Chapter 11

 真咲がニューヨークへ越して行った後も、私は高校を卒業するまで同じ学校に在籍した。毎日ひとりで下校し勉強をした。ぽっかりと空いてしまった空虚に耐えるため、私の心は閉ざし感覚を失ったようだった。

 大学は将来のことを考え、日本の大学の理工学部へ進学することにした。高校の時から有機化学に興味があり、大学院まで進むことやその後の就職を考慮してもやりがいのありそうな分野だと思えた。自分の将来を考えている時は、音信不通になったままの真咲とつながっているという実感が湧く唯一の時間だった。

 私が入学した大学は横浜にあり、ベルギーに行くまで暮らしていた街に6年ぶりに戻った。中学、高校時代を過ごさなかった私の故郷は、どこかよそよそしくなっていた。小学生時代の友人たちの数人に1、2度会ったが、私たちの世界の交点はもうあまり存在しなかった。父親は日本に帰任となり、両親と弟は以前住んでいた家に戻った。私は大学から30分で通える場所でひとり暮らしを始めた。資産運用のため両親が購入したマンションに私が住んだ。

 私は自分の国に戻り親しみを失った故郷で、真咲のいない孤独な生活を送った。




 大学生活は単調な毎日で、色褪せた世界に入り込んでしまった気がしていた。日本の厳しい受験勉強を勝ち抜いてきた学生たちのほとんどは、大学での生活を可能な限り楽しむことに重点を置いているように見えた。周囲と調和するには、私の目的は特異過ぎたようだった。真咲が私から離れた後も、私はひたむきに勉強に打ち込んだ。将来可能な限り満足な仕事に就くことは、私の目標であり彼との約束だった。勉強に没頭することが、真咲と直接つながっていられる手段のように感じていた。

 かといって、私は故意に周りと隔壁を作っていたわけではなかった。機会があれば交流のあるの学生たちと出かけたし、男女を問わず友だちと呼べそうな存在が何人かできた。彼らと食事をしたり、飲みに行ったりもした。笑い合って長話しもした。標準的な学生たちのように、時折り家庭教師のバイトもしたりした。

 けれどもどこで何をしていても、常に私の中の一部が残酷なほど冷たく凍りついたままだった。笑っていても、いつもどこかで非難するような視線を向け、傍観している私がいた。そして、それは本物じゃないよ、とよく口を挟んできた。

 真咲と一緒にいた頃の自分を思い返すと、なぜあの時はあんなにも楽しく笑えていたのかと、過去の自分が別人のように思えた。

 大学時代の4年間に私は3人と寝た。ひとり目は3年生の春、ふたり目はその年の秋だった。その2度とも、寂しさを紛らわすための行為のはずが、逆に、真咲への強い想いと罪悪感と自己嫌悪を感じさせられる後味の悪い経験となった。私が全く快感を味あわなくても、男の人には関係がないのだと初めて知った。私は消費されたように感じた。それはひどく醜く、やるせなかった。どんなに丁寧に身体を洗っても、長くバスタブに浸かっても、嫌な後味はなかなか消え落ちなかった。

 3人目とは4年生の春だった。前のふたりと比べるといささかましだった。しかし結局、私は真咲でなければあんなセックスを味わうことがもうないのだと、諦める気持ちを植え付けられたに過ぎなかった。3人目の相手は、もともとは気さくに話せる友人のひとりだった。最初に彼と寝てから2ヶ月間、恋人のような関係が続いたが、真咲以外の誰かに恋愛感情を向けられるのは、煩わしい以外の何ものでもなかった。最終的に、真咲以外の誰とも私は恋愛をすることが不可能なのだと思い知らされた。その認知は私を孤独にしたが、同時に、真咲とのつながりの強さを感じさせてくれた。それは私にとっては心強いものだった。

 私の4年間の大学生活で唯一意義のあったことと言えば、関谷人見(せきやひとみ)に出会ったことだ。彼女は私と同じ学科の1年後輩だった。人見は高校3年時の受験で、私たちの大学の入試に失敗した。その年に2校の有名私立大学に合格していたのにもかかわらず、1年間浪人して再挑戦の末合格した、強い意志をもって行動する女の子だった。

 彼女と最初に会ったのは私が3年生だった6月にやむなく参加した、友人に強引に誘われた飲み会の席だった。同じ学部の生徒が、チェーン店の居酒屋の和室に30人以上集まっていた。私は親しくない人たちが大勢集まってる場で、誰かに話しかけることはしなかったし、話しかけられるのも苦手だった。話を振られれば答えるものの、答えの内容を期待されていない質問に返答するのは苦痛だった。飲み会が始まってすぐに、なんでこんなところに来たんだろう、と後悔を始め、30分も経たない内にいつ帰ろうかというタイミングだけを考えていた。ひとりで過ごす時間は好きだったが、大勢の中で孤独になるのはみじめに感じた。1時間近く経過したのを待って、私は靴を履いてトイレにたった。戻り次第会費を払って帰ろうと思っていた。狭くうす暗いトイレで手を洗っていると、明るい髪色のショートボブの女性が入ってきて、私を上から下まで無遠慮な視線でくまなく見た。私は居心地が悪くなり彼女から視線をそらした。

 彼女は「えっと、同じ学科の人ですよね?3年生ですか?」と気さくな口調に親しみやすい笑顔をのせて私に質問をした。

 私が学科名を言うと「私、2年の関谷人見っていいます」と名乗った。

 私も名前を教えると、「佐伯さんですね。今日、楽しんでます?」と聞いた。

 私はもう帰るつもりだからと答えると、「お酒、飲まないんですか?」とさらに質問してきた。

 私は彼女からの質問の量に戸惑いながらも「飲むことは飲むけど……私、こういう場は苦手なんで」と正直に言った。

 すると「実を言うと、私もこの飲み会、退屈に感じてて、いつ帰ろうかとタイミングを見計らってたところなんですよね。あの、よかったら、今から私と、違う場所で飲み直しませんか?」と人懐っこい笑顔を見せながら人見が誘ってきた。

 私は一瞬迷ったが、彼女が私と話したそうに見えたので、いいですよ、と遠慮がちに答えると、人見は嬉しそうに「よし!じゃ、ちょっと待っててもらえます?一緒に逃げ出しましょう」とトイレの中に消えた。

 人見と私は飲み会の幹事に会費を渡してから外に出て、人見が知っているというバーに徒歩で向かった。

 人見は身長が158センチで細かったが、とても女らしい魅力的な体つきをしていた。ジーンズとTシャツという格好でも、彼女が着ているとおしゃれに見えた。美人というよりも、表情が豊かなかわいい女の子だった。男の子にモテそうだな、という印象を受けた。

 15分くらい歩いたところで、あまり新しくはない細長い4階建てビルの前で立ち止まると、人見が「ここなの」と私に一瞬振り返った。そして、歩道に置かれた《Hic Haec Hoc》とカラフルなチョークで書かれた看板の横にある、暗い階段を彼女はちゅうちょなく昇っていった。ドアを開けながら人見が「こんばんは」とカウンターの中にいた、やせた背が高い長髪の男に声をかけた。その男の案内に従い、私たちはカウンター席に腰を掛けた。

 小さい店で、カウンター6席のほかに4人掛けのテーブルが3つ、2人掛けのテーブルが4つあるだけだった。まだ時間が早いのか、テーブルは2つ埋まっていたが、カウンターには私たちしかいなかった。照明が暗く、家具やインテリアは暗いトーンで統一されていた。数少ない窓は黒いブラインドが下ろされていて、2階にいるはずが全体的に地下室を思わせた。

 人見は「佐伯さん、ウィスキーは飲める?」と聞いた。

 私が、うん、とうなずくと彼女はバーテンダーと話し注文をした。

 ほどなく、丸い大きな氷が入ったグレンフィデリックのグラスが2つ出てきた。

「はい、じゃ、とりあえず乾杯」と人見が言い、私も「乾杯」と彼女のグラスにカチッとグラスを当ててから一口飲んだ。

 喉をウィスキーの熱がスーと通った。店内にはニューヨークのラジオがリアルタイムで流れていた。

 ミモレットとパルメザン、ゴーダチーズが小さく角切りされた周りに、サラミソーセージのスライスが並べられたお皿が運ばれてきた。ミモレットとウィスキーの組み合わせは絶妙だった。

 人見はバーテンダーと顔見知りらしく、しばらく親し気に話をしていた。彼との会話に一段落つくと、人見は私に向き直った。

「ほんとは、私、佐伯さんのこと知ってたんですよ」とにっこりと笑顔を見せた。「佐伯さんて、いつもすごい勉強してますよね。講義で見かけるたびに、あんなかわいくてまじめな大学生がいるんだな、っていつも思ってたんですよね」

 私は何と答えたらよいかわからず「はぁ、まぁ。目標があるので」と小声で言うと、彼女は私のことを知りたがった。ウィスキーを舐めながら、ベルギーから戻ってきて、これから修士・博士課程まで目指したい、ゆくゆくは研究に携わりたいと言うと、彼女は目を輝かせて私を見た。

「そういうの、私、すごい好きです」

「でも、まだ目標ってだけで、全然先のことなんて見えてないし。関谷さんと境遇、変わらないよ」

「あ、私のことは人見で。人を見るって書きます」

「じゃ、私のことは可奈、って呼んでください」

 人見は人懐こい笑顔で「敬語、要らないよね。私、一浪してるから、同い年だし。私ね、名前の通り結構人を見る目があるんだよね、特に友だちに関しては。で、なかなか落ちないのが好みで」と言った。

 それを聞いて私がちょっと怪訝な表情をすると、人見は慌てて補足した。

「あ、違う、違う。違うから。そういう意味じゃないから。私、友だちは慎重に選ぶってこと。簡単に、私たち友だちだから、みたいになるのは苦手だって話。偏見はないけど、私はゲイじゃないよ。とりあえず、カレシもいるし。ちなみに彼は材料学科の2年だよ」

 彼女はそう言ってカウンターの中に目をやった。彼女の視線の先には長髪のバーテンダーがいた。彼は人見の視線に気がつくと微かな笑みを彼女に送った。

 あ、そういうことか。

 私にとって人見はとても話しやすい人だった。彼女の言葉は率直だけれども思慮深く、信用できそうに思えた。

 私は微笑んで「私のこと、前から知ってたんだね。どうして?」と尋ねた。

 人見は「あー、やっと笑ったよ、この子」と大げさに仰け反って見せた。

 彼女の反応を見て、それまで自分がいかに無表情だったかを自覚した。

「なんか、笑うと雰囲気がずいぶん違うね、可奈」

「私、そんなに笑ってないかな?」と首を傾げた。

「ま、私もいつも可奈を見てるわけじゃないけど。とりあえず私は、今初めてあなたの笑顔を見ました」

 私は、まるで知り合った頃の真咲みたいだな、とひとりで笑った。すると、人見は私をじっと見つめて言った。

「可奈、あのさ。後で気を悪くされるとイヤだから、先に言っとくね。この前、材料科の蓮田ってヤツと……」

 あ、そうか……人見のカレシ、材料科だっけ。

 すぐに合点がいった。私は1ヶ月ほど前に真咲以外の人と初めて寝た。その相手が、人見の恋人と同じ学科だということは、おそらくふたりは顔見知りの可能性が高い。人見は恋人から、私のことを耳にしてもおかしくはない話だった。

 いずれにしても、私にとってはあまり触れられたくない話題だったで、様子を見るために人見が続けるのを無言で待った。その沈黙で、人見は私の心内を悟ったのだろう。慎重に言葉を選んでいるようだった。

「蓮田がさ、どうやら可奈のこと……色々と言ってるらしいんだよね。アイツのこと振った?」

 私はウイスキーのグラスを指で撫でながら首を傾げた。

「振ったっていうか……連絡をしてない、かな。もともと知り合いじゃなかったし。なんか今日みたいな感じで、強引な流れで行った飲み会で知り合っただけだったから……」

 私はなんだか言い訳をしているような心持で説明をした。人見はそんな私を観察しているようだった。

「そっか。でもたぶんね、あっちはそう思ってないよ。結構、真剣に可奈のこと気に入ってたんだと思うんだよね。それで、振られた腹いせに色々言いふらしてるらしいよ」

 私は苦笑しつつ「……例えば?」と質問した。

「その……見かけに騙されるな、相当遊んでるから、みたいな。可奈の印象が悪くなるようなことを色々と」

 そっか。ま、後先考えない行動はこういう事態を引き起こすんだろうな。

 私は妙に素直にことの成り行きを納得した。

 私はウイスキーを一口喉に流し込んで「大学生になってもそういうのあるんだね」と苦笑した。

「今日の飲み会で、可奈と席が遠かったから話せなかったけど、私、ずっと可奈のこと見てたんだよね。その噂のこととかあったから、なんとなく気になったの。おとなしそうで勉強熱心なのに、そういう噂をされてる可奈ってどんな子なんだろうなって興味があったんだ。でも眺めてるだけで、噂はすぐにウソだってわかったんだけど……だってさ、実際、見ててかわいそうだったよ、可奈」

 人見は私の顔を見ておかしそうに笑った。飲み会の席での自分がいかに浮いた存在だったかを悟り、私も一緒に笑った。

 少し間を空けてから、私は人見に事情を説明しようと試みた。

「私の中で色々あって……混乱しててね。蓮田くんとそういうことはあったけど、すごい後悔してるんだ……」

 そう口にすると、私は気がつかないうちに涙を流していた。

 私は慌てて「ごめん、急に……」と言うと、人見はバーテンダーからティッシュの箱をカウンター越しに受け取り、私の前に置いた。

 人見は「ここ暗いし、客少ないし。大丈夫だよ。誰も見てないから。泣いときな……」と新しいウィスキーのグラスを私に差し出しながら、彼女のグラスに口をつけた。

「好きな人がいるんだ……でも会えないの……」と泣き崩れる私の横で、人見は静かに飲んでいた。

 私はその夜、初めて誰かに真咲の話をした。

 人見も彼女について私に教えてくれた。浪人のこと。恋人のこと。過去の恋愛のこと。母子家庭に育ったこと。

 その日から人見は、心を許せる私の大切な友だちになった。

 それから数か月後に寝たふたり目の相手は、その当時の人見の恋人の知り合いだった。人見と彼と3人で飲みに行く約束をした日に、その人が一緒にいた。彼は社会人でダークグレイのスーツとペイルピンクのネクタイを、ファッション誌から抜け出てきたようにスマートに着こなしていた。最初に彼を目にした時、一瞬時間が止まったように思えるほどハンサムな人だった。飲んでいる間は彼とそれほど言葉を交わさなかったものの、彼がどんな男なのか好奇心がそそられた。彼が私に興味があると気づいた時には胸が高鳴った。人見が恋人と私たちを残し帰った後、私はその人とそのままホテルに行った。そして激しく後悔した。同じ言葉を話しているとは思えないほど、話はかみ合わなかった。前回よりさらにひどい経験で、ホテルから出る時には、なぜ彼が少し前までハンサムに見えていたのかもわからなくなっていた。ホテルの出入り口の料金表を横目で見ながら、2時間前に時間を巻き戻したいと本気で思った。

 そして私はまた人見に泣きついた。

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