Chapter 4

 インターナショナルスクールでの最初の一年は瞬く間に過ぎ去った。私は中学1年13歳で、真咲は小学6年12歳だった。私は毎日を真咲と会話練習や勉強をしながら過ごした。学校生活も充実し、私たちはふたりともすこぶるよい成績を保っていた。

 6月の学年末テストが終わると7月から夏休みだった。夏休みは日本へ戻り、母と弟と一緒に母の姉の家で過ごすことになっていた。ベルギーに来る前、私たち家族は横浜に住んでいたのだが、転勤後は住んでいた家を人に貸していたため、一時帰国の滞在場所は叔母の家がある仙台だった。

 真咲も夏休み中は母親と日本へ戻る予定だった。幼少の頃から真咲は幾度か引越しをしたが、こっちに来る前は東京に住んでいた。しかし私の家と同様の理由で、真咲の一時帰国先は母親の実家がある京都だった。

 6月の最終登校日の日にも、真咲と私はいつも通り一緒に下校をした。久しぶりに日本へ戻れることは嬉しかったが、知り合いのいない場所でひと夏を過ごすのが憂うつだと、私たちは嘆き合った。

 その頃は勉強など何か特定の目的がないと、私たちがふたりで一緒にいる理由が見当たらず、その日は自然とそれぞれの家に帰宅する流れになった。学校から直接帰宅する時には、真咲が遠回りをして、私の最寄りの停留所で下車して私を送り届けた後に、彼がひとりで歩いて帰宅する習慣になっていた。

 停留所で一緒にトラムを降り私の家に向かって歩き始めた途端、真咲が私の一歩先に立って、彼の左手が私の右手を取った。私の頭の中は真っ白になり、心臓が胸全体に肥大したかのような大きな音を立てていた。真咲は私の手を握ったまま私を見ることなく、前だけを向いて無言で歩き続けた。

 私のアパートまでの半分の道のりを過ぎると、真咲はようやく私の方に振り向いた。

「可奈、ちょっと寄り道していい?あっちに公園あるよね」と私の家とは違う方向を指差した。

 私は、うん、と小さくうなずき、真咲の手を握る右手に少し力を入れた。

 公園は小さく、ブランコとベンチが2つ、その周りを囲う1メートルほどの高さの柵の向こうには、滑り台とベンチが3つ、その横にボール遊びができる程度のスペースがあるだけだった。ベンチに座った母親に見守られ、小さな子どもがふたり滑り台で遊んでいた。

 私たちはなんとなくベンチではなく、ブランコに座ることにした。私の手から真咲の手が離れると少し寂しくなった。

「可奈はいつこっちに戻ってくるの?」と隣のブランコに座る真咲が聞いた。

「8月20日にこっちへ着く予定。真咲は?」

「俺は17日。あのさ、可奈がこっちに戻ってきたら、どっか一緒に遊びに行こうか?」

 新学期が始まるまで真咲と会えないだろうと思っていたので、彼の誘いに私の心が躍り「うん!行こう!すごい楽しみ」と満面の笑みを浮かべた。

「何日にする?次、いつ連絡できるかわからないから、決めておこう」

 私は「じゃ、21日」と即答した。

 真咲は私の返事を聞いて「わかった、21日に会おう」と満足そうに微笑んだ。

「場所は……考えておく。もし可奈が行きたいところがあるなら、メールしてくれればいいし」

「日本でも、メールくらいはできるよね?」と私は真咲に尋ねた。

「うん、いつもメールはチェックしてるから」

「なんか、自分たちの国に帰るのに、真咲と会えなくなるのって変な感じ……」

「そうだな」と真咲は苦笑した。

 しばらくの沈黙の後で「荷造りしなきゃだね」と私が言うと「そろそろ行くか」と真咲がブランコから立ち上がった。

 私も重い腰を上げゆっくりとブランコから立ち上がると、真咲が私の正面に立ち私の目を見据えた。その日の空を反射しているかのような、いつもより暗いグレーの瞳が、私に何かを訴えているようだったが、それが何なのかは私にはわからなかった。彼はそこからもう一歩私に近づくと、私の左頬にキスをして私の肩を両手で抱き、ぎこちなく抱きしめた。私は数秒間うろたえてから、そっと両手を彼の背中に置いた。

「 Tu vas me manquer. (寂しくなるな)」と真咲が呟いたので、私も「Toi aussi.(寂しくなる)」と答えた。

 5分くらいそのままの体勢でいたが、どちらからともなく離れ、再び手をつないで私の家へ向かって歩き出した。

 ベルギーでは親しいもの同士が挨拶するときに、頬に1度キスをする慣習がある。

 その日に真咲が私と手をつないだこと、頬にキスしたこと、そして抱きしめたことは、久しく会えなくなる友人との単なる挨拶だったのか、それとも、私と同種の感情からきたものなのか、夏の間中いくら考えてもわからなかった。




 久しぶりに肌で感じる日本の夏の高い湿度と強い日差しは、私に呼吸をすることすらもうっとうしく思わせた。滞在先の仙台には知り合いは誰もなく、横浜の友だちと会う機会はなかった。真咲のことが頭から離れず、久しぶりの帰国だというのに何をしても楽しさを感じなかった。大事な忘れ物をしてきたような気持ちが、心のどこかに常に引っかかっている感じがした。

 日本に到着してから最初の2週間は、こまめに真咲にメールをして近況を知らせていたが、真咲からは2回、短い1文完結の<元気です>と<暑くて暇です>という返信が届いただけだった。返信を無駄に待つのは、色々な雑念を抱くだけで虚しくなり、3週目の終わりにはメールを送るのをやめた。

 何をするのも億劫だったが、何もしないと胸が圧迫される気がしたので、私は塾に通いひたすら数学と理科の勉強に励んだ。

 息苦しかった長い夏にやっと終わりが見えだした8月15日の夕方に、真咲からメールが届いた。私は、もう真咲は私のことを考えてもいないのだろうと思っていたので、メールの差出人を見て驚いた。しかし彼のメールは相変わらず悲しいほど短いものだった。

 <21日、学校の前のいつもの公園で13時に待ってる>

 それでもその短い一文は、私の長く、だるく、沈うつしていた夏を一掃するのに充分だった。もしかすると、真咲も私と同じような気持ちで夏を過ごしていたのかもしれない、と期待で胸が高鳴った。

 早く真咲に会いたいな。

 そう思うと、ひどく胸が苦しくなった。一秒でも早く時間が過ぎ去ってほしかった。




 真咲との約束の前日にブリュッセル空港に到着し、午後5時前には自宅に着いた。色々と買い込んできた重いスーツケースを片付け、シャワーを浴び夕食を食べてから、10時にはベッドに入った。久しぶりの自分のベッドは、私を温かく迎えてくれているようで、すぐにぐっすりと寝入ったが、午前4時に目が覚めてそれ以降は眠れなかった。

 その日に着る服はもう決めていた。日本を発つ3日前に、真咲に会うことを空想しながら買ったノースリーブのワンピースだ。白地に淡い黄色とパープルの花がプリントされていた。日本よりも10℃以上気温が低いので、ドレスダウンの意味合いも兼ね、薄いグレーのフーディーを羽織っていくつもりだった。公園の中でも歩きやすいように、ベージュのフリップフロップを合わせることにしていた。

 身支度にたっぷりと時間をかけて、お昼には家を出た。公園まで30分とかからなかったが、そわそわと家で待つよりも、待ち合わせ場所で待つ方が気楽に思えた。

 空は爽やかに晴れ上がり、作りかけの綿あめのような薄い雲が浮いていた。空港の免税店で、生まれて初めて買った香水を、ほんの少しだけうなじにつけていた。ブルガリのフローラルの香りは、私をちょっと大人に見せてくれるような気がして、少し気恥ずかしかった。普段は洗って乾かすだけの髪も、今日はロールブラシを使いブローして、ほのかにピンクに色づくリップもつけた。

 トラムを降りてゆっくりと公園へ向かった。最後に来てから2ヶ月も経っていなかったが、日本に戻った時よりも、“帰ってきた”という気持ちが湧いてきた。

 公園に足を踏み入れ、どこで時間を潰そうかと園内を見渡すと、200メールほど離れた木陰のベンチに座っている真咲を見つけた。彼は携帯で何かを読んでいる様子だった。グレーのTシャツの上に白い麻のシャツを羽織っていた。紺色のひざ丈のパンツに白いスニーカーを履いていた。

 考えてみると、真咲と親しくなってから、こんなに長く離れていたのは初めてだった。私は彼に駆け寄って抱きつきたい衝動を抑えて、手を後ろに組みながら気づかれないようこっそりと近寄った。真咲は読み物に没頭していたらしく、私が彼の前に足を揃えて立つと、ハッとしたように顔を上げた。

 彼の涼し気な瞳が私を見つめた。久しぶりに見る真咲は以前にも増してきれいに見えた。

 あぁ、私はやっぱりこの人が好きなんだ。

 私の全身がそう脳に伝達していた。

「ただいま」と私は後ろに手を組んだまま、はにかんだ笑顔を浮かべた。

 真咲は何も言わずに立ち上がると、携帯をパンツのポケットに入れ私を抱きしめた。とても強い力で息がうまくできなくなった。

「可奈、会いたかった……」と真咲は悲痛な声で言った。

 私は彼の背中に手を回し、顔を真咲の首に押し付けて「私も会いたかった。寂しかったよ」と告げた。

 真咲は、肩から下に20センチくらいある長さの私の髪を右手で上から下まで撫でてから、体を離して私の目をまっすぐに見た。

「可奈、俺は可奈が好きだ。日本でずっと可奈のこと考えた」

 私は真咲の口から発せられた“好き”という言葉に胸が熱くなった。同時に、夏の間中、日本で抱えていた不安な気持ちを思い出し涙がこぼれた。

「私も……真咲が好きなの……」

 ずっと秘めていた想いを口にすると、自分の気持ちの重さを実感して鳥肌がたった。

 真咲は私の頬の涙を指で拭いてから、そっと唇に短いキスをして私の目を見た。それは私の了解を請うような表情に見え、私は目を閉じた。

 真咲の口は私の口の中にゆっくりと道を切り開き、彼の舌は探し物をするように私の口の中を動き回った。私の身体から何かを吸い取るかのように、何度も舌を絡めた。

 好きな人との触れ合いが、こんなにもお互いの気持ちを伝え合える手段なのだと、初めて知った。私たちはその時、間違いなく同じ想いを共有していた。

 長いキスをしている間、私たちは外界から隔離されたように思えた。この世界にふたりきりだった。

 真咲も私を想いながら夏を過ごしていたことを知り、嬉しかった。その反面、なぜ連絡をしてくれなかったのかと責めたい気持ちにもなった。そう真咲に伝えると、彼は言った。

「メールを書こうとしても、何を書いていいかわからないんだ。俺にとっては、遠くにいる可奈にメールをするのは、オランダ語のエッセイの課題を書くより難しいみたい。離れてること自体が辛いのに、連絡しようとすると可奈のことしか考えられなくなって……でも実際には会えないからもっと苦しくなるし……会えなくて辛くなると、変にイライラしたり、よくないことしか思い浮かばなくなるからイヤなんだ。だから俺は、次に可奈に会える時のことだけ考えてる」

 私が13歳、真咲が12歳の夏、私たちは恋人になった。その日から私たちは、お互いを好きという感情を隠す必要がなくなった。

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