Chapter 13
宮路が私の家で一夜を過ごした日からもほぼ毎日彼と研究室で顔を合わせたが、私は何事もなかったかのように挨拶をして、それ以外は声もかけなかったし、目を合わせることも避けた。このままあの夜のことが風化されてしまうことが一番よいことなのだと思っていた。
それから約1ヶ月が経ったある日、私は期限ギリギリだった実験結果のまとめを提出し、晴れ晴れとした気分でいつもより少し早く大学を出て帰途についた。途中、パン屋でサンドイッチと総菜パンと薄切りの食パンを買った。まだ外は明るく暖かい、爽やかな5月の金曜日だった。
自宅マンションの近くまで来ると、入り口にあるレンガ造りの花壇のふちに腰を掛けている人影が見えた。近づくにつれそれが宮路だとわかり、30メートルくらい手前で私の足は立ち止まった。そのままどうしようかと決め兼ねているうちに、宮路の方から私に向かってゆっくりと歩いて近づいてきた。
「佐伯さん……」と宮路はちょっと困ったように言った。「俺、ほんとに佐伯さんに嫌われてるんだな。薄々とは感じてたけど、やっぱ、この状況で避けられるのはさすがに……なんていうか、辛いな……」と彼は苦笑しながら右手の指を横髪に通した。
「べつに嫌ってる、とかじゃないんですけど……」と私は消え入りそうな声で言った。
「あのさ、佐伯さん。俺にもう一度、ちゃんと話をさせてくれないかな?」
私は、彼が今さら何を話したいのか、私が何を聞けばよいのかわからなかった。返事に困り、黙り込む私を見て彼は続けた。
「どのくらい聞いてもらえるかわからないから、まず、結論から言うよ。俺はキミのことが忘れられないし、忘れたくない。もっとキミをよく知りたい。あの日だけの関係には、どうしてもしたくないと思ってる。俺はあの日、ほんとに最低な男だったし、佐伯さんがもう俺と口をききたくないのもわかるし、自分勝手なことを言ってるのも承知してる。でも、あの日から今日まで……あの日に俺が泣いてた理由なんかよりも、キミと話せない方がよっぽど苦しかったんだ」
宮路は大きく深呼吸して続けた。
「今、佐伯さんに付き合ってる人がいないなら、俺と付き合ってほしい。あの日からずっと、佐伯さんが俺の頭の中に焼き付いて離れない。どうしょうもなくキミに惹かれてる。好きなんだって思い始めてる」
私の心はマヒしているかのように、彼が言っていることがドラマを見ているような、他人事のようにしか聞こえなかった。
どうしてこの人は、私にこんなことを言うんだろう?
その理由を探ってみると、簡単に適切な答えが見つかった。
「宮路さん、それって、前のカノジョのことがあって、その埋め合わせ、というか代償を求めてるんじゃないのでしょうか?」
宮路は一度目を閉じて「あのね、その元カノのことなんだけど……」再び目を開け私の目をじっと見据えて続けた。
「あの夜、今年初めてアイツと会ったんだ。お互いの忙しさを言い訳に、もう半年以上会ってなくて、ほとんど連絡すら取り合ってなかった。あの日にあの公園で最終通告をされただけで、すでにお互い、終わってるのはわかってたんだ。でも5年付き合った俺の初めての恋人だったから、なんていうか……彼女自体がどうこうっていうよりも、そういう初めての大切だった何かがほんとに終わってしまったことが悲しかったんだ。最後に、オレの部屋にアイツが忘れていった傘を返して……あぁ、これでほんとに終わったんだなって……」
そっか。宮路さんはちゃんと終わらせることができたんだ。
「さすがに彼女のことがまだ好きで忘れられなくてっていう状態だったら、別れたその日にほかの子と……っていうのは、俺はできないよ」
そういうことだったんだ。
宮路の説明を聞いて、あの日の彼の心情と行動が腑に落ちた。あの夜、彼が激しく泣いていたのは、一度強く信じ切ったものを失くしてしまった悲しみのせいだったのだ。それはとてもよく理解できるような気がした、痛いほどに。
でも……
「宮路さん。私、あと数ヶ月で日本を離れますよ」と私は無表情に言った。
「うん、それもわかってる。でも、戻ってくるでしょ?」と宮路は少し首を傾け、笑顔を浮かべた。
「私、遠恋なんて、できません。遠恋の存在を認めない人間なんです。それに……私はもう誰も好きになれないかもしれないし……」
私は下を向き自分の足元を見つめた。
宮路は「……なんか、思ってた以上に複雑みたいだな……」と困ったように苦笑した。
「佐伯さん、今、恋人いるの?」と彼は一呼吸おいて続けた。
私は「いいえ」と簡潔に答えた。
「えっと、俺のことはその……嫌いとか、生理的にもうイヤとか、ほんとに勘弁してほしい、みたいな拒絶したいような感じなのかな?」と彼は私の反応をうかがうように聞いた。
私は大きく目を開け「そんなこと、あるわけないじゃないですか」と反射的に即答した。
「よかった」と彼は安堵したように目を細めて優しく笑った。
「じゃぁ、この前の時、どう思った?その……イヤじゃなかった?あの、なんて言うか……また俺としてもいいかなって思った?」
私はどう返答したらよいのかわからなかったが、彼にウソはつきたくなかった。
しかたなく「……はい」と小さく返事をした。
「よし、じゃ、こういうのはどうかな?まずは、付き合うとかそういうことは考えないで、佐伯さんが俺に会いたい時だけ会って、したいことだけする。ご飯食べるとか、飲みに行くとか、どこかに一緒に出かけるとか、したければそれ以上もとか。とりあえず、イギリス行きもあることだし、無期限で経過観察をしてみよう。それでも俺のこと好きになれないっていうなら、その時は俺も諦めるよ」
私は愕然として彼の目を見据えた。
「それ本気で言ってるんですか?」
「もちろん」と言う彼の表情は自信に満ちていた。
私は得体の知れない苛立ちを覚えた。
「宮路さん、そんなんだから、カノジョに振られて泣かされちゃうんですよ!よく考えてみてください」と私は冷静さを失くして続けた。
「仮に私が22歳の入社したての社員で、宮路さんが35の結婚希望の男だとしますよね。それでもし彼女が“あなたのことが好きで忘れられないから、あなたが私を好きじゃなくても、一緒にいられるならどんな形でもいい。セックスしたい時だけ会いたいなら、それでもいい。私のことを好きになれなくて、あなたに好きな人ができた場合は諦めます”って聞いて、どう思います?!もう全然ダメな絶望的な女じゃないですか!もっと自分を大切にしてくださいよ、宮路さん!」と私は早口でまくしたてた。
宮路はあ然としながら目を見開いて聞いていたが、私が話し終えると大きな声で笑い始めた。
「ダメだ、ごめん。やっぱり俺、佐伯さんのこと好きだ。どうしてもこのまま諦められないよ」と彼は額に手を当て笑い続けた。
「宮路さん、私の話、聞いてました?」と彼の反応が場違いに見え、私は眉をひそめた。
「うん、聞いてた、聞いてた。佐伯さんは俺の推測通り、フェミニストだね」と妙に満足気な表情をした。
そこは私の今回の論点ではないのですが。
私は不可解な面持ちで首を傾げた。
宮路は落ち着きを取り戻し、上を見ながら考え事をするような仕草をした。
「俺はもしかすると、恋愛に関して予測能力とか想像力が欠けてる人間なのかなって、最近思うんだよね……なんかさ、どんなことがあっても、好きな子が俺と一緒にいる今が幸せならそれでいいや、って思っちゃうんだよね。といっても正直なところ、参考事例が少ないからまだよくわからないんだけど。で、さっきのキミの仮説の件ですが、俺は佐伯さんと3つしか違わないよ。35の結婚希望の男っていうのは、ちょっと……」とからかうように笑った。
私は言い訳をするように「例え話ですから。不可欠な脚色です」と補足説明をした。
「それにさ、最終的にその男がその新入社員を好きになれば、ハッピーエンドなんだよね?」
私は、はぁー、と大げさにため息を吐いて「私も宮路さんみたいなれたらどんなに楽か……」と半分皮肉で半分本気で言った。
すると宮路の顔から笑みが消え、真剣な表情になった。
「佐伯さんが日本にいる時間があまりないことは承知してる。それでも、今始めなければ何も始まらない。どんな結末になるとしても、もし佐伯さんが少しでも俺と一緒にいたいと思うなら、これからも会ってもらえないかな?」
私はどうしようもなく彼に触れられたくなった。彼に触れたかった。
「可奈、でいいです。親しい人に苗字で呼ばれるのって、あまり慣れていないので」と答えた。
宮路の顔に屈託のない笑顔が浮かんだ。
宮路は「可奈」と私の名を発音練習するかのように口にし、私を優しく抱きしめた。
私は彼の胸に顔を埋める以外に何もできなかった。彼の胸の中にいると、自分が幼い子どもになったような気持ちになった。
彼はどこかへ食事に行こうと誘ってくれたが、私は買ってきたサンドイッチがあると断り、私の部屋で一緒に夕食を取った。前回同様、簡単な物ばかりをテーブルに並べた。
食事の後で、ワイングラスに氷を入れてロイヤル・サリュートをふたりで飲んだ。
それからどちらからともなくキスをして、私たちはソファの上でセックスをした。恐らくそれは、その日部屋に足を踏み入れた瞬間から、ずっと私たちが心待ちにしていたことだった。
一度目のセックスの後、ふたりで寄り添いソファで横になっていた。しばらくしてから、私は起き上がり宮路からコンドームを外した。
ごみを捨て戻ってくると、力尽きてぐったりとしている彼のペニスがとてもかわいらしく思えた。私はそっとキスをして柔らかいペニスを口に入れると、おとなしく私の口の中に納まった。舌で優しく撫でていると、見る見るうちに形も感触も変わっていった。
なんだか、アニメのキャラクターみたい。
手と舌を使いながら愛撫を続けていると宮路が私の身体を触り始めて、彼の顔の上に私をまたがらせた。競い合いをするような気持ちになり、私が快感に溺れてしまう前に彼に快感を与えたかった。彼を上下しながら触る手に少し力を込めて、私の喉の奥まで往復させた。それを何度か繰り返していると、彼から呻き声が聞こえ私の口の奥に液体が広がった。まぶたを閉じてゴクッと音を立てて飲み込むと、真咲のものとは全く違う味がした。
その夜も私たちはまた一晩中セックスをした。そして私は、やはり宮路とのセックスには何か特別なものがある、と認めざるを得なかった。
翌日、私たちはお昼までベッドの中で過ごした。宮路は、彼に背を向けて寝ている私を後ろから包むように抱きしめ続けていた。彼の腕の中は、逃げ出したくなるほど温かく優しく居心地がよかった。
「こんなこと言って、変な意味に聞こえたら怖いんだけど……俺、こんなセックスをしたの初めてだ。なんていうか、パズルのピースがはまるようなって言うか……簡単に言うと、こんなに気持ちがいいセックスを初めて知った。だから……本当のことを言うと、前回はすごく混乱させられたんだ。可奈とのセックスはなんだったんだろうって」
彼の低い声は、私の心を落ちつかせる何かを含んでいた。
いつまでも聞いていたいチェロみたい
私は何も言わずに、横向きに寝る私の首の下に通された彼の腕をゆっくりと撫でていた。
「あれから1ヶ月近くずっと考え続けて、毎日可奈のことを想ってた。結論は、俺は可奈に惚れたんだってことだった。ニワトリが先か卵が先かなんて関係ない。俺は可奈が好きで、可奈とのセックスが好きなんだって」
宮路は私を抱きしめる腕に力を入れて、私の髪に口づけた。
私を安堵させる宮路の愛情も優しさも、私の胸をひどく息苦しくさせた。
私は子どものようにイヤイヤと首を左右に振りながら「私は嫌い……こんなセックス、大嫌いっ……」と目を強くつぶって苦し気に言葉を吐きだした。
真咲と私を裏切らせる、こんなセックスなんて大嫌いだ!
私はそう叫びたかった。宮路の言いたいことが、痛いほどわかってしまう自分が許せなかった。
それでも宮路は「そっか……」としんみりとした声で呟き、大丈夫だよ、とでも言うように私の腕を撫でるだけだった。
親友の人見は大学4年生で私たちと同じ研究室に出入りする手前、たった1度きりのことならば彼女に知らせる必要はないと思い、宮路との1度目の夜の後には彼の話をしていなかった。彼女に宮路のことを伝えたのは、彼と2度目に寝た10日後だった。
私たちはその日、大学の近くのイタリアンレストランでランチを食べていた。私が、宮路が家に2度泊まったと言うと、人見は驚いた表情を見せた。
「へぇー……あの宮路さんと可奈か……あの人には長く付き合ってるカノジョがいるって聞いてたけど、別れてたんだねぇ」と言い、人見はボンゴレビアンコのパスタを食べ続けた。
「あの人なんていうか……大人っていうか、真面目っていうか、誠実そうだから、そういうことを同じ研究室の可奈と簡単にはしなそうだよね?ってことは、向こうは本気なんじゃないの?」
人見は本当によく人を観察してるなと、私は素直に感心した。
どうして自分の恋愛相手に対しては、その洞察力が鈍るんだろう?
私の脳裏をかすめた疑問を口にするのはやめておいた。
宮路に付き合ってほしいと言われたことと、私が曖昧に答えたことを白状した。
すると人見は、呆れたように大きなため息を吐いて言った。
「私はさ、この2年間に、あんたが同じようなことで、3回泣きはらすのを慰めてきた立場にいるんだよねぇー。まず聞くけど、今回はほかの過去3回とは何が違うの?」
人見は最初から容赦なしに核心を突いてきた。
私は数秒のちゅうちょの後に、ほかに答えようがないと観念した。
「えっと……その……イヤじゃないっていうか……その逆っていうか……」と私は歯切れが悪い返答をした。
すると「そっか」と人見は完全に納得したように言った。
「それって、すごい大切なことだと思うよ。ま、これから可奈は留学もあるし、先はどうなるかわからないけどさ。とりあえず、続けてみたら?最初は、宮路さんて聞いて意外だと思ったんだけどさ。それは彼は“射程外”だと思ってたからでさ。宮路さんと可奈って、なんていうか同じ空気を持ってるっていうか……結構お似合いかもよ」と人見は笑顔で言った。
私は焦って「だから、付き合ってるわけじゃないんだって」と否定した。
すると人見は、私の目をのぞき込み脅すような表情をした。
「可奈、人生なんて、なるようにしかならないよ。意地を張る時と場所と相手を選ばないと損するよ」
人見は私と宮路のことをこの時から応援しているようだった。
宮路が2度目に私の家で夜を過ごして以降、私が8月の終わりにイギリスに出発するまで、彼は月に3、4回泊まりにきてよく週末を一緒に過ごした。私のバスローブを窮屈そうに着る宮路を不憫に思い、5月の終わりに彼のためのバスローブを用意して渡すと、彼は大げさに感動し無言で私を強く抱きしめた。
私たちは特に何をするでもなく、一緒に食事を作ったり、テレビや映画を観たり、音楽を聞いたりした。宮路は、私の好きな食材を使った新しいレシピを見つけてきては、私のために作ってくれた。私が「おいしい」と喜ぶと、宮路はこの上なく幸せそうに笑った。彼の笑顔は私に幸福感をもたらした。そして、いつも疲れ果てるまでセックスをした。彼と一緒に過ごす時間は穏やかで心地よかった。
色々と話し合った末、私のマンションを空き家にするよりも、彼が住んでくれた方が何かと都合がよいため、私の不在の間は彼が私のマンションで暮らすことになり、8月に入ってすぐに彼のアパートを引き払った。
イギリスに出発する時には、彼と離れることがとても寂しく感じたが、私にとってはそれはあまり認めたくない事実だった。
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