猫にまつわる七つのお話
まき
第一話 猫屋敷と、黒猫のクロスケ
やまぐちという街に来たのは、ひと月前のことだ。
山口県、山口市。地元の人に言わせると、おなじ「やまぐち」でも県と市では微妙にイントネーションが違うらしいけど、正直、わたしにはよくわからない。
お父さんの転勤だった。
ひと月前までは神奈川県に住んでいて、その前、わたしが幼稚園の頃には福岡に住んでいた。
「てんきんぞく」というらしい。
いつだったか、ネクタイを緩めながら「次は山口だってさ」と言っていたお父さんに、お母さんが「てんきんぞくのさだめねぇ」と答えていた。さだめって、何?
まぁいいや。
そんなわけで、わたしはいま、クラスに馴染めずにいる。
四年一組。
別に、いじめられている、というほどでもない。無視もされていない。
ただ何となく、ここは私の居場所じゃない、という感じがする。居心地が悪い。
何気ない会話は普通にしているけど、おつきあいでしているという感じで、楽しくない。
「えー、ほんとー?」「すごーい」「かわいー!」……
家に帰ると、どっと疲れる。
その上、山口の先生は、宿題を毎日山のように出す。
学校が終わって家に帰り、やっとくつろげる〜……と思うのもつかの間。その宿題が、わたしの心に重くのしかかるのだ。毎日、毎日、毎日、毎日……
やまぐちって、だいきらい。
そして今日は、いつにもまして、その気持ちが強くなっていた。
学校から帰って来て、家に入ろうとして気づいたのだ。鍵が、ない。
……サイアク。
朝、「きょうは午後お仕事だから、鍵を持っていってね」とお母さんが言っていたのは、覚えている。わたしが「はーい」と答えたのも。
ただ残念ながら、その後、いつもの場所から鍵を取ってポケットに入れた記憶はないし、だからポケットの中に鍵もない。悪いのは、わたし。
わかってる。でもイライラする。ほんとうは、悪いのはわたしじゃない。やまぐちだ。きっとそうだ。
そんなことを考えながら、わたしは庭のブロック塀のかげで、膝を抱えていた。
やまぐちの家には、ちょっとした庭がある。庭は、ほとんど全体が前の道路から丸見えだけど、門の脇のブロック塀の陰に入ると、見えなくなる。わたしは、前の道を歩く人に見えないように庭の片隅に座って、もうかれこれ三十分くらい、お母さんが帰るのを待っている。
神奈川県に住んでいた時は、そしてその前に福岡に住んでいた時も、うちはマンションだった。「せっかく山口に住むんだから、一軒家を借りてみよう」と、お父さんとお母さんで話してこの家を借りたらしい。
この家は、正直、嫌いじゃない。古い木造の二階建てで、マンションとはぜんぜん違う広い部屋がいくつもあって、特に玄関なんか温泉旅館みたいに広くて、しかも学校から歩いて五分くらいだ。引っ越す前は毎日十五分くらい歩いて通っていたから、大ちがい。
でも、中に入れずにずっと見てるだけの今は、何だかその家も、わたしに冷たくしているように思えた。
あーあ。お母さん、早く帰ってこないかな。
その時だった。
「あれ、小夏ちゃんじゃない。何してるの?」
わたしは、突然呼びかけられてビクッとした。声の方を見上げると、隣の家の竹田さんと塀越しに目が合った。
「あ、竹田さん。こんにちは……」
竹田さんは、白髪だけどジーンズがよく似合う、スラッとしたスタイルの七十歳近い(と思う)おばあさんだ。越してきてから何度か挨拶したくらいで、まだちゃんと話したことはない。
わたしは、きょうもにこやかに挨拶したつもりだけど、ちょっとぎこちなかったかも。でも、塀の陰で膝を抱えて三十分も座っている女の子にしては、まぁまぁ頑張った方だと思う。
「家に入れないの?」
竹田さんは、ズバッと直球で聞いて来た。ホースを持っている。ああ、庭の木に水をあげてたんだな。
「そうなんです。でも、もうすぐお母さん帰ってくると思うんで」
我ながら、うまく言えた。遠回しに、「気をつかわないで結構です」。というか、「ほっといて下さい」。
わたしはニコッと笑って、竹田さんから視線をそらした。……だけど。
「あら、だったらうちで待ってればいいわよ!」
えっ、聞いてなかったの?
竹田さんは、わたしが精一杯の言い回しで伝えようとしたニュアンスを、あっさり無視した。
「いえ、ほんとうに大丈夫ですから」
「ダメよー、女の子がそんなとこにいたら、危ないし。いいから来なさい」
「おっ、お母さんが帰って来た時に、気づかないといけないから……」
「大丈夫。うちの部屋から、その庭よく見えるから」
どうあっても、わたしを家に呼びたいらしい。うーん、どうやって断るか……
「おいしいクッキーもあるわよ」
わたしは、観念した。
竹田さんの家は、いわゆる「ねこやしき」だ。
正確に言うと、猫をたくさん飼っているわけではない。というか、一匹も飼っていない。ただ竹田さんがいつも近所のノラ猫にえさをあげているので、竹田さんの家の庭には、朝から晩までたくさんのノラ猫がたむろしている。
建物は、うちよりさらにちょっと大きくて、洋風で、新しくはないけど小ぎれいだ。庭には小さな池があって、竹田さんが毎日ちゃんと手入れしているので、いつもきれいな花が咲いている。その庭のあちこちで、いつも何匹かの猫が、毛づくろいしたり、あくびをしたりしている。
わたしやお母さんはそんな様子が好きで、買い物帰りに家に入る前なんかに、よくブロック塀から顔を出して猫の様子をのぞいていた。
でも、近所の人がみんなうちみたいではないらしい。猫が集まるのを嫌がっているご近所さんもたくさんいるみたいだった。おしっこやうんち、それに鳴き声なんかで迷惑しているみたい。市役所に電話した人もいて、竹田さんは「ノラ猫にえさをやらないで下さい」と厳しく怒られたそうだが、翌日にはまた平気でえさをあげていた、とお母さんが言っていた。
さて、そんなわけで、わたしが竹田さんに招かれて初めて庭に入った時も、何匹もの猫が思い思いの格好でくつろいでいた。
すっかり安心しているのか、近づいても逃げない。こんなに猫の近くに来たのは初めてだなー、なんて思いながら、猫の間を縫うようにして玄関に入り、竹田さんの家にお邪魔した。
竹田さんは、庭が見える広いリビングに案内してくれた。大きな木のテーブルがあって、その上にクッキーが入った小さなバスケットが置いてある。
「適当につまんでて。お茶入れてくるから」
竹田さんがリビングを出て行ったので、わたしはクッキーを取って一口かじってみた。とたんにバターの香りが口いっぱいに広がって……確かに、おいしい。
近くに、おいしいお菓子屋さんがあるのかな、と思いながら、私は庭の方を見た。
「あ、うち、よく見える……」
ブロック塀ごしに、うちの庭がほぼ正面にあった。私が隠れていた塀の陰も、ここからだと笑えるくらい丸見えだ。確かに、あんなとこに三十分も膝を抱えて座っていられたら、竹田さんも気になって仕方ないだろう。
待っている間、窓辺に行って庭の猫を見ることにした。リビングは庭に面した壁一面がほぼ丸々、大きなガラス戸になっている。サンダルが置いてあって、庭への出入りはここからしてるみたいだった。
猫は、ぱっと見えるだけで四匹いた。池のとこで昼寝してる三毛猫。近くの茂みの陰にいる白黒のブチ。塀の上にいる明るい茶色の猫と、黒い猫。かわいいのもいるし、人相、というか猫相が悪い、怖そうな猫もいる。特に茂みの陰の白黒のブチは、体が大きく、顔にキズもあって、いかにもボスという感じの風格を漂わせている。わたしが子猫だったら、絶対に顔を合わせたくないタイプだ。
見ていると、塀の上にいた黒猫がしなやかに体を躍らせて、庭に飛び降りた。えさでももらえると思ったのだろうか、一直線にこっちに向かってくる。すぐ足下まで来ると、わたしの顔を見つめて、にゃあ、と鳴いた。
……かわいい。
よく見ると、ノラ猫にしては毛並みがいい、気がする。元は飼い猫だったのかな? だから人に馴れているのかな? なんて考えていると、後ろから竹田さんの声がした。
「あら、クロスケ、小夏ちゃんが好きなのね」
竹田さんが、アイスティーのグラスを二つお盆に乗せて、立っている。優しい目をしてる。ああ、ほんとにこの人は、猫が好きなんだな。
「この猫、クロスケっていうんですか? かわいいですね」
頭を撫でようと手を伸ばしたら、なんと、向こうから頭を寄せてきた。撫でると、目を細めて気持ちよさそうにしている。猫を撫でたのは、生まれて初めて。小さいけど、ゴロゴロと喉を鳴らす音もする。かっ……かわいい!
「クロスケ、いいわねぇ、小夏ちゃんに可愛がってもらって」
竹田さんはテーブルの方に戻って、グラスを置いた。
「アイスティーだけど、飲める?」
正直なところ、まだ飲んだことはなかったけど、うなずいた。まぁ、何とかなるでしょ。
わたしは、クロスケを撫でながら、ずっと気になっていた質問をしてみた。
「あの……猫、家で飼わないんですか?」
「そうね」
竹田さんは、この質問には慣れている、という感じで、椅子に座りながら答えてくれた。
「ほんとうは飼いたいし、実際、昔は飼っていたこともあるんだけど……一緒に住んでるお姉さんが猫が嫌いで、今は家の中に入れさせてくれないのよ」
確か竹田さんは、姉妹で暮らしている。二人とも独身だって聞いた気がする。お姉さんは病気であまり外に出られないとかで、会ったことはない。
でも、お姉さんがそれほど猫嫌いなら、いくら家の外とはいえ、こんなにたくさんの猫が庭にいるのは、大丈夫なのかな? それに、お姉さんが猫嫌いだから、という理由で、近所の人に迷惑をかけてまでノラ猫にえさをあげているというのも、何だかビミョーな話のような気がする。
わたしはぼんやりそんなことを考えながら、竹田さんにうながされてテーブルにつき、アイスティーにミルクとガムシロップをたくさん入れて、飲んだ。……うん、なかなかおいしい。ちょっと大人になったような気がする。
「おいしい?」
「は、はい」
すると、今度は竹田さんが質問してきた。
「小夏ちゃん、学校の友達と、うまくいってないの?」
わたしは、びっくりして竹田さんの顔を見つめてしまった。
「そんなに驚くことないじゃない。転校してきたばかりだから、そんなこともあるかなーって。それに、学校から友達と一緒に帰ってくるとか、そういうの見たことないから」
確かに、そう。帰り道はいつも一人だ。幸い学校と家が近いから、そんなに苦ではないけれど。
さて、どうやって答えようか。ううん、どうやって嘘をついてごまかそうか。と、少しの間、考えた。
けど、やめた。めんどくさい。
「そうなんです」
わたしは、あっさり認めた。
最初は、だから何ですか、大したことじゃないですけど? という顔で答えようと思っていた。
でも、一度認めてしまったら、何かの歯止めが壊れてしまったらしい。私は、自分でも止められない勢いで、話し始めてしまった。
「だって、やまぐちの子って、みんな変ですよ。自転車に乗るときダサいヘルメット被ってるし、赤信号は車なんて一台も来てなくてもきちっと守るし、授業中に誰も居眠りしたり頬杖ついたりしないし、宿題も普通にみんなやってくるし……」
ぜんぜん、変じゃない。そんなこと、わたしだって分かってる。
「だいたいやまぐちって、山ばっかり。おしゃれなお店はないし、映画館だってスタバだってないじゃん。そんなの街じゃないし」
竹田さんは、うんうんと聞いてくれている。わたしはその後も、とりとめもなく、やまぐちの悪口を思いつく限り言いまくった。途中からは、何を言っているのか、自分でもよくわからなくなった。もう、何でもよかったのだ。サイゼリアがないから安くて美味しいマルゲリータが食べられないし、スシローがないからお寿司もなかなか食べられないって言ったような気がするけど、覚えていない。大事なことは、ついひと月前まではいつも一緒だった、由美ちゃんもあかりちゃんも、いないってことだ。でも、なぜかそれは言わなかった。
ひとしきり話し終えて、一息つくと、竹田さんが落ち着いた声で言った。
「……小夏ちゃんの参考になるかどうか分からないけど、私の昔の話を聞いてくれる?」
なんだろう。私も昔、同じ経験をした、とか言うのだろうか。
正直、どうでもいい。けど、アイスティーとクッキーまでご馳走になっておいて、今さら聞かないとは言えない。わたしは仕方なく、こくっとうなずいた。
林さんは、ストレートのアイスティーを一口飲んだ後、ゆっくりした口調で、話し始めた。
私はね、むかし東京に住んでいたの。これでも若い頃は、けっこう美人だって言われてたのよ。信じられないかもしれないけど。そうでもない? ふふっ、ありがと。
下町で、川が流れてた。
みんな、今よりずっと貧しかったけど、不思議と街には活気があったわね。明日は今日よりいい日が待ってるって、なぜかみんなが思ってた気がする。どうしてそう思えてたのか、さっぱり分からないんだけど。
そうそう、このお話には、クロスケっていう、さっきのと同じ名前の黒猫が出てくるの。私が猫を好きになったのは、この一件があったからなのよ。実はそれからずっと、好きな黒猫にクロスケって名前をつけてるの。小夏ちゃんは、猫は好き? そう、良かった。これからもちょいちょい遊びに来てね。
山口から一人で東京に出て行った私は、川に面した小さなアパートの二階の部屋で、暮らしていたの。
厳しい両親から離れたくて、ほとんど家出みたいな感じで飛び出してね。もちろん向こうには友だちもいないし、働いてたカフェの人とはあんまり仲良くなれなくて、寂しかったわぁ。
夜になると、部屋の電気を消して、窓を開けて、すぐ下を流れてる川をぼんやり見てた。別に川なんて、そんなに楽しいものでも、きれいなものでもないのよ。ただ、水が静かに流れながら、対岸の灯りを反射してチラチラ光ってるだけ。でも不思議と、そうして流れてる水の流れを見ていると、心が落ち着いたのよ。
ある夜、いつものように川を見ていると、ぴょんって猫が降りて来たの。
窓辺に、植木が置けるようなちょっとした場所があるんだけど、そこに、屋根の上から飛び降りてきたのよ。子猫、というには少しだけ大きすぎるくらいの、若い小さな黒猫だった。
知ってる? 猫って、毛の色によって性格が違うのよ。白猫は気位が高い。茶色いのは甘えん坊。黒猫は、魔女の使いだとか、道を横切ると不吉だとか悪いイメージもあるけど、実はすごく穏やかで人懐こい性格なの。その時はまだ知らなかったんだけどね。
じっと見てても逃げないから、撫でてあげたら気持ち良さそうにしてね。嬉しくなっちゃって、急いで、家にあったかつ節を出してあげたら、喜んで食べてた。あ、本当は猫にかつ節あげちゃダメなのよ。小夏ちゃんはちゃんとキャットフードあげてね。え、脱線ばっかり? ごめんね。
それから、私はその黒猫にクロスケって名前をつけて、飼い始めたの。飼うっていっても、その頃のことだから、家の中に閉じ込めたりしないで、自由気まま。好きな時に帰って来てえさをたべるけど、普段はどこにいるか分からない、って感じね。ときどき窓辺に来て、開けてくれーって感じでにゃあって鳴くから、部屋に入れて、えさをあげるのよ。
そのうち寒くなって来ると、夜は私のお布団に入って来てくれて、ストーブつけなくても暖かかった。貧乏だったから、助かったわ。
クリスマスが近い、十二月の夜ね、私が仕事を終えてアパートに帰ってくると、二階に上がる外階段の手前のところに、クロスケがいるのが見えたの。誰か、男の人と一緒だった。
近づいてみると、男の人が、クロスケにえさをあげてたの。食べてるクロスケの頭を撫でながら、「クマゴロウ、うまいか?」って言ってた。
わかる? そう、クロスケったら、近所の他の家にも出入りしてて、そっちでもえさをもらったりしてたのね。昔はよくあったのよ、そういうの。きっと、私とその男の人の他にも、いたと思う。みんな、自分が飼ってると思ってたのね。それぞれに名前をつけて。
私が見ていると、男の人もこっちに気づいたの。
「ひょっとして、クマゴロウの友だちですか?」
ひょろっと背の高い、真っ黒な髪の毛がモシャモシャした感じの人だった。低いけど、よく通る声だったわ。
私がうまく答えられなくて、かろうじてうなずくと、笑いながら、
「やっぱりクマゴロウ、ほかの家でもえさもらってたんだな」
ってクロスケの頭を撫でてた。クロスケったら、その男の人に撫でられて、すごく幸せそうな顔をしてたのよ。
「わ、私はクロスケって呼んでます」
クロスケがその人になついてるのがちょっと悔しくて、私は近づいていってしゃがむと、クロスケの背中を撫でた。クロスケは、お腹いっぱいだし、頭と背中を撫でてもらえるしで、この上なく満足そうにのどを鳴らして……思わず私たち二人は、顔を見合わせて笑ったの。
私その時、急に、その男の人とすごく近い距離にいることに気づいたの。街灯の灯りは薄暗かったけど、鼻が高くて、無精ひげが生えてて、とっても優しい目をしてるのは分かった。
とたんに、心臓がドキドキして、何も話せなくなっちゃったの。
私、その人が好きになっちゃったのね。絵に描いたような一目惚れ。
クロスケを撫でながら、その人は何かずっとしゃべってた気がするけど、よく覚えてないわ。私はずっと、クロスケの背中を一心に撫で続けて、それ以上、その人の顔を見ることもできなかった。
しばらくすると、クロスケが撫でられるのに飽きて、ひょいとどっかへ行ってしまったので、私は目のやり場に困って、そのまましゃがんで地面を見ていたの。
「クマゴロウのやつ、行っちゃいましたね」
その人は立ち上がって、しばらく黙ってた。
けど、私がずっとうつむいていたからか、やがて、
「じゃ、僕はこれで失礼します」
って、歩いていっちゃった。
私はお別れの挨拶もできずに、去っていくその人の姿を目で追っていたの。
そしたら驚くことに、その人が入っていったのは、私が暮らしてるアパートの一階の部屋だったのよ。私は、そんな人が同じアパートにいたなんてぜんぜん知らなかったんだけど、まぁ、都会のアパートの近所づきあいなんて、そんなものよ。とにかく、一階の一番奥の部屋に、その人は入っていったの。
どう思う? 運命的な出会いよね。一匹の猫を通じて知り合った二人の若い男女。しかも、同じアパートの一階と二階に住んでるのよ。さぁ、これからどんな物語が始まるのか? ……って、思うわよね?
ふふっ、気になるでしょ。小夏ちゃん、すごい真剣な表情。まぁアイスティー飲んで。
じゃ、続きを話すわね。
その晩、自分の部屋に帰ってから、私の頭の中は、その男性のことばかりになっちゃった。一緒にいるときはろくに話もできず、顔を見ることさえできなかったのにね。
それから何日かの間、仕事中も、家にいるときも、どうやったら彼に会えるかばかり考えてた。
部屋が分かってるんだから、何か理由をつけて会いに行けばいいんだけど……すぐに部屋を訪ねたら、軽い女だと思われるんじゃないかしら、って思ってね。今の時代にはそういうのはあまりないのかもしれないけど、昔の女性は慎みを大事にしたのよ。え? 慎み? そうねぇ。説明が難しいけど、何でも控えめにすること、かしら。
とにかく、どこかで偶然、って感じで会う方法はないかしら、って考えてたの。クロスケの首に手紙をくくりつけて文通する、ってのも考えたけど、もし他の人が読んだらって思うと、怖くてとてもできなかったわ。
たまにクロスケが帰ってくると、匂いをかいで、あの人の香りがしないかしら、なんて思ったりもしたわね。ふふふ。
なかなかいい知恵が浮かばないでいる間に、クリスマスイブを迎えたの。当時は今ほど、イブは特別な夜、って感じじゃなかったけど、その頃だって、イブを独りで過ごすのは、ちょっと寂しかったわ。
その朝、作戦を思いついたのよ。私が働いてたカフェはケーキも売ってたから、小さめのものを一つ買って、「お店で売れ残ったんで、よかったらどうぞ」って彼の部屋に持って行ったらどうかしら、って思ったの。友達や恋人と一緒だったらケーキだけ渡して部屋を出るつもりだったけど、もし彼も一人だったら……なんて想像したりしてね。
その日は一日中、そわそわ落ち着かなくて、仕事が手につかなかったわ。仕事がはけると、急いでケーキを持って、クリスマスの飾りつけで華やかな街を歩いて、アパートに帰った。
寒い夜だったわ。古い安アパートは、夜は薄暗い街灯に照らされて、いつもちょっとさびれて見えるんだけど、その夜だけは、何だか輝いて見えた。私は自分の部屋に入るのももどかしくて、直接、一階の彼の部屋に向かった。
ただドアの前に立ったのはいいんだけど、なかなかブザーを鳴らす勇気が出なくてね。何度も何度もためらったの。でも、今日を逃したらまた彼に会うきっかけがなくなっちゃうって、勇気を振り絞ってね。ようやく、ボタンを押したのよ。
ジー、って安っぽい呼び出し音がした。ドキドキ。彼は誰かと一緒かしら、それとも……
待ってる間、とっても長く感じたわ。
けど、中はひっそり。
もう一度鳴らしてみた。ジー、って。
だけど、何の物音もしなかった。不在だったのね。
今日一日、すごくドキドキしながら過ごしたのに、私ってバカみたい。あーあ、友達と出かけてるのかな、それとも恋人と……なんて考えながら、せめて名前だけでも、と思って、表札を見たのよ。でも、何も書かれてなかった。
……そこで、違和感があったの。何ていうのかしら、人の住んでいる気配が、まるでないのよ。ほら、家って、人が住んでるかどうか、何となく雰囲気でわかるじゃない? 生活感っていうか。
私、急に不安になって、いま思うと我ながら大胆なんだけど、すぐに隣の部屋のブザーを鳴らしたの。
隣の部屋には、これまた見たこともない、さえない感じの眼鏡の学生さんが住んでいて、インスタントラーメンが入ったお鍋を片手に出て来た。
ちょっともったいなかったけど、持ってたクリスマスケーキを、「私が働いている店で売れ残ったので、よかったら食べていただけませんか」って出した。そして「もう一個あるので、お隣の方にもぜひ、って思うんですけど、どんな方がお住まいかご存知ですか?」って聞いたの。
たぶん、すごい勢いで聞いたのね。学生さんは少しびっくりした表情で答えたわ。
「えーと、こないだ結婚したばかりの若い夫婦で……」
「あ、そっちじゃなくて、こっち側の」
「ああ、そっちの部屋は、もう何年も空き部屋だって聞いてますよ」
学生さんの答えは、かすかに予想してた通りだったわ。でも、私は確かに見たの。あの人が隣の部屋に入っていくのを。
「あの、こないだ、若い男の人が部屋に入るのを見たんですけど……」
「え? そりゃ勘違いじゃないかなぁ。僕はもう3年くらいここに住んでますけど、そっちの部屋はずっと誰も住んでないですよ」
じゃあの時、彼はどうしてこの部屋に入っていったのかしら? 私は混乱して、立ちつくしちゃった。たぶん、かなり間抜けな表情だったと思うわ。
そしたらその学生さん、私をかわいそうに思ったのか、もっと詳しいことを教えてくれたの。
「その部屋に興味があるんですか? ……実は、近くの屋台の親父さんに聞いた話なんだけど」
といって、少し声をひそめて。
「どうやらその部屋、いわくつきの部屋らしいですよ」
「いわくつきの、部屋?」
「はい」
心なしか、学生さんの眼鏡がキラリと光った気がしたわ。
「ずっと前に住んでたのがひどい男で、いわゆるジゴロ。仕事もせず、飼っている猫をダシに若い女の子と仲良くなって、その女の子に食わせてもらうんですって。しかも、同じ手口で取っ替え引っ替え、って話」
どっかで聞いたような話よね。頭から血の気が引く音がしたわ。
「でっでも、それがどうして、いわくつき、なんですか?」
「ある日その男、二股かけてた女性二人と、すぐそこの橋の上で修羅場になっちゃって、三人で取っ組み合いの大げんか。そのうち勢いで、なのか、わざとなのかは分からないですけど、男だけ橋から落ちちゃったらしいんですよ」
「死んだ、んですか?」
学生さんは、クリスマスの冷気ですっかり冷めたインスタントラーメンの鍋を片手に、ニヤリと笑ったの。
「今でも時々、猫にえさをあげている男の幽霊が、この辺に出るらしいですよ」
「ゆ、ゆうれい?」
わたしは、ゴクリと唾を飲んだ。
「そう。私が会ったのは、その女たらしの幽霊、だったのかもね。いえ、きっとそうだわ」
竹田さんはきっぱりと言って、たくさん話してのどが渇いたのか、アイスティーを一気に飲みほした。
「ゆうれい……」
「危なかったわ。もし私が慎み深い女性じゃなかったら、あの時に幽霊にヒョイヒョイついていって、今頃あの世でけなげに貢いでたかもしれないわね」
うわー、怖くて、背中がゾクゾクする。
わたしはクッキーを食べる竹田さんの顔を、まじまじと見てしまった。なんというか、すごい話を聞いてしまった。帰ったらぜったいお母さんに教えてあげよう。
わたしの視線に気づいて、竹田さんがにっこりと笑った。
あわててミルクティーを飲むと、氷が溶けて、さっきより薄い味になっていた。
「でも、クリスマスケーキ、ちょっともったいなかったですねー。せっかく大好きな彼と食べようと思ったのに」
気分を変えたくて、わざと明るく質問したわたしに、竹田さんがさらっと答えた。
「あら、大丈夫よ」
「え?」
「その後、その学生さんの部屋で、一緒に食べたの。さえない人だったけど、優しくていい人だったわ」
「え? え?」
「その夜から、私たち、おつきあいしたのよ。恋なんて、何が縁になるか分からないものね」
そう言って微笑む竹田さんは、何だか少し色っぽく見えた、気がする。
家に帰った私は、お母さんに、竹田さんの話を一からていねいに話してあげた。仕事から帰ってきたばかりのお母さんは、興味深そうに、へーとかおーとか言いながら、聞いてくれた。
「竹田さん、意外と恋多き人生を送ってきたのかもね」
話を聞き終わると、お母さんはぽつりと言った。
「お母さんも?」
「えー? どうかな?」
意味深にふふっと笑う。え? どうかな? お父さんひと筋じゃないの? わたしが動揺していると、お母さんはカフェオレのカップを包むように両手で持ちながら、つぶやいた。
「でも……」
「でも、何?」
「竹田さんは最初、小夏の話を聞いて、関係あるかどうかわからないけど、って言ってその話を始めたのよね?」
「う、うん」
「でも、小夏の学校の話と、その竹田さんの昔の話って、まったく関係ないわね」
「……あ」
そうだった。最初は、わたしの話を聞いてくれてたんだった。なんか相談に乗ってくれるような雰囲気だったのに、いつの間にか話をすり替えられてたんだ。
「ただ、自分の昔のロマンスを聞いて欲しかっただけなのかしらねー」
お母さんはカフェオレを飲んで落ち着いたのか、着替えるためにとんとんと二階に上がっていった。
……ひょっとして、わたし、だまされた?
その時、うちの庭の方から、にゃあ、と猫の声がした。さっき撫でてあげた、クロスケかな。
あの時の気持ち良さそうな表情を思い出して、思わず頬がゆるむ。
「ま、いっか」
わたしは宿題をしようと、ランドセルを開けた。やまぐちが好きになれるかどうか、まだわからない。けど、少なくとも、猫は好きになりそうな気がする。
とりあえず一つ、やまぐちに好きなものができた。それもまぁ、一歩だと思う。
「お母さーん、庭の猫に何かあげるものない? かつ節とか」
二階のお母さんに聞くと、
「ノラ猫にエサをあげないで下さいって、貼り紙があったでしょー?」
と返ってきた。
そりゃ、そうだよね。
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