Chapter 8

 真咲も私も大嫌いだった夏休みが、たった一度だけ至福の夏に一変したことがあった。私が高校2年、真咲が高校1年になる直前の夏休みだった。

 その夏も6月一杯で学校年度が終わると、私たちはそれぞれ親と日本へ一時帰国することになっていた。私が叔母の家がある仙台で、真咲が母親の実家の京都だった。遠距離での連絡を嫌う真咲とは、この季節は毎年1ヶ月以上も音信不通になった。真咲がいない夏は、暑く、長く、苦しく、私が1年で最も嫌いな季節だった。

 私と母と弟は7月2日にブリュッセルを離れ日本へ帰国した。日本の学校はまだ夏休みに入っていないため、予備校で夏期講習が始まるまでには時間があり、私は毎日苦痛なほど暇を持て余していた。

 日本でようやく2週間が過ぎた7月14日のお昼前に何気なくメールをチェックすると、驚いたことに真咲からメールが届いていた。相変わらず真咲らしい短く簡潔な内容だった。

 <話がある。電話番号と、かけていい時間を教えて>

 着信時間を見ると40分前に送られてきたものだった。私の携帯電話は日本で通話ができないため、慌てて叔母の家の電話番号と、今日はいつでも電話して大丈夫、と返信をした。叔母はひとり暮らしで、平日の日中は仕事のためいつも留守だった。

 メールを送信してからおよそ20分後に電話が鳴りだし、私は玄関の近くにある受話器まで走った。

「はい……」

 私はおずおずと普段は取ることのない叔母の家の電話に出た。

「あの、和泉と申しますが……」

 久しぶりに真咲の声を聞いて胸が熱くなった。

「真咲!」と思ったより大きな声が出て自分でも驚いた。

「可奈。久しぶり」

 真咲の嬉しそうな声が受話器から伝わってきた。

「元気?」と私は明るい声で尋ねた。

「うん、一応。そっちは?」と真咲は答えた。

「まぁ、一応」と私が言い、ふたりで笑った。

 私は「真咲がいなくて、寂しいよ」と本音を漏らした。

「ねぇ可奈、17日から2泊で東京に来れない?」と真咲は唐突な質問をした。

「東京?!」と私は驚きながらも、頭の中で東京への行き方を検索し始めていた。

「お母さんが東京で泊まる予定だったホテルを、急用が入ったとかで、キャンセルしなきゃならないんだって。それで、もし可奈が来れるなら、俺たちでそのホテルを使っていいって言ってるんだけど」

 真咲に会えるかもしれないと、受話器を持つ私の左手に力がこもった。

「ウソ?!ほんと?!ちょっと待って、今お母さんに聞いてみる」

「可奈、ちょっと待った!おばさんには、ウチの母親も一緒だって言ったほうがいい」と真咲は鋭い声で浮足立つ私を制した。

 私はすぐに真咲が示唆するところを察した。

「でもそう言って、もしお母さんが真咲のお母さんにお礼したいとか言い出したらどうしよう?」

「それは問題ないよ。俺の方から母親には説明しとくから、話を合わせてくれると思う。ホテル代は親が出してくれるから、必要なのは新幹線代とお小遣いくらいかな」

 真咲は落ち着いた声で話していた。恐らく私に連絡をする前にすでに計画を練っていたのだろう。

「うん、わかった。それは大丈夫。ねぇ、真咲。私たち日本で会うの初めてだよ。なんかドキドキしてきたよ」と私は声を弾ませた。

「可奈、まだ最後の関門を抜けてないよ。ちゃんとうまくおばさんを説得しないと」と真咲は不安そうな声で言った。

「うん、わかってる。ちょっと待ってて。今、話してくるから。真咲、このまま待てる?」と私が聞くと、「待ってるから、がんばれよ」と真咲が言った。

 私は電話を保留にして受話器を手に持ったまま、キッチンでお昼ご飯の準備をしていた母親に手短に説明をした。真咲の母親の予定が急に変更になったが、2泊分の東京のホテルをキャンセルできないから、おばさんが真咲と私の3人で東京観光をしようと誘ってくれている、と。

 母は少し顔をしかめ、料理する手を休めずに言った。

「そんな2泊もだなんて、ご迷惑じゃないのかしら……」

「真咲のお母さんが、せっかく誘ってくれてるんだから」と、私は母が難癖をつけるのではないかと不安になった。「なんか、私の返事を急いで知りたいみたいなんだけど……行ってもいいかな?」と私は母を急かし率直に質問した。

 母は、仕方ない、というように小さなため息をもらし「ちゃんとお礼をしてね。いつもお世話になってばかりなんだから」と言った。

 私は心の中で、やった!と叫んだ。

「わかった!伝えておく。ありがと、お母さん」と母の気が変わらない内に急いでキッチンから出た。

「もしもし、真咲?」と電話の保留を解除した。

「どうだった?」と真咲は不安げに聞いた。

「大丈夫だったよ!」と私は小さな声で受話器に向かって叫んだ。

「Yes!じゃ、17日に東京駅で11時に待ち合わせしよう」と真咲は待ち合わせ場所を指定して、駅構内の場所を細かく説明した。

「わかった、大丈夫。迷わないで行けると思う。真咲って、東京駅に詳しいんだね」と私は意外に思って言った。

「だって、俺、東京に住んでたし。新幹線、よく乗ってたから」

「そっか、そうだよね。私さ、電話は使えないけど、メールならいつでもチェックできるから。何かあったらメールして」

「わかった。気をつけておいでね」

「うん、真咲もね。すごい楽しみにしてる」

「俺も。Je t’aime. Il me tarde de te revoir. (愛してるよ。可奈に会うのが待ちきれないよ)」と真咲は嬉しそうな声で言った。

 私は「Je t’aime, moi aussi. Tu me manques énormément. (私も愛してるよ。早く会いたい)」と答え「じゃ、17日に東京で、ね」と言い、真咲と日本で初めてした会話を終えた。




 約束の17日、私は東京駅に10時35分に到着した。あらかじめ聞いていた真咲の指示通りに歩くと、すぐに待ち合わせの場所を見つけられた。ほかに使えそうなバッグを持ち合わせていなかったため、叔母から借りたグレーの小型のスーツケースに荷物を入れてきた。待ち合わせには時間があったので、私は辺りを見渡し座る場所を探していたが、イスやベンチはパソコンや電話を真剣な面持ちで操作するスーツを着込んだ人たちに占領されていた。

「可奈!」

 私の名前を呼ぶ声の方向に振り向くと、真咲が黒いバッグを肩から斜めにかけ、待合スペースのイスから立ち上がるところだった。黒の半袖のポロシャツに白いクロップドパンツとヴァンズのグレーのスニーカーを履いていた。

 私は紺色のカーゴパンツに白いノースリーブのブラウスを着て、歩きやすい黄色のフラットサンダルを履いていた。

 真咲が足早に私に近づき抱きしめた。

「真咲、会いたかった……」私も真咲の胸に抱きついた。

 私たちは一度見つめ合ってから唇を合わせた。少し舌を絡ませてから、真咲はすぐに唇を離したので、どうしたの?と私が彼を見上げると、私を抱きしめて耳元でフランス語で囁いた。

「今、ここの周りのスーツのおじさんたちがみんな俺たちのこと、すごい見てるよ」

 私は真咲の肩越しに恐る恐る辺りに目を向けると、彼の言葉通り周囲の人たちが揃って私たちをチラチラと観察していた。

 私もフランス語で「最悪だね……私たちってもう日本人失格かも」と言い、ふたりで声をあげて笑った。

 東京駅の外に出ると真咲がタクシーを捕まえ、運転手にホテル名を告げた。運転手が私のスーツケースをトランクに入れている間に、私たちはタクシーに乗り込んだ。

 先ほどの流れのまま、私たちはフランス語で会話をしていた。

「まだホテルの部屋には入れないと思うけど、とりあえずチェックインだけして、荷物置いてからどっか行こう。可奈、今日はどこか行きたいところがある?」

 真咲は優しい笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。

 私は満面の笑みを浮かべて「水族館に行きたい。それから買い物……がいいかな。あとお台場に行って、クルーズに乗りたい。ゲームセンターとかでも遊びたいな。あ、そうそう、観覧車にも乗らなきゃ」と思いつくものを手当たり次第に提案した。

 真咲は私の返事を聞きながら徐々に表情を曇らせ「ねぇ、可奈。俺、ほんとは可奈とふたりでいられるならどこでもいんだ。っていうか、どこに行かなくてもいいんだけど。そんなにいろんなところに行ってたらふたりだけでいる時間がなくなっちゃうよ……」と不満な表情を隠すためかタクシーの外に視線を移した。

「だって、真咲と初めての東京だよ!日本だよ!色々楽しみたいよぉ」と真咲のポロシャツの裾を引っ張った。

 それでも尚、彼は外を見続けていたので「わかった、じゃ、こうしよう。今日は水族館に行って、時間があったら買い物しよ。それで、門限は7時」と私は打開策を提示した。

 真咲はようやく私に向き直ると「6時」と拗ねたように言った。

 私は「うん、わかった。門限は6時」とわざとらしく大きくうなずくと、真咲はようやく機嫌を直し無邪気に微笑んだ。




 東京湾沿いにあるホテルに着くと、真咲はレセプションでチェックインをして荷物を預けた。時間が早く部屋の準備ができていないので、夕方に戻った時にカギを渡されることになった。まだお昼前だったので、私たちはまず電車で水族館に向かうことにした。

 夏休み前の平日昼間の水族館はひっそりとしていた。たまにすれ違うのは、ベビーカーを押しながら歩く母親たちと、小さな子どもたちだけだった。奇妙な配色の魚や滑稽な形の魚に囲まれ薄暗い中を真咲と話しながら歩いていると、どこの国にいるのかわからなくなった。次のイルカショーまで時間があったので、私たちはもう一度ペンギンを見に戻ることにした。

 不器用に歩き鮮やかに泳ぐペンギンを、真咲とふたりで飽きずに眺めていた。

 私が「ペンギンはどうして、水族館と動物園の両方にいるんだろうね」とふと呟いた。

 真咲は少し考えて「ペンギンは、ほんとはもっと違う形に進化したいんだけど、今その途中だから、分類不可、なんじゃないの?」と答えた。

 私が「でもどう見ても、鳥、だよね?」と言うと、「だな。飛べない鳥、だ」と真咲は私に同意した。

「あんなに颯爽と泳げるのに、どうして不格好に歩いて生きていかなきゃいけないんだろう。なんか切ないね……」と私はチョコチョコと危なっかしそうに歩くペンギンを眺め続けた。

「やりたいことだけをするだけじゃ、生きていけないってことなのかな。ディレンマ、だな」

 真咲はひとり言のように無表情に呟いた。

「でも、あのかわいい顔がその苦悩を相殺しちゃうね」と私は思わず笑顔になって真咲を見た。

 私はペンギンに見入っている真咲の横顔を眺めた。何の気なしに焦点をずらし背景に目をやると、真咲に向けられる周りの人たちからの視線が気になった。

 真咲は180センチ近い身長で、おとなびた整った顔に、ガラスの瞳を持つ15歳の少年だった。

 急に私の心がざわついた。

 真咲は私の視線に気がつくと、そのまま身体をかがめて私にキスをした。私は目を開けたまま、閉じられたまぶたから伸びる彼の長いまつ毛を見つめ続けた。

 彼は私から唇を離し「イルカ、見に行こう」と私の右手を取り歩き出した。

 イルカたちは魚を食べながら、人間の指示に従ってプールの中を窮屈そうに、何度も見事なジャンプをした。本来なら壁も人間も電気もない、地上よりも広い海を泳ぐイルカが、東京湾の近くの高層ビルの中で、高々と空中に舞っているのがとても奇異だった。いつか真咲と一緒に壁のない場所で、この優美な生き物が泳いでいる姿を見たいな、と思った。

 一通りゆっくりとまわった水族館を出てから、近くにあったフードコートでお昼を食べることにした。私はお好み焼きを、真咲は冷たいうどんを食べた。食後にいったん外に出て駅の近くのカフェに入り、ふたりともアイスコーヒーを注文してミルクを入れて飲んだ。久しぶりに日本で飲んだ暑い日のアイスコーヒーは、癖になりそうなほどおいしかった。

「今3時ちょっと過ぎだけど、これからどうする?可奈、どこ行きたい?」

 真咲と歩く自分の国は、私が知っている日本とは少し違って見えた。

 英語を話す人がいるところでは、どこに行っても真咲は英語で話しかけられた。ホテルでは何の疑問も持たれずに英語で案内された。レストランやカフェでは、英語のメニューを渡されたり、片言の英語で注文を聞かれた。真咲が日本語で返すと、相手は意表をつかれた面持ちになった。

 その上、水族館でひとたび気になった周囲からの真咲への視線は、外を歩いていても、建物の中でも、お店に入っても、どこにいても気になり始めた。年齢を問わず真咲を見る女の人の視線に、私は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。

 それは私が初めて自分の国で味わった奇妙な体験だった。日本が突如として馴染みのない国になり、ベルギーでの生活では感じたことがなった居心地の悪さとなった。

 寡黙になっていた私を不審に思ってか、「可奈、どうした?疲れた?」と真咲は心配そうに聞いた。

「……ううん、違うの。なんか……真咲といると、日本が自分の国じゃないみたいだなって」

「なんで?」と真咲は、心外だ、という表情をした。

「だって、みんな英語で話しかけてくるし。日本語で答えると変な顔するし。それに……」私は一瞬言いよどんで「真咲のこと、みんな見てる……女の人が、みんな」と小さな声で補足した。

 真咲は当惑しているように見えた。

「じゃ、フランス語で話すのやめる?」

 私は首を横に振り「それでも何も変わらないよ。言葉のせいじゃないもん」とぶっきら棒に言った。

「親と一緒の時以外は、昔から俺にはいつもこんな感じだけど」

 真咲は私の反応が腑に落ちない様子だった。

「なんか、真咲と一緒の日本は楽しいけど、でも、それ以上になんていうか……落ち着かないかも。私、真咲と日本では暮らせないかもしれない」

 真咲は目を細めて私の表情を観察しながら聞いた。

「なんで?ベルギーだと違うの?」

 私は視線を自分のアイスコーヒーに落とし「なんだろう……日本の方が、誘惑が多い気がする」と拗ねたような口調になった。

 真咲は安堵の表情を浮かべ、笑いながら「ヤキモチ、だ」と嬉しそうに言った。

「そうだよ。なんかすごくイヤな気持ち。真咲を疑いたくなるような」と私は開き直った。

「でも、俺が見てるのは可奈だけだから」

「知ってるよ」と私は言った。

「じゃ、いいじゃん」と真咲はテーブルから身を乗り出して私にキスをした。

 私はおとなしくキスを受けてから「残念ながら、私はそんなに単純じゃないから」と冷たく言い放った。

「知ってるよ」と彼は満足気に答えた。

 私は真咲から視線を外してガラスの壁の向こう側を歩く人々を見ていたら、突然しばらく前に同じクラスのフランス人の友だちに勧められて観た映画を思い出した。

「あのね、この前エリズに勧められて、昔のアメリカ映画見たの。東京で撮影されたやつ」

 私はその映画の内容を簡単に掻い摘んで真咲に教えた。

 中年のアメリカ人俳優がコマーシャル撮影のために来日中に、結婚したての若いアメリカ人女性と滞在中のホテルで出会う。俳優は馴染みのない日本の文化と言葉の中で戸惑い、若妻は仕事で忙しい夫と離れ見知らぬ国で孤独を感じている。毎日ふたりはホテルで顔を合わせ話をする内に、段々とある種のつながりを感じるようになり、悩みを打ち明ける仲になる。ある夜俳優がホテルのバーで出会った女性と一夜を過ごし、翌朝若妻にそれを目撃される。それが原因でふたりの関係はぎこちなくなるが、俳優が帰国前にふたりはキスをして別れる、という内容だった。

「エリズはこの映画をすごいよくできてるって褒めてたんだけど、私には全然わからなかった。っていうか、好きじゃなかった。男の人が好きでもない女の人とセックスするのが……すごい嫌だったの。胸が苦しくなった。なのに、心のどこかで、これは大人の話なんだって思う自分がいて……もっとイヤな気持ちになった」

 私はアイスコーヒーのグラスについている水滴を指でなぞった。

「私も大人になったら、いつかこれが理解できるようになるのかもって……」

 真咲はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、私の話を聞いていた。

「可奈は、男が好きじゃない女とって言うけどさ、その女だって男のこと、好きじゃなくてするんでしょ?」と真咲は顔を上げ私を見た。

「そうだけど。私には男の方が能動的に思える。男がそういうのを求めるから、みたいな」

「……そうかな。俺にはなんていうか……受動的にそういうのを簡単に受け入れる方が汚く思えるけど」

 それから私たちは沈黙した。

「私たちもいつか、そういう大人の気持ちがわかるようになるのかな?」と私が聞くと、「どうなんだろうね」と真咲は無表情に答えた。

「新宿に行こうか?」と私が言うと「なんで新宿なの?」と真咲が聞き返した。

「その映画の中で、最後に主人公たちが新宿駅の近くでキスしたの。なんか、思い出したら、その場所を見てみたくなった。ちょうど、私も異国で自分を見失ってる気分だし」

「母国で、でしょ?」と真咲が私を訂正した。

 私たちは電車で新宿まで移動した。新宿に着くとまずは買い物をすることにした。限りなく並ぶお店で、果てしなく陳列されている服を真咲と見ているだけで楽しかった。私は白いレースのトップスと、真咲はネイビーブルーの麻のシャツを買った。それでも1時間半もすると、私たちは疲れてきてホテルに戻ることにした。

 東口方面にいた私たちは南口に向かって歩いた。午後5時を過ぎ、制服を着た学生と帰宅する社会人で、道はどこも人で溢れかえっていた。私たちはできるだけ大通りを避けて歩いた。

「なんか頭が痛くなってきたよ」と私は駅にたどり着く前に音をあげた。

 東京の人口は、ベルギーの総人口よりも多い。普段、人混みに慣れていない私たちは歩き方もぎこちなく、あまりの人の多さに圧倒されていた。

「可奈、あと少しだからがんばってよ。ほら、あそこを右に曲がって階段を昇ればすぐ改札だから」と同じように疲れているはずの真咲が、私の右手を引いて歩いた。

 エスカレーターで昇ると、早送り映像のように人が流れる改札口が目に入った。私は愕然として足を止めた。突然立ち止まった私のせいで、後ろを歩いていた人が私にぶつかった。

 真咲が「すいません」と日本語で謝り、「可奈、大丈夫?ちょっとあっちに避けよう」と言って、階段の隅の人通りの少ない場所に私を連れて行った。

 私は隠れ場所を探すように真咲の胸にしがみついた。真咲は私をそっと抱きしめて、階段の上から、途切れなく人が行き交う下の歩道を眺めていた。

 真咲に抱かれ横目で歩道を見ながら、私もいつかはこの中を流れに沿って歩く人間になるのだろうか、と考えた。私自身のその姿を想像するのは、さほど難しくはなかった。ただ、どうしてもその隣を歩く真咲を想像することはできなかった。

 真咲が私の耳元で「イルカは、子どもを作るためじゃなくてもセックスするんだって」と言った。水中で泳ぎながらセックスをするのはどういう気分なんだろう、とイルカの気持ちを想像したくなった。

「私たちと同じだね」と私は答えた。

「早く可奈の中に入りたい」と真咲は私を抱きしめる腕に力をいれた。

 ごった返す人混みの中、私たちは長いキスをした。目を閉じて何度も舌を絡めて真咲だけを感じていると、私たちはどこの世界にも属していない気がして、温かい気持ちになった。

 そういえば、あの映画の中でふたりがキスしてたのはこの辺りだな、と思った。




 結局、私たちは電車に乗ることを諦め、タクシーでホテルに戻った。自分たちで決めた門限を過ぎていたため、夕食はホテルの近くのコンビニで買って部屋で食べることにした。真咲とふたりで行く日本のコンビニは、パリのテーマパークに匹敵するくらい楽しいものだった。普段私たちがベルギーで食べられないものを、目につくものから買い物かごに入れた。その結果、大きな買い物袋で3つ分の買い物をしてしまった。ホテルのレセプションで部屋の鍵を受け取るのは真咲に任せ、私はエレベーターホールで買い物袋を両手に抱えて待っていた。

 真咲はカードキーを手に戻ってくると「24階だって。行こう」と私の手から2つ袋を取り、エレベーターに乗った。

「いつも思うけどさ、真咲ってすごいよね。私、こんな高級ホテルでチェックインなんて、緊張してできないよ」

 真咲は階数表示を見ながら「俺も緊張するよ。未成年とか言われて、断られたらどうしようとか。だから、英語で話してきた」と得意げに笑い、「ま、親が前もって電話しておいてくれてたから大丈夫なんだけどね」と本音を言った。

 エレベーターを降り長い廊下に敷かれた音を吸収するカーペットの上を歩き、カードキーでアンロックし部屋のドアを開け室内を見た途端、私はあまりの豪華さに目を見張った。

 真咲のあとに続き室内に足を踏み入れながら「すごい部屋……これって1泊いくらするの?」とあ然としながら聞いた。

「俺も正確には知らないけど、普通に泊まったら10万以上とかなのかも」

 L字にはめられた窓からは東京湾が一望でき、レインボーブリッジが壁画のように窓に飾り立てられていた。室内はベージュを基調とし茶色のアクセントカラーでデザインされ、窓の前にはカリフォルニアキングサイズのベッドが置かれていた。

「真咲……どうしよう。ほんとに真咲のお母さん、この部屋を私たちで使っていいって言ったの?」

 私は不安にかられ、思わず彼の腕を掴んだ。

「そうじゃなきゃこんなホテル、俺だって来れないよ」と真咲は苦笑した。

 気後れしている私をよそに、彼はバスルームをのぞいてから「可奈、一緒にお風呂入ろう。タブからレインボーブリッジが見えるよ」とはしゃいで言った。

 入り口のドアの隣にあるクローゼットの中には、すでに私のスーツケースと真咲のバッグが運び込まれていた。私たちはバスタブにお湯を張っている間に、窓際に置かれているコーヒーテーブルで、買ってきたおにぎりやサンドイッチ、やきそばを食べた。たくさん買い込んできたデザートやスナック菓子に手をつける前にふたりともお腹がいっぱいになってしまった。

 バスタブにお湯が溜まると、コンビニで買ってきた温泉シリーズの入浴剤を入れた。真咲は熱いお湯が苦手だったので、乳白色の生温いお湯にふたりで浸かった。真咲が両足を伸ばして、彼の脚の間に座る私を包み込んだ。

 これが夢見心地っていうんだ。

 東京湾の夜景を見ながら、こうして私たちが一緒にお風呂に浸かるのは、間違いなく分不相応なぜいたくだと思った。

「ねぇ、真咲。どうして真咲のお母さんは、私にこんなによくしてくれるんだろう。だって、真咲はいつもこんなに甘やかされてるわけじゃないでしょ?でも、私と一緒だと真咲のお母さんて……なんていうか、すごい寛大だよね?」と今までにも何度か感じたことがある疑問を口にした。

 真咲は気持ちよさそうにバスタブに頭をのせてまぶたを閉じたまま話した。

「前にも話したけど、俺、小さい時に何回か引っ越してるんだ。4歳までは愛知県に住んでた、ほとんど覚えてないけどね。それからロンドンに行って、そのあと東京に来て学校に通い始めた。小学1、2年生の時に毎日遊んでた大親友がいてさ。俺は人見知りだし、兄弟がいないからその親友に……今思えば依存してたんだろうな。あいつにとって一番は俺だ、みたいな。それが、3年生になって俺が転校してそいつに会えなくなったんだ。新しい学校にはなかなか馴染めなくて友だちもできなかったし、極端に無口になったんだ。そんな俺を心配して、お母さんが前の学校の親友に連絡して、1回だけ夏休みにその子と遊んだんだよ。そしたら、たった4ヶ月会ってないだけで、なんか別世界に住んでるの?ってくらい、話が合わなくなっててさ。まぁ、驚いた。結構、ショックだった。そいつがってわけじゃなくて、でも何かに裏切られた気がしたっていうかさ。その時子どもながらに、大切なものを諦めた気がする。もう傷つかないために……みたいな理由で。けど、さすがに成長するにつれて、それなりに友だちつくって普通に学校生活をやり過ごしてきたんだけどさ。でも心をさらけ出せる友だちっていうのはいなかったんだ」

 私は真咲の胸に右耳を当てながら彼の話を聞いていた。

「私、真咲が友だちといるところって、あまり見たことがないけど。日本人学校でも今の学校でも、真咲を校内で見かけた時は楽しそうにしてたから……そんなことがあったなんて全然知らなかった」

「だから何だと思う。お母さんが可奈のことを大切にしたいのは。たぶん、お母さんは俺が毎日可奈と会って、家に連れて来て、完璧に信用してるっていうの見て、安心してるんだと思う……今まで俺がそういう友だちを作れなかったからさ。ま、厳密には最初から可奈は、俺の友だちじゃないけど」と言うと真咲は私の首にキスをした。

 そして彼は、私をバスタブの角に座らせると、私の脚を大きく開き私の全身を細部まで観察して、触って、口づけた。




 1時間近くお風呂に浸かっていたので、お風呂から出た時には私たちの両手足はふやけてしわくちゃになっていた。

 私が化粧水で肌を整え髪を乾かしてからバスルームを出ると、真咲はデザートを食べ終え、バスローブを着てベッドの上に寝そべり雑誌を読んでいた。今日、新宿で買った車の雑誌だった。

 私も真咲の隣にうつ伏せに寝そべった。私にとっては全く興味の対象とならない車のエンジンらしきものの写真を真剣に見つめている彼をとても愛しく感じた。

 私は腕に頭をのせて「真咲は私のたくさんの“初めて”を奪っていくね……初めてのデート、キス、セックス、お風呂、お風呂でセックス、初めての愛……」と言って真咲の横顔を見つめた。

 真咲は雑誌を横に置き私に向き直った。

「それは可奈も同じだよ。可奈は俺の全部の“初めて”だ」

 私は首を傾げて疑わしそうに「初恋も?」と尋ねた。

 真咲は少し考えてから「初恋は……日本で好きだと思ってた子はいたけど。結局、可奈に会ってから、女の子をほんとに好きになるってこういう気持ちかってわかったから……可奈は、初恋っていうより、初愛だね」

「初キスは?」

「舌を入れてちゃんとキスしたのは可奈が初めて」

「え?!真咲、私との前にも、キスしたことがあったの?マセガキだったんだ……」と私はかなりショックを受けた。

 真咲は私の機嫌を取るかのように、首や肩や胸にキスをして、そして私の口に舌を入れながら話した。

「こういうのは全部、可奈が初めてで、可奈としかしたことがない。っていうか、可奈としかしたくない」

 私は真咲の優しいキスを受けながら、彼の身体中の形を確かめるように撫でていると、真咲の息づかいが少しずつ荒くなっていくのが感じ取れた。私は彼のペニスを手で包み込みながら彼のキスを受け続けた。それから真咲が私の耳元で囁いた。

「でも俺、本当は、可奈の“最後”の方がいいな……」

 真咲の指が私の身体の中に快感を走らせる中、「な……んで……?」と私は懸命に思考をかき集め言葉にして聞いた。

「なんか“初めて”っていうと、ほかを知らないでほんとの意味を知らないまま選ぶ、みたいなところがあるけど、“最後”っていうと厳選されて選ばれた、って感じがする」

 私は真咲が私の奥深くを指で触る刺激に限界まで耐えてから「私、真咲の“最後”になりたい……」と絶頂に達する前に声を絞り出した。

 それから真咲は凍りつくほど透き通った冷たい眼光を私の目に突き刺し、「じゃ、俺は可奈の全部の“初めて”と“最後”を奪うから。覚悟しといて」と言って私の中に入ってきて、再び私を快楽の渦に突き落とした。




 私たちは翌日、ルームサービスで遅い朝食を取ってから、お昼過ぎにお台場へ出かけ夕方まで遊んだ。ゲームセンターに行ったり観覧車に乗ったりしていると、私たちも日本の高校生になった気分だった。夕方にはホテルに戻り翌日のお昼まで、お互いが残りの夏休みを乗り切ることができるように、ふたりの時間を大切に過ごした。

 東京駅で別れる時には胸が張り裂けそうなほど辛かったが、それでも真咲と一緒に過ごした2日間は、人生で一番甘美な日本での時間だった。

 あれから気の遠くなるほどの時間が過ぎた今でも、あの東京での2日間は私の人生で決して忘れることのできない最も幸福な夏休みだ。

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