Chapter 9

 私が高校2年17歳、真咲が高校1年16歳の3月初旬、私たちはいつものように学校帰りに真咲の家で勉強をしていた。一息いれるタイミングで、真咲の母親が私たちのために紅茶とお菓子を用意し、ダイニングテーブルに座って3人でおしゃべりをしていた。彼女は私よりも少し背が低く、ふっくらとした人で、ゆるくパーマがかかったショートボブの髪をいつも小ぎれいにスタイリングしていた。彼女の顔からは優しさと知性がうかがえた。おおらかな人で、誰とでも気兼ねなく話ができる人だった。

 テーブルにはいつも通り真咲と私が並んで座り、私の正面に真咲のお母さんが座っていた。

 雑談の途中の短い沈黙の後で、真咲の母親が私たちふたりをまじまじと見つめて言った。

「真咲、ほんとに可奈ちゃんがいてくれて、よかったわね。ベルギーでの生活はあなたにとって、一生忘れられない時間ね」

 真咲のお母さんはそう言って、息子を優しい目で見つめながら微笑んだ。

 真咲が照れくさそうに「どっちかっていうと、俺が可奈の面倒を見てあげてるんだけど」と言った。

 真咲のお母さんは私に「そうだ。ねぇ、可奈ちゃん。今度の復活祭のお休みは、もう何かご予定があるのかしら?」と尋ねた。

 3月末から4月の第一週はイースター休暇で学校が2週間休みになる。

 私は口の中のショートブレッドを飲み込んでから「いえ、ウチは特に予定はないです」と答えた。

「それなら、もしよかったら、私たち家族と一緒に旅行に行かない?」と真咲のお母さんは妙案が浮かんだ、というように得意気に言った。

 真咲も何も知らされていなかったようで、「家族で旅行って……どこに行くの?」と母親に尋ねた。

「お父さんがね、3月最後の火曜日にミラノで会議があるらしいの。だから、水曜日に戻ってくる予定で、日曜日から3泊でマジョーレ湖にみんなで遊びに行くのはどう?」

 私は真咲とイタリアへ旅行に行けることはとても嬉しかったが、私の親の反応が不安だった。

「私はすごい行きたいです。イタリアに真咲と行けるなんて、夢みたい。でも、親に相談してみないと……」と正直に言った。

 すると彼女は、大丈夫よ、というようににっこりと笑みを浮かべて「可奈ちゃんのお母様は、今おウチにいらっしゃるかしら?」と聞いた。

 私は彼女の意図が読めず「いると思いますけど……」と答えると、彼女は「よかった。じゃあ、ちょっとふたりで食べててね」と言い残しベッドルームへ入っていった。

 私は「ねぇ、真咲はマジョーレ湖って行ったことある?」と質問した。

「ないよ。ミラノは2回行ったけど、市内しか見たことない」

「真咲と一緒に行きたいなぁ……」

 真咲も、私の母があまり彼のことをよく思っていないことには気がついていた。真咲と出会った当初は、私の家と真咲の家を交互に行き来していたが、私の母の態度のせいで少しずつ私の家から足が遠のき、この2年ほどはふたりで私の家に行くことはなくなっていた。たぶん、今回も真咲との旅行をどう言い繕っても、そう簡単には許可がもらえることはない予感がしていた。

 10分ほどして真咲のお母さんが寝室から戻ってくると、「大丈夫よ、可奈ちゃん。今、お母様とお話しして、私たちと一緒に旅行に行くお許しを頂いたわ」と笑顔で言った。

 私は思わずイスから立ち上がり、「ありがとうございます!やった!すごい楽しみ。何を着ていくか考えなきゃ」と大喜びした。

 一方で、真咲の母親からの直接の誘いを断れるわけがない、私の母の大人の事情も察しがついた。そう思うと、家に帰ってから母の反応を見るのが少し不安になった。

「ほんとに可奈ちゃんてかわいらしいわ。私も可奈ちゃんが娘になってくれたら、とても幸せなんだけど。ねえ、真咲」

 私がはしゃぐ姿を見て真咲のお母さんが呟いた。

 真咲は「可奈が俺の姉になるとか、ありえないし」と顔をしかめた。

 すると、お母さんは呆気にとられ「バカね、真咲は」と声をあげて笑った。

 そこでようやく、私と真咲は彼女の“娘”の意味を理解して、ふたりして顔を赤くしてうつむいた。




 ブリュッセルからミラノまで、飛行機で1時間半、ミラノからマジョーレ湖は車で2時間足らずだった。航空券もホテルも全て真咲の母親が私のために手配してくれていた。イースター休暇の日曜の午後に、私たちは真咲の父親のリムジンで湖のほとりのホテルに到着した。

 車から降りてホテルを見上げると、私はあまりの豪華さに目を丸くした。

 真咲に小声で「ねぇ、ほんとに私もこんなホテルに泊まっていいのかな……?」と聞くと、「大丈夫だよ」と彼は何でもないような笑顔を浮かべた。

 さらに驚いたことに、真咲の両親は私と真咲の部屋を用意してくれていた。彼の両親は私の両親よりも10歳以上年上だった。そのせいなのか、それとも男の子の親だからなのか、あるいは単に考え方の違いによるものなのか、私の母とは違い、真咲の両親は私たちのことをいつも温かい目で見守っていてくれた。

 真咲の家で頻繁に顔を合わせ話をする母親とは違い、彼の父親とはそれまで週末に稀に一緒に食事をしたりお茶をした程度で、あまり長く接したことがなかったので、この旅行が初めて長く彼と行動を共にする機会となった。身長は170センチくらいの中肉中背、髪はバランスよく白髪が混ざったグレーで、ふちのないメガネをかけていた。少なくとも家族といる時は物静かな人で、真咲の母親が話をするといつも静かに耳を傾けていた。口数は多くなかったが、彼の思慮深い表情と口調は、周囲の人を少し緊張させた。とても自然な身のこなしで、ドアを開けたり、イスを引いてくれたり、荷物を持ってくれたりするのを目にして、真咲の仕草の源を見たような気がした。彼が真咲を見る目はいつも優しく、自分の息子を信頼しきっているのがよくうかがえた。

 マジョーレ湖に到着した日の夜は、4人でホテル内のレストランで食事をとった。翌日月曜は、真咲の父親は仕事のため早朝からミラノへ行き、母親と私たちは湖の中に浮かぶ島に作られた城、イゾラ・ベラを観光した。

 まだ空気は肌寒かったものの天気に恵まれ、17世紀から島に浮くその城はあまりに幻想的で、私たちはおとぎ話の中に放り込まれた気分になった。あらゆる箇所が豪華なモザイクで飾られた城内から、目が覚めるような青い湖を背景に、色とりどりの草木が芸術的に配置された庭園に出ると、私は思わず息をのんだ。

「うわー、すごい……なんか、RPGの中に来ちゃったみたい!」と私が感嘆のため息をもらすと、真咲は私の隣で「それって誉め言葉なのかな?」と首を傾げていた。

 食事はどのレストランで食べても、シンプルで驚くほどおいしいものばかりだった。普段は好き嫌いが多い真咲も、珍しく何も文句を言わずに楽しんで食事をしていた。

 2日目火曜日は真咲の母親もミラノで約束があると言い、父親と一緒に朝から出かけて行った。

 私たちはルームメイクを断り、朝も昼もルームサービスで食事を済ませ、夜までホテルから一歩も出ずに一日を過ごした。

 私たちが泊まっている部屋はベッドルームとリビングルームが別れていた。どちらの部屋からも、大きなフレンチウィンドウの外に心が洗われる湖の風景が見渡せた。室内は白と黄色、パステルブルーの色調で、床から天井までイタリアの伝統的なスタイルで華やかにデザインされていた。キングサイズベッドの足元にフレンチウィンドウがあった。

「なんか、新婚旅行みたい」と現実感を失いつつ、ベッドの中で私は呟いた。

「そうだな……可奈と一緒にいられて、きれいなもの見て、おいしいもの食べて。それに、可奈とずっとベッドにいられるし」と真咲はいたずらっぽく笑い「ま、親同伴だけど」と付け加えた。

「当たり前じゃん、私たちまだ高校生なんだよ!こんなロマンティックな観光地で、豪華なホテルに泊まって、高級レストランで食事なんて、私たちの自力では絶対無理」

「今は、ね。そのうちに、これが俺と可奈の“普通”になるよ。俺がそうする……つっても、かなり先のことだけど」

「大丈夫。私はいくらでも待てるから。じゃあとりあえず、今のうちに新鮮さを楽しんでおかなきゃね」とにっこり笑い室内を見渡した。

 夢心地な気分だった私は、あまり自分の好みとは言えない室内のデザインを目にしている内に、ふと現実に引き戻された。

「でもね、私、真咲と一緒にいられるなら、こんなに豪華な生活とか贅沢なんていらないよ。それにしてもすごい部屋だね……やっぱり、私たちってさ……なんていうか、甘やかされてるっていうか、運がいい子どもたちだよね」

 その後真咲は、天井を見上げながら長い間沈黙していた。

「……俺さ、たまに考えるんだ。ニュースでよくあるじゃん、親が産みたての子ども放置したりさ、生まれてからずっと親に暴力振るわれ続けた挙句に殺されたり。で、ああやって苦しむためだけに生まれてきたような子どもたちと、俺の違いってなんなんだろうなって。ほんとはそういうのが俺の人生で、殺された子どもたちの誰かが、今の俺の人生だったのかもしれないって」

 私は胸が絞めつけられて言葉を失った。

 真咲は、正面のフレンチウィンドウの外に広がる湖を見ながら話しを続けた。

「あの子たちが殺されずに、裕福じゃなくてもそれなりに幸せに生きていくための親なんて、きっと誰でもよかったんだよ。あの子たちを殺した親以外とだったら、幸せで平和な人生を送れる可能性なんて、無限にあったはずなんだ。血縁なんて、なんの証明にも保障にもならない。そりゃ、遺伝病とかあるけどさ……でも、血のつながりなんて不確かなものに、存在しない正当性なんて求めるから、あの子たちは犠牲になったし、これからもたくさんの子どもたちが親に殺されていくんだ。幸せな子どもを育てるのに、血のつながりは関係がないはずなのに……」

 真咲の単調で冷静に話す声音は、彼が今までに何度も何度もこのことについて考えてきたんだと私に教えていた。

「俺もさ、そういう子たちを犠牲にしたひとりなんじゃないかって思うことがあるんだよね。でもそれは、なんていうか不可抗力で決められたことで……俺は、生まれた瞬間に宝くじを当てたようなもんだ」と私を見て自嘲の笑みを浮かべた。

 私はどうしてよいかわからず、でも何もしないわけにはいかず、ただ真咲をしっかりと抱きしめた。

「真咲……私は偶然でも運命でも何でもよかった。真咲が今、ここにこうしていてくれるなら……ほんとによかった」

 そう口にすると、自分が殺されてしまった子どもたちを見殺しにしてる人間のひとりになった気がした。心が痛んだ。

 それでも、私には真咲を諦めることなんてできない……真咲がいなくていいはずがない……

 真咲は私の髪を優しく撫でた。

「うん。俺も、今ここにこうして可奈といられるのが、どんな偶然か、事故か、運命なのか、どんだけ犠牲を払ってるのかわからないけど、それでも幸せで大切で……俺のものだ」

 私は真咲の存在を肯定するために、両腕に力を込めて抱きしめた。

 少し間をおいて真咲は続けた。

「だから俺は、自分が幸福でいられるようにできる限りの努力をしていくよ。俺の親がいつも俺のことを誇りに思えるようにね。で、俺の幸せには可奈が必要なんだよ、絶対に」

 真咲は私の目を見つめながら大きな手で私の頭を包み込み、彼と私の額をくっつけた。

 私は彼の透きとおる瞳を見つめながら、人生をかけてこの人を幸せにしたい、と心の底から切に望んだ。

「あーあ、あと10年遅ければなぁ。俺、間違いなくこの場で、可奈にその5倍くらいの大きさの指輪を持って、片膝ついてたね」と私の胸元のペンダントを見て言った。

 私はあまりの嬉しさに、笑いながら涙が出た。

「でも博士課程まで進むなら、10年後だってまだ学生だよ?ふたりとも、そんな余裕もお金もないよ」と私は涙を手で拭った。

「なら、今から20年後。俺が36歳だったら文句ない?」

「私は37歳だよ……子ども、まだ産めるかな?」

 真咲は少し頭を左に傾げ「産めるよ。それに、ほかにも選択肢はあるでしょ?」と私の目をのぞいた。

 私の脳裏に、真咲が私たちの子どもに真咲の大切なモデルカーを見せている姿がくっきりと浮かんだ。真咲と一緒に家族として過ごしていく私の人生は、とても幸福だろうと思った。

「そうだよね!よし、20年後か。私もそれまでにかっこいい大人になる。それで、いつか真咲をひざまずかせるよ」

「なんか、それ意味違くない?」と真咲は一瞬顔をしかめた。

 それから私たちは、大きな声を上げて笑った。

 その頃の私たちにとって、20年後は想像を絶するほど遠い未来だった。その20年間が自分たちにとって、どういう意味を持つのか見当もつかなかった。私たちがいた時点と20年後のつながりは線ではなく、点としてしか見えていなかったのかもしれない。

 私たちは、将来ふたりで一緒に幸せになることは、迷いも疑いようもない簡単なことなのだと心から信じていた。

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