Chapter 10
私の高校2年の終わり間際、5月最後の木曜の夜だった。
2週間後に学年末テストを控えており、真咲も私も1年で最も集中的に勉強をしている期間だった。その日も真咲と一緒に下校したものの、それぞれ自宅に帰り勉強をすることにして早々に別れた。夕食後、私は自室で化学の勉強をしていた。小さな音で流していたバッハのチェロの組曲が耳に入ってこないほど集中している時に、机の隅に置いてあった電話の呼び出し音で現実世界に引き戻された。真咲からの電話だった。ナイトスタンドの上の時計に21:14と表示されていた。
私は「アロ(もしもし)」と留守電になる前に応答した。
「……勉強してた?」
真咲のひどく沈うつな声が聞こえ、私は胸騒ぎを覚えた。
「真咲、どうしたの?何かあった?」と不安を隠さずに尋ねた。
「可奈、ちょっとでいいから、今から会えるかな?」と彼が切羽詰まったような声を出した。
窓に目をやると、昼過ぎから降りだした細かい雨がまだ続いていた。
「外、雨降ってるけど」と私は少しためらった。
「うん、知ってる。俺が可奈のアパートの下までバイク(自転車)で行くから、外に出てこれる?15分……10分だけでもいいから」
滅多に聞いたことのない彼のいやに余裕がない声を、私には拒む選択肢はなかった。それどころか、少しでも早く彼の顔を見たいと思った。
「お母さんが家にいるから、あんまり長くは話せないけど。10分後に下で待ってる。気をつけて来てね」と答えながら、母に告げる言い訳に頭を巡らせた。
「うん。すぐに行くから」と私の返事を聞くや否や電話が切れた。
私はK-Wayのパステルブルーのジャケットを羽織り、電話をポケットにいれた。そして、雨の中を自転車に乗ってくる真咲のことを考え、バスルームのクローゼットから洗いたてのタオルを一枚手に取った。鏡をのぞきヘアクリップを外して髪をとかした。
リビングルームに行くと、ソファーで何かを読んでいる母を見つけた。私の足音に気づいた母は顔を上げ、ジャケットを着た私の姿を見ると眉をひそめた。
「お母さん、真咲がどうしても話があるって言うから、ちょっとだけウチのアパートの前で話してくる」
どんなウソをついても事態を悪化させる可能性しか見えなかったので、正直に説明した。
「こんな遅くに……明日、どうせ学校で会うんでしょ?それまで待てないの?」
私がこの時間に外出することへの抵抗よりも、この時間に突然真咲と会うことへの反発が母の表情から読み取れた。
「まだ詳しく聞いてないけど、なんか急を要することみたいなの。すぐ戻ってくるよ。15分だけだから。電話も持っていくし、アパートの下から移動しないから」
拒まれ口論となることを恐れ早口にまくしたてると、母は諦めたような口調で私から目をそむけ「15分ね」と呟いた。
20分って言った方がよかったな、と早くも後悔しつつ足早に玄関へ向かい、スニーカーを履きながらドアから出てエレベーターへと向かった。
エレベーターを降り玄関ロビーに出ると、黄色いマウンテンバイクをアパートの壁に立てかけ、その隣でグレーのK-Wayのジャケットのフードをかぶったまま、うなだれたようにうつむき立っている真咲がいた。
私は走りながらエントランスのガラスのドアを開け、真咲に駆け寄った。
「どうしたの、真咲?何があったの?」と彼の表情をうかがおうと、うつむいた彼の顔をのぞきこんだ。
彼のナイロン製の防水ジャケットもパンツも濡れていて水滴が流れていた。私は手にしていたタオルで彼の顔を拭こうと右手を伸ばすと、真咲は無言のまま私を強く抱きしめた。彼のフードから滴る冷たい水が私の顔を濡らした。
何があったのか問いたい気持ちをこらえ、私は背伸びをして彼の首に腕をまわし優しく抱きしめた。彼が話す準備ができるまでこのまま待とうと思った。
4年半前、インターナショナルスクールに通い始めたばかりの頃に起きた自転車との衝突事故の後、真咲が初めてここまで送ってくれた時には、私と真咲の身長はほぼ同じくらいで、まっすぐ目を向けると彼の目がそこにあった。今、真咲は私よりも20センチ以上背が高くなっていた。彼の目を見るには見上げなくてはならなかったし、彼に口づけるには背伸びをしなければ届かなくなっていた。
真咲を抱きしめながらそんなことを考えていると、私の首に埋めていた彼の口から耳慣れない音が聞こえ始めた。それが彼の嗚咽だと認識するまでに数秒かかった。
「ちょっと、真咲、どうしたの?なんで泣いてるの?」
私は彼を抱きしめる腕に力をいれた。
真咲は嗚咽の合間に絞り出すような声で言った。
「あと3週間……3週間しか一緒にいられない……」
私は彼の言葉の意味がよくわからず「え……?」と間の抜けた声を出した。
真咲、何を言ってるの?
私は放心した状態で何も言えずにただ真咲の嗚咽を聞いていた。真咲の言葉が衝撃的な告知である可能性を、私の脳が拒絶し理解できずにいた。
彼は大きく深呼吸をして私から離れ、私の手からタオルを取り顔を覆うと、肩を大きく揺らしながら何度も大きく息をした。懸命に気を静めようとする真咲の姿は痛々しく私の目に映った。
真咲がタオルから顔を上げると、濡れた長いまつ毛の下に見える潤んだグレーの瞳は、いつもよりもさらに透きとおっていてゾクゾクするほど冷淡に見えた。
「父親の異動が決まったんだ。7月からニューヨークだって。こっちで学年末テストの結果が出たら、俺は新しい学校の編入テストを受けるために、すぐに引っ越さないといけないって……」
私たちはこの状況を想定していないわけではなかった。覚悟はできていると思っていた。けれども現実になってみると、全身を強打されたかのような想像を遥かに超える衝撃を感じた。
私は何を考えるべきなのか、何を言うべきなのかわからず、ただ錯乱していた。
「それって、どういう意味……?真咲ともう、会えなくなるってこと……?」
会えなくなる、と発音した途端に私の目から涙が流れ落ちていた。そんなことは想像すらしたくなかった。
私の口から「そんなのイヤだよ……」と悲鳴のような音がこぼれ落ちた。
それから私たちは倒れこむように抱き合って声を出して泣いた。
しばらくして真咲は苦しそうに言った。
「俺と可奈は早く出会い過ぎたんだって、俺はいつも思ってた。あと20年……10年でも遅かったら、ずっとずっと一緒にいられたのに……こんなに苦しまないで済んだのに……」
そうだね……そうかもしれない、ね。でも……
「それでも、私は真咲がいない、ここでの今までの生活は想像したくないよ……」
真咲が私を抱く腕に力が入り「うん……」という彼の声を聞いて、私たちは再び声を上げて泣き崩れた。
喉が痛くなり目が熱くなった。真咲はまたタオルで顔を拭ってから、私の泣きはらした目を見据えて言った。
「可奈、よく聞いて」彼は私の両肩を大きな手で握りしめた。「俺がちゃんと自分で生活できるようになったら、可奈を迎えに来る。離れ離れになって何年も連絡しなくても、俺のことを信じてて。俺は可奈のために、誰にも文句を言わせない大人になるから。それまでの沈黙は、俺が努力してる時間だと思ってて」
私はうなづいて「私も真咲に負けないくらい努力するよ。取り残されないように、胸を張って真咲の前に立てるような大人になる」と応えた。
真咲はまっすぐに私の目を見つめ、説得するような口調で諭した。
「距離なんかで……焦って、会えないことが原因で……そんなことで俺たちを終わらせない。だから、俺が自信をもって可奈を迎えに来られるまで連絡はしないから」
そして、彼は微かな笑みを口に浮かべた。
「そうだ!今日ここで約束しておこう、可奈。10年後、可奈が27で俺が26になった年の12月23日の夜の7時にグランプラスで会おう。それからその後はずっと一緒に、10年毎にあのグランプラスにふたりで行こう。おじいさん、おばあさんになってもずっと」と真咲はとてもやさしい微笑みを見せた。
「わかった。10年後の12月23日、ね」と繰り返し、私は彼の優しい笑顔に応えようと笑顔を作ろうと試みたが、うまくできた自信はなかった。
10年……17歳の私には想像を絶するほどの長い時間だった。10年後の再会の約束は、それまで真咲とは会えないという、絶望的な現実でしかなかった。それでも、この先のふたりの人生を考えると、それ以外によりよい選択肢があるようには私にも思えなかった。
私が真咲を、真咲が私を信じていれば、絶対に大丈夫。私たちはまた一緒に幸せになれるんだ。
私は本気でそう信じていた。きっと真咲も同じであっただろう。
「もう30分以上過ぎたわよ」とエントランスのドアが開いて私の背後から鋭い声がした。
驚いて振り向くと、母が憤りを隠さずに私と真咲を凝視して立っていた。
「真咲くん、どんな急用だったか知らないけれど、テスト前のこんな時間に可奈を振り回さないでちょうだい」
母は厳しい口調で真咲をとがめた。
「お母さん!どうしてそういうことを言うの?私も真咲も、今まで一度も成績を落としたことなんかないじゃない。なんでいつもそうやって真咲を……敵視するの?」
真咲はタオルを私に手渡し、母の目を見ながら答えた。
「こんな時間に急に押しかけてすみませんでした。もう話は終わりました」と詫びる真咲を見兼ねて私は口を挟んだ。
「お母さん、私たちにも事情があるんだよ!真咲が、もうすぐアメリカに引っ越ししちゃうんだって……それを伝えに来てくれたんだよ……」
母は一瞬表情を緩め「そうなの」と呟いた。
しかし、母の厳しい面持ちはすぐに戻ってきた。
「あなたたちふたりが別れを惜しむ気持ちはわかるけど、でもね、真咲くん。それはあなたが後先を考えずに行動していい理由にはならないのよ。夜遅く雨の中を自転車で家まで押しかけるなんて、途中で何かあったらどうするの?あなたたちはまだ、たくさんやるべきことがある子どもなんだから」
こんな状況になっても尚、真咲を非難する母に「お母さん、お願いだからもうやめてよ……」と私はやるせない気持ちで言った。
真咲は暖かい右手で私の左手をしっかりと握りながら、母を見据えて言った。
「おばさんが俺のことをよく思ってないことは、前から気がついてました。理由も、なんとなくは察しがついています。それでも、俺は可奈を諦めません。おばさんが納得してくれるような大人になって、可奈を迎えに来ます」
それまで母とあまり話をしようとしなかった真咲が、こんなにも毅然と話す姿を見て私は驚いた。
母は真咲から目をそらさず、少し考えてから言った。
「まだあなたにはわからないと思うけれど、親は子どもに同じ轍を踏ませたくないと思うものなのよ。あなたたちはまだ若くて、限りない可能性を持っているの。先のことは誰にもわからないわ。今の一時の感情だけで、あなたたちの将来の可能性を制限したり奪ってしまうような言動や約束は、誰のためにもならないの。これから、真咲くんは真咲くんの、可奈は可奈の、それぞれの長い人生を歩んでいくんだから。苦しいかもしれないけど、失ったり、忘れたり、変わっていくことも大人になるには必要なことなのよ」
一呼吸おいてから母は、今までになく優しい声音でつけ加えた。
「真咲くんは、すてきな大人になるでしょうね。幸せになってね」
私は愕然とした。母から真咲への最後の別れのような言葉を聞き、私は思わず叫びたくなった。
「お母さん、もうやめてよっ!いい加減にしてよ!」
真咲は握っていた私の手を放し、大丈夫だというように私の左肩に手を置いた。
「俺は可奈を迎えに来ます」
真咲は凛然と言い放った。
母は「帰るわよ」と静かに言い、踵を返してエントランスのドアを押し開けながら振り返り「真咲くん、気をつけて帰りなさい」と言い残してから、私に中に入るよう促した。
私は慌てて「真咲、明日学校でね」と振り向きざまに告げた。
エレベーターに乗る前にもう一度エントランスに目をやると、外で真咲がまだ立ちつくしているのが見えた。私は胸が苦しくなり、涙で視界が霞んだ。
おとぎ話のように幸福だったイタリア旅行から3ヶ月しか経っていなかった。
6月の最後の週末を前に、真咲と彼の両親と一緒に私は車で空港に向かっていた。前回みんなで一緒に旅行した時とは打って変わり、今回私は空港からどこへも行かない。私だけがここに残る。最後の見送りに来ていた。
学年末テストの結果が出てもう授業という授業はないものの、まだ学校は休みに入っていなかった。今日私は学校には行かず、制服を着たまま真咲を見送りに来た。
車の中で始終真咲と私は無言だった。私たちは力尽きたように、ただ手をつないでいた。
テストが終わってからの1週間は毎日真咲と一緒にいた。真咲の父親は出張続きで最後まで慌ただしく、彼の母親も挨拶回りなどでほとんど家にはいなかった。2日前にアパートを引き払いブリュッセル中心地に位置するホテルに移るまで、私たちは真咲の部屋でお互いを記憶に焼き付けるためにできる限り一緒に時間を過ごした。私たちは泣いて、抱き合って、また泣いた。どんなに遅く帰宅しても、私の母はなにも言わなかった。
空港に到着しチェックインカウンターで搭乗手続きを済ませると、真咲の両親は私と向かい合い挨拶をした。私は、現実が遠のいたぼうっとした頭を必死にたたき起こしながらなんとか返答をした。
最後に真咲の母親が私の手を取り「可奈ちゃん、大丈夫よ。またいつか、みんなで旅行に行きましょうね。それまで元気でね」と言ってティッシュペーパーで目頭を抑えながら、夫に支えられてセキュリティーゲートを通って行った。
まだ搭乗時刻まで1時間半ほど時間があったので、真咲は私とゲートの外に残った。
外はどんよりと曇っていたが雨は降っていなかったので、私たちはいったん外に出ることにした。
ターミナル正面の駐車場の隅のあまり人が通らない場所で、私たちは静かに抱きしめ合った。ふたりとも、もう言うべき言葉が思いつかなず、無言のままひたすら悲しみを分かち合った。
残りの時間を気にかけながら、私は彼が発つ前になすべきことの心の準備をした。これが最後だと思うと、頭では行動しなければと思いつつもなかなか動作に移せずにいたが、ようやくバックパックから長方形の箱を取り出し、真咲に「今の私の存在の証だよ」と手渡した。
箱の中身はホワイトゴールドのチェーンネックレスだ。それまでで私がした一番高い買い物だった。
真咲は一言も発さず箱を受け取りチェーンを取り出して私に手渡すと、私が彼の首に届くように屈んだ。私は彼の首に腕をまわしチェーンを着けると、思わず彼を力いっぱい抱きしめた。それから私たちは心の痛みを分かち合うように長いキスをした。ふたりで泣きながら交わしたキスはしょっぱかった。
搭乗時刻が近づきセキュリティーゲートを通る前に、潤んだグレーの瞳で射すくめるように私を見つめ真咲が言った。
「可奈。俺は絶対に迎えに来るから」
それは、彼の誓いのようにも、願いのようにも聞こえた。私は静かに小さくうなずくことしかできなかった。
泣きはらした彼の目の周りは真っ赤だった。それを見ながら、私の目はもっと赤いのだろうと思った。
ほんとにこれから10年も真咲に会えないのかな……?
私にはどうがんばっても、その現実を想像することも、受け入れることもできそうになかった。真咲に抱きしめられていた感触が残る自分の両腕を抱きしめながら、私はこの先、真咲以外の誰も愛することなどないのだと思った。10年は気が遠くなるほど長く思えた。
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