、帰ってきたら、もうこの猫いないの?」
「そうねぇ、一晩だけの約束だからね」
「約束って、誰とだよ?」
すかさず耕輔が突っ込んでくる。大人に対して生意気な口をききたい年頃なのだ。
「え? 猫と」
「何だよ、それ」
でもまだ、コーヒーは苦いから飲めない。かといってジュースは甘すぎるから、ココアのいちばん苦い銘柄が好きだという、微妙な時期。その苦めのココアを飲みながら、耕輔も目線は猫から外れない。
小夏は、いちごジャムのついた口でオレンジジュースを飲みながら、甘えるように言った。
「いいじゃんー。もっと撫でたり遊んだりしたいよ」
確かに、学校から帰ってきて子猫がいなかったら、二人ともがっかりするだろうな。でも……
「だって、学校から帰るまで家に置いといて、もっと遊んだりしたら、情が移るでしょ? 夜になったら、はいさようなら、ってできる?」
「うー、できない」
その時、出勤前の身支度を整えたダンナが入ってきた。
ここまでの会話が、聞こえていたらしい。
「でもさ、この猫、育ちが良さそうじゃん。追い出したら、外の世界で生きていけるかな?」
うっ。実は、それがいちばん心配なのだ。
えさは隣のおばあさんがくれるかもしれないが、家の周りには、体が大きくて怖そうな猫がたくさんいる。こんないたいけな子猫を放り出したら、あいつらにいじめられることうけあいだ。
「そうだよ。うちで保護してあげないと」
と、また耕輔が大人びた口を聞く。
「あーもう、うるさい。ダメなものはダメなの。子猫のことはお母さんが考えとくから、あんたたちは学校行ってらっしゃい」
私は強制的にこの議論を打ち切って、ダンナと子どもたちを送り出した。
イッペイくんと出会ったのは、高校一年生の夏、ちょうどこれくらいの時期だった。
習い事のバレエスタジオから帰る途中、ちょうどよくマンガで見るみたいに、段ボール箱に入れて捨てられていたのだ。お腹が空いたのか、みーみーと小さな声で鳴き続けていた。
私は、父の転勤で宇都宮から八王子に越してきたばかりだった。住んでいる母の実家は一軒家で、おじいちゃん、つまり母のお父さんが、猫を一匹飼っていた。
もう一匹くらい増えても、大丈夫じゃないかな?
みかんの段ボール箱からこっちを見上げる子猫は、私を飼ってください、と訴えているようにしか見えなかった。一瞬迷ったが、私はそれこそマンガみたいに、その子猫を拾い上げた。
バレエ教室は家から電車で30分も離れた駅にあったので、改札の直前で子猫をワンピースのお腹の中に隠して、妊婦のように大きなお腹を抱えるようにして、ドキドキしながら電車に乗った。誰にも気づかれず、うまくやったと思ったものだったが、いま思うと、きっと駅員にも乗客にもバレバレだったに違いない。今よりもずっと、人々の心に余裕があった時代なのだろう。
家族は、私が連れて来た子猫を飼うことに、特に反対しなかったように思う。どうしてその名前にしたのかは覚えてないけれど、すぐに「イッペイ」と名づけて飼うことになった。
家族みんなが心配していたのは、おじいちゃんの猫、ミーちゃんが、子猫をいじめないかということだった。何しろミーちゃんときたら、その可愛い名前とは似ても似つかない、ドスの効いた風貌と巨体で、町内の猫たちのボスのような存在だったのだ。ほとんど家に寄り付かず、たいていどこかで別の猫とケンカしているか、メス猫を追っかけているか、だった。その頃、近所で見かけるノラ猫の子猫は、たいていミーちゃんの子どもだったと思う。
そのミーちゃんが帰って来たのは、イッペイくんが家族になったその日の、夜遅くだった。私はケンカが始まったら止めないと……と思って二匹を見つめていたが、いざ本当に始まったら、私の力ではミーちゃんは止められないだろうとも思っていた。
緊張の対面。
ミーちゃんは、イッペイくんを見ると、近寄ってギョロリと睨んだ。それから、さらに近寄って、くんくんと匂いを嗅いだ。
そして……
ペロペロと、舐め始めたのだ。私は涙が出そうだった。
イッペイくんが来てからミーちゃんは、人が、いや猫が変わったように、「マイホーム猫」になった。まるで父と息子のようにかいがいしくイッペイくんを世話して、どこへ行くにも連れ歩いたし、毎日家に帰ってくるようになった。
イッペイくんもそんなミーちゃんを慕っていたが、人間でいちばん大好きなのは、もちろん私だった。最初の夜に私のベッドで抱っこして寝たので、それが習慣になったように、毎晩私のお腹の上で寝た。冬はあったかくて良かったけど、夏は暑かったし、大きくなってからは正直、重かった。でもそれでも、私はイッペイくんをベッドから出そうとは思わなかった。
高校から大学にかけての多感な時期、その日あったこと、特に悲しいことを聞いてもらうのは、もっぱらイッペイくんの役目だった。学校から帰って、イッペイくんと遊んで、ご飯を食べて、イッペイくんと眠る、というのが、ごくシンプルに言うと私の八王子での暮らしだったような気がする。
大学を卒業すると同時に、私は当時つきあっていた彼と結婚して、一足早く社会人になっていた彼の赴任先、札幌に飛んで行った。当時、私の頭の中は彼のことでいっぱいで、イッペイくんとの別れは、正直、あまり印象に残っていない。札幌での新しい生活も忙しくて、いつしか、イッペイくんを思い出すことも少なくなっていった。
イッペイくんが死んだ、と聞いたのは、札幌での暮らしが三年目を迎えたころだったと思う。正確には「いなくなった」らしいが、その少し前に死んだミーちゃんの時もそうだった。猫は、飼い主に自分が死ぬ姿を見られまいと、死期を悟ると家を出て行くのだという。
いなくなった夜、玄関のすぐ外から、イッペイくんの寂しそうな鳴き声がずっと聞こえていたと、母が言っていた。母は別れの挨拶だろうと感じて、あえて出て行かず、ずっと聞いていたそうだ。
だから私は、イッペイくんの別れの挨拶を聞いていない。でも、イッペイくんがいちばん別れの挨拶をしたかったのは、たぶん私だったのだろうと思う。その場にいられなかったことは、私の心の深いところにもう十数年も引っかかったままになっていて、時々、思い出したようにほろ苦く顔を出す。
削り節をがっつく子猫を撫でながら、私はそんな昔のことを思い出していた。ほんとうに、よく似ている。ひょっとして、イッペイくんが生まれ変わって帰ってきたのかな……
子どもたちにはあれだけ言っておいて、家から追い出す気持ちには、どうしてもなれなかった。
どうしよう。
決断を先延ばしにしていても、あと何時間かしたら、子どもたちが帰ってくる。あれだけ強く言った手前、このままではまずい。
……でも、できない。
概ねそんな感じのグルグル状態が、朝からずーっと続いていた。決断力がないのは、私のいちばんの短所だ。こんな難しい決断、できるわけがない。
ダンナに、電話した。仕事中に悪いとは思ったけど、仕方ない。これはほぼ緊急事態、だと思う。
「もしもし?」
ダンナはツーコールで出た。何の急用か、とでも思ったのだろう。硬い声だ。
私は正直に、猫を追い出せないの、と言った。
ダンナは一瞬、虚をつかれたようだったが、やや声の調子を柔らかくして、答えてくれた。
「ダメ元で大家さんに相談してみたら? ひょっとしたら飼ってもいい、って言うかもしれないし」
「でも、契約書に書いてあるのよ? 図々しいって思われたら……」
なまじ隣に住んでいるだけに、そういうところが気になる。
「形式上、書いてあるだけで、そんなに気にしてないかもしれないじゃん。何しろ古い家だし」
「でも、気にするかもしれない」
「そりゃ、そうだけど……」
こんなことを言っていたら、何も決められない。自分でも分かってるけど、性分なのだ。
「じゃ、不動産屋さんに相談してみたら? 確か担当のおばちゃん、いい人だったじゃん」
え、不動産屋さん? 思ってもみなかったけど、確かに、不動産屋さんには相談しやすい。この家を決めるときに丸一日つきあってもらって、一緒に山口市中の物件を見て回ったのだ。息子二人を育て上げたという、とても話しやすいおばちゃんで、物件を決めきれないでいる私に嫌な顔ひとつせず、根気よく回ってくれた。この家に決めた後はゴミの出し方なども丁寧に教えてくれて、山口市の指定ゴミ袋まで分けてくれた。確かにあの人なら、相談に乗ってくれそうだ。
「そうね、電話してみる」
私は電話を切ると、引っ越した時の資料を引っ掻き回した。契約書を綴じたファイルのポケットに、携帯番号を手書きしたおばちゃんの名刺が入っていた。
私はスマホを取り出して、番号を入力した。
ダンナが帰ってきたのは、夜九時ごろだった。
「あれ? 飼っていいって話になったの?」
リビングに入り、テーブルの下で丸まっている子猫を一目見るなり、満面の笑顔だ。
「そう思うよね? 俺もチョー喜んだんだけど」
「だよねー」
子どもたちが、また不満そうな顔をする。二人にもダンナと同じように、さっきぬか喜びをさせてしまったのだ。さっそく子猫を撫で始めたダンナに、私は晩御飯を温め直しながら説明した。
「やっぱり、やめた方がいいって」
「ダメ、ってことじゃなくて?」
「うん。猫って、壁で爪とぎしたりするのもいるじゃない? 契約がどうこうもあるけど、何より、もし猫が家を傷つけちゃったら、出て行くときに何十万かかるか分からないから、って」
不動産屋のおばちゃんは、頭ごなしにダメとは言わなかった。ただ、壁紙を一か所傷つけたら、その部屋の壁紙を全部貼り替えることになる。もしいくつかの部屋、あるいは廊下も、となったら結構な金額になるので、その覚悟があるならいいけど…… という説明だった。
確かに、契約違反だけど猫を飼わせてほしい、猫が家を傷つけても原状回復の費用は勘弁してほしい、という訳にはいかないし、それを請求するのは、家主に対する不動産屋としての責任だ。
これから子どもたちの学費も貯めていかないといけない、という我が家には、経済的なリスクが大きすぎる。
「そっか。……そうだね」
話を聞いて、ダンナも納得したようだった。やっぱり、転勤族には猫は無理なのだ。
「わかったけど、じゃ、何でまだいるの?」
ダンナが不思議そうにきいた。
「うん、また放り出したら、外の猫が怖いじゃない。この子、可愛いし、人懐こいから、誰か貰い手を探してあげようかなって」
「ああ、いいね! まだ小さいし、貰ってくれる人がいるかも」
嬉しそうなダンナの表情を見て、安心した。私の選択は、間違っていなかったらしい。
不動産屋のおばちゃんは、「貰い手が見つかるまでの数日くらいなら、置いててもいいんじゃない? まだ小さいなら、爪とぎもしないでしょうし」とも言ってくれた。
安直に、都会だから、田舎だから、と考えるのはよくないかもしれないが、こういう鷹揚さや人間味のある対応は、田舎の小さな街ならではじゃないか、という気がする。ちょっと、いい意味で昔っぽいというか。
「ねぇねぇ、この子猫、貰い手が見つかるまで、何か名前つけない?」
何かを提案するのが大好きな小夏が、ダンナの箸とお茶碗をテーブルに並べながら、嬉しそうに言った。ダンナは、まだしゃがんで子猫を撫でている。子どもたちが赤ちゃんのころにあやしていた時のような、優しい顔だ。
「イッペイくんでいいんじゃない? そっくりだし。ねぇママ?」
「イッペイくんて、お母さんが飼ってた猫?」
「そう。小夏は見たことなかったっけ?」
「ある訳ないじゃん。でも、写真で見たよ」
そうだった。私の八王子時代の写真は、たいていイッペイくんと一緒に写っている。
「でもママ、まったく同じはやだな。イッペイくんはイッペイくんだし」
「じゃ、一平じゃなくて二平は?」
スマホのゲームから目を離さずに、耕輔が口を挟んだ。
「ニヘイ? なんか言いづらくない?」
小夏は不満そうに眉をひそめる。ダンナが立ち上がって席に着きながら、提案した。
「二は飛ばして三にする? サンペーなら呼びやすいじゃん」
「あ、いいねー」
「いいんじゃね?」
子どもたちは、二人とも納得したようだ。
「お母さんは?」
「いいよ。かわいいし」
小夏はさっそく、ダンナから解放されたばかりの子猫を抱っこして、呼びかけた。
「名前が決まって良かったね、サンペー!」
サンペーは、ありがとう、というように、にゃぁ、と鳴いた。
そんな大騒ぎで我が家に来たサンペーだったが、お別れはあっけなかった。
翌日から貰い手を探したところ、たった二日で見つかってしまったのだ。
小夏が学校のクラスメイトに話したら、その子のお母さんの友達が猫好きで、ラインで送った写真を見るなり欲しいと言ってくれたとか。
というわけで、三日後には隣の防府市からその女性が迎えに来て、サンペーをお渡しした。五十代の、いかにも人が良さそうな女性だった。
最初は懐くかどうか心配したが、サンペーはあきれるくらい物怖じせずに、その女性にも甘えていた。本当に人懐こい子猫だ。女性も目尻が下がりっぱなしで、いかにも言葉通り、猫可愛がりしてくれそうな雰囲気だった。
渡す時、あえてサンペーという名前は伝えなかった。サンペーはこの人に素敵な名前をもらい、かわいがられて、きっと幸せな人生、いや猫生を送ることだろう。
赤いプリウスが去っていくのを見ながら、私は「さよなら、サンペー」と、小さく呟いた。サンペーがイッペイくんの生まれ変わりだったかどうかは分からないけど、今生の運命の飼い主は、どうやら私ではなかったらしい。
こうして、我が家の最初の猫、サンペーとの暮らしは、わずか四日間で幕を下ろしたのだった。
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