Chapter 2
ベルギーの新学校年度である9月になり、私がインターナショナルスクールの中等部1年に通い始めて3日が過ぎた。
夏休みには日本に帰国することもなく、平日は毎日家庭教師が家を訪れた。両親が懸念して、日本語を使わないインターナショナルスクールでの新学期が始まる前に、私に徹底的に英語とフランス語を叩き込みたかったようだ。おかげで、英語の理解度はずいぶんと高まり、読み書きはインターナショナルスクールでの中学1年の標準レベルに達していた。フランス語も基本的な動詞の活用や、時制、名詞の性などを覚え、だいぶ会話を聞き取ることができるようになった。しかし、相変わらずどちらの言葉も会話は苦手なままだった。書きながら考えればうまく文章を構築できるのだが、会話になるとどうしてもまごついてしまった。さんざん、ああでもない、こうでもないと時間をかけて悩んだあげく、ようやく口にできるのは、私が伝えたいことの4分の1程度の内容だった。そして最後には、もういいやと諦めてしまう。会話に関しては、夏休みの最終日になってもあまり上達が見られなかった。
新しい学校での最初の3日間は毎日授業が終わると、慣れない環境で脳が絞り出され、しびれているような感覚を覚えるほど疲労していた。3日目のその日も、目を閉じると眠気に負けてしまいそうな疲労感と、教科書とノートが目一杯詰められた重いバックパックを背負って帰途についた。私の状態とは対照的に、空には爽やかな青空が広がっていた。
まだクラスメイトともうまく話すことができずクラスに馴染めずにいるせいか、精神的にもかなりストレスが溜まっていた。学校で一日中誰とも口をきくことがなく、四六時中閉じっぱなしの口の中は、放課後になるとふやけているようだった。私はトボトボと生気を失った足取りでゆっくりと歩いていたため、もうほとんどの生徒は先に下校し、正門の前の下り坂にはほかの生徒の姿はなかった。私はぼんやりとイアフォンで音楽を聴きながら、トラムの停留所に向かっていたせいで、左方向から下り坂を猛スピードで降りてくる自転車に気がつかないまま、大通りを横断しようと飛び出してしまった。
キーっという甲高いブレーキの悲鳴が聞こえた。その後の数十秒間は何が起こったのかわからないまま、気がつくと私はコンクリートの地面にうつ伏せで倒れていた。倒れた時の衝撃で、地面に打ちつけられた胸と横腹に痛みを感じていたが、反射的に起き上がろうと両手を地面につくと、左手首に激痛が走った。私は立ち上がれずにそのまま地面に座り込んでしまった。顔を上げ右前方を見ると、タイヤが回転し続けている赤いマウンテンバイクが転がっていた。更にその数メートル横には、ヘルメットをかぶった痩せた男の人が倒れているのが目に入った。
どうしよう……!私、大変なことしちゃった……
私は自分の引き起こした事故を眼前に、愕然としたまま座り込んでいた。
「大丈夫?!」
近くから日本語で大きな声が聞こえ、自分と同じ学校の制服を着た男子生徒が私の横に駆け寄ってきて私の肩に手をかけた。
何も考えられないまま呆然とその人に視線を移すと、制服を着たマサキがいた。さらに私の頭が混乱した。
「あれ?どうしてここにいるの……?」と私が気の抜けた声を出した。
「そんなことは今どうでもいいからさ。大丈夫?どっか痛い?立てる?」
マサキは私の両腕をやさしく支え、立ち上がるのを手伝ってくれた。
立ち上がった私を、マサキは頭から足まで質屋が品定めするように点検した。
「左膝から血が出てるよ。ほかにどっか痛いところない?骨とか内臓とかは大丈夫なのかな?」
私は右手で恐る恐る胸やお腹を触ってみた。制服の白いポロシャツが黒く汚れていたが、どこにも痛みを感じなかった。ただ、左手首を動かそうとするとやはり痛みが走った。
「左手首が痛い」と私は呟いた。
「足は?歩ける?」とマサキが聞いた。
新しい靴を試すように、数歩進んでみたが左膝のスリ傷がヒリヒリする程度だった。
それを伝えると、マサキは私のバックパックを拾い上げ右肩にかけ、「とりあえず歩道に行こう」と私の背に左手をそっと添えてゆっくりと歩道に誘導した。
「ちょっとここで待ってて」と言い残すと、私と彼のふたつのバックパックを私の足元に置き、今度は自転車の運転者に向かって走り出した。
マサキが駆け寄った時には運転者は立ち上がったところで、数分のやり取りの後、ふたりで私の方へ歩いてきた。
私の足のケガと左腕を見せ、マサキは私の状態をフランス語で運転者に説明した。運転者は何度も繰り返し謝り救急車を呼ぶよう勧めたが、私はその必要はないと断った。すると、近くの医者に行くよう言われたが、それも必要ないと伝えた。彼は本当に大丈夫なのかと確認し、私が大丈夫だと答えると、通りの先にある薬局でケガの手当てに必要なものを買ってきてくれることになった。
マサキが「それなら、僕たちはあの公園で待っています」と道の反対側にある公園を指差し運転者に伝えた。
運転者は倒れていた自転車を起こし問題がないか確認してから、「すぐに戻ります」と自転車にまたがり薬局へ向かった。
マサキは自分のバックパックを背負い私のバッグを右肩にかけ、先ほどと同じように私の背中にそっと左手を添えて「公園まで歩けそう?」と私の顔をのぞき込んだ。
私は「うん、平気。あの……ありがとう」と小さな声で礼を言い、彼の隣をゆっくりと歩いた。
公園の入り口に一番近い石のベンチの前に来ると、マサキは私の右腕を掴んで座るのを手伝った。左膝を曲げるとスリ傷が痛んだ。私はベンチに座り、ふぅっと息を吐いてから言った。
「ごめんね……また助けてもらちゃった」
彼とはほとんど面識がないのに、迷惑ばかりかけて本当に申し訳なく思ったし、恥ずかしいのを通り越して自分が情けなかった。
マサキは「べつにいいよ。大したことじゃないし」と相変わらず無表情のままだった。
少し距離を空けて横に座るマサキの存在が私を安心させてくれていた。そしてふと、彼が隣にいる状況を奇妙に思った。
「っていうか、マサキ……と同じ学校だったんだね!驚いちゃった」と彼の横顔に話しかけた。
「俺は……カナ……を昨日の帰りに見かけた」
「そうなの?声かけてくれればよかったのに」
私とあまり話したくないのだろうかと不安になった。
私が彼の名前を記憶していたように、彼も私の名前を憶えていてくれたことに嬉しさを覚えた。ベルギーに来てから、最初から下の名前で呼び合うことにずいぶんと慣れた。特に今の学校ではほかの現地校と同じように、生徒がほかの生徒を苗字で呼ぶことはなかった。それでも、マサキと名前を呼び合ったことはどこか照れくさかった。彼に呼ばれる私の名前は、ほかの誰に呼ばれる時よりもかわいらしく響いた。
マサキは視線を私から外し、前に広がる芝生の広場を眺めながら「何話せばいいかわからなかったし」とひとり言のように呟いた。
そんなマサキの仕草を目にすると、私と話すのが嫌なわけではないのだと少し安堵を覚えた。
「さっき俺、トラム待ってたらさ、カナが歩いてくるのが見えたんだ。同じトラムに乗るのかなって思ってたんだよね。そしたらあの事故を目撃しちゃったんだ。すごいびっくりした。カナ、結構飛ばされてたから。自転車とぶつかったのがバックパックみたいだったから、まだよかったね」と私を見ると「ねぇ、家の人に連絡しなくていいの?」と心配している様子だった。
「私のお母さん、ここでは車を運転しないし、それにほんとにそこまで重症じゃないから大丈夫だよ。ちゃんと歩いて帰れる」と私はマサキの優しさが嬉しく、安心させるために笑顔を向けた。
「あ、あの人戻ってきた」と言うマサキの視線の先を追うと、赤い自転車が近づいてくるのが見えた。
マサキは右手を上げ、こっちだ、という合図を送った。
運転者は公園に入ると自転車から降り、数メートル手前にある木に自転車を立てかけ、私たちのいるところまで歩いてやって来た。左手に白いビニール袋を持っていた。
「傷の消毒液と塗り薬、ガーゼと包帯と、打撲用の塗り薬とサポーターを買ってきたんだけど、足りるかな?」
マサキが私のために通訳し「ほかに必要な物はある?」と私に確認をした。
「それで充分。自分で手当てできるし、もう平気だよ」とマサキに答え、運転者にも笑顔を向けて「大丈夫です。心配しないでください」とフランス語で言った。
運転者は、万が一何か問題があった場合のために連絡先を聞いてきた。私も私の両親も電話で込み入った会話ができるほどフランス語力がないので、躊躇しているとマサキが言った。
「俺の番号を教えておこうか?」
「いいの?」
「何か後で問題が起きたら困るし。俺は別にいいよ」と言い、運転者に彼の携帯番号を伝え、必要ならマサキに連絡をするように説明したようだった。
運転者はマサキに携帯番号を教え、もう一度私に詫びてから赤い自転車にまたがり去っていった。
マサキは運転者から受け取った袋から消毒液とカーゼを出して「しみるかもしれなけど、ちょっとがまんして」と言って、私の前にしゃがみ膝の手当を始めようとした。
私は慌てて「いいよ、いいよ。自分でできるから」と両手を広げながら差し止めようとした。
しかし彼はまるで私の声が届かなかったかのように、消毒液の入ったボトルを私の左膝に向け泡状の液を傷口にかけた。消毒液が傷口にしみて痛みで私の顔がゆがんだ。
マサキは「ごめん、すぐ終わるから」と言い、垂れた消毒液をそっとガーゼで拭きとってから、薬を塗ったガーゼを傷口に当てた。そして、不器用な手つきで包帯を巻いた。私は身動きせずに手当てをする彼の手を見つめていた。
次に、彼は私の右側に腰を掛け「左手かして」と左手首の手当てを始めた。
「ほんとに何から何までごめんね……マサキ、時間は大丈夫なの?」と申し訳なく思い尋ねた。
「今日は特になんの予定もないから……この後カナの家まで送っていくよ。ウチから遠くないみたいだし。そっちは時間いいの?」と私の左手首に捻挫用の薬塗りながら私に聞き返した。
「私も時間は全然大丈夫。ほんとにありがとう」
私は心を込めてお礼を言った。前回に続き今回もこんなに迷惑をかけた上、家まで送ってもらうことには気が引けたが、もう会えないと思っていたマサキと少しでも長く一緒にいられる喜びの方が勝った。
マサキがサポーターを私の手首に着けようと奮闘していたので、私も右手を使って手伝った。手当てが終わり、彼に感謝の意味を込めて精一杯の笑顔を向けた。
それから私たちの間に沈黙が降りたので、ふたりとも公園の景色を眺めた。座っているベンチの前にはサッカーコート1面分ほどの芝生が広がっていた。芝生の広場には、ところどころに成熟した木がそびえ立ち巨大な木陰を作っていた。広場の奥には種類の異なる鳥たちが水面に浮かんでいる池が見えた。公園の周囲を背の高い木々が覆っているので、すぐ後ろに交通量の多い大通りがあるが、園内はいたって静かだった。今日は気温が高く日差しが強いが、ベンチに座っていると爽やかな風が肌を撫で涼しさを感じた。
私はなんの気なしに自分のことを話し始めた。
「ウチは親がとっても教育熱心でね。私、小さい頃からずっと英語を習ってたんだけど、いまだに会話がうまくならなくて……今は学校の授業も必死についていってる感じ。先生の言ってることに字幕が出ればいいのになって、授業中に本気で思ってるんだ。だから、毎日学校が終わるとクタクタでね。それでさっき注意しないで道を渡ろうとしちゃったんだよね」と自嘲するかのように、ハハと笑った。
マサキはそんな私の笑顔を観察するかのように数秒見据えた。彼の色の薄い目が私の脳の中までのぞいているような気がして、私は思わず視線を外してうつむいた。
少し間を空けてから「カナって漢字でどうやって書くの?」と、彼はまっすぐ遠くの景色に目をやりながら興味がなさそうに尋ねた。
「可能の可に、奈良の奈」
名前の漢字を説明するのはとても久しぶりな気がした。
「マサキは真剣の真に、咲く。あのさ、そういうの俺にはしなくていいから。なんか無理やりな笑顔みたいなの……」
彼はそう言うと、私の方に向き直って続けた。
「それとさ、外国語会話が下手っていうより、その性格のせいじゃないの?母国語でちゃんと言いたいことを言えないヤツが、外国語でうまく話せるわけないじゃん」
彼のあまりの無神経さに一瞬呆気にとられたが、次の瞬間には心の中で彼の正当さを賞賛してしまい、思わず笑いだしてしまった。
「すごいね、真咲って。年下とは思えないよぉ。ほんとにその通りだよね。私のこの性格だから、なんだよね。何語を話したって人格が変わるわけじゃないもんね」
真咲は表情を変えることなくまた正面に向き直り遠くを見つめた。私はそんな彼の横顔から目が離せなかった。
ほんとにきれいな人だな。
形よく膨らんだ額、そこから深く削られた目に涼し気な瞳、邪魔になりそうなほど長く濃いまつ毛、低い頬骨に、美しく筋の通った鼻、パールピンクの薄い唇、少し尖った顎。
私が思わず真咲の横顔に見とれていると、彼は急に私の方へ顔を向け「可奈の家って、俺ん家の1つ先の停留所なんだよね?」と不意に質問した。
彼の横顔に見入っていたことに気づかれたかもしれないと恥ずかしくなり、「そう……」とだけうつむきながら消え入る声で答えた。
真咲は相変わらず感情を一切表さない面持ちのまま、射すくめるような目でまっすぐに私の目を見て話した。
「英語とフランス語、俺が練習相手になってあげようか?学校終わった後とか、時間のある時に」
思いがけない真咲からの申し出に、心が躍ると同時に当惑してしまった。
「えっ、いいの?練習相手になってくれるの?……でも、どうして?」
「どうしてって……よくわかんないけど……」と真咲は苦笑しながら「ちょっと手伝ってあげてもいいかなって思っただけ。同じ学校で家近いし。嫌ならべつにいいけど」とぶっきら棒に言い放った。
今度は真咲が恥ずかしそうに下を向き、ベンチの下で両足を前後にぶらぶらと動かし始めた。
常に大人っぽく自信に満ちた口調で話していた彼が、突然幼い拗ねた子どものように見え、あまりのかわいらしさに胸が苦しくなった。
私、真咲のことが好きだ。
その瞬間にはっきりと自覚した。
日本人学校で一度は諦めてしまった真咲ともう一度会えた。だから、今度こそ真咲と話せる機会を掴まなければと強く思った。
「真咲に会話の練習相手になってもらいたい!明日から始められるかな?」と、彼の感じた恥ずかしさを消し去るために、私は嬉しさを隠さずに言った。
「うん、わかった」と彼は静かに答えた。
「じゃぁ、明日、学校が終わったら、初等部の玄関まで迎えに行くね」
私は今の喜びを余すところなく笑顔で示した。
すると真咲も、「俺が中等部の玄関で、可奈のこと待ってるよ」と無邪気な笑顔を私に向けた。
初めて見た真咲の笑顔は、無表情な時の大人っぽさを払い除け、思ってもみないほど幼く愛らしかった。その笑顔を目の当たりにして、やっぱり私は真咲が好きなんだと再認識せざるを得なかった。
私たちはその後すぐに公園を出て帰途についた。一緒にトラムに乗り、真咲は私のバックパックを右肩に背負い、家まで送ってくれた。最寄りの停留所から10分ほどある家までの道のりを、ケガをしている私に合わせてゆっくりと隣を歩いてくれた。
ひとたび自分の気持ちを自覚した私は、真咲と一緒に過ごす1分1秒に胸を躍らせ、自然に会話が溢れてきた。私のそんな態度の変化のせいか、真咲もだんだんと口数が増え、笑顔を見せるようになった。
住宅街の一角を公園のように塀で仕切った敷地内に、4階建ての建物が4棟建てられたアパートの中の1つに、私たち家族は住んでいた。グレーのレンガで造られた建物は築6年で、その近辺では比較的新しいアパートだった。敷地内の中庭には花壇やベンチ、住人が遊べるスペースがあった。各棟に大きなガラスの扉のあるエントランスが通り沿いに設けられていた。
私のアパートのエントランス前に着くと、真咲が帰ってしまうのが名残惜しく感じた。
「ここのアパートの4階に住んでるんだよ」と私が言うと、うん、と真咲はうなづいた。
真咲の正面に立ちバックパックを受け取ろうとした時に、彼の目が私の視線よりも少しだけ上にあることに気がついた。
「真咲、最初に会った時より背が高くなったね。もう、私の方が背が低いみたい」
私は彼の目を見つめ、バッグを受け取るために右手を差し出した。
「バックパック、持ってくれてありがとう。えっと、それだけじゃなくて、今日の全部、ありがとう……なんか私って、真咲にありがとうばっかり言ってるね」
「大したことじゃなかったし……」と彼はまた無表情に答えた。
照れているときや恥ずかしい時に真咲は無表情になるのだと、その時になってようやく悟った。そう思うと、彼の冷淡な面持ちすら愛らしく思えた。
「会話練習、明日からよろしくね」と私が言うと、真咲はまた幼い笑顔を浮かべ、私の胸を締めつけた。
家に帰って自室に入り、荷物を床に置きベッドに仰向けに横たわると、左膝はヒリヒリと手首はズキズキと痛んだ。それでも、今日は人生で最良の日だったかもしれない、と好きな人のことを想った。
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