帰り道のひとりよがりなアーギュメント
続 七音
Chapter 1
ベルギーの首都ブリュッセル南東の郊外に引っ越し、父と母と弟の家族4人で暮らし始めて2週間が過ぎた。私、佐伯(さえき)可奈(かな)、は来週から日本人学校の中学部1年に入学することになっていた。通学する学校への道順と、その近くにある日本人学生のための塾の所在地を再確認しておくため、その日私はひとりで自宅を出てトラムに乗った。その頃の私は、初めての外国暮らしで不安でいっぱいだった。
私の父は、世界でもかなり大きな日本の総合化学会社に勤めていた。父親の仕事の都合上、両親は以前から海外転勤の可能性を考慮して、私に2歳から英会話を習わせていた。しかし、実際に外国で不自由なく生活するには、現在の私の語学力では不充分だと、日本を離れ数日で痛感させられた。
この国に来て以来、ひとりでの外出はこれが初めてだった。4月だというのに気温は低く空気が冷たかったが、頭上には清々しい青空が広がっていた。通常ならトラムとメトロを乗り継いで通うのだが、その日はトラムを降りてからメトロを使わず歩いてみようという気になり、携帯のGPSを頼りにまずは塾を目指した。見知らぬ土地を探検する気分で胸が踊っていた。しかしそれも束の間、15分ほど進み人通りの少ない住宅地を歩いていると、唐突に大きな不安感に襲われた。フランス語はまだ基礎知識しかない上、英語ですらまともに会話ができない私が、もしここで迷子になったり、事故や事件に巻き込まれたらどうしようと、心細くなった。
それまでの晴れ渡っていた気分に一気に暗雲が垂れこみ、周囲が気になり始め、思わず歩調を早めた。
GPSに目的地である塾まであと7分と表示されている時に、背後から「Excuse me(すみません)」と英語で声をかけられた。目的地を目指しひたすら前進していた私は、思いがけない声に驚いて、胸の前で携帯を両手で包み込み、恐る恐る振り返った。たぶん傍目からは、私の身体が萎縮して背が丸くなって見えただろう。
私から2メートルくらい距離をおいた位置に、私とほぼ同じ背丈の男の子が立っていた。オリーブグリーンのダウンジャケットと、ダークウォッシュのジーンズを着ていた。状況から判断して、この子が声の発信源であるに違いないと思った。
何を言うべきか頭の中でパニックになっていたが、とりあえず英会話の基本であるフレーズを口にしてみた。
「How can I hel……(どうかしまし……)」
しかし私が自信のない短い一文を言い終える前に、その少年は日本語で言った。
「日本人学校に行きたいのですが、道わかりますか?」
思いがけない彼の完璧な日本語に私は驚きを隠せなかった。しかしよく見ると、一見ヨーロッパ人にしか見えない彼の顔立ちの中に、どことなくアジア人の雰囲気がうかがえた。
あ、ハーフの子か。よかった、日本語で大丈夫だ。
安心した途端、自然に笑顔が浮かぶのが自分でもわかった。
「はい、わかります」と私は地図で道順を確認しようとGPSの画面を見ながら答えた。
「えっと、この道をまっすぐ行って左の方なんだけど、あれ……何本目の道かな……?」と地図を確認するが、途中行き止まりの道もあり、思った以上に込み入って見えた。
「あの、私も塾を見た後で、学校の前を通るつもりだから……一緒に行きますか?」
「俺、まだ携帯をこっちのに変えてなくて……じゃ、すいません。ついていきます」
彼の存在は、私の不安になっていた気分を一掃してくれた。私は「はい、じゃぁ……」と言って歩き出すと、少年は両手をジャケットのポケットに入れ、隣には並ばずに私の2歩くらい後をついてきた。
とても大人っぽい雰囲気の人だな。上級生かな……?
そのままふたりとも無言で歩き続けると、次の横断歩道の先に塾が入っている建物のドアが見えてきた。
よし。とりあえず第一目的地まで着いた。ここから10分くらいで学校に行けるはず。
安堵を覚えた瞬間に脚の付け根の間に暖かい感触があり、ハッとした。
どうしよう……まさかこんな時にこんな場所で……
私は半年くらい前に初潮を迎えたが周期が安定しておらず、まだ3回しか生理を経験していなかった。勘違いであってほしい、と祈るような思いで歩き続けようとしたが、また同じ箇所に暖かい感触が走り、塾から20メートルほど手前で思わず足を止めた。
私はその日、ダークグレイの冬物のショートパンツに厚手の黒のタイツ、黒のブーティーを履き、ネイビーブルーのロングダッフルコートを身に着けていた。この服装なら、万が一服が汚れても目立たないはずだと思った。肩から掛けているバッグの中にナプキンは入っていた。トイレにさえ行くことができれば問題なく帰宅できると思い、周辺を見渡したがその道沿いに見えるのは、小さな肉屋とパン屋、美容室が2軒だった。300メートルくらい先には緑色の薬局のマークが小さく光って見えた。
どうしよう……どこかでトイレを借りなきゃ……
私はかなり動揺し、無言でうつむいていた。
さすがに私の不自然な態度に疑問を感じたようで、私と同時に足を止め、無表情なまま私の背後に立っていた男の子が声をかけてきた。
「どうかした?」
この男の子に生理のことを知られるのは、死ぬほど恥ずかしいことに思えた。私はとにかくひとりになることだけを考えた。
「あの、ごめんなさい。ここからひとりで行ってくれるかな?」
必死に平常心を保ちながら、震える指でGPS画面を確認した。
「えっと、この次の信号を左に曲がって、そのまままっすぐ行けば、左側に学校が見えるはずだから……」と私は早口で伝えた。
彼はそんな私の態度を訝しそうな目で見ていた。
けれども彼は、「うん、わかった。ここまでありがとう。それじゃ」と小さな声で言い、何も聞かず私を追い越して歩き始めた。
私は、彼に生理を悟られなかったことに安堵した。
その場に立ちつくしたまま、肩から斜めにかけているバックのベルトをギュッと両手で握り締めた。そして、懸命に頭を整理しながら、これからどうしたらよいのか考え始めた。
この国では外出中に日本のように簡単にはトイレが見つからないことは、すでに学んでいた。特に、今私がいる場所は住宅地だ。急を要するという理由で近くのお店でトイレを借りるにしても、私の語学力でそれを説明することを考えると絶望的な気分になった。私はうつむいた顔を上げることもできず、バッグのベルトを握り締めたまま、歩道に立ちつくしていた。
そのまま5分くらい経過した頃だろうか。じっと見つめていた自分の靴の正面に、誰かの靴先が止まった。
我に返り顔を上げると、さっきの男の子が目の前に立っていた。
「どうして……?先に行ったんじゃ……」と私は愕然として彼を見つめた。
大きな目に、それを守るような長いまつ毛。青味がかった透き通るようなグレーが、彼の真黒な瞳孔を取り囲んでいる。少し癖がある暗い茶色の髪は日本でよく見かける色だ。眉の下まで伸びた前髪は、彼のガラス細工のような瞳の美しさを際立たせていた。いったん見つめると、冷淡さと鋭さで作られたような彼の目から視線を外すのに時間がかかった。
「先に行こうと思ったけど、さ……だって、やっぱりなんか変だよね。塾は今日閉まってるのに、ずっとここに立ったままだから。具合でも悪いのかと思って」と彼は真剣に私を心配してくれているようだった。
どうしよう……またここで言い逃れて彼を先に行かせても、もう私ひとりじゃどうにもできない……
絶望的な選択肢と見えない解決策とが頭の中で混ざり合い、目まいがした。もうどうにでもなれと投げやりな気分になり、彼に頼るしかほかにないと思った。
「あの、私……急に生理がきたみたいで……トイレに行きたいんだけど、どうしていいかほんとにわからなくて……」
恥ずかしさと情けなさに押しつぶされ、私の目から熱い液体が流れたのがわかったが、止めようもなかった。
私、バカみたい……この人だってどうしていいかわかるはずないよね……
私は指で涙を拭い顔を上げると、彼が歩道の端に立ち色々な方向を見渡しているのが見えた。
少年は私の方に向き直り「あっちに薬局があるけど、あそこまで歩けそうかな?薬局で、その……必要なものとか買ってからなら、トイレを借りられるかもしれない」と左手で薬局を指差しながら言った。
そっか、そうだよね。なんでそんな単純なことも思いつかなかったんだろう。
「そうだよね。ありがとう。あそこの薬局で聞いてみる」と私はお礼を言った。
絶望的な状況が、彼のおかげで何とか切り抜けられそうに思えた。
「じゃ、行こうか」と彼は私の横に並んだ。
てっきり私はひとりで行くものだと思っていたので、驚いて彼を見ると、全く感情を表さない彼の顔が見えた。彼の透き通った目に吸い込まれそうな気がした。
私たちはゆっくりと無言のまま並んで歩いた。少し前までは私が彼を先導していたのに、今は彼が私を連れて歩いてる感じだった。通りの反対側にある薬局に入るために道を渡る時も、彼が車の往来を確認してくれた。
私は店内に入る前に、状況を説明するための英文を頭の中で、書いては消し、書いては消し、懸命に組み立てていた。
彼は薬局のガラスの扉を押し開けて私を先に通した。私は店内に足を踏み入れると、心の準備をするために一瞬立ち止まった。意を決して次の一歩を踏み出そうとしたが、後から店内に入った少年は私を追い越し、振り向きもせずにカウンターへと向かい、薬剤師にフランス語で話し始めた。どうやら、私のために事情を説明してくれているようだった。私はその場に立ちつくしたままだった。
しばらくやり取りをした後で彼は私に振り返り、薬剤師からの質問を日本語に訳した。
「ナプキン以外に必要なものがあるかって。その……タンポンとか痛み止めとか……」
彼にとっても相当話し辛い話題のはずだ。
ほんとに優しい人なんだ、と彼の行動に感銘を受けた。
「ううん、ナプキンだけで大丈夫。あとはトイレを借りられれば……」
私は精一杯の笑顔を作ったつもりだが、笑顔になっていたかどうかも定かではなかった。
薬剤師が10枚入りのナプキンの袋をカウンターに置きレジに金額を入れたところで、私は男の子の隣に立ち財布からお金を出し支払い、お釣りを受け取った。
彼が「トイレを使ってもいいって。あのドアだって」と教えてくれた。
薬剤師が店内の左奥に見える白いドアを指差していた。
「メルシィ ビアン(ありがとう)」と薬剤師に伝え、男の子にはありがとうの意味でもう一度精一杯の笑顔を見せた。
私はトイレから出るともう一度薬剤師に礼を言った。ジャケットのポケットに両手を入れ、入り口の前で外を眺めている少年に向って歩いた。
私が近づくと彼は振り向いて「もう大丈夫?」と聞いたので、私は「うん」と下を向きながら小さくうなづいた。
彼は「じゃ、行こうか」と言い、ガラスのドアを引き私を先に通らせた。私たちは外に出て学校を目指した。歩道は狭かったが並んで歩いた。
途中、タイミングを見計らって「ほんとにありがとう」とあらためて彼にお礼を言った。
それまでと同じように、彼は全く表情を変えることなく「べつに大したことしてないし」と呟いた。
そのやり取り以外、学校に着くまで会話は全く交わされなかった。私は歩きながら、時折り横目で彼の所作を観察した。彼は落ち着いていておとなびて見えるものの、第一印象とは異なり、もう年上には見えなかった。この不自然なまでの長い沈黙は、彼が女の子と話すことを意識している、あるいは苦手なのではないかと感じていた。
同い年くらいなのかな……?同級生かもしれないな。
今日の出来事の後で、来週から毎日学校で彼と顔を合わせる可能性を考えるとかなり憂うつになった。
今は春休みのため学校の門は閉まっており、誰もいない校内は暗く閑散としていた。
少年は門の前で振り返えると「今日は道を教えてくれてありがとう」と私の目を見て言った。
私は「そんな、ありがとうは私の方だよ。ほんとに、ほんとに助かった」と慌てて返した。
無表情な目で私を見つめる彼の視線にいたたまれない気持ちになり、それをごまかすために会話を続けた。
「私はそこの駅からメトロに乗って帰るけど」青に白地でMと記された標識を指差した。
「あ、俺もメトロに乗るけど……一緒に行く?」と彼は私の機嫌をうかがうような口調で聞いた。
断るのも不自然に思えたので、うん、とうなずき、私たちは再び並んで歩きだした。
「家はどの辺なの?」と私が尋ねると、偶然にも彼は私が暮らすアパートの近くに住んでいた。私が利用しているトラムの停留所のひとつ隣りで降りることがわかった。
もしも今日あのアクシデントがなかったら、彼と一緒に帰れることを嬉しく思えただろう。ひとりじゃないことが心強かったし、果てしなく無表情ではあるが彼は優しい人だった。しかしながら、現実には彼と一緒に帰る道のりは気まずく、ひどく長いものに感じられた。
メトロ内でもトラムの中でも、彼は相変わらず無表情で無口だった。座席に腰掛けようとはせずに開閉しない側のドアにもたれかかり、窓から見える景色をずっと眺めていた。乗車した時に気をつかってか私に「座る?」と聞いてくれたが、私は「大丈夫」とだけ小さく答えた。私は彼に倣い、ドアを挟んで彼の反対側に立ち、外の景色を目で追ったり、忙しなく出入りする車内の人たちを観察したりしていた。
駅で待っている間も車内でも、私と一緒にいる少年を見つめる視線によく出くわした。確かに、彼はとても美しい顔立ちをしていた。コーカソイドとアジア人の特徴がとてもうまい具合に配合されたようだった。彼はそんな周囲からの視線を知ってか知らでか、まるで気にしていないようだった。外を眺める彼の目は、陽を浴びると幻想的な瞳の色になった。我知らず彼の顔に見入っていると、私の視線が気になったのか彼が私に目を向けた。何?と無言で問われた気がした。
私は恥ずかしさで気が動転し「すごいきれいな瞳だなって思って。なんか、見つめられると、私の頭の中まで見透かされそうで怖い」と正直な印象を口にしてしまってから、まずいと思った。「あ、ごめん。私、なんか変なこと言っちゃったかも」と慌てて付け足した。
彼は少し驚いたような表情を見せたが、目と口元にわずかな微笑みを浮かべて「べつに、いいけど。マンガの読み過ぎじゃない?」と乾いた口調で呟いてまた視線を窓の外に戻した。
冷たい口調とは裏腹に、彼がその日に見せた表情の中で、一番やわらかい顔つきをしていた。
私が降りる停留所の1つ手前で彼は「じゃぁ」と、とても短い挨拶をした。
私は「今日はほんとにありがとね」とお礼を言うと、「俺も、ありがとう」と言い残し彼はトラムから降りた。
ひとりになると、希薄になっていた酸素の濃度がようやく正常値に戻ったような感じがして、幾度か大きく息を吸ったり吐いたりした。
とても長い一日だった。それまでの人生でトップスリーにランクされるくらいの、忘れてしまいたい恥ずかしいアクシデントがあったが、それでもなぜか運がよかった日に思えた。
4月の新学期を迎え日本人学校に初めて登校した日、小中混合の全校生徒の前で編入生の紹介がされた。全校生徒を合わせると300人程度の生徒数だった。16人いた編入生は、在学生の前で横一列に並び、ひとりひとりの名前とクラスが呼ばれると「はい」と返事をさせられた。前の週に出会った男の子はイズミマサキという名前で、驚いたことに私の1学年下の小学6年生だった。始業式が始まる前、マサキの近くを通り過ぎた時に「おはよう」と声をかけると「おはよう」と素っ気ない挨拶が返ってきた。だが、その後に2、3度目が合っても、私たちが言葉を交わすことはなかった。
クラスも学年も異なると、同じ学校とはいえ彼と全く接点がなかった。
学校の生徒の大多数が私と同様、日本企業に勤める父親の転勤でこの国に越してきていて、一定の期間が過ぎると、大抵の場合は帰国子女として日本へ戻る日本人だった。しかし少数ではあるが、現地に住む日本人の子どもたちも在籍していた。彼らの両親のどちらかが日本人で、現地人と結婚していた。ほとんどはベルギー人、あるいはほかのヨーロッパ人との混血だった。その点では、校内でマサキは特に珍しい存在ではなかった。ただ、私の予想通りマサキの容姿は目立っていた。私の同級生の女の子たちが彼の話をしているのを幾度となく耳にした。
休み時間や登下校時にマサキを見かけることがあったが、話す機会は一度も訪れないまま1学期が終わろうとしていた。両親の意向で私は、現地校の新年度である9月からは、家からより近くにあるインターナショナルスクールに通うことが決まっていた。もしも今学期がこのまま終わってしまったら、二度とマサキと話すことはないだろうと理解はしていた。けれども、その頃の私には彼に話しかける勇気も機会も見つけられないまま、終業式を迎え転校することになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます