Chapter 12
私は22歳の春に、卒業した大学の修士課程に進んだ。アメリカかイギリスの大学の修士課程に進むか迷ったが、タイミング的にはまず卒業校の修士課程に進むのが賢明のようだった。将来的に博士課程は日本で修了したかったため、信頼のおける教授の助言に従い秋からイギリスの大学へ移ることを選択した。イギリスで修士号を取得後、努力次第で現在の大学の博士課程に進むことが可能だった。
修士課程の新学期が始まったばかりの4月だった。3ヶ月以内に事務的な手配を全て終わらせておく必要があったため、私はイギリスへ行くための準備に追われていた。
その日は朝から冷たい雨が降り続き、冬物のジャケットを着ていても寒さが足元から這い上がってきた。なんとか予定通りに進めている課題が一段落し、大学を出たのは午後9時を過ぎていた。疲れと寒さに押しつぶされそうになりながらの帰宅途中、暗いどしゃ降りの道を最寄駅から傘を差して歩いた。私はグレーのタイツに紺色のAラインのひざ丈スカート、靴は黒のショートブーツを履いていた。風が強く、傘を差していてもあまり意味がないほど全身ずぶ濡れになっていた。2ヶ月前に、パーマがかかっていた毛先10センチほどを切り、今は顎よりも少し長いストレートのボブスタイルだった。両手で支える傘の中であらゆる方向に髪が風に弄ばれ、顔全体に髪がはりついていたがどうすることもできなかった。最寄駅から自宅までは10分弱の道のりで、住宅地の中にある人通りの少ない公園沿いを歩いていた。その日は道に人影が全くなかったため、途中ですれ違ったふたりに自然と目がいった。
ひとり目は20代半ばの女性で、紺色のパンツスーツに黒いパンプスを履き、悪天候の中をボルドーの大きめの傘を差して、まるで出陣する指揮官のように颯爽と駅方向に歩いていた。グレーのトレンチコートの胸元には、真っ白なブラウスの襟とパールのペンダントが見えた。明るい栗色の胸元まである髪はゆるくウェーブがかかり、雨など無視してふわふわと揺れていた。傘のせいで顔はよく見えなかったが、すれ違った時にディオールの甘い香水の匂い一瞬漂った。
その女性とすれ違った後に数分歩き続けると、公園の入り口に傘も持たず雨に打たれて立っている男性が見えた。暗く冷たい雨の中、うなだれたように立ちつくす彼の横を通るのを一瞬ためらったが迂回するのは面倒だったので、私は足早に過ぎ去ることにした。もう少し近づいたところで横目で男の顔に目をやると、彼のすっきりとしたきれいな顎のラインに見覚えがあった。実験時に着用するセイフティーグラスを連想させる、上部にだけにフレームがあるメガネも知っていた。傘を片手に持ち直して彼の顔を注視すると、雨で髪型は完全に崩れてしまっているが、同じ研究室の博士課程にいる宮路(みやじ)貴幸(たかゆき)だった。彼はいつも穏和な空気を放つ人で、教授から一目置かれていた。学生たちが教授に質問しに行くと、教授はよく宮路の助言を聞くように指示することがあった。宮路は学生の話をじっくりと聞いて丁寧で的確な説明をするため、学生たちから慕われているようだった。けれども、私はあまり彼とは話したことがなく、顔を合わせると挨拶をする程度の関係だった。
宮路だと気がついてから隣を通り過ぎるまで1、2分だったとは思うが、私の頭の中では、声をかけるべきか否かの論争がかなりの勢いで繰り広げられていた。朝から降りしきる雨の中、傘を持たずに夜の公園に立ちつくしているのは、どう考えても特殊な理由があるとしか思えなかった。しかも、彼の様子が尋常でない感もあり、隣を過ぎる瞬間になっても声をかけるかどうかの結論はでないまま、私は足を進めていた。しかし、彼の横を通り過ぎて2メートルくらい歩いたところで、私の足が勝手に立ち止まり踵を返した。そして宮路のところまで戻り、声をかける前にまず私の紺色の傘を彼の頭上に掲げた。身長は175センチくらいだろうか。私は腕をしっかりと伸ばし彼の頭を傘に入れた。
宮路は何が起きているのか把握していないような、焦点が合わない目つきで、私に視線を向けた。
「宮路さん、ずぶ濡れですよ。カゼひいちゃいます……」
今の私にはそれが考えられる言葉の全てだった。
彼はかすかに顔を左右に動かしたが、何も言わずに視線を足元に落とした。
私はどうしてよいのかわからず「あの……私の家はここから5分くらいなんですが、雨宿りしていきますか?」と聞いてみた。
彼は下を向いたまま、今度はもう少し見えるように首を左右に動かした。
ずぶ濡れの顔とメガネの背後に隠れる目からは判断が難しかったが、もしかすると彼は泣いているのかもしれない、と思った。
無言の彼を前にそのまま立ち去ろうかとさんざん迷ったあげく、私は傘を渡そうと柄をもった左手を彼の前に突き出し、「どうぞ」と言った。
宮路はその時なってようやく私が誰だかわかった様子で「いや、大丈夫だから……」とやっと聞き取れる声で呟いた。
進展が見えない状況に困惑した上に、私はなぜだか好意を無下にされ引っ込みがつかない気分になった。私はしかたなく傘を開いたまま地面に置き、「使ってください」と投げ捨てるように言い、雨にあたりながら大股で歩きだした。
数メートル進んだところで「待って!」と私の傘を差しながら、慌てて追いかけくる宮路の声が聞こえ、立ち止まると「ごめんね……傘、このまま借りていくわけにはいかないから、送っていくよ」と私の左側に立ち、傘の下に私を入れた。
私の自宅まで一言も言葉を交わすことなく歩いた。どしゃ降りの雨が私たちの沈黙をかき消してくれていた。
マンションの前に着くと「ここです」と私は宮路の差している傘から出て、エントランスの屋根の下に入って彼に振り返った。
宮路の髪からポタポタと水滴が顔に流れ、雨を限界まで吸収しきったモスグリーンのモッズコートはとても重そうに見えた。
「あの、宮路さん。そのままじゃ、ほんとにカゼをひいてしまうので、雨宿りしていってください」と声をかけた。
宮路は傘を後ろに傾けマンションを見上げて「でも、お家の方にご迷惑だろうし……」と遠慮した。
「私、ひとり暮らしなので、それは心配ないです」
宮路は数秒のちゅうちょの後に「それじゃ、お言葉に甘えて……」と傘を閉じ、屋根の下に入った。
エレベーターに乗り最上階のボタンを押した。最上階に着き廊下を突き当りまで歩き、私の部屋の玄関を開け「どうぞ」と宮路を振り返った。
宮路は私の後から玄関に入りドアを閉め、「お邪魔します」と靴を脱いだ。
彼は毛足の長いベージュのマットに足で触れると「あ、ごめん。靴下も脱ぐよ……ずぶ濡れなんだ」と慌てて靴下を脱いだ。
私はお風呂場の方向を指差しながら「洗濯機が脱衣所にありますので、乾燥機で乾かせるものはそこに入れてください。洗っちゃいます。あ、でも、代わりの服が……」と宮路のサイズを見るため、私はあらためてすらっとした彼を頭から足まで観察した。
「私の服じゃ小さすぎですよね……唯一お貸しできるのは、バスローブくらいですけど、どうしましょう……それで構いませんか?」
「貸してもらえると助かります。実は、下着までずぶ濡れで……」と照れたように、まぶたまで届く濡れた黒い前髪をかき上げた。
玄関を上がり廊下の突き当りにバスルーム、その右隣にトイレ。玄関の左側には10畳の寝室があり、玄関の右手のドアを開けるとイートインキッチン、キッチンカウンターの向こうにリビングルームがあった。キッチンには丸い4人掛けのダイニングテーブルを置いていた。リビングルームの奥には、もう1つの8畳ほどの寝室のドアあった。私は普段その部屋をオフィスとして使っていた。この立地でひとりで住むには充分すぎる広さだった。
「バスルームはその正面のドアです。トイレはその手前のドアです。シャワー、浴びててください。後でバスタオルとバスローブを持っていきますね」
宮路は焦った様子で「あ、佐伯さんが先に使ってください。僕は後で結構ですから」と遠慮したが、私は彼より濡れていないので待てると主張すると、「じゃ、申し訳ない」と呟いてバスルームの中に消えた。
私は5分ほど待ってから、彼がシャワーを浴びている音を確認してドアを開け脱衣所に入り、ライトブルーの大きいバスタオルと白いバスローブを洗面台の横のスペースに置いた。
宮路の服を洗って乾くまでの数時間をどう潰すか考えを巡らせたが、これといって何も思い浮かばなかったので、とりあえずキッチンへ行き何か食べるものを探した。
サラダボウルにグリーンリーフレタスとグレープトマトとキュウリ切って入れ、オリーブオイル入りのツナ缶を混ぜた。ドライサラミとコンテをスライスしてお皿に載せ、クラコットを取り出しキッチンカウンターの上に並べて置いた。
私は料理をするのが好きじゃないため、基本的にいつでも手軽に食べられるものしか買い置きしていなかった。準備したものを、ダイニングテーブルではなく、リビングルームに運んだ。テレビと白い革のセクショナルソファの間にある、桜の木でできたコーヒーテーブルに載せ、ドレッシング、フォークとナイフ、白い丸い取り皿を2枚置いた。テーブルを眺めると、物足りない気がしたので、コンソメ味のチップスとトマト味のプリッツをキッチンから持ってきた。宮路が何を飲むかわからなかったので、ミネラルウォーターと、足のないワイングラスを2つ用意しておいた。
次に、寝室へ行き自分の着替えとタオルを取り出して、キッチンカウンターにある白いバースツールに載せた。
何か飲もうと冷蔵庫を開けようとすると、「終わりました。悪かったね、先にシャワーを使わせてもらっちゃって」と宮路がバスタオルで髪を拭きながらキッチンへやってきた。
私が持っている中で一番大きなバスローブを選んだのだが、それでも宮路が着ると袖も裾も滑けいなほど短かった。研究室で見かける彼はいつも実験用の白衣をまとっていて、堅苦しい印象が強かったので、私のバスローブを窮屈そうに着ている彼を見ると微笑ましかった。
「気にしないでください。宮路さんの服、今から洗っちゃいますね。あの、とりあえず、あるものをテーブルに並べてみました。おつまみ程度にはなるかな、と思って。飲み物は、冷蔵庫の中にコーラとかジュースとか。ビールは飲まないのでありませんが、白ワインとスミノフアイスがあります。あとはテレビの横の棚に、赤ワインとかコニャックとかウィスキーなんかがあります。なんでも好きな物を食べたり飲んだりしていてください。といっても、そんなにありませんが……」
私はスツールに置いた着替えとタオルを抱えた。
「なんか、助けてもらった上にこんなにしてもらって、申し訳ない」と宮路は笑顔を浮かべたが、なんだかひどく悲しそうな表情に見えた。
私は返事をする代わりに小さく微笑み、「じゃ、私もシャワーを……」と言い残しバスルームへ向かった。
私は洗濯機を回してからシャワーを浴び、いつものルーティンでローションやクリームを使って肌を整え、髪を乾かした。左胸に白いアディダスのマークが入ったグレーのスウェットシャツとパンツの上下を着て、自分の姿を鏡で見た。普段家にいる時の格好だが、ふとこのままで出ていっていいものかと考えた。毎日大学には、それなりの身支度と化粧をして通っている。しかし、研究室で徹夜続きの後、今よりもひどい醜態を何度かさらしたことがあるし、これからも起こるだろう。今さら気にすることはない、と思い直しそのままの格好でバスルームを出た。
リビングに戻ると、テレビからイルマのピアノが聞こえた。私は音楽プレーヤーをテレビに接続して、テレビをスピーカー代わりにいつも音楽を聞いていた。
宮路は私に気づくと「あ、勝手にもらってます」とスミノフアイスのボトルを上にあげた。
私も冷蔵庫からラズベリー味のスミノフアイスを1本手に取り栓を開けてから、テレビの正面に座っている宮路の左斜めに腰を下ろし、「私も」とボトルを彼に向けて差し出すと、彼は飲みかけのボトルを軽く当てた。
カチンと無感情な音がした。
私はボトルに口をつけ冷たい液体を喉に流し込んでから、クラコットにコンテを載せて食べた。ラズベリー味とチーズは驚くほど相性が良くなかった。口直しのために急いでプリッツとポテトチップスをいくつか口に運んだ。
ボトルを傾けながらそっと横目で宮路を見ると、テーブルに用意してあったもの全部に少しずつ手をつけていた。
それまで彼と間近で話したことがなかったため気づかなかったが、こうして見ると今までの印象よりもずいぶんと若く見えた。研究室で見る彼は大抵無精ひげが生え、くたびれたジーンズとTシャツなどの上に白衣を着ていた。しかし今日の彼はすっきりとひげが剃られいる。メガネの後ろには知的そうな目、すらっとした鼻、薄い唇。横顔だと際立って見える美しい顎のライン。人目を引く作りではないが、見れば見るほど端正な顔立ちをしていた。バスローブよりも浴衣が似合う人だな、と思った。
今日、どうして雨の中ずぶ濡れで、公園に立ってたんだろう?
疑問が私の頭をよぎったが、なぜか聞いてはいけない気がした。その代わりにもっと一般的な質問をしてみた。
「宮路さんて、ピアノ、弾けるんですか?」
彼は目を見開いて「え?!何その唐突な質問は?……僕がピアノ弾けそうに見える?」と聞き返した。
他意なく質問した私は、返事に困り彼の手を何気なく見つめた。大きな手に長い指。とても魅力的な手をしていた。
「大抵の人は弾けないですよね。私も大して弾けません。イルマを聞いているので、ピアノが好きなのかって思ったんですけど」
「これは佐伯さんのプレーヤーから何も考えず適当に選んだだけで、いや、ふつうにピアノは弾けない……ま、今まで勉強以外、ほかにあんまり努力したことないからね。僕は特技とかないんだ」
「私も、同じようなものですよ」と微笑んだ。「でも、私は勉強する時に音楽がないと集中力が持続しない人なので。かといって、歌詞が入ってると逆に気が散る瞬間もあって……それで、いつもクラシカルとかピアノやアコースティックギターの演奏を聞くことが多いです」
「僕も音楽は好きでいつも聞いてるよ。でも、英語、日本語問わず流行りものばっかりだな。こういうジャンルは、全然聞いたことなかったけど。でも、こいうのも、いいね。音が身にしみるっていうか……」
沈黙が訪れ、画像の映っていないテレビからはイルマのロマンティックなピアノのメロディーが流れていた。
「佐伯さん、あれをちょっともらってもいいかな?」と宮路は部屋の隅にある、アルコールのボトルが並ぶ棚を指差した。
「どうぞ。何にしましょうか?」と私が立ち上がろうとすると、「あ、いいよ。座ってて。僕が行くから」と宮路が棚へ向かった。
宮路は棚に並んだボトルのラベルを1つずつ確かめてから、レミ・マルタンの黒いボトルを出してきた。
彼はそれを私に見せながら「ごめんね、今度必ずお返しします」と柔らかく微笑んだ。
私は「構わないですよ、もらい物がほとんどですし。気にしないで飲んでください」と笑みを返した。
トクトクと音を立てながら、私と彼のグラスに琥珀色のコニャックが流れ込んだ。
私は「あ、チョコレートと、おいしいですよ」と立ち上がり、キッチンからレオニダスのブラックチョコの詰め合わせを出してきた。
「う……チョコとブランデーか……」と宮路はチョコレートを見て顔をしかめた。
私はそんな彼を無視して、金色の紙箱から1つブラックチョコを指でつまみ口に含んで、宮路に挑戦的な笑顔を送った。怪訝そうに私を見ながら恐る恐る宮路もチョコを1つ口へ運んだ。
「乾杯」と私は笑顔で自分のグラスを彼のグラスに軽く当てた。
少し楽し気な音が響いた。
私が一口飲むと、彼も意を決したように「はい、乾杯」と言って琥珀色の液体を全て口に流し込んだ。
彼はまぶたを閉じて喉の感触をやり過ごしてから、目を開けると「ま、こういうのもありかな」と私を見て微笑んだ。なんとなく、彼の笑顔に陰りがあるように見えた。
宮路は艶を消された黒いボトルを傾け、先ほどと同じくらいの量をグラスに注いだ。
「しかし、佐伯さん、すごいところに住んでるんだね」とグラスを片手に言った。
「あ、親のものなので」と私が言うと、「なるほど、そういうことか」と宮路はグラスを傾けた。
ペース、早いな。相当お酒に強いのかな?
私はどことなく彼に不自然なところがあるように思え、少し気がかりだった。
「マンションの中、全部見たわけじゃないけど、僕のアパートの3倍くらいありそうだな。バスルームだけでも2倍以上の大きさはあるもんな。ぜい沢なひとり暮らしだね」と部屋中を見渡して言った。
「両親が賃貸にしようと、購入したところなので……」と言い訳する気分で言った。
「ほんとにいい部屋だよね。家具とかインテリアとかも。あと、こういう間接照明っていうの?最初は薄暗いかなって思ったけど、慣れるとこっちのほうが落ち着くね」とグラスを飲み干し、また新たに注いだ。
「私、天井からの強い光の照明ってどうしても好きになれないんです。自分の暮らす空間に、そんなに詳細を見たいものもないですし」と私はグラスに口をつけた。
宮路は「佐伯さんは、興味深いものの見方をする人だな」と私を見てにっこりとした。
「宮路さんはどの辺に住んでるんですか?」と私が尋ねると、ここから5分くらい先のアパートだと言う。
「ご近所さんだったんですね。知らなかったです。というか、私、宮路さんのこと全然知らないし」と苦笑した。
当然彼も私のことなどあまり知らないはずだと思い、「宮路さんも、私のことあまりご存じないですよね?」と何気なく言った。
宮路は顎に長い人差し指を当てて目を細めた。
「佐伯可奈さん。ウチの研究室で、修士課程1年。だから、えっと、22歳……かな?9月からイギリスでしょ?あ、あと帰国子女で英語が得意。それから、誕生日がバレンタインデーだ」
彼が予想以上に私についての情報を把捉していたことが意外だった。私は先ほどまで、彼が私の名前を知っているかどうかも怪しいと思っていたのだ。
そんな私の思考を読み取ったのか「ほら、基本的に男が多い分野だし。やっぱ、かわいい子がいると、みんな話題にするんだよね。前回のバレンタインの時に、学生たちが話してるのを耳にして、なんとなく記憶に残ってたんだ」と優しく微笑んで補足し、「それで、どちらの国からの帰国子女さん?」と質問した。
「ベルギーです。中学から高校卒業までブリュッセルに6年間住んでました」
「そうなんだ。僕は英語が苦手でさ……論文を書く時内容を考えるより、英語で苦労してるよ。ベルギーってことは、フランス語もできるの?」
「はい。インターナショナルスクールに通っていたので、授業は英語とフランス語、ほぼ半々くらいでした……」
コニャックのせいだろうか。不意に恐ろしいほど鮮明な真咲の笑顔が脳裏に浮かび、あまりの衝撃に思わず口をつぐんだ。
真咲とこんなふうにお酒を飲んだこと、一度もないな……
私は目を閉じて必死で涙をこらえた。
宮路は、沈黙を続ける私の隣で、黙々と琥珀色の液体を体に流し込んでいた。
妙なタイミングで作ってしまった長い沈黙をごまかすために、私も自分のグラスをあおった。空になったグラスにお酒を注ぎ直そうと立ち上がると、耳慣れない音が聞こえ宮路を見ると、両手で頭を抱え込むようにして下を向いていた。
私は状況がよくのみ込めずそのまま彼を見つめていると、彼の肩が震えていることに気がついた。
宮路さん、泣いてるんだ……
公園で傘を持って私を追いかけてきた時からつい数分前まで、かなり無理をしてあんなに優しそうな笑顔を見せていたのだということを悟った。
私はいたたまれない気持ちになり、彼の前に立ち彼の左肩に触れようとしたが、それがよい判断なのかわからず、彼の肩にたどり着く前に空中で手を止めた。
彼の背中が一度大きく盛り上がり深く息を吸い込む音が聞こえ、数秒後にまた肩が震え始めた。透明な液体がポツポツと控えめな音を立てて、彼の大きな素足の間のフローリングの上に落ちた。そして、彼は左手でメガネを外した。
声を殺してとても苦しそうに泣く宮路の姿が私の胸を圧迫して、たまらず彼の左肩に手を置いた。彼の燃えるような体温がバスローブの下から伝わってきた。
私は、宮路が左手に持っていたメガネをそっと抜き取り、テーブルの上に置いた。彼の左肩に置いた手を、少しでも慰めになればと肩の線をなぞるように静かに動かした。数回動かすと彼は右手で私の手を強く掴んで、そのまま動かなくなった。私はその意味が、もうやめてくれ、ということなのか、それとも、ありがとう、という意味なのかを推し量れずにその場に立ちすくんだ。
しばらく動かずにいると、いったんは落ち着いたように見えた彼の肩が再び震えだし、私の手を握っている彼の右手にさらに力が入った。
私は彼にもう一歩近づいて彼の手から私の右手を抜き取り、その手でそっと彼の細く柔らかく湿り気のある黒い髪を撫で、左手で彼の肩を抱いた。すると彼はたまりかねたように、私の腰に手を回し強い力で私を彼の脚の間に引き寄せ、顔を私のお腹に埋めて泣いた。そのまま何分か経過すると、私のスウェットシャツが彼の涙で温かく湿った。
男の人がむせび泣くのを見るのは2度目だな、と思った。真咲がニューヨークに引っ越すと告げに来た時、私は当事者で、嗚咽する真咲を見て胸が張り裂けそうになったことを思い出した。
だが、今日は違う。私は傍観者だ。だからこそ、母性本能を刺激されているような優しさが心の奥から湧いてくるのを感じた。私は泣きじゃくる子をあやすような気持ちで、左腕で宮路の頭を抱き、右手で彼の湿った髪をとかすように撫でていた。
ずいぶん長くそうしていた。20分か、30分か。少しずつ彼の背中が冷静さを取り戻してくるようだった。
彼が落ち着くと、私の腰に回していた彼の手が私の背中を撫で始めた。彼の大きな熱のこもった手に触れられていると、私の身体の奥の何かが強く反応している感じがした。彼の手にもっと触れられたいと思った。
彼の両手が私のシャツの中に入ってきて、私のお腹や腰の素肌を包み込むと、私は心ともなく熱いため息を漏らした。彼が私のブラジャーのホックを外し、胸を包むこむように触ると全身に鳥肌がった。私は彼の何にこんなにも強く反応しているのだろうかと不思議に思った。今までに感じたことがないほどの強い性欲に襲われている気がした。
私は彼の胸からバスローブの中に手を入れて胸や肩を撫でると、彼の大きく反応したペニスが私の太腿を押し返してきた。私はそれに触れたい強烈な衝動に駆られ、右手を彼のバスローブの間に入れて固く大きなものに触れると、彼は「うっ……」と喉の奥から音を出した。
私は優しく形を確かめるように何度か彼を撫でたところで、彼は深く息を吸い込み、動かしていた私の右手首を掴んだ。
「ごめん。俺、今日キミとこういうことする資格なんてないんだ」と苦しそうに言った。「今日さっき、公園でカノジョに振られてさ。それで……まだ俺は、アイツのことを考えてる。だから……」
私には、自分に何も向けていない誠実な宮路がとても魅力的に見えた。ひとりの女の人を想って苦しそうに、私にすがって泣いた男の人がたまらなく魅惑的だった。
私もこの人を見ていない。それでも身体だけこんなに反応してる。
それが奇妙に官能的に思えた。彼が私を触れた先に何があるのか知りたくなった。好奇心がそそられた。彼とセックスがしたくなった。
「それじゃ……できませんか?カノジョを想ったままだと、私とはしたくありませんか?」
「佐伯さん……キミは……それでいいの?」と宮路は怪訝な顔をした。
私は、うん、とうなずいて見せた。
宮路は私の心中を推し量るかのように目を細めて考えていた。
「その、なんていうか、俺、今日、準備とかもないけど……大丈夫?」とまだ決め兼ねているようだった。
私は廊下の突き当りの寝室まで行き、長い間ナイトスタンドの引き出しに放置されていたコンドームの箱を手にして戻った。箱の中身はほとんど手をつけられていない状態で残っていた。
箱をコーヒーテーブルの上に置いて、念のため私は「でも、もちろん、無理にとは言ってませんよ」と彼の意思を最終確認した。
宮路は短い沈黙の後、覚悟を決めたかのように私を見つめ私の腰に手を回して彼に引き寄せ、無言で私を先ほどと同じ位置に立たせて私のシャツの中に手を入れた。私も彼のバスローブの中に手を入れ先ほどの続きを始めた。
彼は私の服と下着を脱がし裸にすると、はだけたバスローブをそのままに、彼の太腿の上に私を座らせ、右手の人差し指と中指を私の中に入れた。彼の長くほっそりとした指は、ゆっくりと私の中を探索して、素早く一番敏感なスポットを探し当てた。私はこんなにも早くに最高の快感に達したのは初めてで、何が起こっているのかわからない内に、両手で彼の腕をギュッと握りしめ、無意識に口から叫び声ような音が出ていた。
宮路が触れた部分は呪文にかけられたかのように敏感になり、与えられる快感を一滴も残さず私の身体がむさぼっていくようだった。
彼の肌と私の肌が触れ合うと、肌同士が舌を絡めるかのように吸い付き合った。
彼は女性を深く愛することを知っていた。むしろ、愛する人を抱くことしか知らないようだった。優しく貴重なものを扱うように私の身体に触れ、愛おしむように私の肌に口づけた。それは彼が私を愛しているのだと、幻覚を見せられているようだった。
彼がコンドームを着けて私の中に入ってくると、彼のペニスは私のためにカスタムメイドされたかのように、1ミリの隙もなく絶妙な角度で吸い付くようにはまった。
私はいつしかコントロールを失い、私の身体はひたすら快楽を追い求めて自らの意思で動いていた。彼が射精するまでに私は3度絶頂に達した。
私は燃尽きて彼の上に座ったまま、身体を彼に預け動けなくなっていた。彼も私の下で荒い息づかいをしながら、力尽きたように動かなかった。
私の脳が麻痺していた状態から少しずつ現実へ引き戻されてくると、今のセックスが妄想ではなかったのだという確認のために、体をゆっくりと起こし宮路の顔を見た。
宮路はそっと目を開けて私の後頭部に手を当てると、私の顔を彼に引き寄せて、私たちは初めてキスをした。舌をゆっくりと絡ませながら、お互いの存在を確認しているようなキスだった。
私が動くたびに裸の胸元で、ハートのダイヤモンドが揺れていた。
その夜私たちは、2度目のセックスで寝室のベッドに移動してから、狂ったように何度もセックスをした。疲れ果てて眠り、どちらかが目を覚ましてはまたセックスをした。
真咲とのセックスは愛情表現だった。セックスでお互いの愛を確かめ合って、愛を確かめながら、私たちは精神的にも肉体的にも快感を一緒に味わっていた。
ところが、恋愛感情など全く存在しない初めての時から、私は宮路とのセックスで思いもよらないほどの快楽を味わった。その事実が、私をひたすら混乱の闇に突き落とした。真咲をひどく裏切ってしまった気分になった。こんなセックスを味わった後に、真咲とセックスをするのが怖いような気がした。目を閉じると、真咲の胸元のチェーンネックレスが誰かの肌に触れている光景が浮かんだ。そして、真咲もほかの誰かとこんなセックスを味わっているのかもしれないと想像すると、心が張り裂けそうになった。
そのせいで、翌日のお昼近くにベッドから起きだしシャワーをした後、宮路の顔を見るのが苦しかった。そんな私の態度を彼がどう解釈したのかは、私には見当もつかなかったし、正直どうでもよかった。同じ研究室といっても、私はまだ修士課程で彼は博士課程だった。顔を合わせることがあっても、接点はそれほど多くなかった。それに私はもうすぐ日本から離れるのだ。
宮路はシャワーを浴び乾いた彼の服を着てから、キッチンに来て足を止めた。そして、振り向かない私を優しく後ろから抱きしめた。私はそんな彼の顔を見ることも、言葉をかけることもしなかった。やがてそのうちに、彼は静かに私から離れて玄関から出て行った。
私はそのまま床に座り込み、涙が枯れるまで泣きつくした。
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